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 その昔、お姫様になりたいという少女らしい夢はもちろん散々聞かされた。


 だが事あるごとにブリジットが繰り返していたのは女性初の外交官になりたいというものだ。


 ノーランの父が外交官だったことも影響していたかもしれない。ブリジットが遊びに来るたび彼女と二人、見知らぬ国の話に胸躍らせたものだ。


「でも私は侍女に推薦したんだけどな」


 彼女を外交官に推薦しようと決めて、ノーランは外務院にあるフィリップの執務室を訪れていた。


 フィリップが紫煙をくゆらせながら飄々と言った。外国産なのか仄かに甘い香りが漂っている。


「だって彼女だぞ?なんで侍女なんだ?」

「彼女が近付きたいと言ってたから」

「近付きたい?何に?」

「それは彼女と約束があるから言えない」


 特に君にはな、とフィリップがノーランに目がけて煙を思い切り吹きかけてきた。煙たい。


「俺は外務院はどうかと考えている」


 手で煙を仰ぎながらノーランは言った。フィリップは相変わらず煙管を持ち、ゆったり長椅子の背にもたれている。


「向いてると思うんだ。どうだ、フィリップ」

「そうかもね。外国語は得意らしいし豪胆だ」

「申し分ないだろ?」

「まあ…ね」


 フィリップはちょっと考えた後、コツコツと煙管の中身を灰皿に出しながら言った。


「確かに…気も配れるし、機転も利くよな?」

「ああ、気配りは完璧だし会話も楽しい」

「ダンスは芸術的だしカーテシーも美しい」

「そ、そうだ」

「しかも目を見張るような美人。どこかの王族に見初められたりするかもしれないね」

「……」

「そんなに完璧なのになんで?」

「は?」

「だから何で婚約解消したんだって聞いてる」

「なっ…ブリジットに聞いたのか!?」


 婚約は正式に成ってはいたが、告知はしていなかった。だから知られていないと思った。


 フィリップが自分を誰だと思ってるんだというジトッとした目でノーランに言った。


「臣籍降下してそろそろ結婚をという話になった時に彼女も候補に上がっていた。見せられた身上書に載っていただけ」

「あ、ああ、そういうことか」

「で、なんで?先日ブリジットと踊っていた君は蕩けた顔をしていた。どう見ても彼女が好きだろ。なのに何故?」


 そんなに顔に出ていたのかと愕然とするノーランにフィリップが駄目押しを放った。


「理由を言わないなら外務院として彼女の異動は呑まない」




 恥ずかしくて人に言ったことはない。

 だが彼女のためである。



 外交官だった父はギャンブル癖があった。

 分かったのは外遊先の事故で両親が死んでからだった。それがノーラン18歳の時。


 借金取りが来たのだ。

 たちの悪い先だった。もうそこしか父に貸してくれる先は無かったのだろう。


 王立学院まで密かに取立てに来られた時の絶望は筆舌に尽くしがたい。


 外遊先の事故という事でおりた国からの保障金は、支給されたその日のうちにノーランを素通りして行った。学院は何とか奨学金という形で卒業させてもらったが、18歳の世間知らずだ。どうしようもない。


 死ぬまでに返せるかどうか分からないくらいの金額だった。途中でダニどもは若く有望な伯爵を一生吸い尽くす方向に舵を切ったようだった。


 働いても少しずつしか減らない借金に色々削られて最悪だと思っていた毎日に、さらに恐ろしいことが起きたのは23歳の時だ。ダニどもがノーランの婚約者がキャクストン伯爵の一人娘だと調べてきたのだ。ブリジットって名らしいなと言われたその足で、ノーランはキャクストン伯領まで馬を飛ばし婚約解消を申し出た。遅いくらいだったと後悔した。


 理由は聞かれたが言えなかった。ただ、申し訳ないと繰り返すことしか出来なかった。


 返し終わればいつかまたと思わなかった訳ではない。だが途方も無い金額だ。17歳の彼女に待っていてなど言えるはずもない。適齢期に差し掛かる年齢で婚約解消するなど謝っても償いきれないが、彼女までダニの餌食にする事は出来なかった。


 忘れたくて、でも希望も無かったとは言えない。だからそれまで以上にがむしゃらに働いた。


 いつのまにか、また彼女と共に、と思うことは殆ど無くなっていった。だからノーランは諦められたと思ったのだ。たまに寂しいが存外独り身も悪くない、そう思うようになっていた。


 働き始めて知り合った人々に恵まれたのは幸いだった。


 信頼できる人に領地を買ってもらう事ができ、紹介された銀行家に借り換えが出来た。


 たちの悪い借金取りは後ろ暗いところがたんまり有ったのだろう。最近漸く一味が捕縛された。彼等への捜査の手助けは結構な報奨金になった。


 予想よりずっと早く借金返済の目処もついた。

 今は怯えて眠ることもない。


 運が良かった。本当にそう思う。

 愛した人と添い遂げることが出来なかったが、父を恨む気持ちは今はなかった。



「…なんで言わないんだとは思ってたけどね」


 いつしかフィリップはまた煙管に火をつけていた。


「でも僕は影からの報告で知っていた」

「…大人になってそうだろうとは思ったよ」

「うん。腹立たしかった」

「すまん」

「…友人だろう?」

「…友人だから余計だよ」


 ふんとフィリップは煙を吐き出した。


「でも、彼女の為には言うんだね…だってさ」


 キャクストン嬢、とフィリップが執務室の奥の扉に声をかけた。


 キャクストン嬢だと?


 扉が開いて、目を赤くしたブリジットが入ってきた。これは完全に聞こえていた顔である。


 ノーランの顔が引き攣る。ブリジットは二人が座る長椅子からやや離れたところで立ち止まった。


「貴女は外交官になりたかったのかい?」

「…そうですね、昔は」

「それは何故だい」

「昔、彼が外交官になりたいと言っていたから」

「は?」

「らしいよ、ノーラン。覚えてる?」

「いや、まあ確かになりたかったが…」


 語尾が消えかかるノーランにフィリップが被せた。


「ノーランに近付きたかったから侍女になりたかった」

「は?」

「ノーランが外交官になりたかったから外交官になりたかった」

「え?」

「いくら彼女が優秀で向いていても、やりたい仕事じゃないなら意味は無いと思うんだ」


 自分の顔が間抜けになっているのがわかる。


「だから。彼女は、ノーランの、お姫様になりたかったんだろ」


 口がわなないて、言葉が出ない。

 ゆっくり彼女を見ると、水を湛えた湖のような静かな瞳でノーランを見ていた。


 いいんだろうか、また彼女を求めても。

 瞳を見てもどう思ってるのかなんて1ミリも分からない。


「ブ、ブリジット」

「なあに」


 カッコ悪く震える声で名前を呼べば、ブリジットは嬉しそうに目を細めた。堪らずノーランは立ち上がってブリジットを抱き寄せた。そして腕の中に閉じ込めた彼女をもう一度呼ぶ。


「ブリジット」

「うん」


 胸元からくぐもった照れ臭そうな声が聞こえてきた。しばらくもぞもぞすると顔を上げた。


「ノーラン」


 自分の名前がこんなに甘く響くとは思っていなくてノーランは歓喜に震えた。



 まさかこんな事になると思っていなかったから指輪も何も持っていない。


 俺が持っているのは異動届だけだ。


 だがノーランはもう我慢出来なかった。

 フィリップの執務室なのは忍びないが、この際しょうがない。この先一生彼に頭は上がらないだろう。


 彼女の異動先は決まった。

 外務院にも何処にもやらない。



 そうしてノーランはブリジットに跪いたのだった

才女なら、なりたいのはお姫様だけじゃないとは思いますが。

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