意志ある「道具」、その心や如何に
流血表現注意です。
薄氷の月 二十三日 晴れ
最近は晴れ間も見えてきて、雪も溶けてきました。春の匂いがします。リンダさんのパンはおいしいし、お客さんも増えてきて、お仕事楽しいです!
ヴァルも、すっごくいい顔で働いてます。ヴァルは一日一銀貨稼いでるんだって。お金持ち……!
(宿と薪と食費で大概飛んでるんだ。くそ、もう少し稼げれば貯金に回せるんだがな)
この街は、息がしやすい。
別段、綺麗な空気だとか、森の中のような澄んだ空気、という意味ではない。
腕っぷしのよい漁師達は、口は悪いし煙草も酒も飲む。だが、彼らはさっぱりとした心を持ち、魔法よりも自身の腕を信じ、付き合っていて気持ちが良い。
ヴァレリウスは、ここで初めて、「自分」という存在をシルヴィ以外の他者に認められた気がした。
加えて、人が少ないからか、この街の気風なのか、負の感情は少なく、澱みが少ない。あっても、いつの間にか笑い声で消え去っている。
「すごく、いい街だよね」
安息日。市へ買い物をしにシルヴィと歩く。すれ違った港の知り合いに軽く手を挙げ挨拶を返し、ヴァレリウスは頷いた。
「……ああ」
市はそれなりに人で賑わっていた。吐く息は白く、まだ空気は冬の冷たさ。だが、人々の熱気や、踏まれた熱で溶けた、土の見える道が、市の「熱」を感じさせた。
「ヴァル、何買うの?」
シルヴィは自身の稼ぎとして、大銅貨一枚――素泊まり一泊分の、かなりの大金だ――を「お小遣い」に、ヴァレリウスを見上げた。
「リンダに頼まれたドライフルーツ、あとは野菜だ。保存していたのがそろそろ尽きる。あとはお前の靴だ」
えっ、とシルヴィが驚きの声を上げた。そわそわと自分の足元を見ている。
「補修もきかんほどガタが来ている。雪が染みているだろう」
「……バレた?」
はあ、と大きくため息をついた。
「凍傷になったらどうする。治療代でどれくらい吹っ飛ぶか、想像できないとは言わせんぞ」
「ほら! 私、今日はお金持ってるし!」
そう言って彼女は首から下げた革袋を取り出した。
「大銅貨一枚で靴が買えるか。安物はすぐに壊れる。質のいいものを見繕ってやるから、労働で返せ」
「げー……」
ずらと並んだ靴。
「ヴァル見て! これ可愛いー!」
「却下だ。刺繍が入っているものはそこから劣化しやすい」
「もー!」
ヴァレリウスは棚を眼光鋭く見回した。すると、靴の群れの中に、ひっそりと隠れるように佇む一足。彼はそれをすくい上げるように手に取った。
よく見ると、少し、ほんの少しだけ塗料が剥げ、革の縫い目がよれている。
「おっ、お客さん、良いものに目をつけたねぇ。それは水生の魔物の皮を表面に張った、一級品だよ! 防水はバツグンさ」
ヴァレリウスは塗料が剥げた部分とよれた縫い目を指差した。
「こことここ。一級品にしては甘い仕上げだな。いくらだ」
「んん? ……本当だ。なんてこった。銀貨三枚なんだが……、お客さんに指摘されちゃ恥ずかしいねえ。よし、銀貨二枚でどうだい?」
「買おう」
ちゃっかり手入れ用の油もサービスしてもらい、ヴァレリウスは銀貨二枚という大金を惜しむことなく支払った。
「……ヴァル、いいのに。そんな高いの」
シルヴィが少しの気まずさを覚え、口を尖らせる。
「お前の足はもう成長せん。年数履けば元が取れる。いいか、道具は手入れが大切だ。大事に履け」
言いながら彼は膝が濡れるのも厭わずにその場に跪いた。
しん。彼らの周囲の喧騒が止んだ。靴屋の店主、買い物に来た客、店を冷やかしに商品だけを見ている男。彼らの目が二人の行動にくぎ付けになる。
自分が汚れるのも構わず膝を付いた男と、彼を見下ろす美しい少女は、まるで絵物語の騎士と姫のようでもあった。
「……ほら、靴を脱げ」
「……うん。おっとっと!」
足場の悪い溶けた雪の上。片足でぐらついたシルヴィを呆れたように見上げる。
「俺の肩に掴まれ」
「はーい」
靴を脱ぐと、ヴァレリウスは彼女の靴下を剥ぎ取った。そして顔をしかめる。
「なんだこれは。なぜここまで放っておいた」
溶けた雪が染み込んだ靴下はじっとりと冷たく、彼女の白い足は氷のように冷たい。そして、その足の指先は霜焼けで真っ赤に腫れていた。
「えへへ。なんか痛いなーとは思ってたけど、そのうち治るかなって」
大きなため息を一つ。
「霜焼けを甘く見るな。……ったく、お前の稼ぎよりも治療費の方が高いぞ」
言いながら彼はシルヴィの足を自分の膝に乗せた。彼は軟膏の入った缶を取り出し、しっかり塗り込むと、薬が取れないように布を巻いた。
彼らにとってはごく普通の治療。けれど、周囲の人々にとっては「姫を慈しむ騎士の献身」に見え、居心地悪そうに頬を赤らめた。
「きつかったら言え。調整する」
「うん。ヴァル、ありがとう」
少し塗装が剥げ、縫い目がよれていても。シルヴィにとってはヴァレリウスが買ってくれた、何よりも大切な一足だ。まだ足に馴染まない少し固い靴を見て、シルヴィは口角を上げた。
「おー! ヴァルじゃねえか!」
市の帰り道。リンダに頼まれた品を買い、パン屋へ向かう二人に、見知った顔が声を掛けた。
「ロバートさん、こんにちは!」
パン屋の主人、港で魚を加工しているロバートだ。ヴァレリウスは少し不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「……俺はヴァレリウスだと何度も言ったはずだが」
「いいじゃあねえか! シルヴィちゃんもそう呼んでんだし、そんなエルフの小難しい名前は発音ができねえ!」
からからと彼は笑う。これから港へ行くのだろうか。仕事着を着ている。
「今度お前と飲み行こうぜ! ここはいい酒がある」
「……俺は下戸だ」
憮然と言い放つ。だが気にした風もなくロバートは笑った。
「そうかそうか! シルヴィちゃんは、十八だっけか?」
「あ、はい」
シルヴィが頷くと、ヴァレリウスの顔はさらに苦々しくなった。
「こいつは酒の味も知らん。……珍しいな、今から仕事か?」
おうよ、とロバートは親指を立てる。
「なんでも、遠洋に行ってた船が戻ってきたんだと。これから荷下ろしだ。なかなか大漁らしくてな、交易用のデカい滑車を使うらしい」
「交易用の滑車? あれはまだ点検していないぞ」
ヴァレリウスは怪訝そうに眉をひそめた。シルヴィはふむふむと二人の会話に頷いている。
「夏に使ったから大丈夫だろ! 今夜は祝いの打ち上げだ! お前らも来いよ!」
「……余裕があったらな」
ロバートは港へ向かおうとくるりと向きを変え、歩き出した。
「もしかしたら、おこぼれにあずかれるかもしれねえぜ! じゃあ、また後でな!」
彼は背を向けたまま片手を上げ、歩いていった。鼻歌も聞こえる気がする。
「……行っちゃった。ねえ、ヴァル、お酒って何?」
シルヴィの問いかけに、ヴァレリウスは眉間のシワを深くした。
「……あれは無駄に費用のかかる嗜好品だ。そんな余裕はない」
ふーん、とシルヴィは首を傾げた。
「『げこ』って?」
ますます彼は忌々しげに舌打ちをする。
「酒が飲めん奴のことだ。……酒にはわずかに魔力が含まれる。俺は魔力を持たないからな、悪酔いする。あれは『毒』だ」
「へえー……」
パン屋に入り、リンダと市の戦利品を並べる。
「これ! リンダさん達に!」
シルヴィはお土産と称して、市で見つけた珍しい木の実をお小遣いで購入した。それは栄養価が高く、炒ると香ばしくて美味しい。
「おや、別にいいのに」
「ううん、いつもお世話になってるもの!」
食べ方をシルヴィが教える。ピーターは珍しそうに袋から一つ出し、生のままかじって何とも言えない顔をしていた。
――ドォォォン……。
和やかな空気を切り裂くように、低い地響きが微かな揺れとともに店に伝わってきた。リンダはびっくりして目を見開いた。
「な、何だい!?」
ヴァレリウスははっと顔を上げる。音は恐らく港から。
「――滑車だ! くそっ!」
彼はそう叫ぶと店を飛び出す。
「待って、ヴァル!」
シルヴィも走り出し、彼らを追うようにリンダとピーターも出ていった。
テーブルの上には、木の実が散らばったままだった。
港には大きな船が停まっていた。荷下ろしの通りには、先ほど下ろした魚が詰まった大きな箱。そこだけ見ればいつも通りの風景であるのに、決定的な相違点があった。
荷を下ろすための大きな滑車が、根元から捻れて、吊るしていたはずの鎖が取れている。箱が付いていたのだろうか。滑車の下には壊れた箱の破片と、バラバラに散らかった魚、そして、血溜まりがあった。
海は潮の香りを運んでくるのに、どこか重い。男たちは怒鳴り声を上げながら重い箱を退かそうと躍起になっていた。
「何が起こった!?」
ヴァレリウスは声を荒げて人の輪へと入る。
「……っ、ヴァレリウス! 滑車が壊れて、ロバートが、ロバートが下敷きに!」
「……なんだと……?」
太い声を上げて、彼らは未だロバートの上に上がっている鉄で補強された箱を退かそうとしている。だが、みっちりと詰まった魚は重量があり、どうしても動かない。
「魚を箱から出せ! 少しでも軽くしろ!」
早くしろ、と焦ったような声。
シルヴィは呆然と立ち尽くしていた。
波の音と怒号に混じって、かすかに聞こえる、血の混じってゼロゼロとした呼吸音。それはまだロバートの命があることを示していた。だが、それも刻一刻と限界が迫っている。
「あんたッッ!」
「父ちゃん!!」
リンダとピーターが追いついたのか、そして状況を誰かから聞いたのか、血相を変えて箱に近づく。
冷えた冬の空気の中、打ち捨てられる魚の生臭さと、鼻にこびりつくような鉄の臭いが充満していく。
こつ、とシルヴィは靴音を立てて箱に近づいた。
もう一歩。ぴちゃ、と流れ出た血溜まりの上を靴が歩く。赤いしぶきが靴に跳ねた。
「ヴァル」
シルヴィは口を開く。
箱を動かそうと押しているヴァレリウスだけがその声に反応した。
「シルヴィ、何を……」
振り向いたヴァレリウスは言葉を失った。彼女の目は穏やかに凪いで、慈しみさえたたえている。
「……もう、ロバートさん、間に合わないんでしょう?」
「シル……」
だから、と彼女は寂しそうに微笑んだ。
「助けよう?」
ヴァレリウスは押していた箱から体を離し、シルヴィの元へと大股で近づく。
「……ダメだ、シルヴィ」
多くの人々の目。今までの「こっそり」ができない、正体がバレてしまうリスク。
ロバートの命か、シルヴィの安全か。どちらも重すぎて、天秤になどかけられない。
「いいか、これは……事故だ。俺たちがここに来ようが来まいが、どちらにせよ『起こった事』なんだ」
ヴァレリウスは痛みを堪えるように目を閉じた。耳に聞こえるのは、嘆き、絶望、怨嗟。負の感情が澄み切った街を覆い尽くしていく。
「お前の思いつきなんかで――」
「思いつきなんかじゃない! ちゃんと考えた!」
シルヴィが叫ぶ。
「だって、だって、夏にまたここに来ようって、海に行こうって、『約束』したじゃない! ここに、助けられる『力』があるのに、見捨てるなんてできないっ!」
今度はヴァレリウスが呆然とする番だった。
「このまま見捨てても、この街の時間は回る。……でも、ロバートさんを死なせたら、私は一生、この街のパンを笑って食べられない」
目を潤ませてシルヴィは自分の胸に手を当てる。
「ここに、『使える力』があるんだから、使ってよ……」
「……っ」
ヴァレリウスの、いつも鎧に隠されている心が激情に揺れているのが瞳に映った。様々な「気持ち」と「言葉」を飲み込んで、彼は特大の舌打ちを一つ。
「……金銭のありがたみは刻み込んだか」
静かに彼は問いかけた。シルヴィは頷く。
「金を稼ぐということは、自分の行動に責任を持つということだ。……ったく、三ヶ月睡眠時間を削って働いた結果がこれか。高い勉強代だな。……お前がそう決めたのなら、俺も一緒にその代価を払ってやる。後で利子つけて返済しろ」
「……うんっ!」
シルヴィは箱に向かって指を振った。――ぽ、と箱の輪郭が淡く光る。退かそうと躍起になっていた男たちが、光る箱に困惑を強めていった。
すうっと箱は持ち上がり、困惑する男たちの頭上を通り、ゆっくりと通路に着地した。
箱の下からロバートが倒れている。右半身は潰れ、辛うじて残った心臓と肺が彼の命を繋いでいた。
「♫……♪♫」
シルヴィは歌い出す。彼女の耳には、精霊のさざめきがどんどん大きくなっていくのが聞こえた。
マナの金色の奔流は、冬の厳しい空気を暖め、まるで春のそよ風のように人々を撫でていき、ロバートの潰れた体へと吸い込まれていく。
その様子を、ヴァレリウスは黙って見ていた。彼は、シルヴィがなぜロバートを助けようとしたのか、分かってしまった。
それは、同情でも、お人好しだからでもない。
ヴァレリウスが、この街を、人々を気に入ったからだ。そして、彼自身を認めてくれる「友」という存在。それを失おうとしている彼の心を、守ろうとした。――ヴァレリウスが壊れてしまわないように。
ヴァレリウスは自身の引き攣れた右手の皮膚を見下ろし、きつく手を握りしめた。
(……「俺のために」なんて、自惚れた言葉、言えるはずもない……)
「……う」
今まで呼吸とも言えない掠れた息をしていたロバートがうめき声を上げた。
「……あんた!?」
リンダが駆け寄る。ロバートの潰れた体は元通りになっていた。血まみれの服だけが、その事故の名残を証明している。
「俺、は……」
彼は自分の体を見下ろし、困惑した人々を見上げ、泣き崩れる自分の妻を見た。そして、いつもならば人々に囲まれているはずのエルフ達を見、何かを悟ったように眉を下げた。
「……行くぞ、シルヴィ。宿の荷をまとめたら、すぐに出る」
「……」
ヴァレリウスが背を向け、その後ろをシルヴィが無言で付いていく。近寄りがたいように人々は一歩、そろそろと後ろに下がった。
漂う空気は清浄なマナで満ち溢れているのに、彼らの纏う空気は形容しがたいほど重かった。
「アルウィン殿! この村も、『奇跡』が起こったそうです!」
北の奇跡から南下した、小さな村。
「ふうん、日付は? 誰が来たとか、分かる?」
は! と報告される内容に、アルウィンの耳飾りがシャラと動く。
(そうか、こっちのほうが早かったのか)
鏡面に輝く湖を覗き込む。北の湖にあったような矢が一本、羽が取れかけ、シャフトが折れている。
「……どうやら、私たちは逆行していたようだ。北に戻る。その先に、また奇跡が起こるかもしれないね」
ふふふ、と笑う声。湖に波紋が立った。
ズンズンと雪道を歩く。ずいぶんと雪が溶けている。港町にいた時間は、確かに季節を冬から変えようとしていた。
「――くそ、あまり貯金ができなかった。こんなことならあの金髪野郎の耳飾りでもむしってくればよかったか」
ヴァレリウスの脳裏に、ニヤニヤと笑ういけ好かない金髪エルフの顔が浮かんだ。
シルヴィもぷんぷんと頬を膨らませて頷いた。
と、ヴァレリウスの歩みが止まった。
「……シルヴィ、俺はお前にも怒っている」
「へ!?」
シルヴィは立ち止まったヴァレリウスの背を見上げた。
「……もう二度と、自分を道具のように言うな」
「あ……」
使える力があるなら使ってよ、という言葉。まるで彼女が、ヴァレリウスの持ち物のような響き。
「道具が、……そんな意思を持ってたまるか」
言い捨ててまた歩き出した。その声はかすかに掠れている。彼の表情は見えない。
「…………うん」
シルヴィもまた足を踏み出した。
新しい靴はもう、雪で凍えることもない。
帽子は買うわけ無いだろって言うくせに、新品の靴は買い与えるんですね。
なんなんですかね、彼の算盤は。
ロバートさん助かってよかったですね。




