024話 転落
――――数日前。
フィナは胸を高鳴らせながら、とある邸宅に向かっていた。ふわふわの髪も大きな瞳も楽しそうに揺れている。馬車の外は雨で、普段であれば外出するのも億劫であったが今日は違う。
今年の夏、初めて訪れたアトラス城。初めての社交界。嬉しすぎて心が浮かれていたフィナは、いつもの失敗をしてしまう。事もあろうに、エリー王女の側近にぶつかり転んでしまったのである。王女の御前で……。一瞬にして周りの空気が変わったのを感じた。
何という粗そうをしてしまったのかと、フィナは地に手を付いたまま固まってしまった。
「申し訳ございません、フィナ様。お怪我はございませんか?」
ぶつかったその男は、フィナの前に手を差し出し素早く体を支えて起こしてくれた。まるでぶつかったのが自分であるかのように接してくれたのだ。フィナは驚き、その方の顔を見ると、優しく笑みを浮かべている。
そこでフィナは恋に落ちた。
恥ずかしくて顔を真っ赤に染め、なんと答えて良いか分からず、口をぱくぱく動かすのが精一杯だった。
「恥ずかしい思いをさせてしまいましたね。どうかお許しを」
丁寧に頭を下げる。そこで我に返ったフィナは慌てて否定した。
「い、いえ! 私が悪いのでございます。申し訳ございません」
そんな二人の様子を優しく見守っていたエリー王女が、フィナにそっと寄り添い声をかける。
「フィナ。今日は良く来てくださいました。ありがとうございます。アランを許して下さいね。このことは忘れて、楽しんでいって下さると嬉しいのですが」
「は、はい! 勿論です」
ふわりと笑うエリー王女は、アランと呼ばれた男と共にその場を離れていった。フィナは速くなった鼓動を押さえるように、胸に手を当てその背中を見つめた。
「エリー様もアラン様も素敵……」
そんなことを思い出しながら、フィナは馬車の中で頬を染める。今日は、ラッシュウォール家の奥様であるルーシー様からお屋敷に招待されたのだ。ラッシュウォール家と言えば、アランの家だ。この話が舞い込んだときは跳び上がって喜び、椅子に足をぶつけたくらいだった。
ラッシュウォール家はアランの花嫁になる人を探しており、フィナはその候補に選ばれた。願ってもいないチャンスだと思った。ルーシー様に気に入られるよう、フィナは気合いを入れすぎない程度におめかしをしてきた。屋敷に近づくにつれて、緊張感が高まってくる。いつもの失敗が出ないことを願うばかりだ。
そんな時、突然馬車が止まり、体が馬車の壁に打ち付けられた。頭も強く打ったようで、くらっと視界が揺れる。激しい音を立てて扉が勢い良く開けられ、その方を見ると顔を隠した黒ずくめの男が立っていた。山賊!? 護衛は? 驚いてる間もなく、頭に袋を被せられ体を引っ張られる。
「嫌っ! お止めなさい! 誰かっ!」
どんなに叫んでも誰も来ない。雨の音だけが聞こえ、視界は真っ暗。体を担がれ何処かに連れていかれる。どんなに暴れても男は揺らぐことはなかった。
手足を縛られ、視界を遮られたまま馬車に揺られた。何度か同じように人が投げ込まれる音を聞いた。人拐い……。きっと何処かに売られるのだとフィナは思った。なんとか逃げ出さなくては。
何度か食事やトイレの休憩もあった。その時だけは片手だけの拘束になる。長いロープで藪の中で用を足す。これだけで屈辱的ではあったが、目の前でさせられるようなことや、襲われることがなかっただけマシだと思った。
何日も過ぎた時だった。トイレの休憩場所が川のすぐ近くだった。流れは早い。死ぬかもしれない。だけど、売られるくらいならその方が良い。フィナは隙をついて川に飛び込んだのだった――――。
目を覚ましたのは、誰もいないテントの中。いつの間にか両手をロープで拘束されている。結局見つかってしまったのか? しかし、今までとは何かが違っている。耳を澄ますと外からも多くの男の声が聞こえた。
「あの女、ボスが終わったら俺たちに回してくれるんかなー」
「今回は上玉だからなー。でも、飽きたら回ってくるだろうな」
「うひょー、早くやりてー!」
その会話にフィナは絶望した。逃げ出さなくては! 悩んでいる暇なんてない。フィナはそっと外の様子を伺った。しかし、あまり状況が把握できない。行くなら、全力で走り抜くしかない。そう思って、何も算段もないまま、テントから飛び出し逃げ出した。
「おい! 女が逃げたぞ!」
一人に気が付かれ追いかけてくる。今は泣いてはいけない。逃げ切れなければ終わりだ。フィナはそう思ってひたすら走った――――。
真っ暗な闇の中から、男たちの手がのびてくる。服を破り、身体中をまさぐる。どんなに叫んでも声が出ない。
誰か……。
誰か助けて……。
――――っ!!
「大丈夫よ! もう大丈夫だから! 落ち着いて! ね、大丈夫」
フィナは優しくそう諭す、女の人の声に現実の世界に戻ってきた。




