第1話「死神が来た」
男が倒れる音は、案外軽い。
重いのは、その後だ。
「鍵……だけ」
床に崩れた藤森は、もう焦点の合わない目で俺の手を見た。
掌には、古びた真鍮の鍵。青いイルカのキーホルダーがついている。
「紗季に」
それが最後だった。
俺は返事をしなかった。依頼は会話をするためのものじゃない。
鍵を証拠品の袋へ入れ、指定どおり部屋を出た。
今日も一人死んだ。
明日も誰か死ぬ。
俺の日常は、そういうものだ。
黒崎凛、二十五歳。職業、殺し屋。
裏社会では“死神”と呼ばれている。
大げさな呼び名だ。やっていることは発注と納品。命を一つ消して、報酬を受け取る。ただの作業にすぎない。
そう言い切るには、ポケットの中の鍵がやけに重かった。
午前一時過ぎ、自宅マンションへ戻る。
玄関前に女がいた。
腰まである黒髪。白い肌。季節に合わない黒のワンピース。
防犯灯の真下に立っているのに、影だけが見当たらない。
「黒崎凛」
俺が間合いを測るより早く、女は言った。
「あなたの死期は、三十日後です」
「勧誘なら間に合ってる」
「勧誘ではありません。宣告です」
女は胸元から黒い札を取り出した。
死神庁宣告課。執行担当、識別番号四〇七。
ふざけた名刺だ。
だが、罠にしては気配がなさすぎる。
俺は袖の内側から刃を抜き、女の喉へ走らせた。
銀色の刃が、首を通り抜ける。
肉も骨も、空気すら切った感触がない。
「殺傷意図を検知しました」
女は瞬きもしなかった。
「結果はご覧のとおりです」
今度は心臓。やはり抜ける。
俺の腕だけが、そこに映された映像へ突っ込んだようだった。
「何者だ」
「死神です。人間界では、シオンと名乗ります」
「さっきの札には番号しかなかった」
「番号では会話が長くなるためです」
合理的な理由で偽名を使う死神。頭痛がしてきた。
シオンは淡々と説明した。
死期が決まった人間へ宣告する。
最期の願いを一つ受理する。
他人の生死を直接変える願いは却下。
願いが終わるまで、担当死神は対象から半径百メートルを離れられない。
その間、対象の死期は保留される。
「願いをどうぞ」
選択肢を並べる。
金。不要。
復讐。自分でやる。
死にたくない。規則上、却下される。
なら、規則そのものを詰まらせればいい。
「お前を、俺の手で殺す」
シオンの目が初めてわずかに動いた。
「他者の死を命じる願いは受理できません」
「命令じゃない。俺が自分でやる。自力行為だ」
数秒の沈黙。
「照合します」
黒い札に、白い文字が浮かんだ。
「願いは受理されました」
「通るのかよ」
「規程に不備がある可能性を記録します」
シオンは小さく頭を下げた。
「願い達成まで、あなたの死期を保留します。以後、よろしくお願いします」
よろしくされる筋合いはない。
だが、三十日後に死ぬよりはましだ。
俺は玄関を開け、素早く中へ入った。
扉を閉める直前、黒い靴の先が音もなく敷居を越える。
「待て」
「半径百メートル以内に滞在します」
「廊下でいい」
「深夜、一人暮らしの男性宅の前に女性が立ち続けた場合、通報確率は上昇します」
殺し屋にとって警察は、死神より困る。
反論を探している間に、シオンは靴を揃え、リビングへ進んだ。
俺のソファの中央へ腰を下ろす。
「そこ、俺の席だ」
「座席に所有権表示はありませんでした」
今から貼るか。
ポケットの中で、イルカのキーホルダーが硬い音を立てた。
シオンの視線が、そこへ一度だけ落ちる。
「何だ」
「いいえ」
死神は目をそらさない。
そらさないまま、俺の嘘だけを見た。
「生活上の確認をする」
俺は立ったまま言った。
「寝室は一つ。使うのは俺だ。風呂と台所は勝手に触るな。仕事用の棚は開けるな」
「了解しました」
「食事は」
「不要です」
「睡眠」
「不要です」
「トイレ」
「不要です」
「本当に座ってる以外、何もしないのか」
「対象の願い達成を待ちます」
自分を殺す男の部屋で、殺される時を待つ。
よく考えれば俺以上に狂った生活だ。
「怖くないのか」
「恐怖機能はありません」
即答。
「人間は死を前にすると、まずその質問をします」
「お前は毎回、死ぬ奴に会うのか」
「はい」
「全員の願いを覚えてる?」
「記録されています」
シオンは胸元の黒札へ触れた。
「水を飲みたい。犬に会いたい。謝罪したい。窓を開けたい。多くは、他者の生死に影響しない小さな願いです」
藤森の「鍵だけ」が、耳の奥で蘇る。
「俺のは大きいか」
「不合理です」
「評価を聞いてない」
「私を殺せない限り終わらない願いです。対象は死を避け、私は任務を終えられない」
「最高だな」
「どちらにとってですか」
「少なくとも俺は、死なずに済む」
「私を殺せるまで、という条件を忘れています」
「忘れてない。期限がないなら、勝つまで試せる」
「殺害の反復試験を同居の利点として挙げる人間は初めてです」
シオンは黒札を開き、俺の発言をそのまま書き込んだ。
「何を記録した」
「対象、状況を前向きに評価」
「書き方で印象を操作するな」
「事実です」
死神は部屋を見回した。
一LDK。寝室は一つ。ソファは一人用。客を泊める発想で家具を選んでいない。
「私は睡眠を必要としません。占有面積は最小限にできます」
「押し入れはやめろ。開けた時に死神が入ってたら心臓に悪い」
「対象の心停止は保留されています」
「驚かせていい理由にはならない」
シオンはまた記録した。
「今度は何だ」
「対象、死神の収納方法に条件を提示」
「人を家電みたいに書くな」
「私は人ではありません」
言い切る声に迷いはない。
なのに靴下だけは片方ずれている。土足で上がるのを止めた時、靴と一緒に脱ぎかけて失敗したらしい。
「まず、それ直せ」
「何を」
「足」
視線を落とし、左右を見比べる。
「人体の装着物は非対称でも機能します」
「見てる俺が落ち着かない」
シオンは無言で靴下を直した。
「共同生活の規則を決める。冷蔵庫の勝手な使用禁止。仕事部屋への立入禁止。人を驚かせない。勝手に消えない」
「私は半径百メートルを超えて消えられません」
「距離の話じゃない。目の前からだ」
なぜそんな条件を足したのか、自分でも分からなかった。
「了解しました。代わりに、対象にも条件を提示します」
「言ってみろ」
「私を殺す前に、実行内容を申告してください。住居設備への損害を算定します」
「命より敷金か」
「私は死にませんが、敷金は戻らなくなります」
合理的だった。
死神との最初の合意が敷金保護条約になった。
俺は答えず、仕事用の引き出しへ鍵を入れた。
閉める音が、妙に響いた。
【宣告課・案件四〇七 経過報告】
対象は「私を殺す」と申告。
受理済み。
ただし発話直前、対象の脈拍は「死にたくない」を想起した際の数値と一致。
願いの主語について、継続観察を要する。




