第5話 崩壊するギルド
第5話 崩壊するギルド
《白銀の剣》本部の空気は、たった一か月で変わってしまっていた。
以前は磨き上げられていた大理石の床には泥の足跡が残り、受付カウンターには未処理の書類が山積みになっている。廊下では怒鳴り声が飛び交い、冒険者たちの苛立った声が壁を震わせていた。
「おい! 第七探索班の補給はまだか!?」
「知るかよ! 倉庫の在庫表が更新されてねぇんだよ!」
「誰だ、遠征許可証のルート番号間違えたやつ!」
「第三階層が崩落してるって情報、昨日には出てただろうが!」
怒号。
罵声。
紙の散らばる音。
かつてA級ギルドとして名を轟かせた組織は、今や見る影もなかった。
受付嬢の一人が泣きそうな顔で叫ぶ。
「す、すみません! 会計処理が追いつかなくて……!」
「言い訳してんじゃねぇ!」
冒険者が机を叩く。
インク瓶が倒れ、黒い液体が床へ飛び散った。
その光景を、エレナは奥歯を噛み締めながら見下ろしていた。
「……なんなのよ、これ」
苛立ちが隠せなかった。
ギルド会長室。
高級香木の匂いが漂うはずの部屋には、今は紙と汗の臭いが充満している。
机の上には大量の報告書。
未処理。
赤字。
苦情。
スポンサーからの抗議文。
エレナは書類を乱暴に机へ叩きつけた。
「どうしてこうなるの!?」
隣にいた幹部が顔を青くする。
「え、エレナ様……その……」
「遠征部隊の補給遅延が三件! 負傷者搬送の手配ミスが二件! 配信契約の更新漏れまである! なんで誰も確認してないのよ!」
「そ、それは総務が……」
「総務はあなた達でしょう!?」
部屋が静まり返る。
誰も口を開かない。
エレナは苛立ちのまま窓際へ歩いた。
窓の外では、冒険者たちが口論している。
「俺たちはもう辞める!」
「こんなギルド信用できるか!」
「補給不足で死にかけたんだぞ!」
若手探索者たちが次々と脱退届を叩きつけていた。
以前なら考えられない光景だった。
《白銀の剣》は憧れのギルドだったのだ。
高収入。
最新装備。
巨大スポンサー。
人気配信。
すべてが揃っていた。
なのに今は、崩れ始めている。
いや。
もう崩れていた。
「……どうして」
エレナは呟く。
理解できなかった。
自分は間違っていないはずだ。
強い者を優遇し、弱い者を切る。
組織として当然の判断だった。
大河原健は地味だった。
戦えない。
配信人気もない。
実績だって目立たない。
だから切った。
ただそれだけだ。
なのに。
なぜこんなことになる。
その時、会長室の扉が勢いよく開いた。
「会長! まずいです!」
飛び込んできたのは経理担当だった。
顔面蒼白。
「第三倉庫の物資が全部別ギルドへ配送されてます!」
「はぁ!?」
「配送ルート確認担当がいなくて……!」
「なんでそんな初歩的ミスが起きるのよ!」
「い、以前は大河原さんが全部確認してたんです!」
その名前が出た瞬間、空気が止まった。
健。
まただ。
最近、何か問題が起きるたびに、その名前を聞く。
「……だから何?」
エレナは冷たく言う。
「一人抜けた程度で組織が止まるわけないでしょう?」
だが経理担当は震えながら答えた。
「と、止まってるんです……」
「……え?」
「予算管理、物資発注、危険区域更新、スポンサー調整、配信契約……全部、大河原さんがやってました」
「そんなわけないじゃない!」
「本当です!」
男は泣きそうな声だった。
「俺たち……誰も全体を把握してなかったんです!」
エレナは言葉を失う。
脳裏に、健の姿が浮かぶ。
いつも地味なスーツを着ていた。
会議の隅に立ち、誰かの書類を直していた。
徹夜明けでも文句を言わず、黙々と仕事をしていた。
エレナは、それを“誰でもできる雑務”だと思っていた。
だが違った。
今、健がいなくなっただけで、ギルド全体が機能不全を起こしている。
「……そんな、馬鹿な」
その時だった。
廊下から悲鳴が響く。
「医療班呼べぇぇ!!」
エレナが飛び出す。
受付ホールでは、血まみれの冒険者が担ぎ込まれていた。
「何があったの!?」
「第四探索班が罠地帯へ突っ込んだ! 地図更新されてなかったんだよ!」
「更新担当は!?」
「辞めました!」
怒号が飛ぶ。
「前はこんなミスなかっただろうが!」
「どうなってんだこのギルド!!」
エレナの胸がざわつく。
以前。
確かに、こんな事故は少なかった。
補給も完璧だった。
書類も滞らなかった。
誰かが常に先回りして、問題を潰していた。
その“誰か”を、エレナは今さら理解し始めていた。
夜。
ギルド会長室。
会長は酒瓶を煽っていた。
「くそっ……スポンサーまで離れ始めた」
机には契約解除通知が並んでいる。
エレナは疲れ切った顔で椅子へ座った。
「……お父様」
「なんだ」
「健って……本当に、ただの無能だったの?」
会長が黙る。
しばらくして、低い声で呟いた。
「……少なくとも、便利ではあった」
「便利?」
「文句を言わん。休まん。投げ出さん。どんな無茶も処理した」
会長は苦々しく顔を歪めた。
「気づけば、誰も細かい仕事を覚えなくなっていた。あいつが全部やったからだ」
エレナの胸が痛んだ。
思い返せば、健はいつも誰かの後始末をしていた。
エレナ自身もそうだ。
鑑定配信でミスをした時。
スポンサー対応で揉めた時。
炎上しかけた時。
全部、裏で健が処理していた。
だがエレナは、それを“当たり前”だと思っていた。
「……嘘」
喉が乾く。
冷たい汗が背中を流れた。
その時、壁の大型モニターが点灯した。
人気配信ランキング。
一位の欄に表示されている名前を見て、会長室が静まり返る。
『奈落の菜園チャンネル』
『配信者:大河原健』
同時接続数、百万人。
サムネイルには、泥だらけの作業着姿で笑う健が映っていた。
背後には、緑豊かな温室都市。
コメント欄は歓声で埋まっている。
『今日も癒やされた』
『おっさんの配信ないと眠れない』
『世界一安心できるダンジョン配信』
エレナの指先が震えた。
「……なんで」
理解できなかった。
どうして、あんな地味な男が。
どうして、自分より。
画面の向こうの健は、穏やかに笑っていた。
「今日は排水路の点検します。最近雨多いんで、放置すると危ないからな」
コメント欄が一斉に流れる。
『好き』
『そういうとこ好き』
『安心感の塊』
エレナは呆然とモニターを見つめた。
胸の奥がざわざわする。
悔しい。
苛立つ。
なのに同時に、理解してしまった。
大河原健は無能ではなかった。
あの男は。
誰にも見えない場所で、組織そのものを支えていたのだ。




