第10話 40歳からの人生
第10話 40歳からの人生
春の風が吹いていた。
かつて《白銀の剣》が存在した場所には、今はもう誰もいない。
崩れかけた石壁。
割れた窓。
雑草に埋もれたギルド看板。
風が吹くたび、錆びた鎖が寂しげに鳴った。
王都の人々は、その廃墟を見てこう囁く。
「時代が終わったんだな」
「昔はすごかったのに」
「……でも、当然か」
誰も近づかない。
かつて世界の中心だった場所は、静かに朽ちていた。
一方で。
《奈落の菜園》には、今日も朝日みたいな魔力光が差し込んでいた。
巨大温室の硝子天井に朝露が揺れ、水路には澄んだ水が流れている。焼きたてパンの香りが漂い、遠くでは子供たちの笑い声が響いていた。
「こらー! 走ると転ぶぞ!」
「だってバイソン速いんだもん!」
「待てぇぇ!」
巨大魔獣バイソンの背中へ乗った子供たちが、広場を駆け回っている。
それを見ながら、健は苦笑した。
「……平和だなぁ」
朝の空気は柔らかかった。
以前の《奈落の菜園》とは別世界だ。
黒い瘴気に覆われていた土地は、今や世界最大級の魔導農業都市へ変わっている。
世界中から移住希望者が殺到し、各国の王族すら視察へ来る。
だが。
健本人は、相変わらずだった。
泥のついた作業着。
軍手。
麦わら帽子。
今日も普通に畑へ出ている。
『おっさん今日も働いてる』
『休めw』
『世界最強領主とは思えん』
『トマト収穫配信助かる』
配信コメント欄が流れる。
視聴者数は今や毎日数千万人規模だ。
それでも配信内容は変わらない。
排水点検。
畑仕事。
住民との雑談。
たまに巨大魔獣を収穫。
健は赤く実ったトマトを手に取りながら笑った。
「いや、放置すると割れるんだよ。トマトって意外と繊細でな」
『世界最強がトマト講座してるの草』
『でも聞いちゃう』
『安心するんだよなぁ』
健は収穫籠へトマトを入れる。
ぷつり、とヘタが切れる感触。
甘い青葉の匂い。
土の温かさ。
昔は知らなかった。
こんな風に季節を感じる余裕なんてなかった。
ギルドにいた頃は、毎日が締切だった。
怒鳴り声。
残業。
未処理書類。
誰かの尻拭い。
眠る時間すら削って働き続けた。
なのに、誰にも気づかれなかった。
自分が壊れかけていたことも。
「……ほんと、よく生きてたな俺」
ぽつりと漏れる。
その時。
「領主様ー!」
エルフの少女――今はもう立派な温室管理主任だ――が駆けてきた。
「また徹夜してましたよね!?」
「してないしてない」
「しました!」
後ろから老ドワーフも怒鳴る。
「朝三時まで排水路図面描いてたの見たぞ!」
「いや、ちょっと気になって」
「ちょっとで済むか馬鹿野郎!」
健は困ったように笑う。
昔は、こんな風に叱ってくれる相手なんていなかった。
無理しても当たり前。
壊れても自己責任。
でも今は違う。
「ちゃんと休んでください!」
「領主が倒れたら困るんだよ!」
「……悪い」
健は素直に頭を下げた。
すると周囲から笑いが起きる。
その空気が温かくて、胸の奥が少しだけくすぐったかった。
広場では、今日も市場が開かれていた。
魔力トマト。
黄金麦。
超回復ネギ。
住民たちが笑顔で売り買いしている。
昔、追放されて泣いていた少年は、今や人気パン職人だ。
片腕を失ったドワーフは、世界最高峰の魔導鍛冶師になった。
奴隷だったエルフ少女は、多くの住民を束ねる管理者になっている。
皆、ここで人生をやり直した。
そしてそれは、健自身も同じだった。
ふと、風が吹く。
温室の硝子が優しく鳴った。
健は空を見上げる。
今日は珍しく、灰色の雲が少ない。
青空だった。
本当に綺麗な青だった。
「……あ」
広場の隅。
一人の女性が立っていた。
エレナだった。
以前みたいな豪華なドレスではない。
質素な服。
痩せた頬。
だがその目だけは、まっすぐ健を見ていた。
住民たちがざわつく。
だが健は手で制した。
「大丈夫だ」
エレナはゆっくり近づいてくる。
昔みたいな傲慢さはなかった。
しばらく沈黙した後。
「……久しぶり」
「ああ」
風が吹く。
トマト畑が揺れる。
エレナは少しだけ視線を落とした。
「聞いたわ。各国から領主就任要請、全部断ったんですってね」
「面倒だからな」
健が即答すると、エレナは小さく笑った。
その笑顔は、どこか寂しそうだった。
「……あなたらしい」
沈黙。
遠くでは子供たちが笑っている。
パンの香りが風に乗って漂う。
エレナはその光景を見つめながら呟いた。
「昔の私は、何もわかってなかった」
健は黙って聞いていた。
「強い人が偉いと思ってた。目立つ人が価値あると思ってた」
エレナの指先が震える。
「でも違ったのね」
その声は小さかった。
「組織を支えてたのは……ずっと、あなたみたいな人だった」
健は少し困った顔をした。
「いや、俺一人じゃ無理だったよ」
「でも、投げなかった」
エレナは笑う。
泣きそうな顔で。
「私なら途中で逃げてた」
健は少しだけ空を見上げた。
長い人生だった。
報われないと思っていた。
無駄だと思っていた。
積み上げても、意味なんかないと思っていた。
でも。
違った。
投げなかった日々は、ちゃんと土の中で育っていたのだ。
苦しかった時間も。
泣きそうだった夜も。
全部、根になっていた。
そして今。
ようやく収穫の時が来た。
健は赤く実ったトマトを手に取る。
陽光みたいな魔力が、表面で優しく揺れていた。
一口かじる。
甘かった。
思わず笑みが漏れる。
「……悪くないな」
風が吹く。
温室の向こうで、子供たちの笑い声が響く。
仲間たちが働いている。
コメント欄も今日も騒がしい。
『今日も平和』
『おっさん幸せそうで泣く』
『この配信、人生って感じする』
健は空を見上げた。
青空だった。
どこまでも高く、澄み切った空だった。
「……悪くないな。40歳からの人生も」




