人に恋し、女神を愛し、生涯をささげる。
レティシアが顔を上げると、あの地獄のような光景は、そこにはなかった。その代わりに、狼が大きな身体で包み込んでくれていた事に気が付いた。
脳裏に、クラウスの声がした。
「・・・良い子だ・・・・落ち着け。お前の《眼》で良く見ろ。」
「・・・眼・・・・?」
「大切なお前を置いて、俺達が去ると思うか?」
レティシアは涙で濡れる目を懸命に擦った。そうして、視界が開けた。爽やかな風が濡れた頬を撫でて、涙を乾かしてくれる。酷く重だるかった頭が、すっきりとしていて、身体の力が抜ける。
そうして、視えて来た光景に、レティシアは再び大粒の涙を零した。
「・・・・みんな・・・・。」
呟きは一瞬にして途切れた。真っ先に抱き着いて、強く抱きしめてくれたマリアの声にかき消された。
「ああ、良かった!気が付いたのね!?」
抱き締めてくれるマリアの腕が小刻みに震えていて、どれ程彼女が心を痛めていてくれたのか分かる。
「レティシア様!良かった、良かったですぅうう!」
腰にしがみついて泣いていたのはリルで、その傍でミディールも「いいなあ。」と無条件で抱き着けるリルを羨みつつも泣きべそを搔きながら嬉しそうに笑っていた。少年は仮にも雄なので、同じことをしたら危険であると、本能的に悟りつつある。
ロディーナを初めとしてワルキューレの女達も全員揃ってレティシアの周囲に集まり、歓声をあげた。優れた武人であるロディーナの目にうっすらと涙も滲んでいた。
「安心致しました。御心を壊してしまうかと思いましたよ。貴女様は本当に優し過ぎる・・・。」
そう言いながらも、ロディーナの顔はどこかそんな女主君を誇らしいと語るようだった。
ゼウスもまた苦笑して、茫然としているレティシアの頭をぽんぽんと軽く叩いて撫ぜた。
「怖かったな。でも、もう大丈夫だ。お前の神気は大分安定している。」
「・・・・父様・・・みんな・・・無事だった・・・・・。」
「当たり前だ。傷一つついてないぞ。お前が私たちを害する訳が無いだろうに。」
ゼウスが慰めるように、くしゃりと髪を撫ぜた。
穏やかな笑みを浮かべて立っていたカイリが、額を抑えて呻いているヘレンを軽く睨んだ。
「今のはお前が悪い。言い方に気を付けるべきだろう。そもそもレティシアを追い込んだのはお前だぞ。舟でこの子が味わった苦痛も少なからず見てきたはずだ。」
「分かっているわよ。でも、あんまりにも貴方達が過保護だから、制御するのに少し自律がいると思って引き離したら、暴走を始めてしまうんですもの・・・ここは私の領域であるのに、わたしの力が途中から全然効かなくなるなんて、思ってもみなかったから、焦っていたのよ。」
「レティシアにはクラウスが付いているんだぞ。お前の手が及ばなくなっても、クラウスが何とかする。」
「ええ、ええ。そうでしょうとも。舟で頼んでも居ないのに、どれ程この子が可愛いくて愛おしいのか、散々教えてくれたわよ。想い合う恋人たちは沢山見て来たけど、あんなに惚気られたことも無いわ!」
「だったら、今の事でどれ程クラウスが怒っているか、分かるな?」
ヘレンは苦虫を噛み潰した顔をして、視線を一瞬そちらに向けて、そして再び戻すとため息を付いた。
「はいはい・・・悪かったわよ。唸らないで頂戴。」
お手上げ状態のヘレンに、苦笑したのはラウェルだ。
「おや、我が女神殿が降参するとは珍しい。」
「・・・・ラウェル。また湖の底に沈められたいのかしら?・・・見たわよ。」
「ええっと、何を・・・。」
「この子に手を出して、泣かせたでしょう。まだあんな最低な事をしているの?わたしの天敵!」
目を怒らせて、全ての八つ当たりの先を持っていったヘレンに、ラウェルは慌てた。
「いやいや、待て待て。今回、俺、彼女を助けただろ!?見てなかったのか?!」
「その程度で贖罪になるわけないでしょう!」
力関係が圧倒的に分かる両者である。
レティシアがようやく泣き止んで、マリアも手を緩めると、泣き腫れた目を見つめて痛ましげに微笑んだ。
「ごめんなさいね、レティシア。こんなことになるとは思ってもいなかったのよ。貴女の喜ぶ顔が見たくて、夫も私も黙っていたのだけれど・・・それもこれもクラウスが悪いわ。駄目息子ね、要領が悪くって!」
その名を聞いた瞬間、レティシアはまた涙が溢れた。
どれ程周囲を見ても、やはりどこにもクラウスは居なかった。
「マリア様・・・・クラウスが・・・・死んでしまったんです。」
「え?」
「山の頂上で・・・木に呑まれていて・・・ここにも、居なくて・・・・・。」
レティシアの震えるか細い声に、全員が押し黙る。静まり返った中、レティシアの悲痛な声が漏れた。
「・・・会いたいのに。傍に・・・居て欲しいのに・・・・大好きな・・・クラウスが・・・居ないんです。」
はらはらと零れ落ちる涙を、全員がただ見つめ、そして、ゼウスが唸るように言った。
「・・・・・いい加減にしろ。私はこんな娘の姿を見に来たわけでは無いぞ。」
のろのろと顔を上げると、ゼウスが思い切り顔を顰めていた。傍らに立つカイリが失笑し、
「同感だ。嬉しくて仕方が無いのは分かるが、いい加減にしないと嫌われるぞ?」
と口添えした。
一体何を言っているのかとレティシアが困惑する間もなく、いつの間にかまた傍らにすり寄ってきた狼が、もう泣くなとばかりにぺろりと頬を舐めた。
次の瞬間、周囲の光景が一変し、レティシアの眼前に現れたのは、先程見た大樹であり、やはり木に呑まれたままのクラウスがそこに居た。
「・・・・っクラウス・・・・!」
悲痛な叫びをあげたレティシアであったが、傍らにいた狼がするりと抜け、クラウスの亡骸の前に立つと、狼の身体がかっと光り、そのままクラウスの体内へと入り込んだ。
それが消えると同時に、大樹が一瞬にして消えて、その代わりにレティシアの眼前に、一人の男が立っていた。
レティシアは彼の姿を視界に捉えた瞬間、大粒の涙を零しながら、彼に飛びついた。逞しい、覚えのある腕が優しく包み込んで、だが離さないとばかりに強く抱きしめてくれた。
「お前の声は、必ず俺に届くと言っただろう?」
クラウスは微笑んで、彼女を抱き上げると、泣きじゃくるレティシアの顔に何度もキスを落とす。必死で自分にしがみついてきて、離れたくないと全身が語るレティシアを、彼は愛おしそうに抱き締めた。
「勝手に・・・どこに・・・行ってたんだ・・・・っ」
「・・・悪かった。まさかここまで手間取るとは思わなかったんだ。ヘレンがここまで面倒臭い奴だと、分かって居たら、お前に長く留守にすることを言っておいたんだが。」
これに異論を唱えたのは、ヘレンである。
「よく言うわよ。私はいつも通りにしているだけよ。相応しいかどうか、見定めるのがわたしの務めですもの。それに貴方にも原因があるでしょうに!」
「・・・・・・・・・・・。」
押し黙ったのを見て、レティシアも流石にぴんと来て、涙を拭って、クラウスを見上げた。
「一体、どういう事なの!?」
散々心配して、気を揉まされて、彼が死んだと思って胸が張り裂けそうになったのだ。レティシアも多少なりとも怒る資格はあると思った。
だが、クラウスは答えず、代わりにヘレンを見やり、
「それで、どうなんだ?」
「あのね。これで駄目だわと言ったら、私の目は節穴かと言われるわ。第一、貴方、大して私の許可を欲しがっていなかったじゃない!欲しがったのは、《証》への刻印でしょう!」
「お前の許可があろうが無かろうが、レティシアは俺のモノだからな。ただ、ラウェルのような馬鹿を出さないための牽制には役に立つ。」
ぎくりと身を硬くした旧友を睨みつつ、クラウスは困惑しているレティシアを見返して、苦笑した。
「ヘレンが何の神か、気付いたか?」
「いいや。カイリ様に聞いてみたけれど、知らなくて良いって・・・。」
「ああ、それは俺が口止めした。ここにいる全員が共犯だしな。」
「・・・・まさか、宮殿の侍女達も、何を聞いても教えてくれなかったのって・・・・!」
「俺だ。迂闊に漏らしたら消すと言っておいた。」
道理で侍女達がお許しくださいと半泣きで逃げる訳だ。クラウスの脅迫があったのである。
「なんでそんな事をしたんだ!」
心底怒りが湧いてきたレティシアに、クラウスは流石に少し言い方が不味かったと思ったのか、
「怒るなよ。お前を驚かせて、喜ばせてやりたかったんだよ。」
「これ以上、驚くことなどあるか!」
真っ赤になったレティシアが、更なる怒りを爆発させるのが分かったのか、クラウスがそれを呑み込むように唇に軽くキスを落とす。
全員の前でそんな事をされたレティシアは、流石に言葉に詰まった。そうしている内に、クラウスがレティシアをそっと地面に降ろした。
「いきなり・・・なにするんだ。」
キスの衝撃に、真っ赤になって狼狽えるレティシアに、クラウスは微笑んだ。
「レティシア。今は俺だけを見ろ。」
いつもの優しい声に釣られて、レティシアは彼を見上げる。そうして、自分の前に立っていたクラウスが、片膝をついて座ったのに、目を丸くした。
「・・・クラウス・・・・?」
漆黒の瞳はレティシアを見つめたまま離さない。その強い眼差しに、彼に触れられている訳でもないというのに、身体がかあっと熱くなる。だから、彼に左手を取られて、手の甲にキスを落とされると、もう蕩けてしまいそうだとさえ思った。
「俺と結婚して欲しい。」
レティシアは驚きの余り、言葉も出なかった。だが、クラウスは淀みなく、迷いもなく、更に続ける。
「俺の生涯の唯一無二の伴侶として、俺の傍にあり、共に生きて欲しい。お前が何時までも笑っていられるように、俺は全てを賭けて、お前を護る。必ず、幸せにしてみせる。」
神族の結婚は、人間以上に遥かに強固だ。
結婚するのは生涯で一度だけだ。多情である神族が他者に浮気心を出しても、全てにおいて伴侶が優先される。伴侶が傷つけられる事になったら、全力で戦い抗う事が許される。
神族の長い生涯で、たった一人しか得られない稀有な存在。
そう言うものだとゼウスから教わっていたレティシアは、衝撃から立ち直ると、何とか言葉を漏らした。
「わたしが・・?」
不安と喜びが交ざるレティシアの問いに、クラウスは微笑んだ。
「お前しかいない。俺はそもそも、人界でお前に惚れ込んだ最初から、伴侶にしたかった。でも、お前は俺が初恋の相手だと言うし、生涯の事だから、無理強いはしたくない。だから、お前の心が満ちるまで、待とうと思った。」
クラウスは基本的に傲岸不遜な面がある。だが、一度たりともレティシアの本意では無い事をする男ではなかった。嫉妬や怒りに駆られて、強引に抱こうとしたこともあるが、レティシアが泣いているのを見て手を止めた。レティシアが許してくれるのを、彼は必ず待っていた。
何時でも傍らにあり、時に包み込むように護り、励まし、時に激しく愛してくれた。
クラウスの伴侶になれるのならば、どれ程幸せだろうと思い、即答したいと思うのに、それが出来ない。嬉しくて仕方が無いのに、それ以上の言葉が出て来ない。
「躊躇ってるな。どうした。今度は何が怖い?」
レティシアの心の機微に、彼はすぐに気が付く。だが、それはクラウスが単に敏いという事だけではない。彼がそれだけレティシアを気に掛けて、見ているからこそでもあった。
レティシアの不安など全て取り去ってやると宣言するような、微笑みかける彼の目は優しくて、レティシアはぽつぽつと漏らした。
「・・・わたしは・・・母様を亡くして、もう大切な人を作りたくなかったんだ。喪うのが、怖かったから。」
「ああ、そうだな。」
「でも、神族になれば・・・クラウスとずっと生きていられると・・・もう喪わずに済むんだと、慢心していた。わたしは・・・・クラウスを喪うのが怖いんだ。クラウスと一緒にいれば居るほど、好きになってしまうから、怖い。わたしは、結局自分勝手なんだ。」
クラウスの所為ではない。誰の所為でも無い。結局はクラウスを喪ったら自分がどうしたら良いか分からなくなってしまうのが怖いのだ。こんな自分勝手な想いをもって、彼の伴侶に相応しいと言えるのだろうか。
大粒の涙を零したレティシアに、だがクラウスの瞳は揺るがない。
「レティシア、それは俺も同じだ。むしろ、俺の方がお前を喪う事に怯えてる。」
「え・・・・・?」
「実際、俺は何度も失態を犯している。お前を母上に連れて行かれて見失ったし、オゼ達にお前を殺される寸前だった。お前が神族になってくれたから、不安定ながらも神気はあるし身体も強くなったから、お前をそう簡単に見失ったり、失う事は無いだろうと思い込んでいた。その所為で、ラウェルの野郎に連れ去られた。」
クラウスはラウェルに対して猛烈に怒り狂ったが、それ以上に己の慢心に対しても腹立たしかった。
「だから、少しでもお前を護れる手段があるなら、俺はその全てを手に入れると決めた。」
レティシアの左手を握る手が、その決意を示すかのように、少しだけ強くなった。
「神族の結婚は心を縛るものじゃないし、行動に制約を作るものでもない。恋愛に奔放な神族も多いから、浮気する奴もいるが、それすら認められている。ただ、揺るぎないのは、伴侶である神族は、相手をどんな手段を使ってでも護ることが許される。だからこそ唯一無二の存在だと言われるんだよ。」
勿論、クラウスには彼女の傍に他所の雄を寄せる気は更々ないが、彼女を見返す笑みはあくまでも優しい。
「それに、神族も人間よりも遥かに長く生きるというだけで、最期は必ず訪れる存在だ。それは誰にもどうすることも出来ない。」
「・・・・・・・・っ。」
レティシアの目が潤むが、彼は誤魔化したりすることを良しとはしなかった。
「だが、それを怖がって、本当に喪う事になった時に、悔やむ事を俺は絶対にしたくはない。最期の瞬間まで、俺はお前を愛し、護り通したと思って死にたい。」
「・・・クラ・・・ウス・・・。」
その言葉に偽りはなかった。実際彼は人界でそうなっていたかもしれないのだ。
「今回の件で、俺が不用意な真似をして、挙句に手間取ったからな。今お前を躊躇わせているのは、俺自身の責任だ。だから、俺は待つつもりだ。」
「・・・いつ・・・まで?」
「いつまでも。俺の伴侶はお前だと定めている事だけは忘れないでいてくれるなら、それで良い。」
レティシアは頬を染め、そして、涙を拭って、顔を綻ばせた。
やっぱり優しい男だった。ここまで熱烈に求婚してくれているというのに、レティシアの気持ちを、必ず待ってくれる。ここで断っても、彼は苦笑して「そうか」と済ましてくれる気がした。でも、そんな必要は無い事は、レティシアが一番分かっていた。
「確かに、今回の事は・・・怖かった。クラウスを失ったかと思った。でも・・・やっぱり、傍に居てくれた。そして、こうして、また私に触れてくれている。たとえ、どんな存在になっても、私の中に、クラウスがいるんだな。」
死は必ず訪れる。別れもいつか来るだろう。それでも、心の中で、何時までも支えになってくれる。彼がそういう存在であることを、レティシアは理解した。
涙に濡れた美しい紫紺の瞳は美しく、薄っすらと赤く染まった頬は可愛らしく、クラウスは惚けたように彼女を見つめ、そして手の甲にキスを落とした。
「返事をくれるか?レティシア。」
どこか甘えたような低い美声に、レティシアは微笑んだ。
「喜んで。私も貴方の伴侶になれるのなら、何よりも嬉しい。」
その明確な返答に、クラウスは蕩けるような笑みを浮かべ、そして立ち上がると、強くレティシアを抱き締めた。そして、レティシアの顎を引くと、何度となく唇を重ねた。
「・・・レティシア・・・。」
キスの合間に名を呼んでくれる彼の声は、喜びを隠そうともしなかった。繰り返されるキスは、熱を帯びて、激しさを増し、レティシアは頬を染めた。
そろそろ神界編、完結となります!