ヘレンの島。
なんだか、寒いな。
昼間だと言うのに、いつの間に夜になったのだろう。
レティシアは顔を上げる気もしなくなって、ただ無為に見つめていた地面が、無い。真っ暗な闇が、いつの間にか足元にまで迫っていた。
ああ、私も呑まれるのかな。それなら、クラウスの元に、皆の元に行けるのだろうか。
そうしたら、今度こそ、もう離れなくて良いのだろうか。
薄く笑った瞬間だった。
「・・・っうわ!?」
背後から強い衝撃を受け、レティシアはその場に倒れた。何だろうかと振り返った直後に、巨大なモノが乗りかかって来て、地面に引き倒されると、顔を温かい舌で舐められた。
その瞬間冷えた身体が、温もりを取り戻して、動きが鈍くなる一方だった身体が軽くなった気がした。そうして、真っ暗だった視界が開けて、元通り真っ青な空と、草原が戻って来た。
ただ、レティシアの視線は己に乗りかかり、頬や額を舐め上げる大きな獣に釘付けになった。
「・・・・狼・・・・?」
尖った大きな耳を持つ、堂々とした体躯の獣は、レティシアの体格の優に倍はあろうかという程の、大きな漆黒の獣だった。何とか身体を起こすと、狼は身体を摺り寄せて、レティシアを包み込むように長い尻尾が背中に回る。
艶やかな毛色で、触れられるととても心地が良い。大きな獣であるというのに、獣特有の匂いもしない。どちらかと言えば爽やかな香りがして、そっと撫ぜると何だか心が落ち着く。
「・・・・ありがとう、慰めてくれたの?優しいね。」
くすぐったくなる程舐められて、レティシアはようやく少しだけ笑った。
「貴方みたいな綺麗な狼、初めて見たよ。」
するとグルルルッと何だか不満そうな声をして、レティシアは目を瞬く。誉めたつもりなのだが、何だか気に食わなかったらしい。
狼はレティシアの表情が緩むのを見て、立ち上がると、ぐいぐいと鼻先で自身の身体に押し付けるようにレティシアの身体を押した。体躯もあるが、かなりの力があり、レティシアはそのまま促されるように狼の背に座り込んでしまった。
「え・・・?どこに行くの・・・?わたし重いよ。」
慌てる間もなく、狼はすくっと立ち上がり、レティシアはついしがみついてしまう。すると、狼はクラウスが呑まれた大樹に背を向けて、凄まじい速度で草原を走り抜けた。
「・・・・っ待って、クラウスが・・・・っ!」
彼をこんな所に置いて行けないと、狼に呼びかけたが、一切足は緩まない。どこに連れて行かれるかも分からないし、飛び降りてしまった方が良いのだろうかと思ったが、それを見越したかのように尻尾が伸びてきて、抑え込まれてしまった。
そうしている内に、草原をあっという間に抜け、狼は山の中を駆け抜ける。静寂に包まれた、鬱蒼と生い茂った山をものともせずに突き進み、そうして小半時ほど駆けた時、狼はようやく足を止めた。
「・・・・ここは・・・・?」
レティシアはようやく狼の背から降りる事が出来、そして見たことも無い場所に困惑した。森の中であることに変わりは無かったが、崩れた瓦礫が散乱し、石畳の床も粉々に砕けた廃墟だった。
とても住める場所ではないと思ったが、崩れた廃墟の中から、一人の女が歩いてくるのが見えた。
レティシアよりも頭一つ位小柄で、華奢な身体をしていたが、若草色のウェーヴのかかった髪は艶やかで光り輝くような美しさだ。顎筋は細く、ぱっちりとした大粒の瞳は新緑の色をして、どこか幼げな愛くるしさがあるにも関わらず、ほっそりとした身体は豊満で、艶やかな女の色香も放つ美女だった。
赤い唇の下に愛嬌のように小さな黒子があり、レティシアはそれを見て、あの船頭だと気付いたが、彼女が露にした覇気は凄まじいものがあり、息を呑む。
女はレティシアの前に立つと、美しい顔の柳眉を潜めて、
「困った事をしてくれたわね。台無しよ。」
と苦々し気に言った。
「貴女は・・・?」
「私はヘレン。四柱の一人よ。この島を治めている者、と言った方が良いかしら?」
レティシアは総毛だった。
「・・・・っこの島は一体何なのですか?!どうして・・・皆を・・・クラウスを・・・・っ!」
思うように働かない頭がもどかしい。でも、悔しくて、哀しくて、レティシアは声を荒げてしまう。
だがヘレンは動じるどころか、思い切り顔を顰めた。
「何を言っているの?もう!全部貴女の所為じゃない!」
「・・・・わたし・・・・の・・・・?」
「そうよ。私はただいつも通り、クラウスを迎え入れて、平穏に過ごして貰おうと思ったわ。彼は信じられないくらいとても穏やかだったし、幸せそうだったから、こういうのもたまには良いかしらと思ったの。」
「・・・・・・・・・っ。」
「でも、貴女が来たら、この島が一気に滅茶苦茶よ。私はこんな鬱蒼とした暗い山なんて、湿気っぽくて嫌で仕方がないのに、貴女が暴走させたのよ。」
ヘレンの口調は淡々としており、とても偽りを語っているとは思えない。現に、彼女は四柱の一人であり、この状況を誰よりも理解していたからだ。
「貴女、元は人間だったでしょう。」
「どうしてそれを・・・・?」
「神界で、貴女の事を知らない者なんていないわ。頼まなくても、クラウスが連れて来た貴女の事は、散々耳に入って来る。それに、ここに来る時に、私の舟に乗ったでしょう?」
「やはり、あの時の舟番は貴女だったんですね・・・。」
「そうよ。あの舟はね、乗った者の過去や思い出をわたくしに教えてくれるの。勿論、立ち入ってほしくない事もあるでしょうし、そう言うものはね、心に鍵を掛けているから、私にも多くは覗けない。高位の神族であれば制御されてしまうから、もっと覗けないのだけれど、許して貰える範囲では見れるわ。まあ、邪な思いを抱いてくるものは、徹底的に暴いて、悪夢を見せて追い返してやるのだけれどね。」
レティシアは、ラウェルがあの湖で何度も溺れたり、舟で真っ青になっていた理由が、何となく分かった。その詳細は聞かない方が良い。
ヘレンは、レティシアを見据えたまま、
「クラウスは、昔から全く心の内を見せてくれない男だったわ。神力があまりに強くて、わたくしを遥かに上回るから、とても太刀打ちできなかったの。でも、今回は珍しいくらい、一部はよく見せてくれたわ。まあ、もう分かったから良いわよと思うくらい。」
そこまでヘレンに心を開いていたのだとレティシアは胸が痛んだが、ヘレンは顔を顰めたまま、
「貴女は、逆にとても見やすかったわ。全く自分の力を制御出来ていないのね。まあ、だからこんな事にもなったのでしょうけれど。」
崩れた廃墟をちらりと見て、うんざりした顔でヘレンは呟く。
「どういう事ですか・・・?」
「貴女は神族になったばかりで、身体に慣れきっていないというのは分かっているかしら?」
「・・・はい。だからクラウスが、神術は使うなって・・・・。」
「賢明ね。貴女が神術なんて使ったら、この島何て吹っ飛ぶわ。」
「・・・・・・・・・っ?」
「自覚が無いのね。危なっかしいわね・・・だから過保護だってクラウスにも言ったのに。良い?貴女の神力は、底が知れないわ。クラウスは規格外だから基準にならないけれど、自在に操れるようになれば、カイリやマリアでも抑えきれるかどうか怪しい程よ。ゼウス程の神族が、貴女の力を吸収して瀕死のままでいた意味を考えたことがあって?貴女の力はとても強いのよ。」
レティシアはヘレンの言わんとする事が分かり、徐々に血の気が引いていった。傍らに寄り添っている狼が心配そうに見上げて、鼻を手に擦り付けてきたが、レティシアはその感触さえ弱くなっていた。
「この島は私の力で制御しているし、島に来た方に合わせた場を作っているの。今回はとても居心地の良い森を作って、道も歩きやすくして、散歩気分で歩いて貰おうと思ったのよ?幼い頃の貴女が、大好きな母親と共に過ごしていた山が視えたから。でも、貴女が心を乱してばかりいるから、神力は暴走寸前で、あっという間に豹変させてしまった。」
「・・・・そん・・・な・・・・。」
「だから、クラウスが貴女の力を抑え込んだのよ。死ぬわよって警告してあげたのに!」
ヘレンは苛々としたように、叫んだ。
ラウェルが、言っていたのはこの事だったのだ。ヘレンの力と、クラウスの力。そして第三者の力。レティシアはまだ神界に来て日が浅く、神気も不安定であり、ラウェルにとっては覚えのないものであったのだから分からなかったのも無理はない。
レティシアの胸にその言葉は突き刺さり、へなへなとその場に座り込んだ。
「わたしが・・・・殺した・・・・クラウスを・・・みんなを・・・殺した・・・。」
クラウスは島に来ていた時まだ生きていた。でも、登っている最中に耐えられず息絶えたのではない。レティシアの力を抑えるために、彼は命を落としたのだ。
蒼白になって、小刻みに身体を震わせるレティシアに、ヘレンは目を見張った。
「え?・・・ちょっと、そうじゃな・・・・・っ!?」
女神の声は、レティシアには届かなかった。
ざわりと風が騒ぎ、森が揺れる。
目の前で息絶えた母。自分を庇って血塗れになったクラウス。走馬灯のように次々に蘇る。
次々に消えて行ってしまったカイリやマリア。不安がる自分を慰めて呑まれてしまったゼウス。囮になってくれたラウェル。自分を護る為に身を賭してくれたロディーナやワルキューレ達。そして恐怖を堪えて、最後まで気遣って消えて行ったミディールとリル。
でも、ヘレンの仕業では無かった。
皆を殺したのは、自分なのだ。
そう思った瞬間、目の前からヘレンが消えた。そうして廃墟の周囲に見えて来たのは、レティシアと共にこの島に来てくれた人々の、無残な死骸であった。
全員の身体に蔦が絡まり、息絶えた人々を晒す。
レティシアは戦慄き、絶叫した。
心がちぎれそうになるほど痛み、涙が溢れ、身体の震えが止まらない。
怖い。嫌だ。苦しい。いっそ消えてしまいたい。
全部自分の所為だ。こみ上げる自責の念に、だが、かつて味わった同じような状況の時に、クラウスが言ってくれた言葉が頭を過る。
『自覚しろ。お前が愛しいから、俺達は必死でお前を護るんだ。お前と共に生きたいと思うんだ』
挫けそうになる度に、クラウスがいつも支えてくれた。護ってくれた。
『少しでも怖くなったら、嫌だと思ったら、俺を呼べ。お前の声なら、必ず俺に届く』
彼は自分に嘘を付かない。真摯であろうとしてくれた。
ヘレンの言う通り、クラウスは最期まで護ってくれていたのだ。それなのに、彼女との仲を少しでも疑ってしまった事を、レティシアは恥じた。
クラウスは、きっと傍に居てくれる。どんな時も。
「・・・・クラ・・・ウス・・・・。」
地面の落ちるばかりであった涙を見つめ、レティシアは顔を上げた。




