消えゆく神々。
ごく僅かなその気配に、男は直ぐに気が付いた。
名を呼びたくても声が出ない。目を開けたところで、視力が無いから、今は昼間なのか、夜なのかも分からない。聴覚も完全に遮断されて無音の世界が続いている。
四肢は完全に拘束され、指一本たりとも動かせない。己の力を凌駕する程の、強烈な力で抑え込まれているにも関わらず、痛みを全く覚えない。
まさか五感の全てを奪われるとはな。
男は失笑し、だが変わらず闇の中にいる。
無為に過ごす日々が続いている。それ自体に別段不満は無い。そうして過ごす事は何時もの事であったし、ただ今のように拘束されていないというだけで、それは彼の日常でもあったからだ。
ただ一つ、悔やんでいることがあった。
(・・・・レティシアに、言っておくべきだったな・・・・。)
闇の中で、男は乾いた唇に、僅かに笑みを浮かべた。
森は極めて険しい道だった。急な斜面や、岩場も多く、足場がかなり悪い。ドレスでは何分動きにくく、まくり上げる事を心配したマリアが、どこからともなく女性用のシャツとズボンを持ってきてくれたので、着替えたレティシアは大分身軽だ。一方のマリアはと言えば、カイリが軽々と腕に抱き上げて歩いているので、大層ご機嫌である。
女性と見紛う程の麗人であるカイリが、細身の女性とはいえ彼と同じくらいの長身であるマリアを抱き上げて、険しい山道を登っても平然としているのだから、驚きだ。優れた武人だとは聞いていたが、外見とのギャップが大き過ぎる人である。
先頭を行くのは、リルとミディールだ。一番身軽であり、聴力と視力に長けている彼らは、先行して様子を見て、より進みやすい道を教えてくれた。
野山を駆け回る事に長けた彼らにとって、山登りは苦痛ではなかった。ワルキューレ達も、軍人として鍛え上げられていたし、ゼウスも全く動じなかったが、唯一へばっていたのが、ラウェルである。
「大丈夫ですか?」
遅れがちな彼にレティシアが声を掛けると、ラウェルは額の汗を拭いつつ、
「何とか・・・・っていうか、山登りなんて、普通女がするか?」
獣人たちは野性的であるし、ロディーナやワルキューレ達はさもあらんと思う。マリアを抱き上げて平然としているカイリは、力量を知るラウェルには特段驚きではない。だが、この間まで人間であったはずのレティシアが、険しい道のりでも平然としている事が、彼には信じられない。
「私は元々人界で軍人だったし、子供の頃から野山を駆け回っていたから、山登りは得意なんです。それより、まだ一時間も経ってないのに、大丈夫ですか?」
同じ四柱だというのに、どうして彼だけこんなに真っ青になって、疲弊しているのだろうか。年若いとなれば、レティシアの方がずっと年下の筈だ。
「どうも・・・俺に対して厳しいっていうか・・・いや、分かるんだけどよ。」
「厳しい・・・?」
レティシアは周囲を見回す。鬱蒼と生い茂った木々の合間から、木漏れ日が落ちては来ているが、先程の鳥のように害そうとする物は見当たらない。
だが、ラウェルは息を吐いて、
「重苦しくて仕方がない。全く加減もしてこねえし・・・何か・・・良い予感はしねえな。」
と苦い顔をする。ゼウスは冷ややかに、
「お前の普段の行いが悪すぎるんだろう。私の娘を泣かせておいて、反省の色が無いのではないか?」
「それ、今言わなくても!ぐふっ!」
ずしりと何か背負ったように、突っ伏しかけて、膝に手を当てて何とか堪える。だが、ラウェルの背には何も無いのだ。
「父様、ヘレン様の宮はこの山の上にあるのでしょうか?」
「さてな。この島の彼女の宮の風景は来る度に違うらしいから、分からん。」
「え・・・・・?」
「周り一面砂浜であったこともあれば、手入れのされた庭園であるとも聞く。全ては彼女の采配次第であるのが大きいようなのだが・・・こんな鬱蒼とした山は聞いたことが無い。お前に対して、ヘレンがこんなもてなしをするとは思えなかったんだが・・・ラウェルの言う事も一理あるかも知れんな。」
山を登りながら、淡々と話していたゼウスは、不意に足を止めた。
「見ろ。始まったぞ。」
「え・・・・?」
振り返ったレティシアは、言葉を喪った。
最後尾から付いて来ていたはずの、カイリとマリアの二人が忽然と姿を消していたのだ。愕然としたのはレティシアだけではない。一瞬にして主を見失ったワルキューレ達が真っ青になった。
「そんな・・・っ一体いつ?!」
ロディーナでさえ顔の色を失って喪っていた。無論最後尾にあったという事もあり、視線は前を向いていたわけであるが、それでも軍人として優れた才覚を持つ彼女達に一切気付かせず消し去ることなど、到底信じ難かったのだ。
足を止めた一同の元に、先行していたリルとミディールが彼らが遅れている事に気付いて戻って来て、目を見張ったほどだった。
「あれ・・・カイリ様ご夫妻はどこに行かれたんですか?」
「・・・・・っ消えたんだ!」
レティシアが辛うじて説明すると、ミディールが目を見開いた。
「ど、どこに!?」
「分からない。振り返ったら、居なくなっていた。何か理由があって離れるにしても、一言言ってくれるはずだ。」
「じゃあ、あのカイリ様とマリア様を、誰にも気づかれずに連れ去ったという事ですか・・・・?」
混乱状態に陥る一同の中で、ゼウスは冷静だった。
「落ち着け、レティシア。お前達も、それではワルキューレの名が泣くぞ。ヘレンの仕業ならば、彼女の力では、あの二人に危害を加えることなど出来ない。」
と窘めつつ、森の中を一瞥し、
「ただ、様子がおかしいのも確かだ。様子を見てくるから、お前達は先に行っていなさい。あわよくば、あの二人を見つけてくる。」
と踵を返した。
ゼウスの足取りは軽かったが、レティシアは急に不安に駆られた。振り返り見てみれば、昼間だと言うのに、今まで登ってきたはずの道が、不気味なほどに暗かったのだ。
「待って、父様。置いて行けないよ、一緒に探しに行く。」
「お前はまだ神気を辿ることもできないだろう。当てもなく探し回って、全員散り散りになる気か?軍人ならば、地理も分からない場所で、当てもなく探し回ることが無為である事を理解できるはずだぞ。それに、お前の目的はクラウスを探し出す事だろう。」
「・・・・・・・・・・っ。」
ゼウスの言葉は厳しいが、正論でもあった。せいぜい数十人の隊で、足場の悪い深い山を探し回るのは至難の業だ。唇を噛むレティシアに、ゼウスは目を和らげた。
「私の事なら、心配するな。お前の花嫁姿を見ない内に、消えはしないよ。」
「父様・・・・・。」
「お前は、クラウスを見つけなさい。あの男ならば、お前を必ず助けてくれる。」
そう言うと、ゼウスはあっという間に下りはじめ、直ぐに姿が見えなくなってしまった。
立ち尽くすレティシアに、ようやく立ち直ったロディーナが促した。
「参りましょう、レティシア様。ここで待っていても仕方がありません。我らがお守りいたしますゆえ、山頂の宮を目指しましょう。」
「・・・・分かった。」
堪えるように拳を握りしめ、レティシアはまた歩き始めた。再び獣人たちが先行し、ワルキューレの女達もレティシアの周囲を囲みながら、今まで以上に警戒を強くする。
ラウェルは最後尾で、息を切らしながらも付いて行った。
ロディーナは、夫妻やゼウスの目が無くなり、またラウェルが邪な思いを抱かないかという事が、少し心配であったが、それは杞憂に思えた。
額の汗を拭い、山の斜面を登るラウェルから、普段のふざけた空気が無かった。表情は次第に険しさを増し、周囲を見つめ、やがて彼は足を止めた。疲弊したからではない。背後に鋭い視線を向け、小さく舌打ちを漏らした。
「・・・レティシア、気を付けて進めよ。」
「どうしてですか?」
「ゼウスの気配が今、消えた。」
「・・・・・・・っ!?」
俄かに総毛だつ一同に、ラウェルは視線を背後から外さないまま、更に告げた。
「神界で、一瞬にして四柱を消すなんてありえない話だ。あの三人が無抵抗のまま簡単に連れ去られるとも思えない。この森は何かおかしい。俺を威圧してきていたヘレンの気配まで消えた。」
汗を拭ったラウェルの顔色が戻り、新たな汗は流れなかった。山道にへたばっていたはずの男が、身体を起こし、何事も無かったかのように立っていたのがその証だった。
ラウェルの目は、背後から近づきつつある闇を見ていた。
「急いだほうが良い。コレは俺達を呑む気だぞ。」
ロディーナは彼の視線の先を追い、そして蒼白になった。先程まで通ったはずの道が、無い。瞬時に、部下達に叫んだ。
「駆けろ!喰われるぞ!」
その声を合図に、全員が一気に駆け出した。神々の脚力は凄まじく、だが迫りくる闇は付かず離れずついてくる。最後尾を駆けるラウェルが、途中で足を止めて詠唱した、防御結界を張り巡らせたが、それは易々と通過した。
「何だこれは・・・ッ!」
舌打ちを漏らし、だが彼も駆けるしかない。真っ先に遅れ始めたのは、やはり力の弱いリルとミディールで、だがワルキューレの女達がそれぞれを脇に抱えて走った。
レティシアもまたただ必死で駆け上った。訳の分からない状況で、だがマリアやカイリ、ゼウスまでも喪い、心は乱れた。
神族から必死で逃げ回ったあの日の光景が目の前を過る。
怖い。嫌だ。どうしたら良いか、分からない。
それでもただ、あの時と同じように、必死で足を動かすしかなかった。
だが、レティシアも神族として日が浅く、神術も使い切れていないことが仇となった。足場が悪く、岩に足を取られて転倒すると、ロディーナが慌てて助け起こしてくれた。
レティシアも痛みを堪えてすぐに立ち上がったが、その僅かな間にも、闇が近寄って来る。最後尾を進んでいたラウェルが追い付き、苦い顔をした。
「ま・・・そうなるだろうな。幾ら人界で鍛えられていても、お前の神力は不安定だ。」
「貴様、レティシア様を置いて行くつもりか!」
激高するロディーナに、ラウェルは冷笑した。
「お前ともあろう者が、隊が壊滅する手を易々と打つ気か?」
「・・・・・・・っ。」
「俺達を追ってくるアレの正体は良く分からんが、賢い選択をしている。この中で、より力のある者から消していっているんだからな。力を削ぐには一番手っ取り早い。」
「だからと言って!」
それ以上ロディーナは抗議できなかった。ラウェルは苦笑して、レティシアを見やると、
「気を付けろよ。これはヘレンの力だけじゃない。クラウスの気配も混じってる。」
「・・・・・・・・っ!・クラウスが、こんなことをしていると言うんですか?」
「確証はない。ただ、さっきから微弱だが、覚えのない神気がする。そいつの仕業かもな。何にせよ、三神の力が混在して、この山は恐ろしく不安定であることは確かだ。早くクラウスを見つけて、抑えさせた方が良い。あいつの力なら、それが出来るはずだ・・・じゃあな。」
「ラウェル!?」
突然一同から離れて飛び出して行ったラウェルに、レティシアは息を呑む。
「力のある奴を狙っていると言っただろ。そうなれば次は、俺だ。」
苦笑して、だが彼の姿はあっという間に消え、そして彼を追うように闇が逸れて行った。ラウェルの判断は正しく、彼は囮を買って出たのだ。
次々に神々が消えていく事態に、レティシアは言葉を喪った。だが、ロディーナやワルキューレ達が懸命に励ました。
「・・・・っ行きましょう、レティシア様。少しでも遠く、あの得体の知れないものから逃げるのが先決です。ラウェル殿が時間を稼いでいるこの間に!」
考えている余地はなく、レティシアは震える唇を噛み締めて、懸命に山道を登った。
どうしたら良いのか、全く頭が回らない。
身体が酷く重くて、息苦しい。でも、懸命に励ましてくれる彼女達の前で、弱音なんて吐けない。
一歩、また一歩と、懸命に足を踏み出しているのに、その度に足が重くなる。
「レティシア様!」
酷い耳鳴りと共に、遠くで名を呼ぶ声に、レティシアは顔を上げ、そして言葉を喪った。
「・・・嘘・・・でしょう・・・?」
地獄絵図のようだった。
森中の彼方此方から無数に伸びた太い蔓が、ワルキューレの女達を次々に捉えて、森の中に引きずり込んでいた。女達が剣を振るい、仲間を救おうとしたが、一本切る間にも数本が伸びてきて、四肢を絡めとられ、呑みこまれていくのだ。
ワルキューレの女達の抵抗をあざ笑うかのようだった。
だが、彼女達はそれでも懸命に抗い、諦めることなく剣を振るう。
「レティシア様、お逃げ下さい!我らが道を拓きまする!」
仲間が次々に喪われていくというのに、彼女達は怯まない。それは、レティシアの腕を掴み、駆けだしたロディーナもまた同じだった。纏わりつく蔓を叩き斬り、怒号を上げる。
「お前達、血路を開け!何としても、レティシア様を御守りする!」
戦場と化したその地を、部下達が次々に呑まれていく様を見向きもせず、ロディーナはただ必死で駆ける。レティシアに止まる事は許されなかった。そんな事をしたら、彼女達の努力を全て無にしてしまう。
小柄な身体が幸いしてか、獣人の二人は上手く蔓を避け、レティシアの傍を駆けた。
「急いで!」
「早く、早く!」
レティシアは縺れそうになる足を必死で堪え、斜面を駆けあがった。ロディーナの手が、何度も支えてくれた。そうして、目の前が開けた時、ロディーナの手が、レティシアの背を強く押した。
息を呑み、振り返れば、ロディーナに向かって無数の蔓が伸びていた。
「・・・・っロディーナ!」
レティシアは咄嗟に手を伸ばし、ずっと自分を支えてくれた彼女の腕を掴んだ。だが、ロディーナの四肢はあっという間に巻き付かれて、ずるずると山の中へと引きずり込もうとする。
リルとミディールが血相を変えて、必死でレティシアの腰に手を回して、手助けをするが、蔓の力は凄まじく、ずるずると引きずられてしまう。
それがロディーナにも分かるから、彼女は抗う事よりも、レティシアを優先した。
「レティシア様、手を御放しください。このままでは全員呑まれます!」
「・・・っ嫌だ!」
「クラウス様を探し求めに来られたのでは無いのですか!」
ロディーナは心を鬼にして、そう叫んだ。レティシアにとって何よりも大切な男であり、こんな山奥まで、辛い思いをして探し求めているのだから。
だが、レティシアの紫紺の瞳から涙が溢れ、一層強い力で握り返された。
「もう・・・クラウスに合わせる顔なんて無いよ・・・・。貴女達は職務だと思うかもしれない。父様達は義務感でしてくれたかもしれない。でも、皆を喪って、その代わりにクラウスを見つけられたとしても、何の意味もない。皆のお陰で、私はここに居られるんだから・・・!」
「・・・・レティシア様・・・・。」
ロディーナは、彼女をとても美しく清楚な女性だと思っていた。
誰も寄せ付けず、女を抱いていても戯れでしかなかったクラウスが、愛しいという態度を隠そうともしなかった。時に苛烈にして冷酷な気性を露にする稀有な強い神であるクラウスの傍にあって、だがレティシアの姿は全く霞まなかった。ごく自然に、幸せそうに寄り添っていた彼女に、ロディーナは深い感銘を受けてもいた。
クラウスにとって彼女はあまりに稀有な女性だ。
部下達と共に、必ず護り通さなければという使命感にも駆られたが、侍女達や獣人など、どんなものにも分け隔てなく接するレティシアの優しさに触れると共に、新しい欲も出た。
この方に、もっと笑っていて欲しい。幸せであって欲しい。ただ純粋にそう願った。
そうしたら、周りの者ももっと楽しくなる。
レティシアがカイリの宮を明るく朗らかな空気へと変えている事に、ロディーナは気づいていた。
だから、今の彼女の涙は頂けなかった。
苦笑を零し、僅かに動く指で、彼女の涙を拭った。
「レティシア様・・・私たちの大切な姫様。どうか泣かないで。我らの魂はいつも貴女様の御傍におります。」
そう言って、彼女は渾身の力で、レティシアの手を振りほどいた。
跳ね飛ばされたレティシアは、茫然とロディーナがいた空間を見つめた。蔓がまるで遮るように幾重にも無数に張り巡らされ、光も差し込まなかった。
リルが堪え切れずすすり泣く声がして、レティシアは無意識的に彼女の頭を撫ぜて慰めた。レティシアの腰から手を離したミディールは、開けたその草原を見つめ息を呑む。
「ここは・・・・山頂?」
空は開けており、光が差し込んでいた。爽やかな風が頬を撫ぜ、穏やかな雰囲気があった。
「・・・・っレティシア様、あそこを見て下さい!」
ミディールが飛び上がり、座り込んでいるレティシアをせっついた。のろのろと視線を向けると、草原を超えた先に聳え立つ大木の根元に探し求めていた男の姿を見つけた。
「・・・・クラ・・・ウス・・・・。」
思うように頭が働かない。身体は鉛のように重く、心が悲鳴を上げる。
ただ、足だけは何とか動いた。膝程まである草原の中を進み、ミディールとリルがその後に続く。
クラウスを見つめ、必死で歩くレティシアの背を見つめ、ミディールは獣人族にしか聞こえないごく僅かな声量で、リルに言った。
「泣くなよ、リル。」
「分かって・・・るわよ。」
「大丈夫、一緒だから。」
リルは大粒の涙を零したが、とうとう泣き声を漏らさなかった。草むらの中から音もなく二人の足に絡みついた蔓が怖くて仕方が無かったが、地中に引きずり込まれ意識が遠のくまで、ミディールが手を握りしめてくれていたから、リルはちっとも怖くなかった。
ただ、レティシアの耳は草の揺れる僅かな異音が届いた。蒼白になって振り返った時、そこにはもう誰も居なかった。静まり返った草原が、乾いた風に揺られている。
「・・・リル・・・ミディール・・・・・・。」
レティシアの紫紺の瞳から大粒の涙が零れた。
獣人たちまでもが、他の人々のように、闇の中に呑まれて行ったことは容易に察しが付く。そして、少し臆病で、上級神を前にして大泣きをする彼らが、そんな目に遭えばいつもならば泣き叫んでしがみついてきたはずだというのに、声を殺して、レティシアを進ませてくれたのだ。
嗚咽を必死で堪えた。泣いていても、始まらない。もう誰も助けてはくれない。自分は、こういう状況でも進むしかない。進まなければ、身動きが出来なくなってしまうから、レティシアは人界でも懸命に生きて来た。
彼らが身を賭してまで自分を行かせてくれたクラウスの元に。彼なら、きっと。
重い足を懸命に動かして、はっきりしない頭を叱咤して、草原の中で何度も足を取られて転びながらも、レティシアはクラウスの元に辿り着いた。
息は上がり、身体中から汗が吹き出していたが、彼の傍に立った瞬間、身体中の血の気が引いた。
「・・・・・どう・・・して・・・・。」
レティシアは、クラウスを見つめ、そして崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
遠目では分からなかったが、彼が今どのような状況に置かれているのか、そして何故レティシアの元に帰って来られなかったのか、レティシアは全て悟った。
草原の中央に聳え立つ大樹の中に、クラウスは居た。身体の大半を樹に呑まれ、首や四肢には枝が絡みつき、指一本たりとも動かすことは出来なかっただろう。
色白である彼の肌は、血の気が無く、青白かった。身体はぴくりとも動かず、呼吸も止まっている。
震える手で、レティシアが彼の頬に触れると、クラウスの身体からは感じたことの無い、冷たい感触しかなかった。もう随分前に、彼は息絶えていたのだと分かる。
この島に来た時、まだ微弱ながら彼の神気がすると言っていた。レティシア達が、山を登っている最中に、彼は死んでしまったのだろう。もしかしたら、ずっとここで助けを待っていたのかもしれない。途中で自分がもたついて、転んだりしなければ、間に合ったかもしれないのに。もっと早く、彼の元に行こうとしていたら、息絶える前に助けられたかもしれないのに。
だが、レティシアの躊躇いをあざ笑うかのように、彼の亡骸だけが目の前にある。
神の身体は強靭だ。命を支える魂が、人のそれよりも遥かに強く、たとえ肉体が死んだとしても、容易に蘇生するのだという。本当の意味での死は、その魂が破壊された時であるという。
そして力の強い神であれば、たとえ肉体が死んでも、瞬時に息を吹き返す。実際、クラウスは人の身体で瀕死の重傷を負っていたにも関わらず、神族に戻った瞬間に一切の傷を残さなかった程の強靭な神だ。
そのクラウスが、亡骸を留めたままであるということは、彼の魂が既に無い事を現わしているのだろうか。
「・・・・・どうして・・・・逝ってしまったの・・・?」
もっと一緒に生きたかった。ずっと傍に居たかった。初めて恋をし、愛することが出来た人だと言うのに。
レティシアは恋をしてこなかったのというよりも、恋をすることに怯えてもいた。母を喪い、一人となって懸命に生きていたから、また大切な人を喪うのが嫌だったのだ。
クラウスはその怯えごと包み込んでくれた。唯一、レティシアが安心して身を預けられる男だった。
そして、神族ならば彼と共に長い時を生き、喪う事も無いと思い込んでしまっていた事に、今更ながらに気付く。
なんと傲慢で慢心した考えであったのだろう。その結果、レティシアは全てを失ったのだ。
紫紺の瞳から零れる涙を、もう拭う気力もなかった。
身体中から力が抜けていく気がした。どうでもいいと、思った。身体が、何故か冷えていくのも、気にならなかった。