全てを滅ぼすもの 01
落ちていく。
堕ちていく。
墜ちていく。
上も下も、右も左もなく。
広がるのは、際限なく続く暗闇。
ただそれだけ。
そのなにもない闇の中を、わたしの意識だけが真っ逆さまに落下している。
身体の感覚はなかった。目に見えるものもない。そもそも今のわたしには物を見るための目がなかった。
ただ、わたしという『意識』だけがここにある。
周囲の様子を捉えているのも、その物理に依らない精神的な働きによるものだった。
不便で制限が多い肉の器から解放されて自由になった意識が、どこまでも知覚を広げていく。
見えずとも、聞こえずとも、ただわかる。
この身に起こっている現象は、わたしの知っている言葉で表すならば『落ちている』と表現するしかない。けれど重力に引かれて天から地へ落ちるという物理的事象とは、語るべき次元がまったく異なっていた。
わたしはいま、世界から世界へ、現在から別の時間軸へ落ちているのだ。
ここは世界の狭間。時の狭間。
どこでもない場所、いつでもない時間。
そこを通って、わたしは目的の場所へ流されていた。
――これが、時空間跳躍。
時と空を超えるという事象を、わたしは初めて明確に認識する。
――……。
そうなってわたしが感じたのは、孤独だった。或いは寒さといってもいいかもしれない。
ここには温度がないのだ。
温度だけではない。なにかが存在するための空間も時の流れさえも、ここにはなかった。
意識だけとはいえ、こうしてわたしという存在が形を保ち続けていることが不思議なほどだ。
――――。
そうして、時の流れが意味をなさない場所をどれだけ落ち続けたのだろう。
際限なく拡大を続けていた意識が、落ちていく先に『なにか』を捉える。
それが何であるかはわからない。
ただ『捉えた』と認識した瞬間、そこに向かってわたしの意識が収束していく。
ここから、そこへ。
わたしという存在が、拡散して、消えて、また形を成していく。
そして。
わたしは、その場所へ現界する。
わたしという意識が、形になる刹那。
――どこかの誰かの、永遠の夢を見た。
**********
無のゆらぎ。或いはうねり。
なにもなかったはずの場に、生じるものがあった。
それは偶発的な事象であり、それでいながらあらゆる要素を超越した高み――もしくは深淵の昏き底に流れる運命的な必然であった。
初めそれは、指向性を持たないただの力の塊だった。
ただそこに在り続けるだけのもの。
限りなく不変に近く、限りなく永遠に近く、限りなく完全に近いもの。
――『神なるもの』。
神なるものは、その場においては不変にして永遠にして完全なるものであったが、そもそも神なるものを生みだす切っ掛けとなった、あらゆる場に流れる大いなるもの――『運命的なもの』の影響を免れることだけはできなかった。
その流れによって神なるものは様々に影響を受けた。
揺れて、転がり、伸びて、散る。
集まり、落ちて、飛んで、固まる。
そうした変化に長く晒されているうちに、やがて神なるものにはとある性質が備わりはじめた。
それは外からの干渉に対する特定の反応であり、作用に対する反作用。
すなわち、干渉から逃れようとする指向性だった。
初めは単なる受動的な反応でしかなかったそれは、そのうちに自発性へと昇華し、やがて能動的な活動を行うようになっていった。
そうして外からの干渉を防ぐため無限に近い試みを繰り返したのち、神なるものは無の海に『場』を創りだすことに成功する。
無のゆらぎのうちに『そこ』と『ここ』、或いは『外』と『内』という区切りをもたらす境界を創りだしたのだ。
その『場』――空間はある程度外からの干渉を遮ることができたが、それも僅かでしかなかった。より快適さを求めた神なるものは、次に空間を己そのもので満たすことにした。干渉力が己の内部にまではたやすく浸透してこないことをこれまでの経験で学習していたからだ。
そうして空間の全てに広がりその内を隙間なく満たすと、外から干渉してくる力は大きく軽減された。
しかしそこで問題が起きた。空間一杯に広がった結果、結局は己が外と接するようになってしまったのだ。
これでは場がなかったときと変わらない。わざわざ区切りをもたらした意味が失われてしまう。
そこで次に神なるものが考えたのは、空間に広がった己の内に密度の違いを創るということだった。
外縁部は極力薄くして、中心部をより密度の高い状態にする。そして己の感覚とでもいうべきものをその中心に固定し、薄く力を伸ばしただけの部位との間にさらなる『境界』を創ったのだ。
それは新たな『場』を創りだすというより、神なるものを動かす自発性だけを独立させるという行為だった。
すなわち、ここに力そのものである『神なるもの』とそれを動かす『自発性』が明確に区分されることになったのだ。
これが『神格』の芽生えである。
それは、意思である。
それは、我である。
それは、我はここに在るという、自と他を区別する意識である。
我という神格を有するに至った神なるものは、三千世界において神的存在と呼ばれていた。
そしてこの神的存在が創り上げた『場』、空間を世界、或いは宇宙と呼ぶ。
原初の神格が大抵そうするように、その神的存在もまたこの三千世界に新たな世界を創造したのだった。
そうしてようやく己にとって快適な場と、『我』という概念を手に入れた神的存在だったが、それが返って災いすることもあった。
『我はここに在る』という意識は、同時に神的存在に別の認識をもたらしたからだ。
すなわち、『我のみがここに在る』という意識。
神なるものと己が同一であったころ、全であり一であり、世界が我であり我が世界であったころとはまったく異なる感覚。
世界『に』我『が』あるのだ。
この世界の内に在るのはただ『我』のみであるという認識は、神的存在を奇妙なる状態へ陥らせることになった。
それはのちに退屈、無聊、或いは孤独と呼ばれる感情。
神なるもの全てが己であったころには一度も感じたことのなかったものであり、自と他が区別され、我が我として存在しはじめた瞬間よりつきまとうことになった感覚だった。
全の中の、たったの一であるという事実にどうしようもなく神格を揺さぶられる。
初め微小であったその感覚は次第に強さを増していき、やがては耐えきれないほどに膨れ上がってしまう。
そのときには神的存在を苛む感情は不快を超えて苦痛と言ってもよい状態にまで至っていた。
ゆえに。
運命的なものの干渉から逃れるために世界を創造して自我を獲得したように、神的存在がその感情を解消するべく行動を起こしたのも当然のことであった。
――『世界に我のみがある』という事実がこの感情を引き起こすのならば、そうでなくなればいい。
つまり『我でないもの』がこの世界に在ればこの苦痛も消え失せると考えたのだ。
手段は、あった。
神なるものから『我』が生まれたように、『我でないもの』も神なるものより生まれ得るのではないか。
神的存在はそう見当をつけていた。
早速それを実行に移してみたものの、最初はうまくいかなかった。
生まれるのはどれも『我』の延長上にあるもので、どこまでいっても結局は我だった。
なにが悪いのか。どうすれば異なるものを生みだすことができるのか。
幾度も試行錯誤し、その度に失敗を繰り返して――あるとき神的存在はひとつのことに思い当たる。
そもそも『我』が生まれたのは、境界を創ったことが切っ掛けだった。
無のうちに『外』と『内』を区切る境界を創りだし、それ以前は同一のものであった『神なるもの』と『自発性』をさらなる境界によって区切った。
そうして『我』は生まれたのだ。
であるならば、必要なのはなにかとなにかを分ける境界である。
しかし神なるもののうちに新たな境界を創ったとて、偶発的に生じた自発性がそこに存在しなければ、幾ら密度を変えようと『新たななにか』が生まれることはない。それは結局どこまでいっても神なるものでしかなかったのだ。
そこで神的存在が考えたのは、境界に意味を持たせることだった。
その意味とは、制限である。
神なるものとは、ただそこに在り続けるものであり、限りなく永遠不変に近いものだった。
ならば、そうでなくなったとしたら、どうだろう。
つまり、永遠でないもの。
いつか必ず滅び去り、崩れ去る――制限ある存在。
永遠を境界によって制限し、不変を境界によって制限し、神なるものより分けるのだ。
そうやって意味を付加した境界によって存在をまるごと囲い込んだ結果――ついにそれは生まれることになった。
それは、定有。或いは有限。ただ在るだけではなく、制限された有。
つまり『実体』である。
質と量を兼ね備えた形あるもの。のちに物質と名付けられる存在だった。
その世界における原初の実体たる物質は自ら動くこともせず、ただそこに在るだけのもの――言わば石ころであったが、それはまちがいなく神的存在の求めていたものだった。
なぜならばそれは、たやすく壊れ、崩れ去り、滅びる定有の存在であったからだ。
限りなく永遠不滅に近い神なるものとも『我』とも、決定的に異なる存在だったのだ。
よって、神的存在にとってそれはこう呼ばれるべきものであった。
我でないもの――『他』と。
しかし神的存在はそこで満足はしなかった。
物言わぬ、自ら動くことのない石ころを愛でるのにも限度があったのだ。
次に神的存在が求めたのは、我が我となる切っ掛けとなったもの。
自発性である。
自ら考え、動くための根源となる性質。
神的存在は我のように自発的活動を有する存在でありながら、我ではないもの――有り体に言うならば他者を望んだのだ。
そう思い立ってから、どれほどの試みを繰り返したのか。
創造しては失敗し、創造しては放置し、創造しては放り出す。
世界には創造された物体が積み重なっていく。
それは星々であり、大地であり、空であり、海であった。
それは炎であり、風であり、雷であり、光であった。
しかし幾度繰り返そうと、求めるものが生まれることはなかった。
やがて疲れ果てた神的存在は一時的に創り出すことを止め、休むことにした。
数多の創造の結果であり、いつの間にか秩序をもつひとつの系となっていた世界を、その移ろいを観察する。
それらを眺め続けてどれぐらいの時が経ったのか。
ある時、ふと神的存在は規則に従い同じサイクルを繰り返す世界の中で、不規則な動きを見せるものに気づいた。
それは実体と神なるものの中間に位置する言わば半実体のごとき存在であり、創造した当初は自発性など有していなかったものである。
だがどうしたことか、それは神的存在の意識の先で、明らかに規則より外れた自発的な動きを見せていた。
あたかも意思を持っているかのように。
神的存在は期待をもってその存在を観察し続ける。
世界を動き回るそれは、時に似たような存在と結びつき、離れ、かと思えばまた結びつくといった行動を繰り返していた。
そして時には、世界の規則性に干渉することさえやってのけた。
それに如何なる意味があるのかはわからない。
しかしそれらがなんらかの目的を持って行動しているのはまちがいなかった。
それらはたしかに、自発性、志向性――意思を有していたのだ。
偶発的ではあったものの、ついに神的存在は『他者』を生みだすことに成功したのだ。
我のように自ら考え、動く、しかして『我でないもの』。
それを知って神的存在の内に芽生えたものは、この上ない歓喜――愛しさ。
石ころに対するものとは比較にならないほどの、愛。
神的存在はそれら原初の有意思体を『精霊』と名付けた。
独自の活動を続ける精霊を、神的存在は見守り続けた。
対話をするにはあまりに原初精霊が未熟であったからだ。
自分からは決して干渉することなく、彼らが成熟する時をじっと待ち続けた。
そうやってさらに長い時が経って。
ついに精霊が神的存在へ接触する瞬間がやってきた。
――とてもおおきなひと。あなたは、だれなのでしょうか。
そう語りかけてきた精霊へ、神的存在は歓喜に打ち震えながら答えた。
――我は神である。汝等を創造したものであり、その全てを見守り続けてきたものであり……愛するものである。
こうして、その世界において初めて、神的存在と被造物との対話が成されたのだ。
それからは誕生の季節である。
精霊を参考に神的存在は様々な他者を創りあげていった。
精霊よりもさらに実体に近づいた霊体に始まり、純粋な実体である植物、虫、獣。
そして最後に、それまでに創られた如何なる存在よりも小さく、弱く、しかし神的存在の影響をより受けにくいものとして、『人』を生みだした。
人はこの世界でもっとも神より離れた子であり、言い換えればそれは、神的存在にとってもっとも『我でないもの』――他者ということである。
神のうちに潜む孤独をより癒す存在であることを期待されて、人はその世界に誕生したのだった。
こうして、精霊と様々な生命と人によって営まれる、安定したひとつの世界が完成する。
三千世界でもとくに珍しくはない、神的存在の手によって創造され運営されるありふれた世界である。
しかしこの夢の主体は、創造の神たる神的存在ではない。
この夢を見ているのは、その世界に存在するもう一柱の神的存在。
原初の他者である精霊よりも前に在ったもの。
原初の被造物である石ころの誕生と同時にその世界に存在するようになったもの。
ある時、精霊が、人が、神的存在に訊ねた。
――母よ。御身の影におられる恐ろしきものは、いかなる存在であるのでしょう?
その言葉に、神的存在でありその時には被造物である子らから創造神、或いは単に母と呼ばれるようになっていた彼女はひどく驚いた。
なぜなら、その瞬間に至るまで彼女は己の影になにかが潜んでいることになど気づいていなかったからだ。
――もし。そこに、誰かいるのですか?
自身の影に彼女が問いかけると、しばらくの間があって、答えが返ってきた。
――ようやく気づいてくれたのだな。我が半身たる姉よ。
またもや彼女に驚きが走った。
影の中に潜むものは、彼女を姉と呼んだのだ。つまり、自身をただ一柱の神、創造神たる彼女の妹、或いは弟であると主張しているのだった。
信じきれない彼女へ、影は告げる。
――この身はあなたの半身であり、妹であり、影である。『他』を創造せんがためにあなたがこの世にもたらしたもの。永遠を永遠ならざるものへ規定する概念。力。
それは創造神たる彼女が意識していなかったこと。
或いは、気づいていながら見ぬふりをしていたこと。
――滅びであり、破壊であり、死。求めるもののために必然として生まねばならなかったというに、それがゆえに愛するものとの離別という業を背負うことになったあなたが、無意識に拒絶し己の内より分離させたもの。
創造神は我が子らを愛するあまり、いつしか命が命としてあるための滅びを忌み嫌うようになっていた。
しかしそもそもそれをもたらしているのは己だった。それもまた『我』だったのだ。
ゆえに創造神の悲しみが耐えきれぬほどの大きさに膨れ上がったとき。
彼女の無意識はそれを司る『我』を境界によって己と分けてしまった。
――この身は有限のものの誕生とともに在り、やがてあなたの悲しみによって『我だったもの』として生み落とされた。
だから、そう。
創造神たる彼女の半身であり、影であり、妹である彼女は。
――この身は破壊と滅びと死を司る神である。
それこそが、この夢の真の主。
創造神である姉の影としてあり続け、これまで認知されることがなかった神的存在。
これは破壊の神がかつて見た夢。
すでに終わりを迎えた物語である。
**********
気づけば、わたしはその場所に立っていた。
ぱちくりと瞬きをする。
まるでテレビのチャンネルを変えたかのように、或いは白昼夢から覚めたかのように、唐突に視界が切り替わって戸惑う。
自分の身体を見下ろす。
白いワンピース。黒いサンダル。すぐそばには旅行鞄。手も足もきちんとついていて、頭には帽子の感触がある。
自分の小さな、いまだちょっと子供っぽい感じがする手の平を見つめる。
軽く握り、開き、また握る。しっかりと感覚があった。
わたしはわたしである。
わたしとして、ここに肉の身体を持って存在していた。
そのことを確認して、ほっとする。
夢を、見ていたのだ。
いつかの、どこかの、誰かの夢だった。
意識だけになり世界と時の狭間を流れていった先で、気づけばわたしはわたしではない『なにか』になっていた。
不快な感覚ではなかったように思う。
それは知るべきことであったし、むしろ知りたいという欲求がわたしの中に湧いていたからだ。
例のごとく、根拠は不明だったけれど。
「…………」
自分の手の平から視線を外して、顔を上げる。ここに至って、ようやくわたしはあたりを見回した。
――宇宙。
周囲に広がる光景を目にして、まず初めに思い浮かんだのはそんな言葉だった。
天は星ひとつない暗闇。
地は草ひとつ生えていない、生命なき岩盤。
そしてそこら中を、砕けた岩盤の欠片と思しき大小様々な岩石が静かに浮いている。
わたし自身はたしかに重力を感じてこの岩盤に立っているというのに、それらの岩石は無重力状態であるかのように浮遊しているのだ。
試しに近くを漂っていた岩石を指で突いてみると、空中をゆっくりと流れていったそれは次第に速度を落としていき、やがて停止する。しかし地面に落下はしない。
今度は上に向けて押し出してみる。やはり同じように少し移動したあとで静止状態に戻ってしまう。落ちては来ない。
どのような仕組みになっているのか。
謎である。
「……どうしよう、かな」
前後左右を見回しても、何の変化もないただ無味乾燥な岩肌が延々と続くだけだった。
突然こんな虚無めいた空間に放り出されて、どうしろと言うのか。
先ほど見た夢に関係があるのだろうが、さっぱりわからない。
しかし、このままここに居ても状況に変わりがあるようには思えなかった。
ならばとりあえず動き回ってみるしかないだろう。
「ポチ」
珍しく足元で静かにしていた旅行鞄の表面を軽く叩いて声を掛ければ、こちらの意を汲み取ったポチは横倒しになり、ふわりと宙に浮いた。
その上に腰掛けて、足をぶらつかせて考えることしばし。
なんとなく気になるような気がしないでもない方角を指差せば、ポチはゆっくりとした速度でそちらに向かって飛びはじめた。
進行方向に浮遊する岩石はわたしに届く前に自動的に弾かれていく。ポチバリアーである。
「…………」
そうやって一向に変わり映えのしない景色の中をどのぐらいの時間飛行していたのか。
十分、三十分、もしかしたら一時間?
どうも時間の経過が曖昧だった。
意識ははっきりしているのに、時間の長短の感覚だけが狂っている。
ともあれ、一定の時間が経過したのちのことである。
唐突に、ポチが動きを止めた。
「ポチ?」
前に進むことを止めて、その場にぷかぷかと滞空しはじめたポチを見下ろして、首を傾げる。
周囲の景色はこれまでと変わりがない。
とくになにかが見えるわけでも、変わったことがあったわけでもない。
「どうしたの? 大丈夫?」
鞄の表面を撫でて問いかけてみても、反応がない。
わたしを無視しているというより、なにか別のものに気を取られてこちらに意識を割いている余裕がないといった様子。
そこから感じ取れるのは――警戒心。
わたしにはなにも見えないし感じ取れないが、ポチはなにかを察知しているのだろうか。
「でも、見える範囲には」
改めて周囲を確認するためにポチから視線を外し、顔を上げた瞬間のことである。
眼前に、巨大な獣の顔があった。
「――――は」
思考が停止する。
一瞬前まではなにも存在していなかったはずの空間に、四足の巨大な獣が現れていた。
見上げるような巨体。
平均的な一軒家よりも遥かに大きなそれは、まるで影や闇によって形作られたかのように黒一色だった。その輪郭も陽炎のようにぼやけており、不定形の闇が獣を模しただけであるように見える。
狼のようにも、狐のようにも見える姿形。
ただし背中には翼が生えており、瞳は金色。額からは二本の捻れた黒角が突き出ている。
そんな獣が首を下げ、覗き込むようにしてわたしを見つめていたのだ。
その金色の瞳を見返しながら、ただ驚きだけがわたしを支配していた。
あまりに忽然と姿を現したこともそうだが、それ以上にこうして目の当たりにしてもその存在感がまったく感じ取れないことに対する驚きのほうが強かった。
まるで幻であるかのように薄ぼんやりとしているのだ。
「覚えのない気配が現れたかと思えば……まさか人の子とはな」
獣の口から流暢な言葉が聞こえて、目をパチパチとさせる。
高くもなく低くもなく、中性的な声だった。
「どこから迷い込んだ? ここはすでに終わりを迎えた場。人の子が訪れるような場所ではない。もう残っておるのは、かつての大地の残骸とこの身だけよ」
まるで鼻先を突きつけるような間近からこちらをじっと見返し、獣が語る。
外見は邪悪そうな感じだが、その目からはとくに悪意や害意のようなものは感じられなかった。
その存在感のなさも相まって、まるで静かな海のような瞳だとわたしは思った。
「去ね、人の子よ。二度とこの場所に近づくな。お前のような小さきものなど、この身が触れただけで消し飛んでしまうぞ」
一方的にそう告げるなり、まるで威嚇するような唸り声を上げる獣を見て、わたしの中にわき起こる感情があった。
怯えではない。
怖じ気でもない。
畏怖でもなかった。
それは衝動に近いもの。
根拠不明の欲求。
わたしの根源的な想い。
――わたしはこの獣を、連れていかなければならない。
無意識のうちに、手を伸ばしていた。
こちらを睨みつける金色の瞳へ、先の言葉も無視して触れようとする。
獣の目が驚きに見開かれた。
視線がぶつかる。交わる。混じり合う。
わたしと彼女が繋がる。重なり合う。
そうして。
わたしはまた、いつかのどこかの、誰かの夢を見るのだ。