16. 空を飛ぶために必要なたったひとつのこと
庭先でミャーくんとポチが向かい合っている。
地面に四つん這いになってお尻を高く上げてふりふり揺らすミャーくんは、八重歯を剥き出しにして視線の先の旅行鞄――ポチを睨みつけていた。
一方でポチのほうは鞄を固定する二本のベルトを宙空にゆらゆらと浮かび上がらせ、威嚇するようにボディをパカンパカン開閉させる。
わたしはそんな両者を縁側に腰掛けて、アイスを齧りながら眺めていた。
「おうコラポチ公、てめぇわかってんだろうなぁ? ネーさまの第一の子分はこのあっし、ミヤルラヘイオンことミャーくんさまなんだからな! てめぇは二番目! そこんところ弁えろよコラ」
「……!」
「おおっと! ポチ公のトロいベルト攻撃を颯爽とかわすあっし! そう何度も捕まったりするミャーくんさまじゃねえんだよばぁかやろぅ! げひゃひゃひゃ! ほうれほれ、捕まえてごらんなさぁい!」
「……!!」
じゃれあうふたりを見ながら、昨日ヰ翁に説明されたことを思い出す。
ポチはひとの言葉がわかるので基本的にはお願いすればその通りに動いてくれる。呼べば飛んでくるし(比喩ではない。当たり前のように飛行できる)、いちいち手に持たなくても勝手にあとを付いてくる。
また、ポチはボディの大きさを自由に変えられるので、寝転がれるほどのサイズにも肩掛け鞄ぐらいのサイズになることも可能だという。
実際お願いしてみたところ、嵩張らない程度まで縮んだ上にどこからか新たにベルトが生えてきて、問題なく肩掛け鞄として身につけることができた。
さらにポチのすごいところは、内部が特殊な空間になっているためいくらでも物を詰め込むことができて(ヰ翁の説明を信じるならその気になれば宇宙をまるごと収納することも可能らしい)、かつ任意で時を止めて食べ物などを永久保存することも可能であるという点だ。
おまけに凄まじく頑丈にできているので、上位の神的存在の全力攻撃にも容易に耐えるのだとか。
ポチ、便利すぎる。
「ネコよ、そろそろ練習してみてはどうだ?」
二本目のアイスを取りに行っていたウサギがわたしの隣に腰を下ろして、そう言った。包装を破ってアイスに齧りつく。
「そうねえ。いい加減ぎゃあぎゃあとやかましいし。静かにさせて、ひとまずやってみなさいな」
次いでウサギとは逆の側に腰掛けたサクラの言葉に、わたしは小さな溜め息をひとつ。
アイスの残りを一気に口の中に入れてから、覚悟を決めて立ち上がった。
「ポチ」
残ったアイスの棒を庭に向かって投げれば、声に反応したポチがくるくると宙を回転するそれに向かって跳んだ。
ボディを開いて、飲み込む。
「それは要らないものだから、消化しておいて」
その場で軽く跳ねて返事をしたポチは、捕獲されてぐるぐる巻きにされていたミャーくんを放り投げて、足元に擦り寄ってくる。
しゃがんでボディを撫でてあげながら、先程は挙げながったポチの特性のひとつに思いを巡らす。
ポチは内部に取り入れたものであれば、如何なるものでも問答無用で消してしまうことができる。
それは生物でも例外はなく、ポチがその気になれば神的存在であろうとたやすく消滅させてしまえるのだそうだ。
「《世界喰い》、か」
実感はないけれど、恐ろしいことだと思う。
しかもわたしを主と認めたらしいポチは、わたしの命令であればどのようなことでも従うという。
だからこそ、ポチの扱い方には慎重にならなければならないとヰ翁は言っていた。
その後すぐに、わたしならなんの問題もないと付け加えていたけれど……わたしは、そこまで自分というものに自信を持つことができない。
今だって、あちらの世界でわたしを信じてくれず冷たい態度しか返してくれなかった人達を見返したい、仕返しをしたいという気持ちが、わたしの中には少なからず存在していた。
それを実行に移すつもりはないけれど、それでもどうしたって、ずっと蓋をし続けてきた汚いものが心の奥深くに溜まって淀んでいるのだ。
「どうしたネコ、はよやってみよ。なぁに、もしも落ちてもヤバいときとは吾れかサクラが受け止めてやるから、安心せい」
「怪我はしないよう気をつけなさいね」
背後から声が掛かって、振り返る。
縁側に並んで座る、太陽のように明るく笑う角つきの女の子と、華やかな微笑みを浮かべる女のひと。
ふたりはこちらを優しげな眼差しで見つめていた。
それを眺めながら、いつか、もっときれいなものになることができれば、とわたしは思う。
この世界で暮らすみんなのように、きれいに笑って、前を向いて生きることができるようになれば、と思う。
彼女たちが求め期待する『わたし』に、立派な王様に、わたしはなりたい。
そのためには為すべきことを為し、ひとつひとつ地道に積み上げていかなければならない。
――わたしは気合を入れ直して立ち上がった。
足元のポチを見下ろす。
「じゃあ、今日はよろしくね、ポチ」
「……!」
そうして、わたしはポチを用いての飛行訓練を開始した。
以前にウサギが口にしていたことではあるけれど、アタラクシアで生きていく上で空を飛ぶ手段がないというのは大層に不便である。
とくにわたしの場合は《玉座》――断崖絶壁に囲まれ天高く隆起した台地の頂に住んでいるため、飛ぶ以外にこの場所から移動する方法がない。
いずれわたし自身に力が満ちれば独力で飛行することも可能になるらしいが、それにはまだしばらく時間を要するとのこと。よってそれまでは別に飛行する手段を確保する必要があった。
いつまでもウサギを頼るというわけにはいかない。
……ふざけて怖がらせようとするし。
そういうわけで白羽の矢がたったのがポチだった。
鞄であるがゆえに外出するときは大抵伴う上に、わたしの指示を理解しその通りに実行してくれて、空を自在に飛ぶことができる。
まさに今のわたしにはうってつけである。
ポチ、便利過ぎでは?
「あ、あっしだって……! あっしだって夏は氷枕の代わりになるし、冬は湯たんぽの代わりになるし、ほかにもいろいろお役に立てるでやんすよネーさま!?」
「う、うん……わかったから、今はちょっと周囲をうろちょろしないでくれる?」
横倒しになって地面から一メートルほどの高さにふわふわと浮いたポチ。
今わたしは両腕を横に伸ばしてバランスを取りながら、おっかなびっくりその上に立っていた。
そしてそんなわたしの周りをぐるぐる飛び回りながら、ミャーくんは先ほどから必死に自分のお役立ちポイントを訴えている。
端的にいって、その、だいぶ鬱陶しかった。
「ごめんね、ミャーくん。でも、気が散るから……」
「す、すすすすいやせん! お邪魔でしたか!? クソうざかったでやんすか!? でもここでアピールしておかないとあっしの立場的に不味い気がしやして……! あっしはネーさまの第一の舎弟であるからして、つまりはこの世界のナンバー2と言っても過言ではなく、新参にその地位をやすやすと奪われるわけには……!」
「……わかったからハウス。ハウスだよミャーくん」
「ハウス! あっしの帰る場所は今やネーさまのおそばでやんすよ! つまりこの位置があっしのハウス! へ、へへへ、あっしはこの地位を守るためならばなんでもしやすよ! なんなら足でも舐めやしょうか!? おみ足をペロペロしやしょうか!? ご命令くだされば夜といわずいますぐにでも――ひぎぃぃィィィ!?」
サクラの髪の毛に絡め取られたミャーくんは縁側に座る保護者ふたりのもとに引きずられていった。
断末魔のような声が聞こえた気がしたが、たぶん、気のせいだと思う。
……今は訓練に集中することにして、意識の外に追い出す。
「……ん」
ポチの上に立つことは、なんとかできる。
そのままゆっくりと前後左右に移動してもらっても、なんとか体勢を維持できた。
けれどちょっとでも勢いよく動かされると、途端にバランスが崩れてひっくり返りそうになってしまう。
一応風の抵抗はポチが周囲に作りだす不可視のバリアのようなもので遮断できるのだが(これはウサギも使っていた)、慣性に対してはなんの効果もなかった。
ポチが急加速すればうしろにひっくり返るし、急停止されれば前に転がり落ちる。
試しに足だけをベルトで固定してやってみたが、足首がもげそうになったので断念した。
「……どうしようかな。今度は座って試してみようか」
わたしがポチの上に立ったまま腕組みをして考えていると、足にちょんちょんと触れるものがあった。
ポチだった。ベルトが伸びてわたしの脛のあたりを突いている。
「どうしたの?」
「……!」
ポチはベルトを丸の形にしたり、鞭のようにしならせてから急停止させたりと、しきりに動かす。どうやらなにかを伝えようとしているらしいが、よくわからない。
わたしが首を傾げていると、しびれを切らしたかのように突然ポチが動き出した。
「わっ」
急発進である。
咄嗟に腰を落として身構えるも、驚いたことにこれまでのように体勢が崩れない。
かなりの速さだったが一切の反動がなく、氷の上を滑るようにスイーッと移動して、やがて急停止する。
やはりこのときも反動はなかった。
どうも慣性が働いていない様子。
「……ポチがやってくれたの?」
「……!」
こくこくと頷くように、ポチが小さく上下に動く。
「すごいね、ポチ」
「……! ……!」
わたしが声を掛けると、ポチのベルトが伸びてきてペチペチとわたしの足をはたく。
「褒めて褒めて!」という無邪気な声が聞こえるような仕草。
しゃがんでポチを撫でてあげながら、思考に沈む。
この子は、思っていた以上に敏い。
わたしが期待するよりも深く、鋭敏にこちらの意を汲み取って動いてくれる。
思えば訓練の最中、体勢を崩して転げ落ちそうになったことは幾度もあったが、実際に落下したりすることは一度もなかった。
それもおそらく、わたしが気づかないところでポチが自己判断で助けてくれていたのだろう。
ポチが以前どのような使われ方をしていたかはわからないが、おそらくこの子は誰かをサポートする方面に特化しているのだと思う。
だから、きっと。
ポチを用いるにあたって本当に必要なのは、この子を『使いこなそうとする』訓練などではないのだ。
ポチのことをよく知って、その機能をフルに、かつ一番うまく使えるのはポチ自身である。わたしが使いこなそうとしなくとも、ポチのほうで勝手にわたしの望む形に合わせてくれるだろう。
ゆえにわたしに求められるのは、任せることなのだと思う。
「……うん」
自分の中の確信に従って、立ち上がる。
そうして、ポチへなんの指示もしないまま、ただ身体を少しだけ前のめりにさせた。
ちょうど、ランナーが走り出す直前のような姿勢。
すると少し戸惑った気配のあと、おずおずとポチが前に進みだした。
「うん、いい子」
わたしの声を聞くとポチから戸惑いが消え、前進の動きがスムーズになる。
「もっと速く」
ぐん、と速度が上がる。
「もっと……そう。もっと……さらに、速く」
声に合わせて、ポチはどんどん加速していく。
反動の類は一切いまま、周囲の景色が高速で背後に流れはじめる。
そして――。
「ッ!」
わたしは跳躍した。
足先がポチから離れた刹那、それまで感じていなかった慣性が身体に働きはじめるのがわかった。加えて風の抵抗も復活したようで、髪の毛が勢いよく後ろに流れ、首の後ろに掛けていた麦わら帽子のあご紐が軽く首に食い込み、服の裾がバタバタとはためいた。
真上にジャンプしたわたしの身体は推進力を失ったことと風の抵抗により、ポチに置いていかれ空中に投げ出される。
地面までの高さは大したことはない。けれど結構な速度が出ていたため、このまま落ちれば足がもつれて転倒、地面の上を何メートルも転がっていく羽目になるだろう。
そんな自分の様がありありと想像できる。
――けれど、それは永遠に訪れない未来だった。
なぜなら跳躍したわたしの身体が落下をはじめた瞬間には、先に行ってしまったはずの茶色い旅行鞄――ポチが足元に戻ってきていたからだ。
「っと」
その上に着地するなり風の抵抗と慣性が消えて、浮かび上がっていた髪の毛とワンピースの裾がふわりと落ちる。
「…………」
その場に静止して浮かぶポチの上で、わたしは着地した姿勢のまましばらく動きを止めていた。
鼓動が激しく脈打っている。
冷や汗が全身を流れ落ちていった。
――大丈夫。
落下していない。無事だ。ポチが、受け止めてくれた。
自分の目論見がうまくいったというたしかな実感に、ようやくわたしは全身の緊張を解き、そろそろと安堵の息を吐いた。
膝から力が抜け、ポチの上に崩れ落ちる。
足元のポチがあたふたしはじめたのを見て、その表面をそっとさすった。
「……大丈夫だよ。ちょっと気が抜けただけ」
「……?」
「うん。それよりも、ありがとう。わたしをきちんと受け止めてくれて」
「……! ……!」
「うん。……いい子、いい子」
喜びを表すポチのボディを、なでなでしてあげる。
そうしながら、今の一連の行為に思いを巡らす。
ポチを用いるにあたって必要なこと。
たぶんそれは、この子にかぎらず自分以外の誰か――他者と関わるにあたって不可欠な要素。
――信頼。
自身の意のままに操ろうとするのではなく、信じ、身を任せる。
そうすれば、かならずこの子は応えてくれる。
それだけの話なのだ。
簡単なようでいて、わたしにとっては容易ではないこと。
なぜなら、わたしはあちらの世界では誰かを信頼したことなんて一度もなかったからだ。
信頼されたことだって、ない。
誰もわたしを信じてくれなかったから、わたしも信じようとはしなかった。
……そして、きっと。
そうやってわたしが信じようとしなかったから、もしかしたら信じてくれたかもしれない誰かも、わたしを信じることがなかったのだろう。
自分の脆くて壊れやすい心を守るためにはそうするほかなかったとは言え、わたしはあまりにも意固地になりすぎていたのかもしれない。
いくらかは心の余裕ができた今ならば、そう思う。
でも。
この世界では――いまだに困惑してしまうほど簡単に、ほぼ無条件でわたしを受け入れてくれるこの《天上世界アタラクシア》では、そうまでして身を守る必要はないのだ。
だから信じたいのなら、信じても、いいのだ。
信頼には信頼で応え、信頼には信頼が返ってくる。
そんな奇跡のような出来事が、この世界にはあふれている。
「……これから、よろしくね」
「……!」
わたしの言葉にポチが元気よく応えるのを見てから、わたしは視線を屋敷のほうへ向ける。
先ほどの少々危険な行為を見ていたはずだったが、彼女たちの顔に焦りや驚きといった類の表情は浮かんでいなかった。
ただ「それでいい」とでも言うかのように、わたしを見ながら物知り顔で頷いている。
それを見て、ふと、数日前に月神ルーナと交わした言葉を思い出した。
『裸ってさ、生まれたままの、ありのままの姿だもんね。衣服っていう鎧を脱いで本当のネコちゃんを曝けだすには、まだまだ時間が必要といったところかなー』
図星だった。
いまだわたしは、他人に肌を晒すことが怖い。
それはアタラクシアに来てから一番長く、深い付き合いをしているあのふたりに対してもそうだった。
裏切られのが怖い。
否定されることが恐ろしい。
だから、心の底から信頼することができない。
けれどいつか、そうできたらいいのにと思う。
今はまだ難しいけれど。
いつか、かならず――。
このとき、わたしはそう願ったのだ。