15. 世界を喰らうもの
「ネコ、邪魔しておるよ」
屋敷に戻ると、そこにはわたしが初めて会うひとが待っていた。
縁側に胡座をかいて座るそのひとは、ウサギに抱えられて庭に降り立ったわたしに親しげに声を掛けてくる。
初対面の相手にそういった反応をされることには、もう慣れていた。
わたしにとっては初めてでも、この世界に生きるひとにとってはそうではないのだろう。
「ふむ。なかなかにめんこいのう。どれ、もっと近う。この爺によく顔を見せてくれぬか」
そう言って手招きするのは、簡単にいえば『おじいちゃん』だった。
逆立った白髪に、丁寧に整えられたもみあげから顎まで繋がった髭。少し気後れしてしまうぐらいに鋭い目つき。
口には長い管――たしか、キセルというタバコだったか――を咥えて、その先端からは薄っすらと煙が昇っている。
格好は、基本的には和服。
藍色のほとんど無地に近い柄の着物を着ているが、その上から黒い革製の、ケープというか短いマントのようなものを羽織っている。
和洋を折衷したような感じの服装である。
また、体格はかなりいいらしく、その袖や裾から除く手足は太くゴツゴツとしている。
老けた外見のわりには、妙に若々しいというか活力にあふれている――それが、わたしがそのひとを見てまず思ったことだった。
「お前が顔を出すとは珍しいではないか、ヰ翁」
面識があったらしいウサギが声を掛けると、おじいちゃん――ヰ翁は呵々と豪快な笑い声を上げた。
「そろそろネコが訪れる時期であったと思い出してのう。慌てて駆けつけたのよ。渡すものもあったでな」
「む……ああ、アレか」
「それよ」
互いの間だけでわかったような会話をするふたりを見上げていると、屋敷の奥から声が掛かる。
「ネコ、その爺様はヰ翁。前にも話したことがあったと思うけれど、あなたとわたくし以外で唯一この世界と外を自由に行き来できる存在――アタラクシアの住人ではない来訪者よ」
居間のちゃぶ台の前に座ったサクラが、いつもの気怠げな仕草でヰ翁を指差していた。
そういえば初日のサクラの説明の中にその名前が出てきたような気がする。
「そのような言い方をして、我を仲間外れ扱いするでないよ。この世界のものどもは、みな我にしてみれば息子娘のようなもの。お主とて我を爺様と慕ってくれてよいのだぞ?」
「気持ち悪いこと言わないでくれるかしら?」
居間を振り返っておどけた仕草で両手を広げるヰ翁に、サクラは顔をしかめた。
うんざりしたように溜め息を吐いて、しっしと手で払う。
「おう、振られてしまったか。残念無念」
軽く肩を竦めた彼はわたしに視線を戻す。
「ではネコよ、そこの若作り婆様の分までお主がこの爺に構うてくれぬかの? どこぞのウサギと同じでの、爺は寂しいと死んでしまう生き物なのでなぁ」
「…………」
そう言われて、戸惑ってしまう。
なんとなく、このひとからは近づきがたい気配というか、力を感じていた。
これまでアタラクシアで出会った誰とも異なる、独特な雰囲気。
ただ、決して嫌なものではなかった。どこか懐かしい感じもする。
屋敷に戻る途中で寝入ってしまった胸元のミャーくんをぎゅっとしてから(悲鳴のようなものが聞こえたが気のせいだろう)、隣で「……吾れはそれほど軟弱ではないぞ」とぶつぶつ呟いていたウサギを見上げる。
視線に気づいた彼女は、軽く鼻を鳴らしたあとで「拗ねると面倒だからな、相手をしてやるといい」と言った。居間のほうからもサクラの「大丈夫よ、ネコ。いかつい見た目をしているけれど、むやみやたらに噛み付いたりする生き物ではないわ」という声が掛かって、わたしは恐るおそる縁側へ近寄った。
「少々細っこいが、身体に問題はなさそうだのう。心魂も落ち着いておる。まっこと、見れば見るほどかわいらしい娘っ子よ」
目の前に立ったわたしの頭から爪先までを見やった彼は、そう言って目元を和らげた。
あまりにまっすぐな褒め言葉に、全身がむず痒くなる。
それを見て相好を崩した彼はこちらに腕を伸ばして、軽々とわたしの身体を持ち上げた。
「!?」
驚くわたしに構わず、そのまま自分の膝の上に乗せて、髪の毛を乱暴にかき混ぜる。
……たぶん、頭を撫でているつもりなのだと思う。頭がぐわんぐわんするけれど、きっと、そうだ。
煙草の匂いだろうか、ヰ翁からはミントに似た香りがした。
「ネコ、なにか問題があればすぐにそこの婆様に言うといい。気持ち悪いぐらい親身になってくれるだろうて」
「あなたに婆様呼ばわりされるのは納得いかないのだけれど」
「千を過ぎた年増を今更若者扱いできるわけもなかろう」
「うるっさいわね糞爺」
「おう、怖や怖や」
肩を縮こまらせた彼は、茶目っ気のある笑みを浮かべる。
「気をつけいよ、ネコ。サクラは怒らせると鬼のように恐ろしい。その上しつこい。根に持つタイプだからのう」
「……怒らせると怖いのは、知ってる」
わたしがそう答えると、ヰ翁は吹き出す。
「すでに見知っておったか。普段はさほど怒りを露わにする女ではないのだがの、お主のこととなると途端に気が短くなる」
「……それも知ってる。なんとなくだけど」
「悪く受け取るでないよ。……お主のことを思うてのことでな」
耳打ちするように言われた言葉に、わたしは頷いた。
そもそも、わたしに居場所を与えてくれたサクラを悪く思えるはずがない。
「よしよし、ネコは良い子だの。やはりこれは褒美を与えぬとなぁ」
わたしの頭をひと撫でした彼は、その手を高く掲げる。
指先までピンと真っ直ぐに伸ばすと、軽い息吹とともにその腕を一気に振り下ろした。
「……!」
驚いたことに、その手刀の一閃で空間に切れ目が入った。
ぱっくりと裂けた空間の向こうは、光が一切存在しない暗黒。まるでアタラクシアの果て、深淵のような暗闇がのぞいていた。
裂け目へ無造作に手を差し入れたヰ翁は、その中から長方形の大きな物体を取り出す。
「鞄……?」
彼の手に握られていたのは革張りと思しき、ベルト付きの茶色い旅行鞄だった。
わたしの身体程度ならすっぽり入ってしまうぐらいの大きさで、真新しいものではない。ところどころが色落ちしていたり小さな擦り傷がいくつか見受けられたりと使い古されたものであるようだった。
ただ、襤褸という印象は受けなかった。
いい意味で年季を感じさせるというか、味があるというか。
丁寧に手入れされているようで、長く大事に扱われてきたことが窺える鞄だった。
「おうとも。どうせ外から持ち込んだ道具入れの類はサクラが処分してしもうたのだろう? 鞄のひとつもなければ日々の生活に不便だろうて。そこでこの爺からプレゼントというわけよ」
ヰ翁が鞄をドンと床に置くと、それは怯えたように彼の背中に隠れた。
「……え?」
目を見張る。
見間違いかと思って目を擦るが、見えるものに変わりはない。
人見知りする子供のようにヰ翁の背に隠れた鞄は、少しだけその角をのぞかせ、細かく震えながらわたしを見ていた(目はないけれど、そう感じた)。
わたしと視線が合うと(目はない以下略)さっと隠れ、しばらくするとまた恐るおそる顔をのぞかせる。
まちがいなく、ひとりでに動いていた。
目を丸くするわたしを見て、ヰ翁が笑う。
「爺がお主に贈るものだ。ただの鞄であるわけがなかろうよ。これはの、自立思考を有した仮想生命体。《世界喰い》と呼ばれておるモノよ」
「……生きてる、の?」
「それは難しい問いよなぁ。生きておるとも言えるし、他者にそう見える振る舞いをしているだけとも言える。魂が存在していないことはたしかであるがのう。ま、それゆえに仮想の生命というわけよ」
「……よくわかんない」
わたしが首を振ると、彼は「それでよい」と言って頭を撫でる。
「お主はただお主が感じるままに接し、扱えばよい。ただの物――鞄と見るも、意思あるもの――犬猫や物の道理もわからぬ歳の幼子と見るもお主の自由よ」
言われて、わたしは視線を再び鞄へ向ける。
視線が合った鞄は驚いた人のように軽く跳ねると、またヰ翁の背に隠れてしまう。
少し考えて頭の中を整理したわたしは、軽く頷いてヰ翁の膝より立ち上がった。
抱いていたミャーくんを足元に置いてから、素早くヰ翁の背中に回り込む。
「……!」
わたしと正面から向き合うことになった鞄は軽く飛び跳ねたあと、逃げ道を探すように左右をキョロキョロしはじめた。しかし背後や側面はいつの間にか伸びてきていたサクラの金色の髪束が通せんぼしており、鞄に逃げ場所は存在していなかった。
「……! ! ……!」
すると、慌てふためいた鞄はなにを思ったかバタンと床に横倒しになった。
そのままピクリとも動かなくなる。
……おそらく死んだふりをしているつもりなのだろう。
しばらく黙って見下ろしていたが、鞄からは再び動き出そうとする気配が一切感じられなかった。
仕方なくその正面にしゃがみ込むと、微かに鞄に震えが走るのが見えた。
「…………」
相手を驚かせないよう、ゆっくりと、倒れたままの鞄へ手を近づける。
指先がその表面の革に触れる。
ビクッと鞄が大きく揺れた。それがおさまったあとも、小さな震えが絶えず指先から伝わってくる。
まるで未知の恐怖に怯える子犬のようだった。
「…………」
ゆっくりと、表面を撫でる。
できるかぎりやさしく、そっと。
相手を安心させるように、落ち着かせるように。
いつかのわたしがそうしてもらいたかったことを、繰り返す。
思い出すのは、時空間跳躍によって突然見知らぬ場所に放り出され、わけもわからず夜の街をさまよったときのこと。
ひとりぼっちで、心細くて、誰かに助けてもらいたかった。
けれど、わたしの言葉を聞く大人は誰ひとりとして存在しなかった。
きらびやかな繁華街を行き交う大人たちは、わたしを見ると眉をしかめたり呆れ笑いを浮かべるだけで決して関わろうとはしない。
やがてわたしを補導した警察官は、わたしが夜遊びをするつもりで施設を抜け出して迷子になったと判断した。
わたしの言葉を信じる大人はだれもいなかった。
わたしが自分の身に起きたことを正直に告げるたびに、わたしを交番に連れて行く警察官の、手首を摑む力が次第に強くなっていったのを今でも覚えている。
そのときの痛みを、覚えている。
施設に戻ったときの、他の職員や子供のまたか、という目も。
あのとき、本当は、わたしは誰かにやさしくしてほしかった。
安心できるように、撫でてもらいたかった。抱きしめてもらいたかった。
たとえそれが嘘でも、大丈夫だよと言ってほしかったのだ。
「…………」
わたしが鞄を撫ではじめてからどれぐらいの時間が経ったのか、気づけば鞄の震えは止まっていた。
なんとなく、こちらの様子を窺うような気配を感じる。
落ち着いたのかな、と思って撫でる手を離すと、鞄は横倒しになったままズリズリとこちらに近づいてきた。
そうして、わたしの膝にコツンと軽く縁を当ててくる。
「なに……?」
わたしが首を傾げていると、また、コツンと縁が当たる。
それでも意図が通じず戸惑っていると、鞄を固定していたベルトがするりと解けてわたしの手に伸びてきた。遠慮がちに、手の平をつんつんと突く。
その仕草に、伝わるものがあった。
「……もっと撫でてほしいの?」
そう言うと、頷くように鞄がゴトンと音を鳴らした。
リクエストに応えてまたその表面にで指を這わせると、鞄はスリスリとこちらに身体を擦り付けてくる。
その動きが本当に犬のようで、かわいいな、と思う。
「これだけの短時間で手懐けるとは、やはりお主らの相性は抜群のようだのう」
それまでわたしたちを黙って見守っていたヰ翁が、呵々と笑い声を上げた。
ちら、と視線を向ける。
「……この子、名前なんて言うんだっけ?」
「《世界喰い》と呼ばれることが多いがの。それは他称であって、正式な名前というものは存在せぬよ。なんなら、お主が好きにつけるといい」
そう言われて、わたしは考える。
ワールドなんとかなんて大仰な名前は、この子に似合わない。
なにより可愛くない。
わたしがこの子に名前をつけるなら――。
「ポチ」
側面を撫でながらそう呟くと、鞄が反応した。
首を傾げるような動きでこちらを見上げる。
「あなたの名前は、ポチ。……それでも、いい?」
わたしがそう問いかけると、鞄はこちらが驚くぐらいに元気よく飛び跳ねた。
思わず後ろに仰け反って尻もちをついたわたしに、鞄は――ポチはのしかかってくる。
「……! ! ……、……!」
「ちょ、おも……くはないけど、やめて、ちょ、あの」
みぞおちに角をぐりぐりとされて、息が詰まる。
痛くはないけれど、苦しい。
「おうおう。ずいぶんと喜んでおるようだの」
「相も変わらず、ポチは犬っころみたいなやつよな」
ヰ翁と、いつの間にか縁側に移動して腰掛けていたウサギの声が聞こえる。
そちらへ助けを求めるも、笑うだけでなにもしてくれない。
サクラのほうに顔を向けてみれば、彼女もニヤつくばかりで手助けをするつもりはなさそうだった。
「て、てめぇ! ネーさまになにしてやがる! 今すぐそこをどきやがれ! さもなければあっしの神風が火を噴く――あふん!」
目を覚ましたミャーくんが果敢にポチへ挑むも、ベルトに捕まってぐるぐる巻きにされてしまう。
「ひぎぃ! て、てててめぇ、なにをするつもりだぁ! たとえどんな責め苦を受けたところであっしは絶対に屈したりなんか――あふ、おふ、ちょ、くすぐった、あっ、そこはダメ、らめぇぇぇぇ!」
ビクンビクン痙攣するミャーくんを見上げて、押し倒されたまま大きく溜め息を吐く。
こういう騒がしいのは、あちらにいたときはあまり好きではなかったけれど。
今は、それほど嫌いではなかった。
なぜならば――。
今のわたしは、ひとりぼっちではないのだから。




