それでも、わたしは、生きている。だから、あなたにも、生きてほしい。
冷たい部屋の隅で、
私はずっと、遠い昔だけを抱いて眠っていた。
ねぇ、ママ。
私を置いていった、世界でいちばん大好きだった人。
どれだけ叫んでも、この声はもう届かない。
返ってくるのは、硝子みたいに冷えた視線だけ。
「あの子がおかしいの」
「きっと自分からだったんでしょ」
そんな言葉たちが、
雪みたいに静かに積もって、
私の呼吸を埋めていく。
あれは私の罪じゃない。
そう願うたび、
あなたの背中は夜の向こうへ消えていった。
肌を這う冷たい熱。
息ができないほど閉ざされた空気。
壊れる音だけが、やけに綺麗に響いていた。
笑顔という薄布を被せながら、
私は毎日、自分の心を殺していた。
痛みだけが、
まだここに私がいると教えてくれる。
いっそ心なんて無ければよかった。
そう思いながら、
爪が滲むほど、自分の腕を握り締めていた。
朝になれば、何事もなかったように制服を纏う。
鏡越しに「大丈夫」と笑い、
誰かの幸せから目を逸らした。
学校だけが、
夜を忘れられる小さな聖域だった。
――そう、思いたかった。
放課後の教室は、夕焼けの色をしていた。
閉められた扉。
逃げ場のない空気。
机に押し付けられた指先が、小さく震えている。
「冗談じゃん」
笑いながら伸びてくる手は、
どうしてあんなにも冷たかったのだろう。
制服の皺が増えるたび、
心の奥で、何かが静かに壊れていく。
嫌だった。
怖かった。
苦しかった。
けれど、本当に耐えられなかったのは、
その全部を「大したことじゃない」と笑われることだった。
剥がされるのは布ではない。
踏み躙られていたのは、人としての境界だった。
視線が肌を這う。
そのたびに、自分の身体が
“自分のものではない何か”へ変わっていく。
笑いながら向けられるスマートフォン。
面白がる声。
悪意すら持たない残酷さ。
あの日から、私は「見られる」ことが怖くなった。
教室の視線。
電車の視線。
擦れ違う誰かの視線。
全部が、あの日の続きを映している。
何度洗っても消えない感覚がある。
皮膚の奥へ染み込んだ記憶だけが、
ずっと身体の内側を掻き毟っていた。
浴室で蹲る夜。
爪痕が残るほど肌を擦っても、
汚れているのは身体ではなく、
もう心の方だった。
「誰にも言わないでね」
そう言ったあの子を、信じたかった。
けれど秘密は、
噂という毒へ姿を変えて広がっていく。
娼婦。
軽い女。
男好き。
向けられる言葉は、どれも私を知らない。
知らないくせに、
皆、私を語りたがった。
違う、と叫びたかった。
けれど涙は、
「図星だからだ」と笑われるだけだった。
だから私は、泣くことをやめた。
傷つくことにも慣れて、
笑うことだけが上手くなった。
心を殺して微笑むたび、
少しずつ、“生きている私”が消えていく。
穏やかな「おはよう」が、毒みたいに胸を焼く。
朝日は綺麗だった。
だからこそ、残酷だった。
「蝶にしてあげる」
その言葉は、甘い蜘蛛の糸。
まだ蜜の味も知らないまま、
私は夜に名前を売った。
心を置き去りにした言葉たち。
微笑みだけを覚えた空洞。
踏切の警報音が、
早く終わってしまえと歌っている。
赤い点滅が、滲んだ視界を焼いていく。
もう、充分頑張ったよね。
そう呟きながら、
遮断機を越えようとした、その時だった。
強く掴まれた腕。
振り返った先にいたのは、
幸せそうに寄り添う恋人たち。
止まっていた涙が、そこで初めて壊れた。
眠れぬ夜を、狭い箱の中でやり過ごす。
孤独だけが静かな毛布だった。
それでも、白い廊下の奥には、
小さな灯火が残っていた。
そこで出会った、優しい手。
誰かを救うために触れる人。
その温もりを知った時、
初めて思った。
私も、そんな存在になりたい、と。
それが、新しい物語の始まりだった。
昼は未来を学び、
夜は過去を売った。
二つの世界に引き裂かれながら震える私へ、
「もう、やめなよ」
そう叱ってくれた友達がいた。
やつれた顔も、
醜い記憶も、
何ひとつ嫌わず抱き締めてくれた。
その温もりに触れた時、
ようやく私は、昨日を埋葬できた。
もう二度と、あの夜へ戻りたくない。
けれど。
あの地獄を歩かなければ、
今の私には辿り着けなかった。
言葉では足りない感謝を、
この人生そのものへ刻みつけていく。
誰かが触れてくれる温もり。
立っていていいと思える場所。
ずっと探していた宝物は、
もう、この手の中にあった。
いつか、この傷さえ。
誰かを癒す歌へ変わるのなら。
それでいい。
私は今――
色彩に満ちた世界で、生きている。




