第31話 松平元康と井伊直虎
大高城、軍議まであとわずか。連れションで恵が会ったのは、三河軍団の軍団長をつとめる18歳の若き総大将・松平元康(のちの徳川家康)だった。
井伊直虎と四郎が待つ小屋に、恵が松平元康を連れて入ってくる。
直虎は目を丸くして「竹千代様、いや松平殿がなぜこちらに?!」と声を上げる。四郎も珍しく目をぱちくりしている。
「連れションしたから友達になったの〜」と恵は能天気に言う。
元康は無表情のまま、「そう……トモダチ……トラとも…」と答える。
恵は「トラ? あれ、元康くんと直虎くんって知り合い?」と少し驚く。
直虎は「まぁ、松平殿は三河軍団の軍団長ですから、当然知ってはいますよ」と言葉を選びながら話す。
恵は「そうなんだぁ、じゃあやっぱり友達だね」とケロッとしている。四郎が元康に円座を勧め、四人は小屋の中で向かい合う形になる。なんとなく気まずい空気が流れる。
恵は直虎にふと思いついたように尋ねる。
「ねぇ直虎くんって、きょうだいいるの?」
恵の頭の中では、さっきから戦国オタク脳がフル回転していた。歴史クラスタとして、連続大河の「直虎=女」説を完全論破するためだった。直虎=女説が現代に浮上したのは、歴史の記録に残らなかった妹がいたためではないか——それを確かめたかったのだ。
直虎は一瞬、表情を曇らせるが、意を決したように「はい、いました」と言う。
恵は「やっぱり!」と目を輝かせる。直虎には妹がいた、という確信が深まる。
「そのきょうだい、今どこに?」
直虎は目を伏せて、静かながら少し低い声で答える。
「もう、いません」
恵は「あっ、ごめん…」と慌てて口を噤む。
「……トラ…殿のきょうだいは…駿府で亡くなった……」
元康が淡々と口を開いた。
「僕も駿府にいた……。三河の人質だった。トラたち…きょうだいも遠江の人質だった」
恵は二人の顔を交互に見る。直虎は黙り込んでいる。
元康は恵の方を向き、抑揚のない声で語り始める。
「僕は…三河のお付きの者からも『裏切り者の子』と呼ばれた。殴られた。飯を抜かれた。犬のように扱われた……」
元康の声には感情がない。まるで他人事のように語る。
「そんな僕と…ままごとで遊んでくれた子がいた」
直虎が顔を背ける。その横顔を、恵は不思議そうに見つめる。
元康は続ける。
「その子は…僕に白粉の塗り方も教えてくれた……」
恵は「えっ、メイクを?」と思わず声を上げる。
「『竹千代様は色が白いから、お化粧したらきっと綺麗になりますよ』と言って…」
元康の唇が、ほんの少しだけ赤らんだように見えた。
「……僕は初めて…人から優しくされた……」
元康は直虎をじっと見つめる。
恵の脳内で、パズルのピースがカチリとはまる音がした。
——直虎くんのきょうだい、たぶん妹ちゃんが、竹千代にメイクをしてあげたんだ。その妹は若くして亡くなって、記録に残らなかった。竹千代は家康になってから井伊家をすごく優遇した。家康がその妹に感謝した思いが忖度されて「直虎=女」という誤解を生んだんだ…!完璧に辻褄が合う!
恵は興奮を抑えきれず、身を乗り出して、元康に聞く。
「ねぇ、そのきょうだいって、直虎くんに似てる?」
元康は少し間を置いて、「……似ているかと言われれば……似ている……」とあいまいに答える。
恵は「だよねぇ。直虎くんってイケメンだから、妹ちゃんも化粧映えする美少女だったよね」と一人で納得する。
元康はまた表情のないうつろな目に戻る。もはや、なにを聞いても答えない人形のようだ。
直虎は複雑な表情を浮かべている。恵は微妙な空気感に首を傾げるが、その意味には気づかない。
「まっ、友情を深めるために、四郎さんの作ったお酒を飲みかわそう!乾杯!」
◇
恵は一口飲んだだけですぐに舟をこぎだして、静かに横に倒れ、「すーすー」と寝息をたてはじめた。
直虎はすぐに自分の羽織を脱ぐと、恵に優しく掛けた。
「軍議まで半刻ある。メグミ姫には少しでも休んでいただかないと」
元康がそんな直虎をジッと見つめてから、ポツリと尋ねる。
「……トラ姐。なんで…女であること…この人に隠すの?」
直虎は頭を下げる。
「竹千代さま、黙っていてくれてありがとうございます。私もよくわからないのです。でも、メグミ姫が井伊直虎は男であってほしいという思いがひしひしと伝わってくるんです。私は…私は…姫がそうあってほしいと願うのなら、姫の期待に応えるまでです」
四郎は悲壮感のある直虎の言葉を聞いて少し悲しそうな表情になる。
元康は「……別に…かまわないけど…トラ姐がやりたいようにすれば…いいさ」と言って、しばらく黙り込んでから口を開く。「でも僕は…トラ姐に化粧…またしてほしい…と思ってる」
恵の“論破したい”気持ちと、直虎の“応えたい”気持ちが、同じ方向を向いているのに噛み合わない――。次回は軍議編です




