004
風が低い唸り声を上げていた。
怨嗟と憎悪を、周囲に撒き散らしている。
「オオオオオォォォォォ……」
中心にいるのは、荒れ狂った亡霊の成れの果て――邪霊。
辺りの霊気を少しずつ吸収してきたらしく幾分か巨大化したその霊体は邪念で暗く濁り、もう人の型を留めていない。
どれだけの年月を彷徨っていたのか定かではないが完全に正気を失っており、何を訊ねてもまともな答えは返ってこない。
もはや、説得が通じる状況ではなかった。
それに対峙するのは、銀髪の霊導少女リルハ・アスタ。
霊気の暴風に晒されながらも、全く臆することはない。
人見知りで内気な印象などまるで嘘のような、真摯な眼差し。
いざ霊導の務めを果たすとなればたちまち目の色が変わるところは、霊導士の始祖の血筋ゆえか。
その様子を、ゼファルスは後方の少し離れたところからずっと見守っていた。
彼らがシニーの街を発って、かれこれ四日。
ここは街道を内陸側に大きく外れた森の中。
もちろん、いまだミナンの街を目指す旅の道中である。
リルハをただ連れて行くだけなら、乗合馬車を使って行けば済む話だ。
しかし、依頼者であるニコラ・キーヴ導士からは霊導士の手本を見せるようにと頼まれている。
となれば、霊導の務めを果たしながらの徒歩の旅を行くのは必然だった。
どこからともなく流れ着いた浮遊霊がこうした人気の少ない森に居つくことは、そう珍しいことではない。
特に霊界の影響を強く受けるアステル島は、必然的に霊魂達も集まりやすいのだ。
基本的には無害な個体が大半なので多少放っておいても問題はないが、時に現れる強い負の感情に囚われた亡霊は、やがて自我を失い狂える亡霊と化す。
やはり、早めに処置できるならそれに越したことはない。
人々が安全に行き来するため、旅すがら付近をうろつく亡霊を対処することは、霊導士に課せられた重要な役目の一つなのである。
時折、巻き上げられた小石や砂利が襲うも、それがリルハに当たることはない。
直前で不可視の障壁が遮り、弾き返しているからだ。
霊体にこそ力を発揮する霊気でここまで物質を阻んでみせる芸当は、血統霊導士の中でもできる者はそういまい。
「ウゥ……ウゥゥ……ウオォォォォォ!」
全く気にする素振りも見せずゆっくりと近づいてくる少女に業を煮やし、邪霊はついに自ら襲い掛かかった。
怪物のように大きな両手で掴みかかるが、リルハの展開する強固な障壁を打ち破るには至らない。
すると、リルハはおもむろに手を伸ばし、大胆にも障壁を破ろうとする邪霊の手に触れた。
そこから澄みきった霊気が広がり、邪霊の霊体を伝っていく。
暗く濁った霊体が、徐々に清められていく。
「如何なる理由があれど、恨みつらみで現世の人々を害する亡霊を見過ごすわけにはいきません。
我らが母なる霊界主があなたの全てを抱きとめてくれることでしょう。
さあ、霊界へお還りなさい」
「アア……アァ……ぁぁ……」
やがてリルハの霊気に包まれ完全に浄化されると、生前の姿に戻った男の亡霊は苦しみから解放されたように穏やかな顔を浮かべながら、霊峰ワーディンの方角へふわふわと飛んで行った。
(見事なものだな)
彼女の手際の良さを、ゼファルスは素直に感心していた。
自分のやり方では、あれほど鮮やかに除霊することはできない。
他の学院霊導士でも難しいかもしれない。
血統霊導士ともなれば可能だろうが、先ほどのように抵抗されながらだと相応の手間がかかるはずだ。
そんな邪霊を、あっさりと浄化し退けて見せた。
霊術士としてのリルハの実力は、既に達人の域にある。
――それは間違いないのだが。
「ゼファルスさん、あちらに別の気配を感じます。
次の場所へ向かいましょう」
除霊を無事に終えたリルハが、ゼファルスにそう呼び掛けてきた。
彼女が指し示すのは、さらに街道から離れる方向だ。
その向こうにいるという亡霊の気配を、ゼファルスは感じ取ることができない。
「随分遠いようだが……大丈夫か?」
「でも、このまま放っておくのは――」
「そこまで言うなら、言うとおりにしよう。
ハニエ村までの行程はお前に委ねると決めたからな。
だが、これ以上は任せられないと俺が判断したら、そこまでだ。
いいな?」
「……わかりました。
では、こちらです」
少し不満げな顔を見せながらも、リルハはそう言って先に進みだした。
その後を追いつつ、ゼファルスは一度だけ街道の方角を振り返った。
今回の旅にあたり、確かにゼファルスは街道途中のハニエ村までの旅の行程をリルハに委ねていた。
シニーの街とミナンの街の中間地点にあるハニエ村には四日もあれば到着できるはずなので、今回は六日分までの保存食だけを用意してある。
つまり、六日間でハニエ村に辿り着けるなら、多少は霊導の務めのために時間を割いても構わない――そう、しっかりと言い聞かせもした。
いくら一人旅で行き倒れたとはいえ、至らないところを助言しながら行けば何とかなるだろうと思ったからだ。
だが、それは甘い見込みだった。
彼女は初日からさっそくとばかりに亡霊探しに励んでいた。
多分、良いところを見せようと張り切ったのだろう。
それが程よく済めば、問題なかった。
ところが、次第に度を超えていき、ゼファルスの感知外のあまりに遠い気配を探し出しては街道からどんどん離れて行ってしまった。
今日まで四日間旅を続けたが、実のところハニエ村までの距離はそれほど稼げていない。
手持ちの食料は残り二日分。
このまま亡霊を追っていては、ハニエ村までもたなくなる。
(だから、今のが最終通告のつもりだったんだが)
霊導の使命に夢中で、彼女はいまだに気づいていないのだろう。
すでに、旅の計画が大きく狂ってしまっていることに。
これまでも折を見て忠告していたのだが、彼女は霊導の務めを果たすことに拘り、従わなかった。
霊導士は、世界各地を旅して回らなければならない。
長く活動できれば、それだけ多くの亡霊を救い導くことができるのだから。
そのためには、やはり万全な旅を心がけなければならない。
霊界主を崇拝する血統霊導士が役目を重んじるのは、理解できる。
しかし、目先の亡霊にかまけて旅の予定を崩した挙句、飢えて行き倒れるようでは霊導士は務まらないのだ。
もっと言えば、今の邪霊は確かに狂暴な部類だったが、絶対にリルハでなければならないという相手でもなかった。
確かにリルハは一人であっさり処理してしまったが、他の霊導士でも少々手こずる程度で対処できたはずだ。
ゼファルスだって、少々荒っぽい方法にはなるが退治できただろう。
そもそも、大抵は学院霊導士一人と血統霊導士一人を中心に四、五人組のパーティーを組んでいるのが当たり前なのだ。
協力して当たるのが普通の相手に、わざわざ旅の計画を犠牲にしてまでリルハが一人で挑む必要はなかったのである。
亡霊の対処に関して言えば リルハは間違いなく一流である。
けれど、霊導士を名乗るにはまだまだ学ぶべきことが多すぎる。
(やはり、今のままでは落第点だな)
――ようやく我に返り、今の自分達の位置と残る食料の少なさに気づき顔を青ざめさせたリルハにゼファルスが時間切れを言い渡したのは、その日の夜のことである。
膝を抱えてしょんぼり座わっているリルハの前に、ゼファルスは小皿を置いた。
「お前の分だ、食っておけ。
でないと、いざという時に全力を出せないぞ」
小皿の上に乗せてあるのは、焼いた兎の肉だ。
食べやすいよう、固い筋を断ち切るように切れ込みを入れてある。
ゼファルスが仕留め、捌いて調理したものだった。
旅の五日目から先導を代わったゼファルスは一路ハニエ村を目指していたが、結局辿り着けぬまま七日目の夜を迎えた。
思った以上に内陸側に踏み入ってしまったため、まだ随分と距離を残している。
夜の旅は危険なため、下手に動かず一晩明かさなければならない。
水場の場所は記憶していたので水の確保は問題なかったが、手持ちの食料がすでに尽きてしまっていたため、仕方なくゼファルスは森の中を探して狩ってきたのだ。
動かなくなった兎を一目見たリルハは、かわいそうに、と悲しんだ。
それに対して、予定通りにハニエ村に着いていれば狩らずに済んだ命だ、とゼファルスが告げると彼女は押し黙り、そのままずっと落ち込んでいるのである。
厳しい言い方だが、これも旅の計画をおざなりにしたことで生まれてしまった犠牲なのだ。
「……ぎゃう?」
「止せ、アージェ。
あの肉はリルハに食べてもらわないといけないからな。
我慢してくれ」
少し離れた自分の座る位置に戻ってきたゼファルスを行儀よく待っていたのは、銀色の子狐である。
その返答を聞いて、アージェはきゅう、と残念そうに項垂れた。
結局、名前を決めたのはゼファルスだった。
当初はリルハに決めさせようと思っていたのだが、サクラやらユリやらと可愛らしい花の名前しか挙がらなかったため、力強さと格好良さを求めるこの雄の子狐は全て拒否したのだ。
古い言い回しの『銀』から取って名付けたのだが、どうやら彼はこのアージェという名前をいたく気に入ったらしい。
幸いにもアージェは小動物や昆虫なら一人で狩りできる程度には育っていたため、餌の心配をせずに済んだのは助かった。
霊気を感知する能力に長けており、ふらっと茂みに分け入っては獲物を捕らえて食べたりしている。
それでもまだリルハの分の肉が欲しいとねだってくるのだから、やはり食べ盛りなのだろう。
リルハは別に、食べるのを拒否しているわけではない。
今日は朝の分を半分に減らし、残りを昼に回してどうにかやり過ごしたためあまり食べておらず、今はとにかく空腹だった。
実際、程よく焼いて塩と胡椒をかけた兎肉はとても香ばしい匂いを漂わせており、リルハの視線もその小皿に注がれている。
しかし時折、脇に逸れる視線が迷いに揺れ、手を伸ばすまでには至らない。
なぜなら、見られているからだ。
焚火の明かりがぎりぎり届く草むらの陰から、一匹の兎の亡霊に。
霊気の質の感じからして、ゼファルスが狩ってきた兎で間違いない。
たまにいるのだ、自分が死んだことに気づいていない亡霊が。
急な出来事で死を迎えた場合にそうなるらしく、こうした亡霊は自分が死んだことを悟るとおのずと霊界へ去っていくことがほとんどだ。
この兎も気づかないうちにゼファルスが仕留めたため、何がどうなったのかわからなかったのだろう。
その兎の亡霊が今、リルハの様子を窺っている。
食べるのか、食べちゃうのか、と。
つぶらな瞳が、そう訴えているようにも見えた。
食べなければ、身体がもたない。
でも、あの兎の亡霊に見られながら食べるのはとても気が引ける。
そんな葛藤が、リルハの心の中でぐるぐると回る。
だが、それにも終わりの刻が訪れた。
「……ごめんね」
おもむろに姿勢を正し、リルハはいただきます、と手を合わせた。
そして、大人しげな少女らしからぬ勢いで焼いた兎肉にかぶりついた。
空腹が罪悪感に勝ったのである。
「ごめんね。
おいしいよ。
本当に、ごめんね」
空腹から解放された喜びか。
あるいは兎の亡霊の前で食べてしまったことへの後悔からか。
リルハは涙を流して、兎肉を食べた。
「……せめて泣くか食べるか、どっちかにしろ」
その様子をたしなめながらも、ゼファルスは責めなかった。
これからも霊導の旅を続けるなら、何度も起こることだろうから。
気づけば、兎の亡霊はいつの間にか消えていたのだった。




