表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4


 芸術がどのような形式かという事は時代により、学者により、散々に言われてきたが、ある種類の芸術家らにとって、芸術とは極めて純真で、当たり前のものであった。1+1が2であるように、簡単な事実だった。しかし、簡単な事実が簡単に現れるとは限らない。こういう言い方は小林秀雄的だが、しかし真実である。



 殿下のクロノトリガーの二十分近いピアノ演奏をよく聞くと(https://www.youtube.com/watch?v=TotjJzocXvo)、殿下自体の演奏技術は凄まじいものの、そこで「歌われている事」は単純である事に気付く。



 例えば、上記の動画の十六分くらいから「風の憧憬」という曲を演奏しているが、この曲のメインメロディーはレミファミドラレ~から続くひとつなぎのフレーズである。殿下はこのフレーズを最大限に美しく見せる為に、彼女の持てる技術を最大限に動員している。殿下はこのメロディーを視聴者に強烈に印象づける為に、十六分~十七分三十秒くらいまでの間、出来る限り切なく、物悲しさもともなう美しい調子で弾いている。しかし、それは十七分四十秒辺りで一変して、極めて力強い調子になり、この時、メロディーのメインフレーズは一番強化された形で視聴者に伝えられる。この時、それまでの弱音が僕達の聴覚や感覚にとって踏み台となり、その後の力強い音により強く、心が反応する。だからこそ、僕らはこの演奏を聴いて感動する。要はこうして、殿下は視聴者の心を操っている、あるいは自分の心情を伝えている。



 他の例も上げるなら、二分三十秒以降は、ゲーム内の広場で流れる、明るく軽快な曲を弾いている。ここでは殿下は「風の憧憬」演奏時とは全く違い、出来る限り軽快で愉しげなフレーズになるように心がけている。だから、この曲の時は、音を短く切って、軽快感を出している。しかし、曲調が一変すると、殿下の演奏スタイルも一変する。



 殿下の演奏ーーー特に、このクロノトリガーのピアノ演奏では、明らかに、強固に強弱がつけられている。それは技術と呼んでもいいし、そうでないと言ってもいいのだが、かなり面倒な問題になる。これに関しては後述する。



 例えば、この殿下の演奏をニコニコで人気の「まらしぃ」とくらべてみれば、殿下との演奏の違いは明らかである。先に言っておくと、どちらが技術があるか、どちらがうまいか、という事は僕は興味が無いし、そんな事は芸術を図る物指しになりようがない。うまいかヘタかで言うなら、人間が絶対にできない演奏を機械はできるだろうし、だとすると機械の演奏が一番優れているという事になりかねない。技術というのは表現として存在する限りにおいて意味があるので、そうでなければ、それは単なる進化の袋小路的な、神経的で誤った方向への進歩という事になるだろう。しかし、人がうまいかどうかをここまで病的に気にするには、それなりの歴史的理由がある。ここでは書くことはできないが。



 「まらしぃ」の演奏を聞けば、殿下との違いは明らかである。では何が違うか。ーーもちろん、技術の差ではない。その違いは演奏に対する「狙い」であり「意図」である。もっと言うと目的であり、目的が表現となり、音なって世界に響く。



 音楽がここまで尊ばれるのは、それが芸術の中で、もっとも精神現象を直接化した存在であるからだが(それを対象化すると哲学になる)、しかしそれが為に、音楽はその演奏者や制作者の心根を正直に反映する。



 考えてみれば、たかだか88個の鍵を押したり引いたりするだけで、その人が表現されるというのは奇妙な現象である。しかし、人間精神が物質的な、外部的なものに自分を仮託して自己を表現しようとする時、音楽は精神に準じた、最も正確な律格となりうる。音楽が僕達にとって言葉以上に魅力的なのは、それが言葉を使った芸術のように、迂回したものではないからだ。頭脳のフィルターを通してないからだ。それは、直接的だ。だから、それは物質化した精神現象と言える。…もっとも、空気の振動は物質とは言えないかもしれないが。



 「まらしぃ」の演奏で狙いがつけられているのは、技術的な巧拙という気がする。全体的に速く弾かれていて、それが視聴者を惹きつけるのだろうが、平板な感じは否めない。流行っている曲を極めて速くピアノで弾いていて、そこには技術を見せつけるという意味があるようにしか聞こえない。そうでないかもしれないが、どちらにしろ、平板ではある。その演奏は耳とか目とかの神経感覚には強く訴えかけるし、また馴染みの曲だという事も視聴者の興味を惹きつけるのに十分だ。しかし、その演奏で感動するかと言われたら、僕は感動できない。それはお前だけだ、と言われるかもしれないが面倒なのでここでは反論はしない。



 他の例をあげてみよう。押尾コータローという有名なギタリストがいる。高名なギタリストなので、一流の人なのだろうな、と漠然と僕は思っていたが、動画を見て、印象が変わった。押尾コータローが坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」を弾いている動画がある。この演奏に押尾コータローの技術が最大限にあらわれて、確かに美しいし素晴らしいが、しかしその演奏には何かしら、内的なものが欠けている。僕の印象では「戦メリ」はもっと内的な、暗いものも含んだ名曲である。



 坂本龍一がトリオで弾いているのと聴き比べると、その差は歴然としているように思う。坂本龍一がもう少し深い所で演奏しているのに対して、押尾コータローは「音楽」「ギター」あるいは「聴いていて美しい」というカテゴリーで弾いており、そこには「表現」の問題は強く現れていない。例えば他に、これもニコニコで人気の石川綾子というバイオリニストもいるが、この人の演奏スタイルも、僕にはその技術が彼女の魂の表現にはなっていないと感じる。「ザナルカンドにて」を演奏しており、確かに素晴らしいが、しかしそれは音楽というものに対する態度が殿下とは根本的に違うのが感じられる。石川綾子という人の技術は何となく、ポイントポイントに置きにいっているような印象がある。つまり、そこでも「音楽として美しく聴こえるにはどのように技術を行使すればいいか」が目的であり、「表現」は問題となっていない。



 同じ事で言えば、ボーカリストの西川貴教とか、あるいは水樹奈々なんかも同じだと感じる。彼らは確かに卓越した技術を持っているが、それと心は結びついていない。もっと言うと、自分の持っている技術と自分の存在が結びついていない。それが、学校でアカデミックな訓練を受けたか、ボイストレーニングで得た技術なのかは、特に問わない。重要なのは、技術が何のためにあるか、という問題である。普通の人は技術が目的になって終わるが、しかし、先に進む人は技術を手段として行使する事が可能になる。



 殿下が、伊右衛門というお茶のCMの曲をピアノでどう演奏すればいいのかをレクチャーしている動画がある。これは大変に特徴的であり、面白い。殿下はそこで、メロディーやフレーズをどのように解釈するかについて、色々と語っているが、この時、D猫殿下というピアニストは明らかに一個の批評家である。創造の先端には批評がある、というのは間違いない事実であるが、その批評そのものの質というのが、常にアーティストには問われる。



 一般に考えられるほど、オリジナリティというのは神がかったものではない。ある作品に対してどう批評するかで、そのアーティストの心の形式が全て現れてしまう。元々、楽譜通りに弾くという事は不可能なのだ。そこには必ず解釈者の余地があるのであり、だから、そこに創造の余地もある。はっきり言ってしまうと、D猫殿下のクロノトリガーの曲の演奏は、クロノトリガーの曲そのものを越えてしまっている。少なくとも、僕はそう感じる。ここで起こっている事は何かというと、作曲者の光田氏と殿下の一種の対決、あるいは調和である。もちろん、僕もクロノトリガーの曲は大好きである。なので、別に曲を汚すつもりは毛頭ないが、しかし原理的に、批評家が批評対象を上回るという事はありうる。そして殿下の場合、明らかに演奏者の力が曲の力量を上回っている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ