友達の裏切り
百合がお茶を取りに行った後で、部屋全体を見回してみる。昨日ラインで百合の家に招待された時から百合の部屋を想像していたが、おおむね予想通りだった。女の子らしいものはあまりなく、黒や茶色、白を基調とした家具や小物で統一されており、落ち着いた印象を受ける。
以前百合には兄がいると言っていたことを思い出してその影響かと勝手に納得をしたが、ふとベッドに横にして立てかけてある茶色いクッションが目に入った。近づいて見てみるとそれは大きめの長座布団だった。床暖房があるため炬燵がないこの部屋に何故こんなものがあるのだろうか。また部屋にある机は1つで、椅子に座るとちょうどいい高さのものだ。百合の大きな秘密があるのではないか。姫子は入口のドアを少し開けてまだ百合が戻らないことを確認すると、そっと長座布団をどけた。すると今度はこの部屋になじまない桃色のクッションがふたつ並べてあった。それらを取りだすと、そこには金属製の缶が置いてある。ベッドの下に頭を突っ込み、右手をのばしてそれを掴んで取り出すと、緑茶の茶筒だった。再びドアの外の気配を窺うが、まだ2階に上がってくる様子はない。
何となくこれを開けることがとても大きな分岐点になる気がして一瞬手を止めたが、極限まで高まった好奇心はそれ以上の思考を許さず、ポン、という音と共に蓋が外れた。小さな透明のパックがいくつも入っている。その一つをつまんで取り出すと、その中には黒く長い髪の毛が入っていた。
「あっ・・・」姫子は思わず缶を落としそうになった。髪の毛が入っていたことだけではこれほど驚かなかったかも知れない。しかしそこに入っていたのは姫子の髪に良く似たものだった。
(百合が戻る前にこれを戻さなくては・・・)胃が縮みあがるような感覚に襲われながら、蓋をしめてベッドの下に戻す。急いでクッションを2つ押し込むと、長座布団を横にして立てかけた。そこで階段を上る足音が聞こえたので、慌ててベッドから離れて携帯をポケットから出す。適当なアプリを起動させているとノックの音がした。
「入るわ、いい子にしていた?」「んー、エッチな本でもあるの?」目を携帯に落としたまま姫子は出来る限りそっけない風で返した。「何か見つけられたかしら」「何も、あっ、それ・・・」「そう。前好きだって言っていたよね?」お盆の上にはティーカップと駅前で売っている抹茶のロールケーキが2つずつ載っていた。
百合の顔を見ると吐き気がした。姫子の髪が綺麗だと、羨ましいと、触ってもいいかと、そうした何回かのやり取りが頭の中でぐるぐるしている。百合は隣に座ると姫子の分をこちらに置いた。紅茶に口を付けると、姫子はこの紅茶について色々と百合に聞いた。時々百合の話に相槌を打つその一言が、上ずった声にならないか、異常な早さの心拍数が伝わってしまわないかと細心の注意を払い、無難な振る舞いをしたと思った。しかし百合はこちらを少しみつめると、ロールケーキを食べないのかと聞いてきた。
「ええ、実は今日あの日で・・・いつもより重い感じがするの」とにかくごまかさなければならない。恐らく百合は姫子の変調に気がついている。普段こういう話を百合にはしたことがないので、かえって真実味を帯びたものになると、自らの言葉を聞きながら姫子はそう思った。百合は下から覗き込むように、姫子の顔色を窺ってきた。「その、気がつかなくてごめんなさい。私が家に来てほしいって言ったから」
姫子は大丈夫だと言って、フォークで小さくケーキを切り取ると口に入れた。いつもの甘すぎない、苦味のある大好きなこの味が、まるで薬を食べているかのように感じる。今食べるのを辞めてしまうと、永遠に食べきることができないと思った。百合は心配して声をかけてきたが、姫子は不自然なほど早くケーキを口に運んでいき、ついにすべて食べ終わった。それからしばらくの間ぎこちない会話をしたが、百合が無理をしない方がいいと言ったことをきっかけに姫子は百合の家から帰ることにした。玄関で別れるときの挨拶までもがぎこちなく、同じ発音の別の言語を聞いているようだった。
それから姫子は黙々と歩いて自宅を目指した。100メートルほど先にあるコンビニのバス停から、姫子の家の近くにあるバス停に停まるものがあると百合は言っていた。しかし今バスに乗ればあのロールケーキを戻してしまう気がした。お昼までの小春日和から一転して空はどんよりと曇り、風はいつも以上に冷たい。姫子は背中を丸めて何も考えず、考えようとすると吐き気がこみ上げるので、ひたすら歩いた。やがて見慣れた住宅街の坂道まで来た。今は自分の家がこの坂のてっぺんにあることが恨めしい。
鍵を開けて階段を登り自分の部屋に入ると、コートのままベッドに倒れこんだ。いつ髪を拾ったの、どこで拾ったの、いつからこんなことをしているの、他に何があの缶に入っているの、これからも続けるの、どうして私なの。姫子は横を向いてドアを見つめた。真琴の言っていたことは本当だったのだ。
クッションは正確に元の位置に戻せていただろうか。少なくとも外側の長座布団は問題なかったはずだ。桃色のクッションもおおむね元通りであったと思いだす。今頃百合はあの缶を引っ張り出して確認しているはずだ。透明のパックは元の位置に戻しただろうか。どうしてもその記憶が思い出せずに天井をみつめた。生理だと言った姫子を百合は信じていたのだろうか。唐突に百合が姫子の周期をカレンダーに書いているイメージが頭をよぎった。少し収まっていた吐き気が一気にこみ上げてくる。トイレまで間に合わないと思い、机の横にあるゴミ箱に顔を入れた。胃袋から逆流したものは食道を通り、すぐに吐瀉物としてゴミ箱に吐き出された。口の中で酸っぱいのと甘いのとが混じりあい気持ち悪い。また吐こうとしたが、今度は何も吐くことが出来ず、代わりに涎と涙がこぼれ落ちた。
糸を引く涎を手の甲で拭いながら、先ほどの想像を払拭しようとするが、ますますリアルになったそれは映像のように頭で再生される。まるで勉強をしているかのような真剣な目つきで百合はカレンダーに何かを書き込んでいる。肩越しに覗き込むと今日のところに姫と書いてある。そこから矢印が引っ張られて、翌月のページにまた姫と書き込まれる。百合はその作業をずっと続けている。
もう何も出ないとわかっているのに姫子の意思とは関係なく、腹の筋肉や横隔膜は収縮する。再びゴミ箱に顔を入れて震える両手を床について体重を支えた。
どれくらいこうしていて、今は何時何だろうかとゴミ箱から顔を上げて部屋の掛け時計を見ると、5時45分だった。地域の集会に出席している母親がそろそろ戻って来てしまう。姫子は顔をそむけながらゴミ箱のビニール袋を縛ると、それを1の階大きなゴミ袋の中に入れた。吐瀉物が自分についていないことを確認すると、母が帰ってくる時間だが服を脱いでシャワーを浴びることにした。母とは帰宅すると、お互いの今日の出来ごとについて話をするのが日課になっている。今はどうしても母と話、今日自分が経験した話をする気にはなれなかったからだ。