第2話 「川」 あるいは「外を見る」
月日が流れた。
幼かった万吉も、
少しずつ言葉を覚え。
毎日、
屋敷中を走り回る年頃になっていた。
黒田屋敷。
一室。
板敷きの部屋に、
子供達が並んで座っている。
万吉。
その周囲には。
家臣や重臣の子ら。
年の近い子供達が集められていた。
皆、
姿勢だけは真面目である。
だが。
長くは続かない。
前に座る男が、
静かな声で書を読んでいた。
井上之生。
黒田家に仕える重臣いまは、守役である。
「――されば、
古き兵法においては……」
淡々とした声。
読むのは戦の話。
昔の教え。
武士としての学び。
だが。
子供達には、
まだ難しい。
一人が欠伸を噛み殺し。
一人が指で板をなぞり。
別の子は、
ちらちら外を見ている。
万吉もまた。
話を聞きながら。
時折。
窓の外へ目を向けていた。
雨上がりの庭。
濡れた石。
葉から落ちる雫。
土の上を、
細く流れる水。
光を反射して、
きらきらしている。
万吉は、
じっとそれを見ていた。
井上は書を閉じる。
「――では、
今日はここまで」
ぱっと。
子供達の顔が上がった。
途端に空気が軽くなる。
小さく歓声まで漏れる。
井上はその様子に、
ふっと笑った。
「これが終わったら――」
子供達が期待に目を向ける。
「城の外を見に行きましょう」
一瞬静まり。
次の瞬間。
「ほんとか!?」
「町いくの!?」
「馬見る!」
「店ある!?」
一気に騒がしくなった。
皆、
興奮している。
その中で。
万吉だけが、
少し違った。
小さく首を傾げながら。
「かわ、
いく?」
井上が目を瞬かせる。
「川ですか?」
万吉は頷く。
「あめ、
いっぱい」
「おみず、
ながれてる」
井上は少し意外そうにした。
だが。
「……ええ。
川も見られるでしょう」
そう答えると、
万吉は嬉しそうに笑った。
やがて。
子供達は供を連れ、
屋敷の外へ出た。
雨上がりの播磨。
空気は湿り。
土の匂いが濃い。
町道では、
人々が忙しく動いている。
荷を運ぶ者。
桶を抱える女。
馬を引く男。
商人の声。
子供達は、
見るもの全てに騒いでいた。
「あっ!
餅!」
「でっかい馬!」
「見ろ見ろ!」
だが万吉は。
周囲を見ながらも、
どこか別を探していた。
そして。
川へ着く。
雨で水量を増した流れ。
茶色く濁った水が、
勢いよく流れている。
ごうごうと。
低く響く音。
普段より遥かに荒い。
子供達は思わず足を止めた。
「うわ……」
「こわ……」
勢いに圧される。
だが。
万吉だけは違った。
すっと前へ出る。
目を丸くし。
流れを見ている。
じっと。
まるで、
吸い込まれるように。
「かわ……
すごい」
「おみず、
おおい」
ごうっ――
大きな水音。
万吉の目が、
きらきらと輝く。
「ちゃいろ!」
「おと、
すごい!」
井上が慌てて肩を掴んだ。
「若。
危のうございます」
「前へ出てはいけません」
だが万吉は、
まだ川を見ていた。
流れを。
止まらぬ水を。
次から次へ押し寄せる、
大きな力を。
小さな胸で。
何かを感じるように。
やがて帰り道。
雨は完全に止み。
雲の切れ間から、
少し青空が見えていた。
子供達は歩き疲れ。
さっきまでの騒ぎが嘘のように静かである。
その途中。
万吉が、
ふと立ち止まった。
道端。
小さな水たまり。
雨水がそこに溜まり、
じっと動かず残っている。
万吉は見つめる。
じっと。
首を傾げた。
「……う?」
周囲の者達は、
何を気にしたのか分からない。
ただの水たまり。
誰も気に留めない。
だが万吉だけは。
その止まった水を見ていた。
流れず。
溜まったままの水を。
そして。
ゆっくりしゃがみ込む。
小さな指が、
泥へ伸びた。




