視つけるもの
そこは、人里離れた山の奥にある研究所だった。
濃い緑に囲まれた中にある武骨で現代的な建物。
入るにも出るにも身分証が必須であり、それ以外にも多くのセキュリティが、人々の自由を制限する。
それらの事実は、快適性を犠牲にしてでも優先しなければならない物が、この建物にはあるという事だった。
ここは、人類の支配地域と異界の狭間。
異界常識に染まりつつあるが、まだまだ人類の活動範囲に含まれる、どちらのテリトリーとも言えるし、言えない中間地点だった。
この地は、再び異界による侵攻が始まれば、真っ先に狙われる場所といえる。
そんな物騒極まりない地点にあるにも関わらず、少なくない人数が活気に満ちて動き回っていた。
「ここの人達、命知らずねえ。また侵攻が始まったら、まず命はないわよ。まさかその事を知らないわけないわよね?」
巫咲は呆れたように確認すると、信護は苦笑いを浮かべて肯定するしかなかった。
「命知らずな面々が多いという点は同意します。必ずしも皆が自発的に滞在しているわけではないですが、自ら望んでここに来た者達は多いですからね。この地は研究者にとって、垂涎の的なんですよ。人の世界では見られなかった特異な環境になっていますから。だからこそ、我々の目当ての物が期待できるわけですが」
「候補がたくさんあって、どれが目当ての物かわからないとは……。まあ、選択肢があるだけないよりマシかあ」
巫咲と信護が会話をしながら施設の内部を歩いていると、出迎える人間が現れた。
歳は30台後半くらいの、赤みが掛かった髪を乱雑にポニーテールにまとめている女だった。
目が切れ長で、掛けている眼鏡も細見のタイプという事もあり、鋭い印象を受ける。
白衣を着込み、いかにも研究者といった姿然をしていた。
化粧っ気はないが、肌に張りがあり、健康的な質感を保っているのが伺える。
熟した女の魅力が醸し出された美女は、巫咲と信護の姿を確認すると、上品な笑みを浮かべながら、歓迎の意を示してくる。
「ようこそいらっしゃいました。春野巫咲さんと冬崎信護さんですね。私は当施設の所長代理を務めている水無月恭子と言います」
握手をせんと手を差し伸べながら自己紹介する代理所長に、巫咲と信護はそれぞれ挨拶を交わす。
「その若さで所長代理を任されるとはとても優秀な方なんですね」
「ふふ、、お上手ですこと。でも、残念ながら優秀という理由でこの地位にあるわけではないんです。縁故ですの。父がここの所長なんです。あと、他の古参の人達はこの地位に付きたがらなくて……。結果、私にお鉢が回ってきただけですよ」
苦笑いを浮かべながらそう答える恭子だった。
信護達は謙遜も入っているだろうと考えるため、額面通りには受け取らない。
ただ、気になる事があったので、その質問をしてみる。
「所長であるお父様はどちらに?」
「父は一週間前から部下と共にフィールドワークに出かけてまして留守にしています。……申し訳ありません。本来なら父が出迎えるべきではあるのですが、一度研究に熱が入ると、それ以外が目に入らなくなる悪癖持ちなんです。また、恥ずかしながら、当施設にはそういう人間が多く、不快な思いをさせてしまうかもしれない事を、先に謝っておきます」
そういう人が多いから、私が所長代理になっているんですけどねと、疲労感を滲ませながらぼやく声が続いた。
それからは、世間話を交えながら施設を案内する時間となり、その過程で恭子の人と成りが多少わかってきた。
水無月恭子は事務方のまとめ役で、こういった対外的な事も、半ばなし崩し的に任されている苦労人気質な女性のようだ。
短い会話の中でも、相手をそれとなく気遣う様子を見せてくる。
信護はなんだか親近感を覚えるぐらいだった。
宿泊のための部屋を案内され、荷物を下ろした後、巫咲と信護は恭子に案内してもらい、食堂に向かった。
食事をしながら、明日の行動についての話し合いをする事にしたためだった。
食堂は、食事時のピークを過ぎていたため、閑散としているが、話し合いには好都合だった。
恭子は、ここのもつ煮込み定食は絶品なんですよ~と言いながら、献立の紹介もしてくれる。
そうして、それぞれテーブルに着いた所で、明日の打ち合わせが始まった。
「はるばるお越し下さり、ありがとうございます。この地はなにぶん危険と隣り合わせなため、倦厭する方は多いんです。仕方ないことですが。その反面、一部の方々からは大変気に入られているんですけどね」
何かを思い出すような顔をしたと思うと、余程可笑しい事を同時に思い出したのか、忍び笑いをしていた。
おそろく、「一部の方々」の事が原因なんだろうなと想像しながら、箸やフォークを信護と巫咲を動かしていた。
確かにもつ煮込み定食は美味しかった。
「でも、明日から鑑定を始めるで本当にいいんですか?休暇も兼ねているため、拠点から滅多に出ない春野さんが、この地までわざわざ足を運んだと聞いています。なんでしたら、しばらく体を休め、英気を養ってからでも……。ここにはストレス緩和のために、様々な娯楽やリラクゼーション施設が置いてありますし」
「気遣ってくれてありがとうございます。でも、明日さっそく取りかかる事に変更はありません。私はやる気が溢れた時は、大変な事を早く終わらせたい主義なの。そして、今の私はそのやる気に満ち溢れています。こんな絶好調な時を無駄にする理由はありませんもの。世のため人のため、石化で苦しむ人のためにも、一刻も早くヘンルーダを見つけ出してみせましょう」
「まあ!そこまでのご意思で意欲旺盛なんて。これは私も負けてられませんね」
敬意を滲ませ、感心したように呟く恭子だったが、信護は知っていた。
巫咲の瞳は休暇の二文字で燃え上がっていることを……。
だが、理由は何にしろ、やる気に満ちているのは良い事であり、休暇を楽しむためにも、早く厄介な事を終わらせたい気持ちは、痛い程信護は理解していた。
そのため、沈黙の価値を知り、空気も読める信護は、ただ黙って生温かい目を巫咲に向けるのだった。
そんな信護の視線に気づかず、巫咲は恭子に勢いよく質問を始めた。
「それで、ありそうな場所は、既に目星を付けているんですよね?」
「はい。情報提供者から教えられていた特徴を備えた植物の分布地点を、いくつか見つけています。サンプルとしていくつか摘んだのですが、標本にする過程で、瞬く間に形状崩壊してしまいまして。通常の方法では、採取は無理なようです。また、何らかの過程を経なければ、効能を失ってしまう可能性も考慮すると、現地に直接赴き、解析をお願いする事になります」
「わかったわ。やってやろうじゃないの」
フィールドワークへ赴く事に、すこぶるやる気を見せる巫咲に、いつもこんなだといいのになあと内心思いつつ、懸念している危険性について、恭子に尋ねる。
「さて、当たりをつけている現地に直接赴く事は決まりました。ですが、問題はそこまでの道程です。この地は異界との中間地帯。危険性は異界程ではないにせよ、健在です。その備えはどうなっているのでしょうか?」
「最短で比較的安全と考えられるルートは既に割り出しています。また、その際同行する護衛の人数と装備も手配済みです。とっておきだって使いますとも。ふふふ」
「とっておき?」
「はい。ふふふふふ」
本人は安心させようと不敵な笑い声を出しているつもりなのかもしれないが、信護には不気味な笑い声に段々聞こえてきてしまう。
「私としては、ヘンルーダ以外にも春野さんには出来る限りの植物を解析してもらいたいと思っているのですが、いかがでしょうか?
「う~ん。私も期待に応えてあげたいけど、解析には時間と根気と体力を使う場合がほとんどだからなあ。あまりその辺は期待しないでね」
「そうは言っても期待しちゃいますよ~。なんたって”アイテム”解析の第一人者ですもん。しかも滅多に人前に出て来てくれないし。わずかに出回ってる映像をありがたがってるファンは多いんですよ」
「ファン!わ、私にファン!あわわ……」
照れ臭くなったのか、慌てふためく巫咲を余所に、恭子はペラペラと話しかける言葉が止まらなかった。
「またまた~。見目麗しい容貌なんですから、ファンがいてもおかしくないでしょう。このモチモチスベスベした肌。どうなっているんですか~」
「あん。ち、ちょっと!そ、そこは駄目……」
悩まし気な声を上げながら、イチャイチャと女同士で始めた二人を尻目に、一人省かれた形の信護は黙ってご飯を頬張るのだった。
もきゅもきゅと口を動かしながら、明日は忙しくなるなとこれからの行動について、思考を働かせる。
「ところで春野さん。出会えたらお尋ねした事があったんです。解析されたマジシャンハットの事なんですがーーー」
「ああ、あれね。懐かしいわね。あれはね、きっかけは偶然からだったんだけどーーー」
それぞれ思い思いの時間を過ごし、この地の初日に幕を引いていく。
外では夜の帳が落ちるに従い、どこからともなく肉食獣らしき唸り声や、異様に大きな虫の声。更には強風が吹いているわけでもないのに、まるで動いているかのように躍動する木々の音が辺りに響き渡っていた。
これは、この地の日常なのだが、信護と巫咲は知る事はなかった。
読んで下さりありがとうございました。