第1話 図書室と付箋(1)
放課後の図書室は、まるで世界から切り離されたような静寂に包まれている。
結城湊にとって、古い紙とインクの匂いが漂うこの空間は、学校の中で唯一深呼吸ができる場所だった。
窓の向こうからは、グラウンドで汗を流す運動部の声や、吹奏楽部の不揃いな管楽器の音が微かに聞こえてくる。しかし、分厚いガラス窓と無数に並んだ本棚が、それらの喧騒を遠い別世界の出来事へと変えてくれる。
「結城くん、今日もカウンター番ありがとうね。あとは私がやっておくから、上がっていいわよ」
司書の先生が、優しく声をかけてきた。
「いえ、もう少し残って返却作業をやっていきます。キリのいいところまで終わらせたいので」
「そう? 助かるわ。じゃあ、戸締まりはお言葉に甘えようかしら」
先生が図書室を後にすると、広い空間には湊ただ一人が残された。
時計の針は午後五時を回ろうとしている。西日が差し込み、床に長い本棚の影を落としていた。
図書委員の仕事は、決して華やかなものではない。
貸出と返却の処理をして、乱れた本棚を整理する。誰かと協力してワイワイやるような作業でもないため、人付き合いが少しばかり苦手な湊にとっては天職のようなものだった。
返却用のブックカートを押しながら、湊は日本文学の棚へと向かった。
五十音順に本を戻していく作業は、頭を空っぽにできるから好きだ。手慣れた動作で次々と本を背表紙の定位置へと収めていく。
その時、一冊の本がふと湊の目に留まった。
『海辺の街と、終わらない手紙』
もう十年以上前に出版された、少しマイナーな青春小説だ。
派手な事件は何も起きない。ただ、海辺の街に住む不器用な少年少女が、言葉にできない想いを手紙に綴り続けるだけの、静かで透明な物語。
湊自身、中学生の頃に読んでひどく心を揺さぶられた記憶がある。しかし、決してメジャーな作品ではないため、この学校の図書室で誰かが借りているのを見たのは初めてだった。
(珍しいな。誰が借りてたんだろう……)
何気ない好奇心から、湊はパラパラとページを捲った。
その瞬間、ふわりと小さな黄色の紙片が足元に落ちた。
「……ん?」
しゃがみ込んで拾い上げると、それはどこにでもある市販の小さな付箋だった。
栞代わりにしていて、そのまま外し忘れて返却してしまったのだろう。図書委員としては「本に付箋を貼る」という行為はあまり推奨できるものではないが、古い本だからか、特にページが傷んでいる様子はない。
そのままゴミ箱に捨てようとした湊の指が、ピタリと止まった。
付箋の表面に、丸みを帯びた丁寧な文字で、何か短い文章が書き込まれていたのだ。
『本当の気持ちは、言葉にしないと消えてしまう。
……わかっているのに、言葉にするのが一番怖いのはどうしてだろう』
それは、この小説のハイライトとも言える中盤のシーンに対する、個人的な感想だった。
誰かに見せるためのものではない、読書中の独り言のような、静かな吐露。
湊は息を呑んだ。
その一文は、この本を読んだ当時の湊が抱いた感情と、あまりにも似ていたからだ。
周囲の空気に合わせるのが苦手で、いつも教室の隅で息を潜めている自分。
本当は「もっと上手く人と話したい」と思っているのに、拒絶されるのが怖くて、結局は本の世界に逃げ込んでしまう。
そんな自分の臆病な心を、この見知らぬ誰かの文字が見透かしているような気がした。
(捨てるのは、なんだか勿体ないな……)
誰が書いたのかもわからない。学年すらも不明だ。
けれど、この学校のどこかに、自分と同じようにこのマイナーな小説を読み、同じ箇所で心を揺らした人間がいる。
その事実だけで、湊の心の中に、ぽっと小さな灯りがともったような気がした。
気がつけば、湊はカウンターに戻り、ペンケースから自分用の青い付箋を取り出していた。
何をしているんだ、と頭の片隅で冷静な自分が呆れている。
本に付箋を貼るなんて、図書委員が自らルール違反を犯すようなものだ。
それでも、湊の手は止まらなかった。
青い付箋に、黒いインクで短い言葉を書きつける。
『言葉にできないからこそ、僕たちはこうして、本の中に自分の代弁者を探しているのかもしれませんね』
書き終えた後、自分の書いたポエムのような文章に少しだけ顔が熱くなった。
けれど、もう後戻りはできない。
湊は拾った黄色い付箋と一緒に、自分が書いた青い付箋を、同じページにそっと貼り付けた。
そして、誰にも見られていないことを確認するように周囲を一度見渡し、その本を「あ行」の棚の奥へと静かに戻した。
もちろん、相手がもう一度この本を手に取る保証なんてどこにもない。
明日には別の誰かが借りていって、ただのイタズラとして剥がされて捨てられてしまうかもしれない。
それでも構わなかった。
これは、沈黙の海に投げ込んだ、宛名のないボトルメールのようなものだ。
「……よし」
小さく息を吐き出し、湊は空になったブックカートを押してカウンターへと戻る。
胸の奥で、微炭酸のジュースを飲んだ時のような、小さな泡が弾ける音がした。
それが、顔も名前も知らない「君」との、誰にも内緒の文通の始まりだった。




