8.
気がつくと、わたしはお母様の腕に抱かれていたわ。お空はもう真っ暗で、雲の隙間からお月様とお星様が光ってた。でも、お空の黒より月と星の光より、地上の方がずっと黒くて、そして同時に光っていたの。
夜の闇の中でも分かってしまうの。見渡す限り、黒い塊があちこちに転がっている。燃えて崩れたお屋敷の壁。うっすらと見える、部屋の間取り。ホールから続く大階段、客間の暖炉。厨房には鉄のオーブンや石のかまどが並んでいたはず。どれも真っ黒に焦げて、でも、まだ燃えているの。赤く、赤く。どんなものでも熱く燃えると真っ赤になるのね。石も木も鉄も。白雪姫のお話の、意地悪なお妃の最後がやっと分かった気がするの。
「お母、さま……?」
まだ寒い季節なのに、お顔がとても熱かった。夏の日差しを浴びた時のように、燃えてしまったお屋敷から吹く熱い風に、じりじりとあぶられてしまうよう。黒と赤の中に、ところどころにねじれたお人形みたいなのがいるの。あれは、お医者様? レイチェル? お医者様? メイドのアリスや、ほかにも沢山いた使用人たち。みんな燃えてしまったのかしら。……死んで、しまったの? わたしはどうしてどこも燃えていないのかしら。
お母様に抱かれていると、とても安心できるわ。でも、頬をあずけるお母様の胸も、わたしの髪を梳いてくださるお母様の指も、ひんやりとして冷たかった。イザベルのほっぺたと同じように。熱くなった頬には気持ち良いのだけど、でも、イザベルに触れた時のことを思うと胸が凍えるような気もして、何が何だか分からなかった。暑いのか寒いのか分からないから、わたしはまた目を閉じることにした。
そして次に気がつくと、わたしはベッドに寝かされていた。白い壁に白いシーツ、お薬の臭い。病院に運ばれたのかしら。枕もとには、白い髪のおばあさん。しわくちゃでふくよかで、シンデレラの優しい魔法使いみたい。それからもちろん――お母様。白い部屋の中に、たったひとつの黒い色。じっとわたしの顔の傍に座って、見守っていてくださっている。見守ってくださっている、はずよ。
「ああ、やっと目を覚ました……! なんて可哀想な子!」
鼻をすすって、ハンカチをくしゃくしゃに握りしめているおばあさんをぼんやりと見上げていると、おばあさんはここがどこかと、ご自分がどなたかを教えてくれた。思った通りにここは病院で、おばあさんは――
「おばあ様……お母様の、お母様……?」
「ええ、そうよ。もう少し大きくなってから会えるのを楽しみにしていたのに。お母様ばかりかお父様まで亡くしてしまうなんて……!」
おばあ様は、わっと泣き出しながらわたしを抱きしめた。知らない人の知らないお家の、知らない香り。それでも、温かくて安心するような気もしながら、でも、わたしはおばあ様よりもお母様の方ばかりに気を取られていた。だって、おばあ様までお母様のことが全然見えていないように振る舞っているのだもの。
お父様やレイチェルがお母様と目も合わせなかったのは、意地悪をしていたのだと思っていたの。使用人たちも、ふたりに言われてやっているんでしょう、って。でも、おばあ様はお父様の言うことを聞かなくても良いはずよね? お母様のお母様なら、もっと心配したりとか、お話したいこともあるんじゃないのかしら? お母様の方だって、おばあ様が恋しかったりはしないのかしら? なのにどうして、お母様もじっと座ったままでいらっしゃるの?
「……レイチェルは……?」
「そもそもの火元だったのでしょう。恐ろしいこと……! スカートが燃えても気付かないなんて、不注意にもほどがある……!」
身じろぎもしないお母様から目を逸らして尋ねてみると、おばあ様は急に大きな声を上げて顔をしかめた。その声も言い方もとても怖かったから、わたしはびくりと竦んでしまう。レイチェルも、怖かったのだけど。でも、だって、あの人は普通の時じゃなかったんだもの。
「イザベルが死んでしまったんだもの。仕方なかったわ……」
そうよ、イザベルは死んでしまったの。触ったから分かるわ。そこにいても、可愛い顔で眠っているように見えても、生きている人と死んでいる人は全然違うの。あれは、わたしのせいなの? わたしが阿片ミルクをあげたから? あんなに可愛い赤ちゃんが冷たくなってしまったのは、もう泣くことも笑うこともなくなってしまったのは? お母様は、ご存知だったのかしら。わたし、絶対にお母様の言う通りにしたわ。阿片のシロップを、言われた分しか入れなかったの。だから、あんなことになるなんて思わなかった!
お母様はどうして何も言ってくださらないのかしら。わたしがこんなに見てるのに。言葉じゃなくても、抱きしめたり髪を撫でたりして慰めてくださらないのかしら。……どうしてあんなことをやらせたのか、教えてくれないの?
お母様の方ばかり見ていると、おばあ様が急にがばりと抱きしめてきたから、わたしはきゃあ、と声を上げてしまった。皺だらけのお顔が目の前に迫るのは、少し怖い。何よりも、おばあ様はやっぱりお母様を見ようとはなさらないから。
「生さぬ仲の妹や継母まで思い遣れるなんて、優しい子……! これからは一緒に暮らしましょうね。お母様のお話もしてあげるし、田舎だけど、何も不自由がないようにしてあげますからね」
「お母様」
おばあ様の肩越しに、母様の黒い影を見る。お母様は、ずっとわたしの傍にいる。いるから、見えるから、お母様はいるのだと思っていたわ。でも、いるのと生きているのは違うのね。冷たい手のお母様、お父様やおばあ様には見えていないお母様。お空の上にいるはずなのに、どうしてここにいるの?
前は、お母様がいるから安心だったの。でも、今はお母様がいるから怖いの。お母様が見えるのは、本当にわたしだけなのかしら。
わたしが黙っている訳を、おばあ様は分からないみたい。当たり前ね、お母様が見えていないようなんだもの。だから、わたしがお母様、って言ったのを聞いて、おばあ様は何度も何度も頷いた。苦しいほど抱きしめていたのを少し離してくださって、わたしの顔をじっくりと眺めて、それからにっこりと微笑んだ。
「ああ、アシュリーの小さい頃に本当にそっくり! ねえ、家の周りの森では妖精が出る、なんて言われているのよ。アシュリーもよく見えないお友達がいる、なんて言ってたものよ。おとぎ話のようで素敵でしょう?」
「ええ。とても」
小さくうなずくと、おばあ様の目にまた涙が浮かび始めていた。笑ったり泣いたり、忙しい方。いいえ、泣きながら笑っているのかしら。おばあ様の指先がわたしの髪に触れると、少し短くなっていた。焦げたのを、整えてもらったのかしら。おばあ様は、短い髪が可哀想で泣いて、でも、わたしが少しだけ笑ったから安心してくださったのね。深々と吐き出された息は、重い荷物を下ろした時みたいだった。
「大きな怪我がなくて良かった……! 女の子ですものね」
「ええ。お母様が守ってくれたの」
「そうね、きっと神のご加護でしょう」
おばあ様はご存知ないけど、お母様は本当にわたしを守ってくださったのよ。お父様もレイチェルも多分燃えてしまったのに、お屋敷がなくなってしまったのに、わたしは髪が少し焦げただけだったもの。きっと、お母様が守ってくださったからに違いないわ。
だから、お母様を怖がるなんていけないことだと思うの。イザベルのことだって、きっと理由があると思うの。おばあ様、早く帰ってくださらないかしら。いえ、わたしこそおばあ様と一緒に行かなければならないのよね。お母様のふるさとの森へ。
でも、ちょっとだけで良いの。お母様とふたりきりになることができれば、ゆっくりお話できるはずだもの。手のひらに文字を書いてもらって、そうすれば、もう怖いことなんてないはずだもの。
それでも、おばあ様に出て行ってちょうだい、なんて言うことはできない。だからわたしはおばあ様がベッドの上に色んなものを並べていくのをじりじりしながら眺めていた。
「燃えずに残ったものもあるのよ。玩具に、本に――全部、持って行きましょうね」
煤で黒くくすんだお人形や絵本は、確かに子供部屋にあったわたしのものだった。それに、聖書!
「お母様の写真……!」
小さく叫びながら手を伸ばして、ページをめくると、覚えていた通りのところに、あの写真がちゃんと挟まっていた。全然焦げることもなく、綺麗なまま。赤ちゃんのわたしと、お母様の写真!
聖書を広げたわたしの上から、おばあ様ものぞき込んで笑ったみたいだった。温かい息が、わたしの髪をくすぐった。でも、続けておばあ様が言ったことは、くすぐったいなんてものじゃなかった。
「ああ、貴女が赤ちゃんの時の写真なのね、メイベル。でも、これはアシュリーではないわよ」
「え……?」
そんなことをされたことはないのだけど、とても重いもので頭を殴られたみたいだった。口を開けたまま、凍りついてしまったわたしの手から、おばあ様は写真を取って、眺めて、しみじみと呟く。わたしがこぼれ落ちそうなほど目を見開いているのには、気づかないまま。お母様が、ゆらりと立ち上がったのにも目をくれないで。
「アシュリーはもっと小柄だったもの。乳母か誰かに任せたのでしょうね」
「でも、でも……お父様が……お母様と三人で写真を撮りに行った、って……」
「ええ、きっとカメラの方にいたのでしょう。こっちを見て笑って、って。手を振ったりでもしていたのかしら」
おばあ様は、それから何か、お母様の――本当の、お母様の昔のお話を始めたみたいだった。おばあ様の干したプラムみたいな唇がしきりに動いている。でも変ね、何ていっているか全然聞こえないの。
お母様の黒い影がどんどん広がっていくようだった。わたしの目の前が真っ暗になっていく。頭の中から黒いインクが染み出して世界を染めてしまったみたい。
お母様――お母様だと思っていたひと。思っていたモノ。そう信じていたのは、写真を見ていたからかしら。それとも、ずっといてくれたからかしら。どっちが先だったか、全然思い出せないわ。
今もそこにいて、わたしを……守っているの? 見ているの、何のために? どうして何も言わないの? ヴェールを取ってくれないの? お母様だから、わたしは、ずっと頼り切って、信じ切ってたのに。
「あ……」
また炎の中にいるみたいに、喉が渇いて張り付いてしまって、声が出ない。何ていったら良いかも分からないし。お母様が、わたしをじっと見ている。見下ろしている。黒い服に黒いヴェール、お顔も見えない。誰にも見えない。何を考えているか分からない。何なのか、も。
でも、わたしのお母様よ。そうに決まっているわ。そうでなきゃいけないわ。そうでなければ――ねえ、わたしの、お母様?
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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