第2話「婚約者を愛している王太子」
エドガーは、アデリナを愛している。
だから昨日、彼女から婚約を見直したいと言われたとき、何も答えられなかった。
『私は……殿下に幸せになっていただきたいです』
あの言葉が頭から離れない。
つまり彼女は、自分との結婚を望んでいない。
十年間、いつかそう言われる日が来るかもしれないと思っていた。
それが昨日だった。
「殿下」
側近ローレンスの声で我に返る。
「先ほどから同じ書類をご覧になっています」
「……そうか」
「何かございましたか?」
普段なら話さなかっただろう。
だが、一人で考えていても同じところを回るだけだった。
「アデリナから、婚約を見直したいと言われた」
ローレンスの動きが止まった。
「アデリナ様から?」
「ああ」
「理由は?」
「十年前とは政治状況が変わった。今なら婚約を解消しても問題は少ない、と」
「それだけですか?」
「私に幸せになってほしいそうだ」
ローレンスはしばらく黙った。
「それで、殿下は何と?」
「考えさせてほしいと」
「……そうですか」
妙な顔をされた。
「何だ?」
「いえ。ちなみに殿下は、婚約を解消したいのですか?」
「私の意思だけで決めることではない」
ローレンスが額を押さえた。
「殿下ご自身の希望を聞いております」
そんなものは決まっている。
アデリナと結婚したい。
十年前に婚約したからではない。
王家とグランフェルト侯爵家のためでもない。
彼女だからだ。
いつからなのかは分からない。
最初はただ、良い婚約者になろうと思った。
アデリナは幼い頃から、自分たちの婚約をよく理解していた。
『私たちの婚約は、王家とグランフェルト家のためのものですものね』
八歳の少女がそう言った。
賢い子だと思った。
少し寂しいことを言う子だとも思った。
だからエドガーも、それ以上を求めなかった。
それから十年。
彼女が王宮へ来る日が楽しみになった。
話をしたい。
意見を聞きたい。
笑ってほしい。
彼女が提案した政策が採用されれば、自分のことのように嬉しかった。
気づいたときには、完全に好きになっていた。
けれどアデリナは変わらなかった。
これは政略結婚だ、と何度も口にした。
だからエドガーは思った。
彼女は義務として自分と結婚する。
王太子という立場だけで彼女の人生を縛っているのに、そのうえ愛情まで要求することはできなかった。
二人きりでも距離を取った。
必要もないのに手を握ったりはしなかった。
好きだとも、愛しているとも言わなかった。
彼女を困らせたくなかった。
誕生日の贈り物もそうだ。
宝石を贈れば、恋人のようではないかと思った。
だから去年は万年筆にした。
以前、アデリナが使っていたものは長時間書くと指が痛くなると言っていたから、外交官に頼んで外国製の軽いものを取り寄せた。
一昨年は革鞄。
彼女が王宮へ持ってくる鞄は書類を入れると重そうだった。
三週間探しても納得できるものが見つからず、最後は職人に作らせた。
喜んでくれた。
それだけで十分だと思っていた。
恋人にはなれなくても。
良い婚約者ではいられると思っていた。
「殿下」
ローレンスの声で、また我に返った。
「アデリナ様に、ご自分のお気持ちをお伝えになったことは?」
「ない」
「なぜです?」
「彼女を困らせるだろう」
「なぜ困ると?」
「彼女は私を愛していない」
ローレンスが黙った。
「……それは、アデリナ様ご本人から?」
「いや」
「では、他に好きな男性がいると?」
「聞いたことはない」
「殿下」
「何だ」
「それは昨日、アデリナ様がなさったことと同じでは?」
エドガーは眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
「お互いに相手の気持ちを聞かず、相手のためだと思って勝手に結論を出しているように見えます」
否定しようとした。
できなかった。
ローレンスが続ける。
「それと、報告していなかったことがあります」
「何だ?」
「アデリナ様には、レーヴェン公爵家から縁談が来ています」
今度こそ思考が止まった。
「……誰から?」
「ヴィクトル・フォン・レーヴェン。すでに一度お会いになったそうです」
胸の奥が冷えた。
「彼女は、その縁談を望んでいるのか?」
「存じません」
「ヴィクトル本人は?」
「家柄、人物ともに問題ありません。評判の良い方です」
聞かなければよかった。
条件を並べられるほど、嫌な気分になる。
アデリナがヴィクトルと結婚する。
彼の隣で笑う。
彼から贈り物を受け取る。
彼に手を取られる。
想像しただけで耐え難かった。
それでも、彼女がそれを望むなら。
「殿下」
ローレンスの声が飛んでくる。
「またアデリナ様の意思だけで決めるおつもりですか?」
「だが――」
「殿下はどうしたいのです?」
同じ質問だった。
今度は答えられた。
「……渡したくない」
言ってから、自分でも驚いた。
ローレンスは何も言わない。
「アデリナを、他の男に渡したくない」
初めて口にした。
ひどく身勝手な言葉だった。
けれど、それが本心だった。
ローレンスが小さく息を吐く。
「では、それをアデリナ様へお伝えください」
◇
その日の午後。
エドガーは公務で王宮を訪れていたヴィクトルを見つけた。
普段なら挨拶だけで終わる。
今日はできなかった。
「ヴィクトル殿。少しいいだろうか」
「もちろんです」
別室へ移る。
二人きりになったところで、エドガーは尋ねた。
「アデリナと会ったそうだな」
「はい」
「彼女は、君との結婚を望んでいるのか?」
ヴィクトルは少し驚いた顔をした。
「それを私にお聞きになりますか?」
「知っていることがあるなら教えてほしい」
「では私からも一つ」
ヴィクトルは真っ直ぐエドガーを見る。
「殿下はアデリナ嬢を愛しておられますか?」
昨日までなら答えなかった。
今日は違った。
「愛している」
ヴィクトルが目を瞬いた。
そして、なぜか笑った。
「そうですか」
「何がおかしい?」
「いえ。ようやく一つ分かりました」
「何がだ?」
「彼女はあなたを愛していますよ」
エドガーは完全に固まった。
「……何を根拠に」
「本人から聞きました」
意味が分からない。
アデリナが。
自分を?
「本当に?」
「この件で嘘をついて、私に何の得が?」
ない。
「ですが彼女は、殿下から愛されていないと思っています」
「なぜ?」
今度はヴィクトルが呆れた顔をした。
「言われたことがないからだそうです」
言葉を失った。
当然だった。
言ったことがない。
一度も。
「ちなみに私は、彼女に伝えました」
「何を?」
「あなたが好きです。あなたと結婚したい、と」
胸の奥がざわついた。
ヴィクトルは立ち上がる。
「私はアデリナ嬢が好きです。彼女が私を選ぶなら、喜んで迎えます」
その言葉に嘘はなさそうだった。
「ですが、彼女が別の男性を愛していることを知ったまま、勘違いにつけ込んで妻にするつもりもありません」
扉へ向かう。
「殿下」
最後に振り返った。
「私はもう求婚しました」
「ああ」
「殿下は、まだなのですか?」
何も言い返せなかった。
扉が閉まる。
エドガーは一人になった。
アデリナは自分を愛している。
信じられない。
だが、信じたい。
そして一つだけ、はっきりした。
昨日の彼女は、自分と別れたいから婚約の見直しを提案したのではない。
自分のために。
自分を自由にするために。
愛している相手から、自分で離れようとしていた。
「……何をしているんだ、私たちは」
今すぐ会いたかった。
エドガーは扉を開けた。
「ローレンス」
廊下にいた側近が振り返る。
「はい」
「アデリナに使いを。明日、会いたい」
「予定を確認いたします」
「いや」
エドガーは首を振った。
いつもなら、彼女の都合を最優先した。
今日は違う。
「私が会いたいと伝えてくれ」
ローレンスが笑った。
「承知しました」
◇
翌日。
アデリナが王宮へやって来た。
昨日と同じ部屋。
昨日と同じ二人。
けれど今日は、エドガーが彼女を呼んだ。
「急にすまない」
「いいえ」
アデリナは笑った。
いつも通りの笑顔。
だが目元が少し赤いように見えた。
「……眠れなかったのか?」
「少しだけ」
胸が痛んだ。
自分も眠れなかった。
「昨日の話をしたい」
アデリナの肩がわずかに強張る。
「はい」
「君が望むなら、婚約を解消する」
彼女の顔が曇った。
ほんの一瞬。
だが十年間見てきたエドガーには分かった。
「……そうですか」
また笑おうとしている。
昨日もこうだったのだ。
自分は気づかなかった。
「待ってくれ」
「はい?」
「今のは、君が望むなら、だ」
エドガーは聞いた。
「君自身は、婚約を解消したいのか?」
アデリナは答えなかった。
「私は……殿下に幸せになっていただきたいのです」
「私の幸せ?」
「今なら殿下も、ご自分で結婚相手を選べます」
やはり。
自分と同じだ。
相手のためと言いながら、相手の望みを聞いていない。
「では」
一度、息を吸う。
「私の望みを言ってもいいだろうか」
アデリナが目を瞬いた。
「もちろんです」
「私は婚約を解消したくない」
彼女の目が大きくなる。
「政治のためではない。君が王太子妃として優秀だからでもない」
もう間違えない。
「私は君と結婚したい」
十年間言えなかった言葉を、ようやく口にする。
「愛している、アデリナ」
彼女が固まった。
「……え?」
「愛している」
今度はもう一度言った。
「君が好きだ。ずっと好きだった」
アデリナの唇が震えた。
「……本当に?」
「ああ」
「私を?」
「他に誰がいる」
アデリナの目に涙が浮かんだ。
エドガーは焦った。
「どうした?」
「昨日」
声が震えている。
「昨日、部屋を出たあと……もう殿下から誕生日の贈り物をいただくこともないのだと思いました」
「アデリナ」
「いつか殿下の隣に別の女性が立って、その方には宝石を贈って、手を取って、愛していると仰るのだと」
涙が一つ落ちた。
「それが、すごく嫌でした」
エドガーは言葉を失った。
「でも私は、そんなことを望んではいけないと思っていたんです。政略結婚なのだから、殿下に愛まで求めてはいけないって」
「違う」
思わず言った。
「全部違う」
アデリナが顔を上げる。
「宝石を贈らなかったのは、君に恋愛感情を押しつけたくなかったからだ」
「……え?」
「万年筆は、君が以前使っていたものでは指が痛いと言ったから取り寄せた」
アデリナが瞬きをする。
「覚えていらしたのですか?」
「忘れるわけがない」
「鞄は?」
「君の鞄が重そうだったからだ。三週間探して、結局職人に作らせた」
「三週間……」
「二人きりで距離を取っていたのも、触れれば君を困らせると思ったからだ」
アデリナは呆然としている。
エドガーは苦笑した。
「君が愛されていないと思った理由は、全部、私が君を好きだったからやったことらしい」
しばらく沈黙が続いた。
やがてアデリナが両手で顔を覆った。
「少し待ってください」
「待とう」
「今、過去十年分の認識が全部崩れています」
「私も昨日、同じ目に遭った」
顔を覆ったまま、アデリナが聞く。
「殿下は、私が殿下を好きだとご存じなかったのですか?」
「知らなかった」
「なぜです?」
「君はずっと、これは政略結婚だと言っていただろう」
「だって政略結婚でしょう?」
「ああ」
「それと好きかどうかは別です」
「昨日までの私に聞かせたい」
アデリナが顔を上げた。
「では、殿下は私をどう思っていたのです?」
「義務として私と結婚してくれるのだと思っていた」
「私もです」
二人とも黙った。
「……私たちは」
エドガーが呟く。
「何をしていたんだ?」
アデリナが吹き出した。
涙を拭いながら笑う。
「本当に。何をしていたのでしょう」
エドガーも笑った。
十年間。
互いに好きだった。
互いに相手へ無理をさせたくなかった。
そして互いに何も言わなかった。
笑いが収まったところで、アデリナが尋ねる。
「そういえば、どうして急に私の気持ちを?」
「ヴィクトルから聞いた」
アデリナが固まった。
「……ヴィクトル様から?」
「ああ。本人から聞いた、と」
「言いました。確かに言いましたけれど……」
顔が赤くなる。
「まさか殿下に伝えるなんて」
「それだけではない」
「まだ何か?」
「『私はもう求婚しました。殿下は、まだなのですか』と」
アデリナは数秒黙った。
そして笑った。
「ヴィクトル様らしいですね」
「私は一生忘れないと思う」
「求婚の方を?」
「まだなのですか、の方をだ」
二人でまた笑った。
「ちなみに今朝、ヴィクトル様からお手紙が届きました」
今度はエドガーが固まる。
「何と?」
「求婚を取り下げる、と」
息が漏れた。
アデリナが目を細める。
「今、安心なさいました?」
隠す必要はない。
「ああ。かなり」
「ふふ」
アデリナが嬉しそうに笑った。
その顔を見て、ようやくエドガーも実感する。
この笑顔を、自分が好きだと言ってもいい。
自分のものにしたいと思ってもいい。
だが、まだ一つだけ終わっていない。
エドガーは姿勢を正した。
「アデリナ」
「はい」
「十年前、私たちの婚約は家同士が決めた」
「はい」
「だから今度は、君に聞きたい」
彼女を見る。
「私と結婚してくれるか?」
アデリナの目に、また涙が浮かんだ。
けれど今度は笑っていた。
「はい」
迷いのない返事だった。
「私も、エドガー殿下と結婚したいです」
胸の奥に十年間あったものが、ようやくほどけた。
「手を握っても?」
アデリナが目を丸くした。
「そこから確認なさるのですか?」
「十年間の習慣は急には変わらない」
「では、私から」
アデリナが手を差し出した。
エドガーが取るより先に、その指が自分の指へ絡む。
初めてだった。
公務でも儀礼でもない。
二人がしたいから、手をつないだ。
「これでもまだ政略結婚でしょうか?」
「始まりはな」
握った手に少し力を込める。
「だが今は違う」
アデリナも握り返した。
しばらくして、彼女が思い出したように笑った。
「そういえば私、昨日ひどいことを考えていたんですよ」
「何を?」
「いつか殿下が別の女性に宝石を贈って、手を取って、愛していると仰るのだろうな、と」
エドガーは眉を寄せた。
「それは困る」
「私も困ります」
「なら、相手を変えよう」
「相手?」
「ああ」
エドガーはつないだ手を持ち上げた。
「宝石を贈るのも、手を取るのも、愛していると言うのも。全部君でいいだろう?」
アデリナの頬が赤くなる。
「……はい」
「それと、訂正が一つある」
「何でしょう?」
「一度でいい、では困る」
アデリナが目を見開いた。
エドガーは笑った。
「これから何度でも言う。愛している、アデリナ」
今度の涙は、落ちなかった。
アデリナは笑って、つないだ手を強く握り返した。
十年前。
二人の婚約は、家同士の都合で決められた。
けれど今日。
二人は同じ相手を、自分たちの意思でもう一度選んだ。




