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政略結婚なので、婚約者に愛されたいとは言えません  作者: よみなぎ


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1/2

愛されたいとは言えない侯爵令嬢

「アデリナ。お前に縁談が来ている」


父からそう告げられ、アデリナ・フォン・グランフェルトは目を瞬いた。


「私に、ですか?」


「レーヴェン公爵家のヴィクトル殿からだ」


それはおかしな話だった。


アデリナには十年前から婚約者がいる。


この国の王太子、エドガーだ。


「もちろん断るつもりだった。だが先方の言い分にも理はある」


父が一通の書状を机に置く。


「お前と殿下の婚約が結ばれた頃とは状況が変わった。王家と我が家を婚姻で結ぶ政治的な必要性は、以前ほど高くない」


「なるほど」


それなら理解できる。


「ヴィクトル殿も、王家との婚約が見直される可能性があるなら改めて申し込みたい、という意向だ」


「そうですか」


「どうする? お前が望むなら、この場で断るが」


いつもなら即答していただろう。


けれどアデリナは少し考えた。


「……一度、お会いしてみてもよろしいですか?」


父が目を見開いた。



アデリナには前世の記憶がある。


もっとも、十八歳になった今では、前世でどのように死んだのかさえ曖昧だ。


今の両親が本当の両親であり、グランフェルト侯爵家が自分の家。


ただ一つ。


前世から持ち込んだ知識が、アデリナの人生観に強く残っていた。


貴族の結婚とは、家と家を結ぶ契約である。


だから八歳で王太子との婚約が決まったときも、すんなり受け入れた。


政略結婚なのだから、恋愛まで要求してはいけない。


その考えは十年間変わらなかった。


問題が一つだけある。


アデリナはエドガーが好きだった。


いつからなのかは分からない。


王宮へ行く日は少し嬉しい。


褒められれば一日機嫌がいい。


他の令嬢と話しているところを見ると、ほんの少し面白くない。


けれどエドガーに伝えたことはない。


彼から言われたこともない。


エドガーは婚約者として完璧だった。


アデリナの意見を尊重し、公務について相談してくれる。


誕生日には毎年贈り物をくれる。


体調を崩せば見舞いまで届く。


けれど、それだけだ。


愛していると言われたことはない。


二人きりになっても距離を詰めてこない。


手を握ることさえ、公式行事で必要な場合くらいだった。


つまりエドガーは、自分を将来の王太子妃として大切にしている。


仕事仲間として信頼してくれている。


十分ではないか。


そう思っていた。


昨日までは。


「……必要がなくなったのなら、話は別よね」


今ならエドガーは、政略結婚から自由になれる。


本当に好きな女性を選べる。


もしかすると、すでにいるのかもしれない。


自分という婚約者がいるから、何も言わないだけで。


そう考えると胸が痛んだ。


けれど好きな人だからこそ、幸せになってほしい。


ヴィクトルとの縁談は、そのための出口になるかもしれなかった。



「お嬢様。こちらでよろしいでしょうか?」


侍女のニーナが二着のドレスを並べた。


数日後。


ヴィクトルとの面会を明日に控え、アデリナは衣装を選んでいた。


淡い青と、若草色。


「緑にするわ」


「青ではなく?」


「殿下は青がお好きだけれど、今回は殿下と会うわけではないでしょう?」


ニーナの手が止まった。


「お嬢様」


「何?」


「殿下がお好きなのですか?」


「ええ。大好きよ」


ニーナが黙った。


アデリナは首を傾げる。


「どうしたの?」


「いえ……」


ニーナはしばらく何かを考えてから聞いた。


「では、なぜ別の方との縁談を?」


「殿下が私を好きとは限らないでしょう?」


「殿下は婚約解消を望んでいらっしゃるのですか?」


「聞いていないわ」


「他に好きな女性がいらっしゃるとか?」


「それも知らないけれど」


ニーナが深く息を吸った。


「お嬢様。一つだけよろしいですか?」


「ええ」


「政略結婚でなかったら、誰と結婚したいのです?」


アデリナは答えられなかった。


「家も王家も関係ありません。お嬢様がお好きな方を一人だけ選んでよいのなら?」


答えは最初から分かっていた。


「……殿下」


「では、殿下と結婚なさればよろしいではありませんか」


「でも、私だけの気持ちで殿下を縛れないでしょう?」


「でしたら、せめて殿下にも聞いてください」


アデリナは黙った。


「殿下のために婚約を解消なさるのでしょう?」


「ええ」


「ならば殿下がそれを望んでいるか、確認するべきです」


言われてみればその通りだった。


自分はエドガーのためだと言いながら、一度も彼の意思を確認していない。


「……そうね」


アデリナは頷いた。


「ちゃんと殿下にも聞くわ」


ニーナがほっとしたように笑った。


「それがよろしいかと」


「でも明日はヴィクトル様と会う」


「よろしいのですか?」


「約束したもの。一方的に取り消す方が失礼でしょう?」


それに。


ヴィクトルは自分へ正式に求婚してくれた。


ならば自分も、きちんと向き合うべきだ。



翌日。


ラフィール庭園で会ったヴィクトルは、アデリナが知る通りの男性だった。


穏やかで、教養があり、話していて楽しい。


ヴィクトルはいずれ南西部の領地を任される予定だという。


港を中心に発展した土地で、近年は学校の整備にも力を入れているらしい。


アデリナも侯爵家の領地経営には関わっている。


話題には困らなかった。


政治の話をして。


領地の話をして。


最近読んだ本の話になった。


「『北方諸国交易史』は読みましたか?」


「ええ。面白かったです」


「私もです。あれは数字が多いので敬遠されがちですが、港湾政策の章などは――」


「あの本なら、殿下の執務室にもありました」


言ってから気づいた。


ヴィクトルが黙っている。


「……申し訳ありません」


「なぜ謝るのです?」


「今、ヴィクトル様とお話ししているのに」


「構いませんよ」


ヴィクトルは少し笑った。


それから何気ない調子で尋ねた。


「アデリナ嬢は、エドガー殿下がお好きなのですね」


アデリナは言葉に詰まった。


たった一度。


それだけで分かってしまうのか。


「……はい」


「では、なぜ私との縁談を?」


アデリナは正直に説明した。


自分とエドガーは政略結婚であること。


今は政治的な必要性が薄れていること。


ならば彼を自由にした方がよいのではないかと思っていること。


ヴィクトルは黙って聞いていた。


「では、殿下があなたを愛していたら?」


胸が跳ねた。


ほんの一瞬だけ。


ありえない期待をしてしまった自分が恥ずかしい。


「それはないと思います」


「なぜ?」


「言われたことがありませんから」


ヴィクトルは何か言いかけて、やめた。


代わりに姿勢を正す。


「では私も、曖昧にするのはやめましょう」


アデリナを見る。


「私はあなたが好きです。だから求婚しました」


真っ直ぐだった。


アデリナは驚いた。


「王太子との婚約を解消するための相手になるつもりはありません」


「はい」


「もし私を選んでくださるなら、私はあなたを大切にします」


そしてヴィクトルは笑った。


「ですから、殿下のためではなく、ご自分のために選んでください」


その言葉は、昨日ニーナから言われたこととよく似ていた。


「……ありがとうございます」


アデリナは頭を下げた。


ヴィクトルは良い人だ。


もしエドガーがいなければ。


そう考えてしまった時点で、答えはほとんど出ていた。



翌日。


王宮で公務を終えたあと、アデリナは席を立たなかった。


エドガーが不思議そうに見る。


「どうした?」


「殿下。以前申し上げた、婚約のお話なのですが」


エドガーの表情が少し硬くなった。


「……ああ」


「私たちの婚約は、十年前に王家とグランフェルト家のために結ばれました」


「そうだな」


「ですが今は、その必要性も以前ほど高くありません」


エドガーは黙って聞いている。


昨日、ヴィクトルから言われた言葉が蘇った。


――ご自分のために選んでください。


ニーナにも同じことを言われた。


本当は分かっている。


自分はエドガーと結婚したい。


それでも。


自分がそう望んでいるからという理由だけで、彼の人生を縛りたくなかった。


「ですから、一度、婚約を見直してもよいのではないでしょうか」


言った。


胸が痛い。


エドガーはしばらく何も言わなかった。


引き止めて。


そんな願いが浮かんだ。


たった一言でいい。


嫌だと言ってくれたなら。


自分を選んでくれたなら。


きっと全部投げ出してでも、この人と結婚すると言えるのに。


「それが、君の望みなのか?」


アデリナは答えられなかった。


言えばいい。


違います。


私はあなたと結婚したい。


けれど、それでは結局、自分の気持ちを彼へ押しつけることになる。


「私は……殿下に幸せになっていただきたいです」


「そうか」


エドガーが視線を落とした。


やがて顔を上げる。


いつもの穏やかな表情だった。


「少し考えさせてくれ」


「……はい」


それだけだった。


嫌だとは言ってくれなかった。


婚約を続けたいとも。


アデリナは笑った。


ちゃんと笑えたと思う。


「では、今日は失礼いたします」


「ああ」


部屋を出る。


扉が閉まった。


そこで初めて、足が止まった。


終わってしまう。


十年間、ずっと隣にいると思っていた人と。


もう王宮へ来る理由もなくなる。


誕生日の贈り物も届かない。


公務について意見を求められることもない。


いつかエドガーの隣には、自分ではない女性が立つ。


その女性にはきっと、彼が選んだ宝石を贈るのだろう。


手を取って。


愛していると伝えて。


自分が欲しかったものを、全部。


「……嫌だ」


誰もいない廊下で、初めて口にした。


嫌だった。


自由にしてあげたいなんて嘘ではない。


彼には幸せになってほしい。


それでも。


その幸せの隣にいるのが自分ではないことが、こんなに苦しいとは思わなかった。


涙が落ちた。


慌てて拭う。


自分で決めたことなのに。


自分から終わらせようとしたのに。


今さら泣く資格などない。


政略結婚なのだから。


愛されることまで望んではいけない。


十年間、そう思ってきた。


でも本当は。


一度でいいから。


「愛している」と言ってほしかった。


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