愛されたいとは言えない侯爵令嬢
「アデリナ。お前に縁談が来ている」
父からそう告げられ、アデリナ・フォン・グランフェルトは目を瞬いた。
「私に、ですか?」
「レーヴェン公爵家のヴィクトル殿からだ」
それはおかしな話だった。
アデリナには十年前から婚約者がいる。
この国の王太子、エドガーだ。
「もちろん断るつもりだった。だが先方の言い分にも理はある」
父が一通の書状を机に置く。
「お前と殿下の婚約が結ばれた頃とは状況が変わった。王家と我が家を婚姻で結ぶ政治的な必要性は、以前ほど高くない」
「なるほど」
それなら理解できる。
「ヴィクトル殿も、王家との婚約が見直される可能性があるなら改めて申し込みたい、という意向だ」
「そうですか」
「どうする? お前が望むなら、この場で断るが」
いつもなら即答していただろう。
けれどアデリナは少し考えた。
「……一度、お会いしてみてもよろしいですか?」
父が目を見開いた。
◇
アデリナには前世の記憶がある。
もっとも、十八歳になった今では、前世でどのように死んだのかさえ曖昧だ。
今の両親が本当の両親であり、グランフェルト侯爵家が自分の家。
ただ一つ。
前世から持ち込んだ知識が、アデリナの人生観に強く残っていた。
貴族の結婚とは、家と家を結ぶ契約である。
だから八歳で王太子との婚約が決まったときも、すんなり受け入れた。
政略結婚なのだから、恋愛まで要求してはいけない。
その考えは十年間変わらなかった。
問題が一つだけある。
アデリナはエドガーが好きだった。
いつからなのかは分からない。
王宮へ行く日は少し嬉しい。
褒められれば一日機嫌がいい。
他の令嬢と話しているところを見ると、ほんの少し面白くない。
けれどエドガーに伝えたことはない。
彼から言われたこともない。
エドガーは婚約者として完璧だった。
アデリナの意見を尊重し、公務について相談してくれる。
誕生日には毎年贈り物をくれる。
体調を崩せば見舞いまで届く。
けれど、それだけだ。
愛していると言われたことはない。
二人きりになっても距離を詰めてこない。
手を握ることさえ、公式行事で必要な場合くらいだった。
つまりエドガーは、自分を将来の王太子妃として大切にしている。
仕事仲間として信頼してくれている。
十分ではないか。
そう思っていた。
昨日までは。
「……必要がなくなったのなら、話は別よね」
今ならエドガーは、政略結婚から自由になれる。
本当に好きな女性を選べる。
もしかすると、すでにいるのかもしれない。
自分という婚約者がいるから、何も言わないだけで。
そう考えると胸が痛んだ。
けれど好きな人だからこそ、幸せになってほしい。
ヴィクトルとの縁談は、そのための出口になるかもしれなかった。
◇
「お嬢様。こちらでよろしいでしょうか?」
侍女のニーナが二着のドレスを並べた。
数日後。
ヴィクトルとの面会を明日に控え、アデリナは衣装を選んでいた。
淡い青と、若草色。
「緑にするわ」
「青ではなく?」
「殿下は青がお好きだけれど、今回は殿下と会うわけではないでしょう?」
ニーナの手が止まった。
「お嬢様」
「何?」
「殿下がお好きなのですか?」
「ええ。大好きよ」
ニーナが黙った。
アデリナは首を傾げる。
「どうしたの?」
「いえ……」
ニーナはしばらく何かを考えてから聞いた。
「では、なぜ別の方との縁談を?」
「殿下が私を好きとは限らないでしょう?」
「殿下は婚約解消を望んでいらっしゃるのですか?」
「聞いていないわ」
「他に好きな女性がいらっしゃるとか?」
「それも知らないけれど」
ニーナが深く息を吸った。
「お嬢様。一つだけよろしいですか?」
「ええ」
「政略結婚でなかったら、誰と結婚したいのです?」
アデリナは答えられなかった。
「家も王家も関係ありません。お嬢様がお好きな方を一人だけ選んでよいのなら?」
答えは最初から分かっていた。
「……殿下」
「では、殿下と結婚なさればよろしいではありませんか」
「でも、私だけの気持ちで殿下を縛れないでしょう?」
「でしたら、せめて殿下にも聞いてください」
アデリナは黙った。
「殿下のために婚約を解消なさるのでしょう?」
「ええ」
「ならば殿下がそれを望んでいるか、確認するべきです」
言われてみればその通りだった。
自分はエドガーのためだと言いながら、一度も彼の意思を確認していない。
「……そうね」
アデリナは頷いた。
「ちゃんと殿下にも聞くわ」
ニーナがほっとしたように笑った。
「それがよろしいかと」
「でも明日はヴィクトル様と会う」
「よろしいのですか?」
「約束したもの。一方的に取り消す方が失礼でしょう?」
それに。
ヴィクトルは自分へ正式に求婚してくれた。
ならば自分も、きちんと向き合うべきだ。
◇
翌日。
ラフィール庭園で会ったヴィクトルは、アデリナが知る通りの男性だった。
穏やかで、教養があり、話していて楽しい。
ヴィクトルはいずれ南西部の領地を任される予定だという。
港を中心に発展した土地で、近年は学校の整備にも力を入れているらしい。
アデリナも侯爵家の領地経営には関わっている。
話題には困らなかった。
政治の話をして。
領地の話をして。
最近読んだ本の話になった。
「『北方諸国交易史』は読みましたか?」
「ええ。面白かったです」
「私もです。あれは数字が多いので敬遠されがちですが、港湾政策の章などは――」
「あの本なら、殿下の執務室にもありました」
言ってから気づいた。
ヴィクトルが黙っている。
「……申し訳ありません」
「なぜ謝るのです?」
「今、ヴィクトル様とお話ししているのに」
「構いませんよ」
ヴィクトルは少し笑った。
それから何気ない調子で尋ねた。
「アデリナ嬢は、エドガー殿下がお好きなのですね」
アデリナは言葉に詰まった。
たった一度。
それだけで分かってしまうのか。
「……はい」
「では、なぜ私との縁談を?」
アデリナは正直に説明した。
自分とエドガーは政略結婚であること。
今は政治的な必要性が薄れていること。
ならば彼を自由にした方がよいのではないかと思っていること。
ヴィクトルは黙って聞いていた。
「では、殿下があなたを愛していたら?」
胸が跳ねた。
ほんの一瞬だけ。
ありえない期待をしてしまった自分が恥ずかしい。
「それはないと思います」
「なぜ?」
「言われたことがありませんから」
ヴィクトルは何か言いかけて、やめた。
代わりに姿勢を正す。
「では私も、曖昧にするのはやめましょう」
アデリナを見る。
「私はあなたが好きです。だから求婚しました」
真っ直ぐだった。
アデリナは驚いた。
「王太子との婚約を解消するための相手になるつもりはありません」
「はい」
「もし私を選んでくださるなら、私はあなたを大切にします」
そしてヴィクトルは笑った。
「ですから、殿下のためではなく、ご自分のために選んでください」
その言葉は、昨日ニーナから言われたこととよく似ていた。
「……ありがとうございます」
アデリナは頭を下げた。
ヴィクトルは良い人だ。
もしエドガーがいなければ。
そう考えてしまった時点で、答えはほとんど出ていた。
◇
翌日。
王宮で公務を終えたあと、アデリナは席を立たなかった。
エドガーが不思議そうに見る。
「どうした?」
「殿下。以前申し上げた、婚約のお話なのですが」
エドガーの表情が少し硬くなった。
「……ああ」
「私たちの婚約は、十年前に王家とグランフェルト家のために結ばれました」
「そうだな」
「ですが今は、その必要性も以前ほど高くありません」
エドガーは黙って聞いている。
昨日、ヴィクトルから言われた言葉が蘇った。
――ご自分のために選んでください。
ニーナにも同じことを言われた。
本当は分かっている。
自分はエドガーと結婚したい。
それでも。
自分がそう望んでいるからという理由だけで、彼の人生を縛りたくなかった。
「ですから、一度、婚約を見直してもよいのではないでしょうか」
言った。
胸が痛い。
エドガーはしばらく何も言わなかった。
引き止めて。
そんな願いが浮かんだ。
たった一言でいい。
嫌だと言ってくれたなら。
自分を選んでくれたなら。
きっと全部投げ出してでも、この人と結婚すると言えるのに。
「それが、君の望みなのか?」
アデリナは答えられなかった。
言えばいい。
違います。
私はあなたと結婚したい。
けれど、それでは結局、自分の気持ちを彼へ押しつけることになる。
「私は……殿下に幸せになっていただきたいです」
「そうか」
エドガーが視線を落とした。
やがて顔を上げる。
いつもの穏やかな表情だった。
「少し考えさせてくれ」
「……はい」
それだけだった。
嫌だとは言ってくれなかった。
婚約を続けたいとも。
アデリナは笑った。
ちゃんと笑えたと思う。
「では、今日は失礼いたします」
「ああ」
部屋を出る。
扉が閉まった。
そこで初めて、足が止まった。
終わってしまう。
十年間、ずっと隣にいると思っていた人と。
もう王宮へ来る理由もなくなる。
誕生日の贈り物も届かない。
公務について意見を求められることもない。
いつかエドガーの隣には、自分ではない女性が立つ。
その女性にはきっと、彼が選んだ宝石を贈るのだろう。
手を取って。
愛していると伝えて。
自分が欲しかったものを、全部。
「……嫌だ」
誰もいない廊下で、初めて口にした。
嫌だった。
自由にしてあげたいなんて嘘ではない。
彼には幸せになってほしい。
それでも。
その幸せの隣にいるのが自分ではないことが、こんなに苦しいとは思わなかった。
涙が落ちた。
慌てて拭う。
自分で決めたことなのに。
自分から終わらせようとしたのに。
今さら泣く資格などない。
政略結婚なのだから。
愛されることまで望んではいけない。
十年間、そう思ってきた。
でも本当は。
一度でいいから。
「愛している」と言ってほしかった。




