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最終回

 ――あれから、八年の時が過ぎた。


 その後、マキと君貴にわかったのは、レオンの死といったものは決して乗り越えられるものでもなければ、乗り越えてそこから再び立ち直る……といったものでもないということだった。むしろ、『自分たちはこれを決して乗り越えられもしなければ、再びそこから立ち直ろうなどと考えなくていいのだ』ということ、それがふたりの間の了解事項だった。


 もちろん、レオンの壊したテレビに換えて新しいものを購入したし、彼の壊した壁は君貴がホームセンターで工具や材料類を買って修復したとはいえ(マキはそれまで知らなかった君貴の器用さに、驚いたものである)、マキと君貴の中でレオンが同じように残していった喪失感は、決して癒されるということがなかった。せいぜいのところを言って、八年経った今も――前は直径九センチだった穴が、8.5センチにはなったかという程度のものだったに違いない。


 結局、マキがその後出産した二番目の子は、レオンの子ではなかった(ように、彼らには思われた)。君貴もマキも、出産直後から金の巻き毛だの、青い瞳といった間違いなくレオンの子だとの特徴を期待していたが、その女の子は黒い瞳に黒い髪をしていて、出産直後は特に、純日本産のお猿さん……といったようにしか見えなかったものである。だが、ふたりは決して希望を捨てなかった。大きくなるに従い、ハーフっぽい顔立ちをするようになるかもしれないし、「間違いなくレオンの子ではないか」との特徴を備える可能性だって――ないとは決して言えないではないか。


 ふたりの間で、そのように口に出して取り決めたわけではなかったが、彼らは遺伝子検査をする気など毛頭なかったし、周囲の人々がその赤ん坊を見て「鼻筋と輪郭はどことなく君貴に似てるんじゃない?」とか、「あら、わたしは目のぱっちりしたところが赤ん坊の時の君貴そっくりだと思うけど」だのと語っていても――適当に相槌を打つだけで、あまり本気にしてなかったものである。


 そして、その真子マコと名づけられた子は、大きくなるに従い、時にマキと君貴の間で「斜め四十五度くらいの角度から見ると、ちょっとレオンに似ているな」と言われたり、「白人みたいに肌の白いところがレオンの遺伝子を受け継いでるんじゃないかしら」と言われつつ育っていくということになる。真子という古風な名前については、レオンがお腹の子が女の子とわかってから、一生懸命辞書などで調べ、そう決めていたものだった。


『ほら、マキのお母さんの名前が真知子だろ?それで、マキの名前が麻貴だから……麻子もいいかなって思ったりしたんだけど、僕とマキの間に生まれた真実の子っていう意味で、真子ってどうかなと思って』


 レオンは、十七歳で日本へ初来日して以来、ずっと日本文化といったものに興味を持ってきたとはいえ――実際に暮らして日本人の一般的生活といったものを間近で見たのは、最後の三年くらいなものである。ゆえに、今時は~子とか~美、というのはだんだん名前として古くさいとされて来ている……といったことまでは当然わからなかったといえる。


 マキにしても、(ちょっとダサいかな……)と一瞬思わないでもなかった。何より、子供が大きくなった時、『なんでパパとママは、もっとわたしにハイカラな名前をつけてくれなかったのよお』と文句を言われる可能性がないとは言えない。けれど、レオンがそう決めるまでに辞書を引き引き相当悩んだらしい――と知っている彼女としては、「いいんじゃない?」としか言えなかった。『わたしとレオンとの間の、真実の子……すごくいい名前だと思うわ』と。何より、レオンが自分の母親のことまで考えてくれたということが、マキには嬉しいことだったのである。


 子供たちは、貴史が十一歳、真子が八歳と、随分大きくなった。貴史はそれほど親から強制されたということもなく、ばあばの元へ通い、ピアノを習い覚えるようになり……真子は六歳の頃からバレエをはじめた。というのも、マキがもともとバレエが好きで憧れを持っていたということもあるが、とにかく真子は元気な子で、意味もなくしょっちゅう飛び跳ねては、体のあちこちに痣まで作っているような子だったのである。そこでマキは(これは何か運動でもさせたほうがいいのだろう)と思い、体操教室とバレエ教室へ連れていったわけである。そして、このふたつの中で真子が一目惚れしたのが――言うまでもなく、バレエのほうだったというわけなのだ。


 その後、君貴は確かに東京にも建築事務所を構えたわけだが、そちらがある程度落ち着くと、再び世界中を転々とするような生活をはじめ……二週間ほど、東京の事務所のほうに落ち着いていることもあるにはあるが、それより多いのはやはり、月に三度も帰ってくれば多いほう――といった、前と同じサイクルを繰り返すようになっていたといっていい。


 マキのほうでそのことに不満はなかったし、何より彼は彼女や子供たちが必要とする時には家にいてくれるのだ。たとえば、夏休みや冬休みには必ず海外旅行やスキーなどに連れていってくれる。マキ自身は旅行もスキーもどうでも良かったが、子供たちの成長のために大切なことだと思い、一生懸命英会話のほうを習い覚えたりしていたものである。


 実をいうと、君貴の生活が結局のところ前と同じように戻ってしまったのには、ある理由があった。中国に、レオン・ウォンの名前を冠した音楽ホールが出来ることになり――その依頼が君貴の元へ舞い込んできたのであった。


 その依頼があった時、「あいつら、あの本読んでねえのかな」などと、君貴は岡田に呟いていたわけだが、君貴はその<レオン・ウォン・ホール>建設のため、一時的に中国に住むことさえしてこのプロジェクトに取り組んだ結果として――世界全体として見た場合、東京と北京は確かに近くはあるにせよ、なかなか日本へ帰ってくるという回数が減ってしまったのである。


 とはいえ、<レオン・ウォン・ホール>を君貴の出来得る限り理想に近い形で建設するためには、すでに経験豊富なはずの彼をして、相当の骨折りが待っていたといえる。君貴が帰国のたびにこのあたりの愚痴をしつこいくらい聞かせた結果として……マキもまた家族で中国へ移住し、夫のことを支えようかと深刻に悩んだことさえあったほどである。


 だが、君貴が悩み労し、苦しんだ歳月は結果として報われた。自身の意向を完全にとまではいかないまでも、ある程度押し通す、あるいは周囲を説得する術を身に着けたことで――その音楽ホールは君貴にとって<レオン・ウォン>の名を冠するに相応しい、世界有数の壮麗な音楽ホールとして完成した。


 実をいうと、レオンが彼宛てに残した遺書を君貴が発見したのは、彼の死後、三か月以上もしてからのことだった。ロンドンのチェルシーの自邸は、君貴にとってレオンとふたりだけの思い出が詰まった場所であるため、彼にとってそこは今となっては訪れるのがつらい場所だった。だが、いつまでもそのように避け続けるわけにもいくまいと思い、ロンドンの事務所へ行った際、そちらへも寄ることにしたわけである。


 レオンの自分宛ての遺書を大理石のマントルピースの上に発見した時……君貴は心と手が震えた。読む前から激しい動悸に襲われ、彼のために流すための涙は流し尽くした――そのように思われた双眸からは、再び涙が溢れだしてきたものである。


 確かに、レオンが所属していたエージェンシーのロイ・シェパードから例の原稿の存在を聞かされた時から、君貴は(おかしいな)と感じてはいた。そのような原稿を残しておきながら、自分には手紙ひとつないというのは……いや、レオンもそのくらい精神的に切羽詰まっていたのだろう、結局のところそんなふうに考え、君貴は自身のことを納得させていた。


 君貴は手紙の最初の数行を読んだだけで、目頭を押さえていた。レオンが自分に遺書さえ残さず死ぬなんてありえない――だが、自分は失念していたのだ。こここそは、自分と彼とが何度となく逢瀬を重ね、数え切れないほど深く愛し合った場所だというのに……。


 そして、手紙に書かれた内容は君貴の心を押し潰してあまりあるものだった。また、涙で視界が曇るあまり、時々読むのを中断し、再び読みはじめる――ということを繰り返す中で、君貴にもレオンが死を選び取った理由、そのおぼろげな輪郭のようなものが見えてきた。だが無論、手紙にもあるとおり、彼の心の最奥にあったであろう深い暗闇についてまでは理解できなかった。仮にどんなに愛しあっていたにせよ、心のこの部分までは理解しきれない……そうした部分というのはどんな人間にも残る、という、その意味については理解できたにしても。


「おまえは本当に、見事な奴だったよ。そして、よく頑張っていい人生を生きた。そのことを否定する人間は、この地上に誰もいないよ……」


 だが、ウォン・ヨウランがレオンの自殺を予見できなかったように(あるいは彼女は、予見してはいたが、それでも構わないと思っていたのだろうか?)、レオンもまた、ヨウランの自殺を予測してはいなかったらしい。自分の死を受けて、精神に病いを来たす可能性もある……といったようには予想していたにしても。


(確かに、レオンの死を受けて、わかっているだけで五人もの人間が後追い自殺をした。また、リストカットしたり睡眠薬を大量に飲んだが助かった……という女性であれば、軽く二十数人を越えるんだからな。だが、これから決死の覚悟で死のうとしている人間に、それ以上のことをあれこれ考えろなんていうこと自体、そもそも無理な話だ)


 君貴は、レオンの遺書をしっかり一読したあと、自分の涙の跡の残る空色の便箋を畳んだ。いつかまた、読むことは必ずあるにしても……とりあえず今暫くの間はもう一度読み返したいとは思えなかった。あれから三か月が過ぎたとはいえ、マキも君貴も、胸の奥に痛みを覚えずにレオンのことを思いだすということはない。ただ、涙の流れる回数だけは少しずつ自然と減っていったというそれだけだ。


「ごめん、レオン……マキはそろそろ出産時期なんだ。今この手紙を見せれば、かなりのところ動揺して、また色々考えはじめるだろう。もちろん、今も毎日あいつはおまえのことを想っているさ。マキと過ごした最後の三年もの時が、人生で一番幸せだったと……そのことは必ず伝えるよ。だが、手紙にそう書いてあったと知れば、マキは俺宛ての手紙にこそもっとも大事なことが書いてあったに違いないと思い、気にするだろう。だから、そんな手紙が存在するということを知らせるなら、俺はあいつにおまえの手紙を読ませなきゃならない。だから、もう少し待ってくれないか?」


 君貴は、スーツの内ポケットにレオンの手紙をしまいこむと、誰にともなくそう話しかけていた。そして、この日の夜――君貴は久しぶりにレオンとの思い出の詰まったこの屋敷で眠った。何分、出産予定日はまだもう少し先とはいえ、早ければいつ生まれてもおかしくない時期でもある。君貴は貴史の時とは違い、今度はマキについていてやりたかったため、明日には日本へ戻るつもりであった。


 そして、君貴がレオンのことを想いながら、ふたりで何度となく愛しあったベッドで眠りについたこの夜……彼は夢を見た。イメージとしては、イギリスのコッツウォルズあたりの田舎といった雰囲気で、丘陵を見下ろす小高い丘の上に、城が一軒建っている。城、といっても、ドイツにあるノイシュヴァンシュタイン城のような大きなものではなく、城壁に囲まれているわけでもなかった。


 君貴が緑に囲まれた田園風景の中を歩いていくと、遠くに羊のような生き物がいて、草を食んでいるようだった。おそらく、丘の上の城に住む城主が、このあたり一帯の土地を治めているのではないだろうか。


 牛乳のように白い壁の城は、広い庭に囲まれていた。ライオンのノッカーのついた深緑色の門扉を開き、中へ入っていくと、ピンクや白、黄色い薔薇が前庭には咲き乱れている。城のファザードは、ダンテの地獄の門を思わせるような精緻な彫刻によって出来ており――上品な青や白、金で構成されていて、君貴はとても強く聖なる印象のようなものを受けた。だが、その彫刻が何をモチーフにしたものなのかまではわからなかったし、これは君貴が目覚めたあとで思ったことなのだが、雨が降ったらあの見事な彫刻群はダメージを受けたりしないのだろうかと思ったりもした。


 重厚な城の入口のほうは半分開いていて、まるで君貴のことを招いてでもいるかのようだった。もちろん、普通に考えた場合、城自体がなんらかの意思を持っているとは考えにくい。だが、その扉をくぐった時、君貴は確かに(誰かが喜んでいるらしい)といったような感情をはっきり胸に覚えたのである。


 玄関ホールのところには、深い銀の水盤や鉢に恐ろしいばかりに透明な水が満々と満たされ、白いロータスの花がいくつも浮かんでいた。君貴が金の枝葉が巻きついた大理石の円柱が並ぶ廊下を歩いていくと、庭のほうへ通じるテラスの窓が開いている。そこを蝶のようにも蛾のようにも見える翅のある生き物がそよ風に乗って横切っていく。


 そして、その窓の前には、大きな噴水があった。窓の外の庭に、ではなく、室内にである。君貴はその噴水の縁に腰かけると、玄関ホールの水盤や鉢に満たされている水と、それが同種のものであろうと認めた。噴水の上部では凛々しい顔立ちのライオンの像がこちらを見下ろし、その足許から水が流れてくるのであったが、かなりの量水が流れ落ちてきても、それは決して外のほうまで溢れでるということがなかった。


 君貴は暫くの間そこで、ぼうっとしていた。何か大切なことを忘れている気がしたが、<水>というものの本質そのものに魅入られでもしたように――かなりのところ馬鹿らしいこと、「そもそも水とは一体何か」ということを考えていた。けれど、水の表面に手を触れようとしたその瞬間、ハッとしてその場から立ち上がっていた。


 何故なのかはわからないが、君貴は(自分には他にやるべきことがある)とわかっていた。そこで、まるで外の庭から移してでも来たように生えるオリーブやミルトスの木の間を縫って、さらにその奥のほうへと進んでいった。風もないのにそれらの緑たちは揺れ、まるで君貴に挨拶でもしているようだったが、彼のほうでは特に何か声をかけたり、握手したいようには思わなかった。君貴にはただ、この城のどこかに、間違いなくレオンが存在しているとわかっていたのだ。だが、決して焦りはしない。それはそのくらいはっきりとした強い確信であり、魂に直接直感されるような事柄でもあった。


 君貴は結局この時、何か目に見えない存在に導かれるように、城の奥まった場所にある部屋のほうへ入っていった。ここまでやって来るまでの間、君貴は似たようなドアであればいくつも見ていたが――半分開いていて、(どうやらあそこなら入ってもいいらしい)と理解できたのは、そこだけだったのである。


 そこは広くもなければ狭くもないような感じの部屋で、中世の王侯貴族の書斎といった雰囲気を備えていた。君貴はその部屋の中央にあったロイヤルブルーのソファに座り、なんとなく天井を見上げた。神や天使や鳥といったイメージの絵画が自分を見下ろしていたものの――君貴の目にはそれがあまりに高いところにあって、自分が果たしてそれを本当に『見て』いるのかも、よくわからなかったものである。


 このあと、君貴は本の並ぶ書棚の横に、黄金の柱時計があるのに目を留めた。時計の針のほうは止まっていたが、夢の中の君貴はそのことを特に気にしなかった。ただ、彼にはこの時あるひとつのことだけがわかっていたのである。この城の<どこかに>レオンがいることだけは間違いない……その気配を君貴ははっきりと強く感じていた。そのことに疑いの余地はまったくなかった。だが、まだその<時>ではないので、彼には会えない――そのことに気づくと同時、君貴は夢から覚めていたのである。


 君貴はキングサイズのベッドの上で、体をびくりとさせて目が覚めた。(夢か……)と思ったが、普段見ている夢よりも映像のほうがあまりに鮮明で、印象が綺麗すぎるあまり、何故か悲しくなる……といったような印象さえ、彼は胸に覚えていた。


 けれど、夢のどこにもレオンの姿は見出せなかったにも関わらず、君貴は今自分の見た夢がレオンと――正確にはレオンの魂と、と言うべきだろうか?――間違いなく関係があるとわかっていた。何より、城の外部や中のあちこちに散見されたライオンのモチーフ……どうやらあれはレオンに関係したものらしいと君貴は直感してもいた。


『あ~あ。それにしてもレオン・ウォンって超ダサい名前だよね』


 レオンがベートーヴェンのピアノソナタ全集を完成させた時、そのボックスの表紙は例に洩れず彼の顔のアップだった。しかもどこか挑戦的かつ、不敵な笑みを頬に刻んでもいる。そして、その顔の横には『Leon Wang』とあった。


『おまえにはレオン・キングって元の立派な名前があるんだろ?中国のウォン家に引き取られてくる前のさ。プロのピアニストになった時、改名すりゃ良かったのに』


『なんかさ、そんなことまで気が回らなかったんだよ。それに、財産をもらったらすぐに改名してウォン家とはもう一切何も関係ありません……って言ってるみたいで、なんとなく抵抗があったっていうのもある。あと、字面的にライオン・キングみたいだっていうのもあるしさ』


『ふうん。そんじゃ、こうすりゃいいだろ。レオン・ウォン・キングだ。これなら、ウォン家の義理にも応えつつ、元のおまえが所属するキング家の家系にも申し訳が立つだろ?』


『ええ~っ!?そんなの、ダサすぎてお話にもならないよ。なんにしてももう、ピアニスト、レオン・ウォンでここまでやって来ちゃった以上、仕方ないって話さ。ただ、CDが一枚出たりするたんびに、自分の顔の横にLeon Wangってあるのを見ては、「世の中ままならないな」と思って溜息が出るっていう、それだけの話だよ』


 君貴は、ずっと昔にしたそんな会話のことを、この時不意に思いだしていた。そして、今自分が見た夢は、何か大切な意味があるのではないかと思い――まだ夜中の三時過ぎではあったが、ガバリと起きて夢の中で見たレオンの住まいらしき城の外観や内部で見たものについて、思いだせる限りなるべく細かく素描しておくことにしたのである。


 そして、この夢を見た約二年後、自分を指名する形で<レオン・ウォン・ホール>の依頼が来たため……君貴はこの時夢の中で見たモチーフを使いたく思ったわけだが、実はこの点がもっとも君貴が政府の役人たちと粘り強く交渉しなければならない点でもあったわけである。


 夢の記憶が薄れぬうちにと、設計用紙に鉛筆でレオンの住んでいる(と思しき)城館の外観のみならず、庭の様子や城の内部で見たものすべてについて事細かく描いていくうちに――君貴はふと、再びレオンとしたことのある会話が脳裏に思い出されてきた。確か、彼の記憶に間違いがなければ、出会って間もなく体の関係を持つようになり……お互いの過去についてもあれこれ話すようになった頃のことである。


『ふうん。じゃあ、君貴は神さま肯定派なんだね』


 ベッドに横になったまま、ナイトテーブルの煙草を手にとると、レオンはベッドの背もたれに身をもたせかけ、煙草を吸いはじめた。


『いや、若干肯定派に近い無神論ってとこだな』


 レオンが火を点けて一服した煙草を横から奪うと、君貴はそれを自分が吸っていた。そこでレオンは(仕方ないな)というように、もう一本箱から抜いてライターで火を点ける。


『俺が言ってるのは、人間は生きていくために必ず「神はいる」という仮定を必要とするってことなんだよ。で、そこに実際神はいるかいないかはあまり関係ない。なんでも、人間の脳の中には神モジュールとも言うべき回路があるらしいな。人間が祈ったり神のことを考えたりすると、その回路のあたりが活性化するとかいうやつさ。で、人間が何か神とか幽霊とかUFOといったことに関する神秘的な経験をする時……ゴッドスポットとかいうそこらへんの脳の回路が関係してると言われたりもする。そして、嘘かほんとかは知らんが、そのゴッドスポットとやらを通って人の意識は天国へ行ったりするんじゃないかと考える奴らもいる』


『面白いね。僕は、クラシック音楽なんてやってるから、どうしてもキリスト教と無縁じゃいられないんだ。それでいくと僕はゲイだから、一般的にいって天国へは行けないということになる……君貴はさ、そういうことで悩んだりすることってないの?』


『ないな。確かあれは、旧約聖書に同性同士で愛しあってはいけないと書いてあって、あとは新約聖書でパウロは男同士で情欲に燃えるなと書いてるんだっけな。女性は女性同士で愛しあって、自然の用を不自然なものに変えてはいけない……みたいに書いてあるんだったか?ま、結局のところ聖書は編纂された書物だから、果たしてその編纂時省かれた箇所に、イエス・キリストが「同性愛はいかんぞ」と言った箇所があったかどうかまでは俺にもわからん。だが、現在の新約聖書には、イエスが直接同性愛について言及した箇所はない。キリストさまはただ、汝の隣人を自分のように愛せとおっしゃっておられるだけさ』


『僕はね……色々考える。ほら、前に話したろ?児童養護施設でそこの職員に組織的な虐待を受けたって話。まあ、人間の歴史がはじまって以来、僕のような目に遭った人間も、もっと悲惨な境遇にあった人だって、たくさんいたろう。簡単につづめて言えば、神はどうして彼らを適切な時に助けてくれないんだろうといったような話。僕は、もし神さまみたいな人がいるんなら――どうして助けてくれなかったのかと責めたい気持ちは今もある。でも、もし一言「神って奴も色々忙しくて大変なんだ。だが、おまえに起きたことに対しては大変すまなく思う」と謝ってくれたとしたら……償えっていうんじゃなく、そのあやまってくれたことに対しては正当に評価して受けとめたい気持ちはあるんだ。だけど、キリスト教では神は無罪で一度も罪を犯したことがないんだって。これだけ地上で悪を野放しにしているのに、それでも罪がないだなんておかしいじゃないか、みたいなことを、僕は昔高校の教師に問いただしてみたことがある。もちろん、相手から答えはなかったよ。僕の聖書解釈はおかしいから、ちゃんと教会で教えを受けろとか言われて終わり』


『もし、レオンの言いたいのが、何故この地上というところは悪に満ちているのか?という、そういうことであれば……まあ、やっぱりキリスト教を取っかかりにするのが、一番わかりやすいのかな。例の、聖書の最初のほうに書かれている失楽園とかいうやつ。アダムとイヴが楽園にいた蛇に騙されて、林檎をかっ食らっちまったことから――彼らは元は善のみで構成されていたにも関わらず、悪や罪や死といったもので汚されることになったわけだよな。つまり、神には罪がなく、善性のみの聖なる清い方であるから、人間は自らそのような道へ落ち込んでいったと。キリスト教的にはおそらく、神に罪のないのはこのあたりの理由からだろう。だが、レオンが言いたいのはこういうことだよな?そもそも、完璧な場所であるはずの楽園に、何故蛇などという存在がいたのか……それは全知全能であるはずの神の側の致命的なミスであり、アダムとイヴが罪を犯したのも、神のミスがそもそもの原因なのだから、神が責任を取ってしかるべきである。だが、アダムとイヴが善悪の知識の実を食ったことで、なんか色々うるさいことをごしゃごしゃ言い出したため――神の奴は「うっせえな!」と言って、ふたりのことを楽園から追いだすことにした』


『……聖書の失楽園って、そんな話だったっけ?』


 煙草をふかしつつ、不敬な語り口調で話す恋人のことを、レオンは面白がって笑った。


『まあ、いいから最後まで聞けって。その後、アダムは汗して労働し、地から生えでたものやらなんやらで自分の口を養っていかなきゃならなくなった。それで、イヴのほうでは自分を神の前で庇いもしなかった男のために生みの苦しみをしつつ、ガキを何人も生んで育てていかなきゃならなくなったわけだ。『しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配する』だって?まったく恐ろしい言葉だ。それはさておき、アダムとイヴに子供が生まれた。長男がカインで次男がアベル。ところが、このカインが弟のアベルを殺してしまう。神に捧げた捧げ物のことで、神が『アベルは良かったけど、カインはそうでもない』と言ったのが原因だった。このことにアッタマに来たカインはアベルのことをぶっ殺してしまう。兄カインによる弟の殺害は、人類初めての殺人として有名なようだが、ここでも実は悪いのは神だった。『あいつはいいけど、こいつはそうでもない』……そんな評価、わざわざいるか?第一、カインが殺意を抱いてアベルを殺害するだろうことは、神が全知全能であるならば、あらかじめわかっていたはずだ。だが、カインが善良なアベルを殺すのを――神はただ黙って見ていた。たぶん、人間がテレビでドラマを見る時みたいに、オーストラリアの大地は今どうなってるかだの、アメリカあたりの自然はどんな感じかだの、環境ドキュメンタリー番組を見るのに忙しく、そんなのを観察してる内に可哀想なアベルはあっという間に殺られちまったんだろう』


『君貴のその話でいくと、神には慈愛なんてものはなく、自分が生みだした人間が生きようが死のうがどうでもいいと思ってるみたいに聞こえるけど……』


 この時、レオンが心の中で何をどう思い考えていたかということまでは、もちろん君貴にもわからない。レオンは彼に「児童養護施設で組織的虐待にあった」とは話したが、そこには性的虐待も含まれていたとまでは言っていなかった。ただ、「そんな目に合った子もいる」と、他人のことのように語ったというそれだけだ。


『まったく、キリスト教ってやつはよく出来てるよ』


 君貴は、肺の奥から溜息でも着くみたいに煙を吐きだした。


『つまり、神の奴は放任主義なのさ。まず、聖書ってやつは天地創造からはじまる。で、たったの六日で宇宙を含めたこの地上のすべてが創造できるわけなんかない――科学者どもはそう喚くがな、問題はそんなことじゃない。とにかく、人間が生きていくのに必要最低限必要なものについては自分は備えてやったぞ、おまえら感謝しろよと神の奴は言いたいわけだ。で、そこを舞台にして、自由意志という名の元に、いいことでも悪いことでもやってみろと。そのかわり悪いことした奴は悔い改めなきゃ地獄行き、いいことした奴も、神の子であるイエス・キリストを信じてなけりゃ地獄行き……キリスト教の教義では、何かそんなことなわけだろう?ここで、神は驚くほど自分は平等だと言いたいらしい。この地上のどんな人種・民族・国の人間として生まれようとも、自分の息子であるイエス・キリストさえ信じていれば、死んだあとに天国へ行けるという意味でな。それはさておき、悪の話だ。俺にもレオンにも、悪を行う可能性というのは、今この瞬間も十分にある……まあ、悪という奴の定義にもよるが、同性同士で愛しあうことを悪と考える奴もいる。そして、この悪を行うことについては――生まれた時代や環境なんかに相当左右されるってことは、レオンにも理解できるよな?』


『そりゃそうじゃない?金持ちの家に生まれて、食べるのに困るでもなく十分な教育も受けてたら……基本的に、悪を行う機会は少なくなるだろうし、明日食べるのにも困ってるのに、富んでいる家から物を盗むなっていうのは無理な話だろうし』


『神って奴は、そういうありとあらゆるヴァリエーションを見るのが好きだってことなんじゃないかね。人が悪を行っても仕方ない状況下において、いかに耐えうるか、あるいはいい家に生まれて贅沢な暮らしをしているのに――人間が悪に堕落するということもありうる。この地上の全人類が心のどこかに悪を内包しつつ、それでも出来ることならなるべく善の実が成るほうへ手を伸ばそうとすることこそ、神の御旨に適ってるってことなんじゃないのか?汚いものに手を突っ込んで汚れてみないと、本当の善だの愛だのいうものはわからないし、深いドブの底に落っことされて這い上がった人間にしかわからない世界というやつが、この世界にはあるってことなんだろう。ゆえに、神は楽園に蛇がいることを許容したし、真実価値あるものを人間が見出すために、この世界に悪が存在することも許容した……そんなところか?』


 ここでレオンはくすくす笑いだした。実際にはただの煙草なのに、まるで大麻でも吸っている時のように。


『ふうん。でもそれでいくと君貴は、今自分のことを神と同列に置いて考えてるってことになるよ。それは流石に不敬なことなんじゃないの?』


『いや、俺は信者になろうとは思わないだけで、キリスト教というやつには感謝してるのさ。俺がなんで若干肯定寄りの無心論者かといえば、この世界で一番美しいものは何かといえば、大抵がまあ、神からきたものだからだ。クラシック音楽の起源を遡ってもそうだし、西洋の教会群といったものがなければ、俺が建築家になろうなんて気違いじみたことを思いつくこともなかっただろう。キリスト教だけじゃない。古今東西、世界のどの場所においても――人間が心をこめて何かしようということには、大体この神って奴が関わってる。文字の成り立ちってことにしてもそうだし、その他、絵画や彫刻や、最初に<神>ってことがあって、この至高の存在に精魂込めて最上のものを捧げようという時……それが人間の中でもっとも美しい行為だということは、無神論の俺にも否定は出来ない。その中でも俺はキリスト教に関係した建物・音楽・美術というやつに、ほとんど生まれつきといってもいいくらい惹きつけられるところがあった。だから、その<美>という感覚のために、聖書の矛盾なんかについては容易に許容してもいいという用意が俺のほうにはあるわけだ』


 この時、レオンは君貴のこの言葉から、あることに気づいた。自分も、彼と同じようにキリスト教における<神概念>なるものを利用することを考えればいいのだ。君貴とレオンの神に対する態度の違いについては――レオンのほうがより実践的だったということだろう。つまり、レオンの場合には十代という多感な時期に周囲に本物のキリスト教徒がおり、彼らは日曜には必ず礼拝を守り、その上人格的にも素晴らしく、その人生においても祝福されているような人々だった。


 そして、彼らの考える『悪』とは……親に嘘をついたとか、なんの値打ちもないものに熱中してお金を無駄にしてしまっただの、もしレオンが神であるなら、十分笑って許せてしまえるようなものばかりだったといえる。だが、そんな神に祝福されたが如き人々に囲まれて、レオンは本物の悪というものをすでに十分知っていればこそ、そこに深いジレンマが存在していたわけだった。


 自分の存在を神よりも上におき、思想においてのみ、キリスト教の神というものを利用する――そして、当然のように男とも愛しあう。だが、レオンの目には、阿藤君貴という男もまた、毎週欠かさず日曜礼拝を守っている人々と同じように、祝福されているようにしか見えなかった。これは、レオンにとってはとても興味深いことだったといえる。話において聞く限り(そして彼自身も自分でそうと認めているとおり)、君貴はレオンがインターナショナル・スクールで出会ったお坊ちゃま・お嬢さんと大体同じような恵まれた出自だった。にも関わらず、自分のように苦悩のゆえに神学や哲学を独自に学ぼうというのではなく、彼の場合はただ「自分の興味を引くものだから」という理由だけで、馬鹿みたいに分厚い哲学の本を何冊となく読めてしまえるのだ!


『君貴ってさ、ほんと面白いよね』


 レオンは、この屋敷の書斎にある、トマス・アクィナスの『神学大全』や『アウグスティヌス著作集』といった本のことを思いだし、笑いを禁じえなかった。


『僕はね……今この瞬間も、この世界のどこかで惨めに泣いている子供たちのことを、神の奴はどう考えているのだろう――ずっと、何かそんなことばかり考えていたんだ。神の奴はそうした子供たちひとりひとりに心をこめて謝罪すべきだと……今まで、こうした事柄に関する答えで一番近かったのは、僕の中では旧約聖書のヨブ記だった。あと、このヨブ記について心理学者のユングが書いた「ヨブへの答え」ってやつ。けど、僕の中で今、何かわかった気がする。僕も君貴みたいに考えることさえ出来れば――たぶん、生きるのが今よりずっと楽になるかもしれない』


 君貴は、神学や哲学についてのみならず、レオンと色々なことを語りあった居間のほうまで下りてきて、そこのソファで煙草を一本吸った。無用の喫煙はガンリスクを高める……これからもうひとり子供が生まれ、レオンの遺言通り彼らが無事成長するのを見届けなくてはならない身としては、こうした悪癖は一切やめにしなくてはと、君貴にしてもそうは思っていた。


(果たして、俺が適当にくっちゃべっていたろくでもない哲学なんてものは、本当にレオンに役立っていたんだろうか……)


 君貴にはわからなかった。聖書の詩篇には、『牧草地は羊の群れを着ている』という美しい表現があるが、夢の中で君貴はレオンの城へ向かう途中、美しい緑したたる牧場に、羊の群れがいるのを見た。そして羊といえば、イエス・キリストの象徴でもある。レオンが今いるのは、キリスト教における天国ということなのかどうなのか……だが、彼が今は悩みもなく苦しみもない安らかな世界にいることだけは、君貴にも妙にはっきり確信できていた。そして、それが君貴にとっての心の救いでもあった。


(あの夢の中には、俺が『レオンにこんな世界にいて欲しい』といった願望的なものは含まれていなかった。ただ、すべてがあまりに神聖な印象で……もし俺が死んだあと、魂だけの存在になって、再びレオンが住んでいるらしいあの城を訪ねていくことが出来るといいんだが……)


 そしてこの日以降――君貴の建築デザインにはある変化が起きてくるということになる。彼自身、(こうした発想は今までの俺にはなかった)といったインスピレーションが次から次へと湧いてくるようになったのである。そのことを君貴自身、自分で不思議に感じていたわけだが……その後ハッと気づいたことには、そうした変化が起きたのは、レオンの手紙を読んで以降、あの夢を見て以降のことだったのである。


 確かに、レオンの遺産的なものはすべて、レオン・ウォン基金のほうへ寄付され、慈善活動及びレオン・ウォン・ピアノコンクールなど、芸術活動において拠出されることになっていた。けれど、君貴はある意味――それ以上の大きなものを、レオン・ウォンから霊的な贈り物として貰ったということになるのかもしれなかった。




   *   *   *   *   *   *   *



「ガキどもはどうしてるんだ?」


 珍しく家にいて仕事をしていた君貴は、マドレーヌを食べながら読書していたマキに向かってそう聞いた。この日は土曜日で、彼女が今もパートで勤めている花屋のほうは休みだった。


「貴史は耀子さんのところに行ってるし、真子はバレエ教室よ。だから、電話がかかってきたら迎えにいかなきゃ」


「そうか」


 不意に、どすんとソファの隣に座ったかと思うと、急に君貴が意味ありげに、いつもとは違うキスをしてきたため――「ちょっと!」とマキは露骨に眉をしかめていた。「今、本がすごくいいところなの!」


「だって、ガキめらは暫く帰ってこないわけだろ?俺が家にいてこんなこと、滅多にないからな。それで、夫の相手をするより本が大事ってことは、よっぽどためになる素晴らしい本を読んでるんだろうな?」


「マルセル・プルーストよ。『失われた時を求めて』」


「ああ、それじゃ問題ない。どうせいつまでたっても読み終わらんだろ?それはな、老後の楽しみにでも取っとけ。登場人物が途中で誰が誰やらわからなくなってくるだろうから、『えっと、コイツ誰だっけな?』なんて調べるのがたぶん、非常にボケ防止に役立つ。ふうん、なるほど。それでマドレーヌか」


 君貴はそう言って、ピンクやグリーンや黄色といったカラフルなマドレーヌのひとつを口の中へ放り込んだ。それから、マキの飲んでいたティーカップから紅茶をがぶ飲みする。


「仕様のないひと」


 そう言うと、マキは矢車菊のワンピースの後ろを君貴のほうへ向けた。彼はそれを妻の同意と受けとめ、背中の下のほうまでファスナーを下げる。


 子供たちは帰ってこないはずではあったが、念のため、夫婦の寝室の鍵のほうはかけておいた。自分たちの関係がこんなに長く続いているのは……たぶん、君貴が家を留守にしている時間のほうが遥かに長いそのせいだろうと、マキとしてはそんなふうに感じている。


「もうひとり、子供を作らないか?」


 妻の手首から紐をほどきつつ、君貴はそう聞いた。彼らふたりの間で性的な関係に変化が起きたのは――明らかにレオンの影響だったといえる。彼がマキに君貴が本当はどんなプレイが好きか、教え込んだのだ。


「ええっ?あなたいつも言ってるじゃない!ガキなんかふたりもいればたくさんだって」


「そうなんだ。もちろん俺も、おまえの言いたいことはわかってる……だが、自分が悪いこととはいえ、本質的にあの子たちは俺に懐いてない。でも今度は、俺もきちんと子育てってやつに参加するよ。もう若手も随分育ってきたし、今度こそ家にいる時間のほうも増やすから」


「アテにならないわね」


 マキは溜息を着いて下着を着はじめた。急いでシャワーを浴びて、食事の仕度をし、それから子供たちから電話がきたら車で迎えにいってやらなくてはならない。


「わたし、今の落ち着いた生活が気に入ってるのよ。ようやく貴史も真子も手がかからなくなってきたし……手がかからないなんて言っても、まだまだこれから魔の思春期ってやつが控えてるしね。もうひとり赤ん坊を育てるなんて、今度こそ育児ノイローゼになっちゃうかもしれないわ」


 君貴は反論しなかった。そこでマキは、ワンピースを着ると、夫のほうを振り返った。彼はこういう時――というより、何かを自分の思い通りにしたい時、こちらが反論できない言葉を連ねるのが常だった。それがないことを、マキは不思議に感じたのだ。


「どうしたの?何かあった?」


「この家の中では、俺だけほんとの家族じゃない」


 マキはまだ服も着ようとしない君貴の隣に、もう一度座り直すことにした。そんなこと、彼は気にしてないように思っていたが、実はそうでもなかったのだろうか?


「べつに、貴史も真子もあなたに感謝してるわよ。わたしも、こんないいところに暮らして、何不自由なく毎日食べたり色々買ったり出来るのは、お父さんが一生懸命働いてるからなのよーなんて言い聞かせてるし」


「まあ、俺はたまにしか帰ってこないし、帰ってきても、仕事だなんだで特段親子らしい会話もない。俺はここに帰ってくると、ほとんどマキとばっかりしゃべってる。あの子たちと話すのも、おまえが間に入ってうまいこと翻訳してくれるから会話が成り立つのであって――俺にとってここは、マキがいなかったら自分の家とは思えない感じだな」


「んーと……じゃあ、こういうこと?わたしがまた妊娠して赤ちゃんを生むとするわよね?で、今度はあなたもなるべく家にいて、赤ちゃんの面倒を見るようにする……すると、自然親子の会話も増えるみたいな?だったら、犬でも飼ったほうがよくない?お父さんがワンちゃん飼ってもいいって言ったら、あの子たちきっと喜ぶわ。そしたら、犬の面倒を見る傍ら、父と子の会話も自然と増えるわよ」


「犬か……」


 君貴がふーと溜息を着くのを聞きつつ、とりあえずマキはシャワーを浴びにバスルームへ向かった。マキにも、彼の言いたいことがわからぬでもない。貴史は父親がたまに家に帰ってくると、明らかに避けていた。べつに、父親に対して反抗的な態度を取るということはなく、茶の間でも至って普通ではある。けれど、食事が終わった途端、すぐ自分の部屋のほうへ引っ込んで、あとはもう必要最低限そこから出てこない。いつも、マキと彼と真子の三人の時には、そういうことはないだけに――マキは母親として、(そういうことなのかな……)とぼんやり理解するのみだった。


 一方、妹の真子はといえば、「パパとなんて、べつに話すことなーい!」とはっきり言うタイプだった。とはいえ、時々気まぐれ的に話しかけては、「パパ、シェネって知ってるー?」などと聞きつつ、くるくる回ってみたり……だがこちらも、君貴は普段大人を相手にしている時とは違い、娘とは会話があまり長続きしないのだった。


(でもだからって、もうひとり子供なんて……流石に今度ばっかりは君貴さんに諦めてもらわなきゃ)


 マキはこの日、四人分の夕食の仕度をしながら――寝室を見ると、君貴は裸のまま寝ていた――子供たちから携帯に電話がかかってくるのを待った。チャーハンにスープ、それに貰い物のペキンダック……献立はそんなところだった。


 そして、君貴が起きてくるのと同時、携帯が鳴った。すると、「俺が迎えにいくよ」と、欠伸しつつ彼は言った。


「真子のバレエ教室なら、前にも行ったことがあるからな」


「そういえばそうだったわよね。真子ちゃん言ってたわ。若いバレエの先生なんかがキャーキャー騒いでたって。『パパもう五十のおっさんでしょお?』って不思議がってたわ。でも、自分のパパが格好よくてモテるタイプだっていうことくらいは、一応わかってるみたいよ」


「俺はまだ五十じゃないっ!よんじゅーはちだ、四十八っ!!」


 君貴が車のキィを片手に怒ったように出ていくのを見て――マキは笑った。そして、普段はあまり意識しない自分の年齢……今自分が三十五歳であることを思いだし、マキは少しばかり胸の奥が痛みだす。レオンの亡くなったのが三十七歳……いつか来ることとわかっていたとはいえ、彼が生きていた時の年齢をいずれ自分は越え、さらに歳を重ねていくことになるのだろう。


 マキは夕食の仕度がすむと、『失われた時を求めて』の続きを読むのはやめ、ピアノのある部屋のほうへ入っていった。そこで、手慰み程度の気持ちで、バッハの<インベンションとシンフォニア>を弾く。レオンがその昔、よくここで赤ん坊の貴史に向かって弾いていた曲だ。


「あの子ね……むしろ真子よりも貴史のほうが、あなたに似てる気がするのよ。不思議な感じがしない?」


 ピアノの上には、レオンの写真、それにその横には白いチューリップのドライフラワーが置いてある。以前は、写真で顔を見るのさえつらくて、レオンの写真を部屋のどこか、目につく場所に飾ることさえ……マキには考えられないことだった。けれど、確か貴史が六歳くらいの頃だっただろうか。家のCDの中で、繰り返しレオンのピアノ曲ばかり聴いていた貴史が――ピアノの上に自分の崇拝対象を飾り「大きくなったら、レオン・ウォンみたいなピアニストになる!」と、突然宣言したのだった。


 もっとも貴史は、レオンのことを覚えてはいない。あんなに「パパ、パパ」と言って懐いていたことも、最後の悲しい別れのことも何もかも……そして、マキも君貴も、レオンが「パパ」としてこの家にいた時のことを、話して聞かせたようなことも一度としてない。けれど、純粋に一人のピアニスト、今世紀最高の、至高のピアニストであるレオン・ウォンのことを何かの偶像のように崇拝しはじめたわけである。


 こうして、息子の手によって飾られたレオンの写真をピアノの上にいつでも目にするようになると――彼のことを見ても、今は涙を流さずにすむ自分のことが、マキは何か不思議だった。


「わたしがあなたを想って一番泣いたのはね、たぶん、あのあと一週間くらいしてから……白いチューリップの花束が届いた時よ。胸が潰れそうなほど、本当に悲しかった」


 そして、そのチューリップの花束のメッセージカードには、一言『ありがとう』とだけ書き記されていたのである。何故、白のチューリップだったのかも、マキにはよくわかっていた。


 レオンとマキは、広いテラスのほうで花や野菜を育てていたわけだが――そのうち、レオンは花言葉を調べだすようになった。もちろん、花言葉というのは国ごとに違ったりするものなので、この場合は日本の、ということである。そして、十月頃、来年の春に花咲くようにと、チューリップの球根を植えていた時……彼はこの時も図鑑でチューリップの花言葉を調べていた。


『ふうん。薔薇と同じく、チューリップも色ごとに花言葉が違うんだねえ。チューリップ全体の花言葉は思いやりだって。それで赤だったら、「愛の告白」とか「真実の愛」、ピンクが「愛の芽生え」、「真実の愛」、黄色が……ええーっ!?「望みのない恋」だって。なんでっ!あ、でも他に「名声」っていう花言葉もある。それで、白いチューリップが、「わたしを許してください」、「純真」だって。あと、紫のチューリップが「不滅の愛」かあ。こういうのって、一体いつ誰が、どんなふうにして決めるんだろうねえ』


『そうね。それに、国によってまた花言葉って変わってきたりもするものね。それに、もらったほうでもそんなに、花言葉まで深く考えたりしないんじゃないかしら』


『でも、フランスあたりじゃ本数にも意味あったりするんだよ。12本だったら、「恋人になって」とか「愛人になって」とか「奥さんになって」とかね。99本だったら「永遠の愛」だし、108本だったら「結婚してください」とか。僕も、マキにプロポーズする時には、薔薇の花束でも108本贈ろうかな。それに、僕たちだってこれから喧嘩するかもしれないだろ?そういう時……もし僕が白いチューリップを持ってきたら、マキ、本当に心から僕が反省してるっていうことだって、覚えててくれないかな』


『わかったわ。じゃあ、わたしもレオンに対して何かあやまりたいことがあったら、同じようにしたらいいのね』


『そういうこと!』


 ――レオンと一緒に作りはじめた庭は、その頃よりもっと大きなものになった。レオンはトマトやチャイブやイチゴやハーブや……そうしたものが収穫できるようになると、子供のように大喜びしていたものだった。もちろん、最初から何もかもうまくいっていたわけではない。時には実が実っても味が美味しくなかったり、形が悪いこともよくあった。けれど、「何かを育てる」というプロセスが、レオンにとっては何より楽しいことであるようだった。


 他に、クローゼットに残っていたレオンのヴァレンシアガのコートのポケットには、いつ購入したものかはわからないが、ティファニーのケースに入った指輪も入っていた。他に、「Happy Birthday Maki!!」と書いてあるカードも……それが何を意味していたのかは、マキにもはっきりとはわからない。


『レオンはおまえにプロポーズするつもりだったんじゃないか?』と、それを見つけた君貴は言った。『それがマキの誕生日だったかどうかまではわからん。でも、口で結婚してくれって言うつもりだったのであれば、ハッピーバースデーのカードはいらない気もするしな』


 一応、マキにも心当たりがないでもなかった。マキの誕生日は二月十四日で、その日は偶然、君貴が来ていて、彼女に花束とチョコレートを渡していた。例によって君貴はなんの前触れもなしにやって来たため、マキはレオンにしかチョコレートを用意していなかったのだ。


『いいよ。僕のチョコレートは君貴が食べれば?べつに、僕はチョコレートならいつでも、マキと日常的に食べてるしさ』


『そういうことなら、俺とおまえで半分ずつにすりゃいいんじゃないか?まあ、マキのことは半分に分けるわけにいかないというのは、なんとも悩ましいところだがな』


 その時も、もしかしてそうだったのだろうかと、マキは思わないでもない。もちろん、マキもレオンが自分にプロポーズするつもりだったかどうかまではわからないにしても――ただ、君貴も自分も、レオンの望みを叶えてさえいたら良かったのではないかと、今も時々後悔することがある。つまり、重婚というのは多くの国で許されていないにせよ、単に結婚式を挙げるだけであれば、二人ずつ順に結婚すればいいわけである。そして、そんなふうに誓いあったあと、三人で一緒にいさえすれば……あんなことにはならなかったのではないかと、そんな気がして。


「ねえ、レオン。君貴さんがね、三人目を作らないかだなんて言うのよ。一体どうしちゃったのかと思うでしょ?だけど、わたしももう赤ちゃんを育てる元気なんてないわ。でも……もしあなたとあのままずっと一緒にいて、もう一人欲しいなんて言われたら――たぶん、そうしてたでしょうね。もちろんレオンの場合は子育てに協力的だったから話は別としても、なんといっても君貴さんの場合はねえ」


 マキは時々、子供たちが学校へ行って誰もいない間、こんなふうにレオンに話しかけていることがある。もちろん、彼の霊の声が聞こえてきた……などということは一度もない。それでもマキは、(こんな時、レオンに相談したら彼はなんて言ったかしら)と思い、今のように話しかけていることがあるのだった。


「お兄ちゃん、ずるーいっ!パパに媚売って、何か買ってもらうつもりでいるんじゃないの!?」


「媚売ってるってなんだよっ!車をちょっと磨いてたってくらい、べつになんでもないことだろ」


 廊下をドタバタ競うように走ってくる足音が聞こえ、マキはピアノの蓋を閉じると、リビングのほうへ戻ることにした。


「あらあら、ふたりとも一体どうしたのよ」


 貴史も真子も、普段はそれほど兄妹喧嘩が多いほうではない。せいぜいが、お菓子を半分ずつ渡したつもりなのに、「お兄ちゃんのほうが多いっ!」と妹のほうで文句を言い、兄のほうで「わかったよ。じゃあ、やるよ」とブツブツ言いながら譲ってあげるといったところだろうか。


「ママ、聞いてっ。パパがねーえ、真子のバレエ終わるまで待っててくれたの。でもその間、お兄ちゃんったら車をピカピカにして待ってたのよ。だからわたし、アッタマおかしいんじゃないのって言ってやったの。そしたら、お兄ちゃんは『べつに僕は頭おかしくない』っていうの。どう思う!?」


 マキはふたりの後ろにいた君貴のほうを見やったが、彼のほうでは(よくわからん)というように、しきりと首を捻っている。


「単に僕はただ黙って待ってるのも暇だなと思って、ちょっと車を磨いたってだけの話なんだって。それなのに何か買って欲しいものがあってお父さんに媚売ってるとかって言うんだよ。ほんと、アッタマくる。なんだコイツって感じ」


「はいはい。まず先に手を洗って、うがいしてらっしゃいね。お父さんは忙しいんだから、くだらないことで煩わせたりしないの」


 貴史がバスルームへ行こうとすると、真子のほうで兄を押しのけて先に走っていこうとする。「こいつ!真子、待てっ!!」と叫ぶ貴史の声が廊下から響いてくる。


「……俺は、これだけは絶対認めたくなかったんだ」


 君貴は(ああ、疲れた)といったような溜息を着き、食卓テーブルの椅子へ座った。


「俺は、真子のことはレオンの子だと信じたい。だが、あれは間違いなく阿藤家の女に顕著な血筋ってやつだ。気が強くて、他者を押しのけてまでも自分が上へ上へ行こうとする、というな。あの喧嘩も、まるで昔の自分と美夏を見ているようで、まったくもっていたたまれない」


「そう?わたしは貴史って、どっちかっていうと内気で、押しだしのいい君貴さんとはあんまり似てないかなーなんて思ってたけど……」


 マキは、フライパンでチャーハンを作りながらそう言った。


「押しだしがいいだって?俺だってな、生まれた時から今のような性格だったわけじゃないぞ。昔は俺だって今の貴史みたいに、大勢いる他人の前で自分の意見なんかとても言えない……みたいな時期だってあったんだ。だが、事あるごとに美夏が横で『ぷぷーっ、ダッさ!!』だのなんだの言ってくるもんで、そのうちだんだんに性格のほうが変わっていったのさ」


 この時、お互い競いあうようにして手を洗い、「がらがらがら、ぺっ!!」とうがいしたふたりは、これまた互いに体を押しのけあいながら、居間のほうまで戻ってきた。


「ママたち、なんのお話してたの?」


 美味しそうなチャーハンの匂いをかいで、真子は上機嫌だった。しかも今日は大好きなペキンダックまである。


「お兄ちゃんがね、パパの小さかった頃に性格似てるっていう話よ」


「ええ~っ!?ねえ、ママっ。じゃあ、真子は?真子は誰に似てるの!?ママの若かった頃に似てる?」


「そうねえ。ママは真子ちゃんみたいにあんまり活発な子じゃなかったから……そんなに似てないんじゃないかしらね」


(真子は親戚の美夏おばさんにそっくりだ)とは、君貴は口が裂けても言いたくないため、ただ黙っていた。実をいうと、携帯でゲームでもしていればいいのに、何故貴史が車を磨いていたのかは……君貴にもわからないでもなかった。阿藤家の実家へ行った時、貴史のピアノを少しばかり褒めたのだ。他に、「あのババアの特訓についていくのは大変だろ?」とか、「だが、あれでもまだ、父さんがおばあちゃんにピアノを習ってた頃よりは遥かにマシだ。ババアも年を取った分、多少は人間が丸くなったようだからな」といったようにも話していた。対する貴史のほうでは、「そうでもないよ」とか、「あれでも、練習が終わったあとは優しいんだ」とぽつぽつ答えるという、何かそんな感じだったかもしれない。


「ええ~っ!?真子も誰かに似たい~。ねえパパ、誰かいないの!?おばあちゃんの若かった頃とか……」


「おばあちゃんと真子は全然似てないよ」


 貴史はにべもなく言った。


「おばあちゃんの若かった頃の写真、見たことあるだろ?物凄い美人なんだ。真子は可愛くないわけじゃないけど、大きくなってからもあそこまで美人にはならないよ、たぶん」


 この兄の意見を聞くと、真子はぶっすーとして、黙り込んでしまった。マキは君貴に目くばせし、(やれやれ)といったようなサインを送る。


「まあ、十年後のことは誰にもわからんものな。そういえば、先生が褒めてたよ。真子ちゃんは向上心が強いからコンクール向きだって」


「ほんとっ!?でも、なんかちょっとアテにならないなあ。パパが真子のことお迎えにくると、女の先生たち、ちょっと目の色が変わるんだもの。真子がいるってことは、当然ご結婚してるってことでしょ?それなのになんでなのか、真子よくわかんなーい」


 マキはどうしても堪え切れなくて、くすくす笑った。君貴の女嫌いというのは、今も継続されており、そのあたりの価値観は実は現在もあまり変わっていない。『世間話をするのも煩わしい』というのが君貴の本音ということだったが、マキとしては(それでも内心では悪い気はしないんじゃないかしら?)と思ったりもする。


「そうねえ。女の人は格好いい人が好きだからじゃないかしらね。男の人が美人を見ると目の色を変えるのと同じよ。それより早く、ごはんにしましょう」


 けれど、チャーハンが行き渡り、スープが注がれてのちも、真子のおしゃべりは続いた。実をいうと彼女は兄の貴史が「ナンデ病」と呼ぶものを患っている。発症したのは確か、マキの記憶にある限り、四歳の頃だ。「ママー、なんで虹は虹っていうのー?」、「ええとね、昔の人は虹を天をまたぐ竜だと思ってたんですって。それで、この虫編っていうのは、元は蛇から来てるのね。だから虫編にアーチを意味する工っていう組み合わせで虹って書くみたいよ」、「ふーん。でも、どうして虹って出るの?」、「雨上がりだからじゃない?」、「どうして雨上がりだと虹が出るの?」、「…………………」――といったような具合で、だんだん説明するのが面倒くさくなってくるわけである。その他、庭で土いじりをしていれば、「ママー、土ってそもそも何?」、「土はなんで土っていうの?」、「土と砂ってどう違うの?」ということや、「花に色々な色があるのはどうして?」、「葉っぱの緑はなんで緑って決まってるの?」……などなど、とにかく例を挙げれば切りがない。


 また、こうした子供らしい疑問であれば多少納得も出来ようし、パソコンでちょっと調べて教えてあげることも出来るかもしれない。だが、真子の場合、ほとんど疑問のための疑問を述べるということが多く、そうした時、マキは貴史とお互いに助けあうことにしている。すなわち、「しつこいな、おまえ!ママが困ってるだろ」と注意したり、「真子ちゃん、いいかげんにしなさい!お兄ちゃんが困ってるでしょ」と叱ったりと、適当なところで強制的に話を打ち切りにするのである。


「ねえ、パパ。なんで男の人は綺麗な女の人が好きなの?」


 貴史はテレビのほうが気になるといったような振りをし、いつもと同じく、食事をしたらさっさと自分の部屋のほうへ行くつもりでいた。君貴自身が自覚しているとおり、彼らの間には心理的に距離があるのだが、貴史の場合はただ単に、特に話すこともない父親と一緒にいるのが苦痛とまでは言わないまでも――なんとなく居心地が悪いのだった。


「さあな。パパはあんまり女の人に興味がないから、よくわからんな」


 ここで、マキが何故チャーハンを吹きそうなほど笑いだしたのか、真子にも貴史にもまるでわからなかったといえる。


「え~っ。でも、ママには興味あるでしょ?だって、ママはとっても綺麗だもの」


「そうだなあ。ママにはそりゃ興味があるさ。けどまあ、パパにはママ以外の女の人は基本的にどうでもいいんだ」


「ふう~ん。べつにいいけど、変なのー。そもそも、ママとパパはどうして結婚したのー?ようするに、橋本先生みたいに、パパに色目使ってくる女の人は他にもいたわけでしょ?パパはどうしてその中でママにしようって思ったの?」


「色目ってなあ。べつにただ普通に話してたってだけだろうが。ママはとにかく、パパにとってすべてにおいて特別だったのさ。親切だし、優しいし、真心があって人を裏切らない。あとはぺちゃくちゃ人の悪口も言わないしな。大抵の女はおしゃべりだし、簡単に男の心を踏みにじりもすれば、利用価値がなくなればぽいと捨てる。お母さんがその逆の人間だったから、お父さんはママと結婚したんじゃないのかね」


「したんじゃないのかねって、なんか人事みたい」


 けれども、真子はいつもとは違い、大体のところこのパパの答えで納得したようである。このあとも真子はいつも通り、バレエ教室の友達のことなどをぺちゃくちゃしゃべっていたが、貴史は食事が済むと、「勉強する」と言って、すぐ部屋へ閉じこもってしまった。


 一方真子はといえば、父親からなかなか離れようとしなかったため、君貴としても相手せざるをえないということになり――真子がようやく眠って解放されると、彼は心底「疲れた」といった顔をしていたものである。


「やれやれ。俺には修司さんが何故、家庭では口でもすぼめているのが一番だと考えるに至ったのか、まったくよくわかる気がするな」


「そう?君貴さんは全然、善戦してるようにわたしの目には見えるけど。それより、これでわかったでしょ?三人目なんてとても無理よ。何より、貴史はともかく、わたしと君貴さんとで赤ちゃんのことをちやほやしたりしてたら……真子ちゃんが嫉妬したり、面白くない顔をしていじけるかもしれないでしょう?今のままでいるのが、わたしはバランスが取れてて一番いいと思うの」


「そうだな」


 仕事のための連絡メールを打ちながら、君貴はマキに返事した。


「さっき、貴史がバッハを弾いてた気がするが……あれはおまえが教えたのか?」


「ああ。<インベンションとシンフォニア>のこと?あとは<平均律クラヴィーア>とか?あの子、もともとバッハが物凄く好きなのよ。でもわたしが教えたってわけじゃないわ。ただ、レオンが貴史の小さかった頃……よく子守唄代わりに弾いてたのよ。だからわたし、ほんとびっくりしちゃって。レオンの弾いてた曲が無意識のうちにも脳裏に刷り込まれていたのかなって思ったら……感動しちゃって、最初の頃は涙が出てしまったくらい」


「かなり前のことになるが……おふくろに『あんた、貴史のピアノのこと、どう思ってるの?』って聞かれたんだ。で、俺はそれまでピアノのことでは貴史と関わりあいになりたくないと思ってたから、ろくにあいつの演奏も聴いたことがなかった。だが今日……ショパンを聴いててちょっと感心したよ。おふくろがさ、『タカくん、「お父さんは僕にピアノの才能がないと思ってる」って言ってたけど、あんたまさか、いつも通りおかしなことでも言ったんじゃないでしょうね?』なんて言ってたのも覚えてたもんでな、思ったことをそのまま言った。ようするに褒めたってことだが、俺は自分の息子にでも世辞を言うつもりはない。俺の言ってる意味、わかるか?」


「ようするに……貴史には才能があるってこと?」


 マキ自身は自分の息子のピアノに耳を傾けるのは好きだったが、何分、まだ十一歳ということもあり、そのくらいの年頃の子としてはなかなかうまく弾けている――という以上のことを思うのは、親の欲目……いや、この場合は欲耳だろうか?何かそんなふうに思っていた。


「才能があるとまでは言わない。ただ、これからの伸び方次第によっては、すでに才能の片鱗くらいはある……とは言えただろうな。というより貴史が今十一歳であることを思うと、そのくらいのものは見せてもらわないと、俺としても困る。もし、これからも貴史がピアノを続けて、音楽学校のほうに進みたいとでも本気で思っているのであればな。レオンの奴は、ショパン・コンクールで優勝した時、『どうしたらあなたのようになれるのでしょう?』という馬鹿みたいな質問に対して、にっこり笑顔で『反復練習あるのみです』と答えてたもんだ。まったく、嫌味な奴だよ。毎日十時間以上、コンピューターみたいに反復練習だけ続けてれば、あいつみたいになれると思うか?もちろんそうじゃない。レオンにはレオンにしか出せない音があった。その点はあいつの弾くどの曲を聴いても明白だ。そしてその点だけは、同じように楽譜を暗譜しようと、レオンとまったく同じ時間ピアノと向き合ってようと――誰にも真似したりすることは出来ない。俺はな、そういうことを指して才能と言ってるんだ。貴史も同じように、あいつにしか出せない音をすでに持ってる。そしてそれを大切に育ててやるためには……いい教師というやつがどうしても必要になってくるってことなんだ」


「じゃあ、もしかして………」


 マキは、パジャマの胸元のボタンを留める手を思わずとめた。ベッドの背もたれに広い背をもたせかけた君貴は、携帯をナイトテーブルに置き、溜息を着いている。


「まあ、まだババアが生きているうちはな、俺も憎まれ役を買ってでるつもりはない。だが、ババア自身が今から言ってるんだ。『わたしがもし脳梗塞やなんかでぽっくり逝ったとしたら、貴史のことはあんたが引き続き、心を鬼にしてピアノを教え込むのよ』って。最初は俺も『そんなの冗談じゃねえぞ』と思ってたが、どうやらあのヤマンバから衣装を譲ってもらうしかないらしい」


 マキはベッドの、君貴の隣に体を滑り込ませると、彼の体をぎゅっと抱いてキスした。


「なんだ?昼間のだけじゃ足りないってのか?」


「違うわよ。わかってるでしょ?ただ、嬉しいのよ。貴史もあなたに教える気があるって知ったら、きっと喜ぶわ」


「何を言ってる。これで尾崎家は完全にブッ壊れることになるんだぞ。たぶん、おまえも真子も、この先々嫌な思いをすることがたくさんあるだろう。俺と貴史が一言も口を聞かない上、どっかピリピリしてるとか、そんな理由によってな。だがまあ、それは何も今すぐってわけじゃない。俺としてはな、あいつが音楽学校にもし受かった際には……そっちに鬼か悪魔のようないい先生がいて、俺の出る幕はなかった――みたいになってくれるってことが一番いいとは思ってるんだ」


 けれど、マキには君貴の横顔を見ているだけでわかった。彼はおそらく、折を見て、そのうち息子にピアノを教えはじめるだろう。そして、中途半端なことは出来ない彼のことだ。それは時に厳しいものとなるかもしれないが、何分貴史は頭のいい子だ。時々泣いてしまうくらい悔しいことがあっても……今のように食事中、あまり話もしないよりは、むしろふたりにとってそれは将来的に良い親子関係を築く一歩目となることかもしれない。


「真子は将来プロのバレエダンサーになるとしつこいくらい言ってたが、ありゃ本気なのか?」


「そうらしいわよ。今のバレエスタジオ、真子ちゃんがバレエをやりたいって言った時、お義母さんのお友達の先生がいらっしゃるところを紹介していただいたの。ローザンヌでスカラシップを取って、ロイヤルバレエとか、パリのオペラ座でバレエダンサーをしてる方を輩出してて、たまーに里帰りした時なんかに、生徒を指導してくださるらしいのね。その時に、なんかちょっと褒められて、すっかりその気になっちゃったみたい」


「ふうん。あんな股間のもっこりした男とくっついたり離れたり……ちょっと想像しただけでもムカつくが、まあ本人がどうしてもバレリーナになりたいってんなら、仕方ないんだろうな」


(ああ、そっち)と思い、マキは笑った。正直、彼女としてはこちらも荊の道と思ってはいるのだが、プロのバレエダンサーにはなれずとも、バレエで培ったものは生涯を通して真子の中で役立ち続けるに違いないと、そんなふうに思っている。


「真子ちゃんのナンデ病、結構重症でしょ?わたし、今も時々思っちゃう。もしレオンがいて、真子ちゃんになんでも『ナンデナンデ』って聞かれたら……一体どのくらいでレオンは怒りだしたかしら、なんてことをね」


「はははっ。確かにな。あいつも博識な奴ではあったが、真子が聞いてくるのは何かもっと根源的なことだものな。動物のドキュメンタリー番組で、珍しい鳥のことをやってたんだが、『パパー、なんで鳥さんはあんな細い足で歩いたりなんだりできるの?真子、スズメさんを見るたび不思議なの。なんで骨折しないのかなって』だとさ。『骨折しないから骨折しないんだろうよ』って言ったら、さも不満そうな顔をしてたっけ。『パパ、答えになってなーい』だと」


「そうなのよ。明日、日曜でしょ?もしサザエさんをあの子が見てたら、たぶんまた君貴さんにも同じこと言うわよ。『サザエさんやカツオやワカメって、どうやって服を着てるの?』って」


「どういう意味だ?」


「ほら、サザエさんのキャラクターって、体よりも頭のほうが大きい感じするじゃない。だから、服を頭からかぶったら、絶対やぶけるはずだっていうのよ」


 君貴も笑った。ベッドの細長い枕に頭をつけ、隣のマキの額のあたりにキスする。


「まあ、なんにでも疑問を持つのはいいことだが、そんな疑問を持つなんて、我が子は天才か!?とまでは言えないかもしれんな。何分、ヘレン・ケラーなんかもっと凄いぞ。『地球は誰が創ったんですか?』、『子供はお母さんのところにやって来る前、どこにいるんですか?』、『他の外国へ行くみたいに、天国を訪ねることが出来ないのは何故?』なんてことを、かのサリバン先生に聞いてるんだからな。で、サリバン先生が『この世界は神さまがお造りになった』なんて答えると――今度はなんたることか!『神さまは誰が創ったの?』と、ヘレン・ケラーは先生に聞いたんだと。真子のナンデ病なんて、まだまだ可愛いもんだ」


「あの子はもしかしたら、バレリーナじゃなくて、科学者にでもなるべきなのかもしれないわね」


「将来はノーベル賞受賞者か。まったく、俺たちは親馬鹿すぎるな」


 お互い、キスしあううちになんとなく興奮してきて、結局はそういうことになった翌朝のことだった。朝食を食べ終わったあと、君貴はいつものように何気なくマキのこめかみのあたりにキスした。それから、コーヒーのマグを片手に、書斎へ向かおうとした時のことだ。


「ねえ、なんでパパはママにキスするの?」


 マキはこの時、新聞に目を落としていたのだが、ちらっと君貴のほうを見た。彼の顔の表情いかんによっては、「そんなくだらないことより、食器でも下げてちょうだい」と言うつもりでいた。


 けれど、君貴がまた椅子に座り直していたため、そのまま黙って新聞を読み続けることにしたのである。


「う~ん。なんでパパがママにキスするか、か。考えてみたこともなかったな。まあ、そういう習慣だな。ほら、真子だって外国の映画なんかで見たことあるだろ?向こうではちょっとした挨拶みたいなもんだ」


「でも、パパはママほど真子にキスしないわ。それに、お兄ちゃんにはもっと全然キスしないし……」


 貴史は、トーストにオムレツといった食事を終えたあと、友達とラインのやりとりをしているところだったが、(僕を巻き込むなよ)というように、露骨に嫌な顔をしている。


「そりゃ、ここが日本だからかもしれんな。パパも、ここがフランスかイタリア、あるいはアメリカでもイギリスでもいいが、とにかくそういうところだったら、おまえらにも毎日ブッチュブッチュキスして、ウザがられていたことだろう」


「でも、ママだってずっと日本で暮らしてるわ。そんなの、変じゃない?」


 真子は特段、娘の自分のほうにキスが少ないことに対し、変に嫉妬しているとか、そういうわけではないらしい。ただ、友達の家のママやパパがそんなことをしているのを見たことがない……そうした意味で純粋に不思議らしかった。


「まあ、日本じゃな、あんまりない習慣かもしれない。ほら、真子だってどんなに仲のいい友達とだって、キスまではしないだろう?でも、向こうは親愛の情としてほっぺにキスすることくらいは普通のことなんだ。パパのそれもおんなじだよ。ママに対する親愛の情ってやつだな」


「馬鹿だな、真子は」


 まるで納得してない妹に対し、貴史はイライラしたように言った。彼は妹のナンデ病には敏感なのである。何故といって長引けば長引くほど、沼に嵌まってゆくのをよく知っているからだ。


「向こうじゃ、愛しあってる恋人たちは同じようにキスしあうものなんだよ。パパとママも結婚する前は恋人同士だった。言ってみれば、結婚した今もその頃の習慣が残ってるってことだろ」


「ああ、そっか。なーる……」


 このあと、貴史は誰も何も言わないを見て、何か気恥かしくなったのだろう。そのまま携帯だけ手にして、自分の部屋のほうへ引きこもってしまった。


「じゃあ、恋人同士だった頃から数えると、パパとママは数えきれないくらいたくさんキスしてるってこと?」


「そういうことになるな」


「やっだー!やっらしー。っていうか、イミわかんなーい。真子、外国に生まれなくて良かった。キライな奴にもたまに挨拶で、イヤでもキスしなきゃならないこともあるんでしょ?」


「そうだなあ。男はともかくとして、女の人のほうにはそういうこともあるだろうな。『こいつ、口臭くっさ!』とか、そういうことだが。まあ、パパも親父臭には気をつけねばなるまいよ」


 ――ここで、マキは堪えきれなくなって笑いだした。ずっと顔を隠すようにして新聞を読む振りをしていたのだが、最後にはお腹を抱えて笑いだしてしまう。


「マキ、おまえ、笑いすぎだぞ」


「だって……あなた……わかるでしょ?ほんともう、腹筋壊れちゃうっ……」


 けれど、真子のほうではぽかーんとして、真顔のままでいた。そして言う。


「ねえ、なんでママは笑ってるの?ねえ、なんでなんで?」


 もう、君貴のほうでは答えなかった。ただ、可愛い娘の頭のてっぺんあたりにキスするだけだ。そして、「いつまでもそのままでいてくれ」とつぶやき、今度こそ本当に書斎のほうへ行ってしまう。


「ママー、なんでそんなにおかしいの?真子、変なこと言った?」


「はいはい。ママも真子ちゃんに、パパがしてるみたいに毎日キスしてたら良かったわね。これはママの責任だわ」


 マキが食卓の上のものを片付けはじめると、真子も手伝った。『なんでママばっかり家事をして、パパはあまりしなくてもいいの?』という疑問は、今のところ彼女の脳裏に思い浮かばないらしい。


 それからマキは、こうも思った。もしここにレオンがいたら……自分だけでなく、貴史にも真子にも毎日キスしていたことだろう。けれど、確かにそれならそれで問題も残る。「真子はパパの子なのに、似てないのはなんで?」と聞かれたとしたら――自分たちは果たして、どんなふうに答えるのが正解だったのだろう。


 マキはレオンのことでは、今でも埋めようのない喪失感を感じていた。けれど、今のように子育てを通して幸せな瞬間というのも、数多くあった。そして思う。普通で平凡な幸せ……それをレオンともっともっと一緒に共有しあっていたかったと願うのは――流石に贅沢すぎる願望だったのだろうか、といったように。


 マキは今でも、最低でも年に一度は、レオンに手紙を書いていた。きっかけは、貴史を妊娠した時に購入した、育児日記だった。マキはその日記に、最初の頃こそ少しくらいは息子の成長記録を書き記していたが、何分、再び職場へ復帰してからは白紙の日々が続いていた。レオンはその日記を書棚で発見すると、彼がやって来てからの日々、貴史の成長に関して、毎日最低でも数行は何かを書き残していたのである。


 何分、その育児日記は英語で書かれていたため――マキは辞書を引き引き訳さなければならなかったが、時に涙が出てくるという以外、その作業を苦痛と感じたことはない。お陰で今、マキは貴史が断乳した日がいつだったか、どんな味の離乳食が好きだったか、初めてハイハイした日がいつだったか……そうしたはっきりした日付を知ることが出来ている。他に、貴史の成長に関すること以外でも、今年初めてヒヤシンスが咲いたとか、マキと初めて結ばれたとか、自分の誕生日にプレゼントをくれて嬉しかったということや――そうしたことについて、随分細々と書かれていたものだった。


 マキは今でも、レオンの筆跡を見ているだけで瞳に涙が滲んでくることがある。けれど、もう誰にも伝えようのない自分の想いをレオンに伝えたくて……天国にいる彼に対して手紙を書く、ということが時々あるのだった。




 ――レオンへ。


 三人目の子供が生まれました。きっとあなたも天国で、びっくりしているでしょうね。わたしはあなたに、いつだったか……いつか、あなたも君貴さんも自分から離れていって、貴史も大きくなって、いずれ親の手を離れていったとしたら、ひとりぼっちになるかもしれない――といったように話したことがありました。その時レオンは、『君貴と貴史はわからないけど、僕はずっとマキのそばにいるよ』と言ってくれましたね。覚えていますか?


 でも実際には……誰よりも一番に、あなたがわたしのそばからいなくなってしまいました。貴史も、留学するかどうかという話が出ていて、もし家族で移住するとか、そういうことにならなかったとしたら――母親として、とても寂しいことになると思っています。君貴さんは自分が十六歳でウィーンに留学しているので、『男の子はそのくらいのほうがいい』とか言っています。レオンならきっと、『いかにも君貴の言いそうなことだ』と、そう思ったかも知れません。でも、君貴さんもあれから……随分変わったと思います。貴史のピアノのレッスンには一切関わりたくないと言っていたのに、今では時間のある時に自分でも弾いてみせたりして、色々教えているみたいです。


 貴史がピアニスト、レオン・ウォンのことを崇拝しだした――という話は、前にも手紙でお伝えしたとおりですが、わたしも君貴さんも、そのことを今もとても不思議に感じています。もし貴史に三歳くらいの頃の記憶が少しでも残っていたとしたら……「あの金髪のお兄ちゃんは誰だったの?」と聞かれていたとしたら、わたしたちもあなたのことを話していたでしょう。でも、本人は何も覚えていないようなので、「貴史の偶像のレオン・ウォンとお父さんは大親友だったんだ。それで、おまえの小さい頃うちに遊びにきて、オムツを替えてくれたこともあるんだぞ」と話すべきかどうか――悩んでいるようです。「将来、金髪の女にしか興味を示さなくなるかもしれないと思ったら、まさかレオン本人をピアニストとして崇拝しだすとはな」と、君貴さんは時々、嬉しそうに言ったりしています。


 おかしいでしょう?天国にいらっしゃるあなたには、きっとなんでもお見通しのことと思いますが、わたしと君貴さんがレオンの子だと、どんなにあなたに似ていなくてもあなたの子だと信じようとしてきた真子よりも……やはり、貴史のほうがどことなくあなたに似ているのです。そして、レオンが子守唄代わりにと、よく弾いていたバッハの曲を、とても丁寧に心を込めて弾くところまで似ています。わたしは今でも、あの子が時々バッハを弾いているのを聞くと、瞳に涙が滲んでくることがあるほどです。


 真子は正直、わたしにも君貴さんにも似ていませんが、君貴さんの話によると、彼の長年の天敵だった姉の美夏さんによく似ているそうです。「あいつも、ピアノなんかじゃなく、絶対スポーツをやったほうが適性のあるような、エネルギーのあり余った子供だった」と、時々憎々しげに言っています。でも、やっぱり女の子は可愛いですね。おしゃべりで性格の明るい真子ちゃんがいてくれるお陰で、我が家はいつも光り輝いているような、そんな感じがします。


 そして三人目……男の子だったので、わたしと君貴さんは迷うことなく、あなたの名前をつけました。でも、尾崎レオンというのは、学校へ上がった時に、尾崎メロンとか色々言われたりすると可哀想だということで、玲音、と書いてレオンと読ませることにしました。もちろん、わたしと君貴さんはふたりとも、貴史のことも、真子ちゃんのことも、自分たちの子供としてとっても可愛いのです。ただ、今わたしたちはレオン、いえ、玲音にすっかり夢中になっています。実をいうとそれは貴史にしても真子ちゃんにしてもおんなじで、こんなにちやほやされてばかりいたら、将来この子は駄目な子になってしまうのではないか……そんなふうに心配してしまうくらいです。


 それと、あれからもう十年以上にもなるのに、君貴さんが「忘れていた」と言って、わたしに君貴さん宛ての、あなたの手紙をようやく読ませてくれました。たぶん、「忘れていた」ということではないのだと思います。ただ、わたしの精神の状態を見て――必要な時に渡そうと思っていたのではないかと、そんな気がしています。ほら、あなたの名前をつけた赤ちゃんが生まれたでしょう?だから、君貴さんももう大丈夫だと、そんなふうに思ったのかもしれません。


 手紙を読んで、とても泣きました。物凄くたくさん泣きました。なんていう人なの、レオン……あなたっていう人はって思いました。そして、ひとしきり泣いてから、ハッとしました。あれからもう十年以上にもなるだなんて、とても信じられなかったのです。レオン、あなたのことを思うと、わたしの心はいつでも、あなたと暮らした三年もの日々に戻っていってしまいます。そして、今でも本当に――あなたがドアを開けて帰ってきたり、カーテンの陰からひょいと姿を現してくれないのが何故なのか、あまりにも不思議で、ただ呆然としてしまいます。おかしいでしょう?君貴さんもそうだと思いますが、あなたのことでは彼の中でもわたしの中でも、時間が停まってしまっているのです。


 ずっと前、君貴さんがチェルシーの屋敷で見た夢のことは、わたしも彼がロンドンから帰って来た時に聞きました。そして、その時も、ただ涙を流しながら君貴さんの話を聞いていました。レオン、あなたがそのように崇高で、美しくて清らかな世界にいると信じられること……天国、楽園、スイッツァランド、とにかく呼び名はなんでもいいのです。そのようなところにあなたが今いらっしゃるということが、いずれはわたしたちもそこへ行ってあなたと暮らせるということ、そのことは、今もわたしの中で、大きな心の支えになっています。


 レオンは覚えていますか?いつだったかあなたは、『いつかマキとふたりきりになれる時が楽しみだ』と言っていたことがありました。わたしは『どうして?』って聞き返しましたね。そしたら、『今はマキと僕と貴史と三人で暮らしてて、貴史が大きくなるまでにはまだ十何年もあって……その頃には僕らにはきっとまた子供が生まれてる。そしてその子も大きくなって家から出ていくまでは、僕はマキとふたりきりにはなれない。マキは気づいてる?僕たちにはふたりっきりの恋人同士だった時代がないんだよ。だから、子供が自立して家から出ていったら――その時、僕たちはふたりきりになって、恋人同士としての時間を初めて過ごすことが出来るんだ』って。わたしはあんまりあなたがロマンティックなことを言ったので、咄嗟になんて答えていいかわからず、黙り込んでしまいました。そしたら……『ああ、そういえば君貴もいるっけ』って。『でもたぶん、その頃もあいつは今と同じく、足腰立たなくなるまでは仕事仕事で忙しくしてるよ。だから、あいつも時々やってくるにしても、それ以外ではふたりっきりって意味だよ。それでね、その後さらに時が経って、君貴もどっかで男なんか引っかけようもないくらいの老人になったとするよね。そしたら三人で一緒に楽しく暮らせばいいよ。君貴は僕らより年上だから、ボケるとしたら一番早いのは絶対あいつだよな』――この話をふと思い出して、ついこの間、君貴さんにしました。そしたら君貴さん、なんて言ったと思いますか?『もしマキが俺より十四も年下なのに、俺より先にボケて、俺のことをレオンと間違えるようだったら……金髪のカツラでも被って、俺はその後終生に渡って自分はレオン・ウォンだという振りをし続けてやるよ』ですって。なんとも君貴さんらしい言い種ではありませんか。


 レオンの本を読んだ感想については、前にも手紙に書きましたが、あなたの手紙を読んで、最近、再び読み返しました。泣いてしまうとわかっているので、なるべく手を伸ばさないようにしているのです……でも、やっぱりまた泣いてしまいました。あなたのこの本は、実は今ではすでに、貴史の愛読書になっています。真子ちゃんはまだ読んでいませんが、もう少し大きくなったら薦めてみようと思っています……それからもちろん、あなたから名前をいただいた、次男の玲音が大きくなった時にも。わたしは、パレスチナの人々がどんなに抑圧された苦しい環境下にあるかといったことや、あなたの書いていたウイグル自治区やチベット自治区の人々のことや……正直、あなたの本の原稿を読むまで、そうしたことを深く考えたことがありませんでした。


 でも、レオン、あなたがどんなに深くて大きい愛を持っていた人だったのかが、本を読んでいて本当によくわかりました。そして、君貴さんに残した手紙を読み、形や大きさ、深さは人によってそれぞれ違っても――レオン、あなたにも同じ苦しみや悩みがあったからこそ、他の人を自分のことのように考え、そして実際に愛の行動をとることが出来たということ……今では、そんなあなたのことを、世界中の人々が賞賛しています。けれど、そんなレオンでも、やはり天国への確信であるとか、そうしたことでは疑いを持ったりしていたのだと思うと――本当に、胸が苦しくなってしまいます。こちらの地上では、あなたを愛するすべての人が、レオン・ウォンは間違いなく天国にいると、すっかり確信しているくらいなのですから!


 あなたが旅立たれた、こちらの世界というのは……時に悲しみが支配することのある、ただの影の帝国です。そして、今レオンがいる世界こそが、本来あなたがいるべき魂の王国なのだと思います。少なくとも、子供たちが大きくなってしっかり生きてゆかれるようになるまでは――わたしも君貴さんも、こちらで影のようにゆらめく人生というのを生きていかなくてはなりません。でも、待っていてください。そちらではきっともう……百年なんて時間もあっという間でしょう?いつかその時が訪れた時には、再び、必ずあなたにお目にかかりたいと思っています。そして、その時が実際に訪れるその瞬間まで――レオン、これからもずっと、あなたのことを心から愛しています。



 あなたのマキより








   終わり











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[一言] コッツウォルズ・・・私の人生の中でとても大事な時期に住んだところでした。 若い頃、サルトルとボーヴォーワールのドゥ・マゴにも行ったし、ユングの本も読みました。ピアノも弾いてました。チェルシ…
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