第21章
『レオン・ウォンがニューヨークのペントハウスで自殺した』――その一報に君貴が接したのは、タイのバンコクにあるホテルでのことだった。こちらも、君貴が建築デザインしたホテルで、宿泊料は無料だったわけだが……仕事の打ち合わせが済み、部屋で彼が疲労から溜息を着いていた時のことだった。
>>「速報です!ピアニストのレオン・ウォンがニューヨークにある自宅で死亡しているのが発見されました。階下に住む人物が銃声を聞きつけ、警察に通報したところ――ペントハウスに住むミスター・ウォンが拳銃自殺をはかったと思しき遺体を発見したということです。レオン・ウォンは、我が国にも幾度となく訪れ、チャリティ・コンサートを開いており……」
レポーターの話す、それ以上の言葉は君貴の耳には入って来なかった。(なんだって!?)と思うのと同時、思考が止まり、それと同時に世界全体も時を停めたかのようだった。
だが、レポーターの背後には、ニューヨークのセントラルパークを前にしたレオンの住むペントハウスが映されており、そこには人だかりが出来ていた。再び画面が切り替わり、スタジオのほうに戻ってからも、ニュース・キャスターの後ろにはレオンがピアノを弾く映像が流れ……君貴はベッドの上に、呆然自失として座り込んだ。
嘘だ、とは君貴は思わなかった。それから、最後の最後にある、か細い希望に縋ろうとした。ニュースのほうは速報だ、と言った。ということは、誤報であるという可能性もあるのではないだろうか。また、拳銃で体を撃ち抜こうとしたが、失敗し、病院に運ばれたということだって……。
君貴は、思考が麻痺しそうになりながらも、それでもすぐに行動を起こした。まずロイ&タナー・エージェンシーに電話をしながら、荷物をまとめ、ホテルをチェックアウトした。それからタクシーでスワンナプーム国際空港へ向かい、まずは日本へ戻ることにしたのである。
無論、ニューヨークのほうへすぐにでも行くべきだという気はした。レオンが病院で瀕死の状態でベッドに横たわっている……そういった可能性だってあるだろう。だが、君貴は直感的にその可能性は低いだろうとわかっていた。ゆえに、事実と向き合うことを恐れるあまり――と同時に、自分と同じようにニュースでレオンのことを知ったマキがどうしているか心配で、まずは東京へ向かうことにしたわけである。
(頼む、レオン……っ!生きていてくれ!!)
君貴の頭の中には、そのことしかなかった。そして、成田空港に到着し、先ほどは繋がらなかったロイ&タナー・エージェンシーのCEOロイ・シェパードの携帯に再び電話する。
『すまない、君貴……我々ももっと注意しておくべきだった。あんな本が世界中の人間に読まれて、誇り高いレオンが何もせずにいるだなんて思わずに――せめてマネージャーのルイス・コーディにでもついていてもらえば良かった。今さら悔いても仕方ないことだが……』
ロイは泣いていた。無理もない。レオンはロイとタナーの関係性に憧れを持っており、彼らのように自分たちもいつか結婚できないだろうかと、かなり昔のことではあるが、君貴は言われたことがある。
「そんなこと言ったら俺だって……あいつと話した時の感じからいって、そんなふうには思えなかった。でも、今にしてみたらわかります。俺といつも通り普通に話しながら……その時にはもうすでに、腹を決めてたんだってことが……」
『君貴、君に渡したいものがある。いや、原稿自体は渡せないが、コピーを取って、なるべく早く君にも読んでほしい』
「原稿……?どういうことですか」
遺書、ということではないらしい、と思い、君貴は訳がわからなかった。
『私もまだすべて読んではいないんだ。だが、それでも大体の感じとして――これは、ウォン・ヨウランに対する最高の復讐法になるだろう。今までレオンがピアニストとしていかに充実した人生を生きてきたかという回顧録といったところかな。これを読んだ人はおそらく、ウォン・ヨウランの書いた人物とレオンが同一人物とはとても思えないに違いない』
「そう、ですか。もし、俺の本社のオフィスのほうにでも届けていただけると有難いのですが……」
『それと、君には葬儀への出席は遠慮して欲しいそうだ。ほら、例の本に日本の有名建築家Kといったように言及があっただろう?君貴の姿をマスコミが見た場合、ウォン・ヨウランの書いた本の事実の信憑性が高まると思ってのことらしい。あと、君にはついていてあげるべき人がいる――というのは、私には少し意味がわからないのだがね。とにかく、伝えることには伝えたよ。葬儀のほうは彼の望みによって私たちで行うが……レオンは、驚いたことには火葬を望んでるんだ。その後、ロンドンにある自分の母親の眠る墓地に、一緒に埋葬して欲しいと……』
「そうですか。わかりました」
このあと、お互いにお互いのことを慰める言葉をかけあい、電話を切ったあと――成田空港の片隅で、君貴は涙に暮れた。どうにかして生きていて欲しいと願ったが、やはりレオン・ウォンの死という事実は何がどうあっても覆せないものらしい。
(しかも俺に、葬式に参列するなだって!?今さら、そんな体裁なんか気にして一体なんになる……)
だが、それと同時に、レオンが何を言いたいかもわかっていた。妊娠中のマキについていてやってくれと言うのだろう。
このあと君貴は自宅のほうへ向かったが、部屋のほうには誰もいなかった。だが、マキの携帯へかけても『現在、電波の届かないところにいるか、電源が入っていないため、電話に出られません。のちほどおかけ直しください』とアナウンスが流れるだけで、繋がらない。君貴は何かあってマキが病院にいるのではないかと直感したが、何分、彼は今までそうしたことはすべてレオンに任せきりにしてきた。ゆえに、彼女のかかりつけの病院名さえ知らなかったのである。
君貴は嫌な予感に胸を締めつけられつつ、部屋のどこかに手がかりがないかと探しながら、とりあえずマキの勤務先の電話番号を見つけ、そちらへ電話することにした。
『ああ、尾崎さんなら、現在妊娠中でお休みしてるんですが……』
電話に出たのは若い男の声だった。若い、などと言っても三十代くらいではあったのだが。(金玉野郎かな)と君貴は思ったものの、わざわざ名前を聞くほどのことでもない。
『どういった御用件ですか?』
「俺は、彼女のパートナーで……急用で帰ってきたら誰もいなかったので、どうしたのかと思ったんです。ちょっと、互いの共通の友人が亡くなったものですから……」
(いないのではあれば用はない)
そう思い、君貴はすぐにも電話を切りたかったが、『こちらにもし連絡があれば、折り返しましょうか?』といった問いに社交辞令で答えてのち、ようやくブチッと携帯を切る。
「マキ、こんな時におまえ、一体どこ行ったんだよ……」
君貴は途方に暮れたように溜息を着いた。マキの携帯に再び発信するが、やはり『現在、電波の届かないところにいるか……』といった音声に切り替わってしまう。
部屋に足を踏み入れた瞬間、君貴も(おかしい)とは感じていた。客用のティーカップに紅茶が半分ほど満たされており、マキにしてもその客の相手をしていたような雰囲気なのだ。
だが、貴史もいないところを見ると……散歩か買い物にでも出かけたのだろうか?テレビを見ていなかったとすれば、レオンのことをまだ知らないという可能性もある。
なんともイライラすることではあるが、君貴はマキの帰りを待つことにした。けれど、いつもとは違い、待っている間仕事をしようという気にさえなれない。
そして、それでも今後のことを話すために、秘書の岡田に電話しようと思った時のことだった。見慣れない番号が携帯のスクリーン上に浮かぶ。
(誰だ?)
そう思い、君貴が電話に出ると、その相手は彼の母親、阿藤耀子だったのである。
『あんた、今一体どこにいるの?』
「どこって、東京の自宅にいるよ」
(おふくろは、レオンのことを知っているのだろうか?)……そう思い、君貴は胸の奥のほうが再び痛みだす。
『ああ、そう。今わたし、病院にいるのよ。さっきまでそっちにいたんだけど、レオンが自殺したっていう報道を聞いた途端……マキさんが倒れちゃってね。それで、すぐ救急車を呼んだのよ』
「マキが倒れたって!?それで、マキは……お腹の子は?」
『流産しかかったみたいなんだけど、どうやら大丈夫みたいよ。とにかくあんた、早くこっち来なさいよ。そしたらわたし、貴史を連れて一度家に帰るから』
「わかった。病院の名前は?」
――このあと、君貴は『春はあけぼのウィメンズクリニック』という、入院設備を備えた産婦人科のほうへ向かった。君貴はこうした場所は初めてだったため、何やら少しばかり気恥ずかしい感じがした。待合室の前を通りかかった時、君貴は何故か一瞬、そこにレオンがいるところを想像してしまったものである。いや、正確には、マキから彼が定期健診のたびに必ずついてくると聞いたため、(よくあいつも毎回こんなところへやって来れたもんだ)と、感心してしまった。自分なら妊婦たちに囲まれているだけでも、とてもではないがいたたまれない。それなのに、お腹の大きいマキの隣で、レオンは彼女が診察室に呼ばれるまで、ずっと一緒に待っていたのだろう。
(俺だったら、絶対そんなこと出来ねえな)
そこに何人ものお腹の大きい女性が椅子に腰かけているだけでなく、小さな子供までうろついているのを見て――(俺なら絶対無理だ)と、君貴はあらためてゾッとしたものである。
二階の、耀子から聞いた217号室を探し当てると、君貴はそこに入っていった。四人部屋で、一応カーテンで仕切られているとはいえ……ここでも彼はやはり、何か居心地の悪いものを感じた。ただひとつだけ、自分の口からレオンの死をマキに説明しなくていいことだけが――今の彼にとって唯一、微かに救いになることだったかもしれない。
「ほんとにあんたは、どうしようもないわねえ」
耀子は長く絶縁状態だった息子のことをじろじろ眺め、小声でそう断じた。君貴がマキと貴史のことを連れ、阿藤家に挨拶に来たのは、すでに半年近く前の話である。だが、その後一度も会ってないだけに、彼女は実際にはこの長男との再会が嬉しくはあったのだが。
「そうだよ。俺はおふくろにとってプロのピアニストになり損なった、永遠にどうしようもない息子だよ」
君貴は、まだ眠っているマキの寝顔を覗き込むと、少しだけほっとした。酸素マスクをつけてはいるが、顔色はいいようだと、そう感じる。
「とうたん!」
椅子を引いてきて隣に座ると、ばあばの膝に乗っていた貴史が、君貴のほうへ来たがった。そこで彼も貴史のことを抱きあげ、ベッドの端のほうへ座らせて、向きあうことにする。
「元気だったか?」
「んー、んーん……」
そう言って、貴史は首を左右にぶんぶん振っていた。何分、いつもはずっと一緒だったパパが突然いなくなってしまったのだ。無理もない。
「よしよし。けどまあ、暫くとうたんはこっちにいることになると思うから……また電車ごっこでもして遊ぶか」
「うん!!」
クリーム色のカーテンを引いてあるので、一応プライヴァシーは守られているとはいえ……この状態でマキとレオンの話が出来るものだろうかと、君貴は少しばかり不安になる。
「それじゃ、わたしは貴史を連れて一度家のほうへ戻るわよ。一応、大事をとって何日か入院したほうがいいって言われたけど……その間、貴史はわたしが面倒見るってことでいいわね」
「恩に着るよ」
「本当にそう思うんならね、もっとうちに顔を見せに来なさい。わかった?」
「ああ」
貴史は特に抵抗するでもなく、ばあばに黙って連れていかれたが、最後まで自分のほうをじっと見つめられ――君貴としては何か、妙にすまないような気持ちになったものである。
このあと、君貴はマキとカーテンで仕切られた空間でふたりきりになると……声を押し殺して、再び泣きはじめた。
(マキが無事で良かった。それから、お腹の子も……)
君貴はぐすっと鼻を鳴らし、あらためてマキの寝顔をじっと見つめた。レオン亡き今、彼女までいなくなったらと想像しただけで――君貴は背筋に寒いものが走るくらいだった。
暫くの間、君貴はただマキの手を握り、祈るようにしてレオンのことを想っていた。彼がこの世にもういないだなんて、まだ到底信じられない。だが、これからふたりでその現実を受け容れていかなくてはならないのだ。そう思うと君貴は……心に荒野を感じた。そして、その荒野をマキとふたりだけで、昼は空の中に、夜は星の中にレオンの存在を感じながら歩いていくしかないのだと――何かそんなふうに感じていたのである。
「君貴さん、泣いてるの……?」
マキが目覚めたことに気づくと、君貴は一度彼女の手を放し、目頭の涙を拭った。
「ああ。目が覚めたのか。お腹の子は大丈夫だとおふくろは言ってたが、あとでまた医者に話を聞く必要があるだろうな」
マキがお腹を庇うようにして起き上がろうとするのを、君貴は手伝った。彼女が貴史を妊娠している時、その事実を認めたくないあまり――『お腹の子は、本当に俺の子か?エイリアンとの子なんじゃないのか』と、君貴は一体何度聞きたい衝動に駆られたことだろう。だが、今はそんな気自体まるで起こらない。
ベッドサイドに足を下ろして一息着くと、マキが酸素マスクを外そうとしたため、「いいから、つけておけよ」と、君貴は元に戻そうとした。
「大丈夫よ。っていうかあの先生、いい女医さんなんだけど、ちょっと大袈裟なのよ。『ブルー・ベルベット』のイザベラ・ロッセリーニじゃあるまいし」
この時、マキの言いたいことが通じて、君貴は笑った。映画の最後のほうで、イザベラ・ロッセリーニが全裸に酸素マスクだけつけて登場する場面があるのだ。
「懐かしいな。レオンもその話を聞いたら、大笑いしてただろうにな。というか、まさかおまえの口から今の状況で冗談が聞けるとは思わなかったよ」
「だってまだ……全然実感なんて湧かないわ。あのニュースは、間違いなく本当のことなの?」
――>>「速報です!義理の妹、ウォン・ヨウランの著書により、スキャンダルの渦中にあったピアニストのレオン・ウォンが自殺しました。ニューヨークの自宅ペントハウスにて、拳銃により心臓を撃ち抜いたと見られています。通報を受けた警察が部屋のほうへ踏み込んだのですが、その時すでに息のほうはなく、救急車で搬送されたものの、その後病院にて死亡が確認されたそうです」
『信られませんね。というより、信じたくない気持ちのほうが強いと言いますか……あれほどの美貌の、あんなにも素晴らしい才能を持つ人が……京谷さん、現地のニューヨークの人々の反応はどんな感じですか?』
ワイドショーの司会者が、京谷、と呼ばれた現地リポーターにそう質問する。少しぶっきらぼうで無神経なところもあるが、率直な司会ぶりが人気の、中年アナウンサーだった。
「そうですね……ペントハウスっていうのはようするに、マンションの最上階ということなんですが、まず最初に階下の人が銃声を聞きつけ、警察に通報したらしいんですね。その後、管理人の案内で室内に入ってみたところ、グランドピアノの前で倒れているレオンさんのことを発見したとのことでした。救急車が呼ばれ、担架で運ばれていく時、近隣住人の方がすでに遺体となっている彼の姿を見て……周辺では、その時からちょっとした騒ぎになったと言います」
『そうだったんですね。なんて痛ましい……やはりあれですか?例の本、「汚れたピアニスト、レオン・ウォンの真実」なんていう本が出版され、名誉を傷つけられたことが原因だったんでしょうか?』
「その可能性は高いと思われます。これからまた、レオン・ウォンさんが所属しているエージェンシーからおそらく会見があるのではないかと思われますが……遺書の存在などはまだ、確認されていないと聞いています」
『そうですか。ではまた、何か新しい動きがあれば、中継のほうよろしくお願いします』
――マキが倒れたのは、この瞬間のことだった。レオンがピアノを弾く映像をバックに、『衝撃!!天才ピアニスト、レオン・ウォンさん自殺』という文字を目視した瞬間のことだった。もしその時、偶然君貴の母親である耀子がその場にいなかったとすれば……彼女は自分でどうにかして救急車を呼ばねばならなかっただろう。
「俺も信じたくはないが……」
君貴は喉の奥から声を絞りだすようにして言った。レオンが死んだだの自殺しただの、口から出して言うのは絶対嫌だった。口に出してそう言ってしまえば、その動かしようのない事実を本当にその通りなのだと、認める以外なくなってしまいそうな気がして……。
「レオンが所属していたエージェンシーのほうに連絡してみたんだ。そしたら……レオンとずっと親しいつきあいのある社長が言ってたよ。あいつ、何か原稿を残したらしい。俺もまだ読んではいないが、それはあのウォン・ヨウランの本の事実を覆すような内容だってことだった」
君貴のこの言葉を聞いて、マキは呻くようにして泣きはじめた。レオンはおそらく、自身の名誉の回復のために死んだ……それがやはり真実なのだろうということが、事実として抜けない棘のように胸深くに突き刺さってきたのである。
「そうなのね……でも、どうして……そんな原稿があるなら、エージェント会社を通して発表してもらって、あとは暫く雲隠れでもしてたらよかったじゃないの。そしたらそのうち世間の噂なんていうのも静まって、やがて消えていったはずだわ」
(いや、ああした事実はそれがデマであったにせよ、消えはしない)と君貴は思ったが、声を押し殺して泣く、マキの肩を抱き寄せることしか出来なかった。
「そうだな。何かこう……レオンがピアニストとしていかに充実した人生を生きたかといったような内容らしいんだ。それを読めば、ウォン・ヨウランが書いたレオン像と、本人が本当に同一人物か疑いたくなるといったような……それは、俺もコピーをもらえることになってるから、そしたらマキにも渡すよ。その、さ。俺はレオンにはネットもテレビも見るなって念押ししたんだが、自分では全体的にどういった雰囲気なのか、流れを見てた。まあ、俺がチェックしてるのは主に英語圏では……といったことにはなるんだが、もともと大衆はほぼ、レオンの味方だったと思うんだ。なんでもかんでも暴けばいいってものじゃない、といったような論調でな。で、レオン・ウォンで検索して、トップページの何段目か下に、これまでレオンが自分の義理の父に言及して答えた、インタビュー記事の抜粋が載ってるページがある。俺もおまえも、真実についてはすでにわかってるわけだが……あいつは、ルイ・ウォンに関しては悪いことはひとつも言ってない。十分な教育を受けさせてもらって感謝してるとか、ピアニストになれたのもミスター・ウォンのお陰です、とかなんとかな。その中で一番悪く言ってるように思われるものでも、『最初に会った時には無口で怖い人だと思った』くらいなものだもんな。ようするに、そのホームページの管理者は、「もし本当に虐待を受けていたら、こんな言い方するだろうか?」みたいに疑問を呈してるんだよ」
「そう……でもじゃあどうしてレオンは………」
マキがここまで言いかけた時、隣の患者が「くしゅん!」とくしゃみをした。それから、ティッシュを引き抜く音と、洟をかむ音が続く。
「こんな話、やっぱり駄目だわ」
マキはよいしょ、とベッドから下りると、身じまいを始めた。それから、君貴に向かってこう言う。
「ナースステーションに行って、退院する許可をもらって来てくれる?わたし、先生に色々説明する気力さえ、今はもうないんですもの」
もちろん彼女にもわかっていた。君貴だって、レオンのあのニュースを受けて、急いで自分の元へ駆けつけてくれた。どこの国から帰って来たにせよ、彼も心身ともに相当疲れているだろうことは。
「おまえ……なんか大事を取って数日は入院したほうがいいみたいに言われてるんだろ?だったら、もう何日かはお腹の子のためにも入院してろよ」
「ダメよ。あくまで大事を取ってってことでしょ?きっと家のほうにレオンが帰ってきてるわ。わたしも君貴さんもいなかったら、どれだけ寂しがると思ってるの」
言いながら、マキは再び泣きはじめていた。彼女のこの態度を受けて、君貴はナースステーションにいた看護師をつかまえ、家に帰らせてもらえないだろうかと頼んだ。もちろん、医師の許可がいるため、暫くの間君貴は待たされることになった。
その間に、マキもすっかり準備を終え、担当の曙春子という名の女医に、家族説明室にて経過の説明を受けた。その後、「どうしてもというのであれば、帰宅しても構いませんが……何かあったらすぐ連絡してください」とのことで、ようやく退院許可を受けることが出来た。
「しっかし、産婦人科病院ってのは、独特の雰囲気があるな。貴史の時も、あの女医さんだったのか?」
タクシーに乗ると、君貴は「一気に疲れた」といったような溜息を着いていたものである。
「そうよ。若く見えるけど、もう四十代で、お子さんが三人くらいいるんじゃなかったかしら。すごくいい先生よ。色々親身に相談に乗ってくれるし」
「そうか……本当に俺は、駄目な父親だな。そんなことも何も知らないだなんてな。下の待合室をちらっと見た時にも思ったよ。俺はあんな場所なんて言っちゃいけないが、ああした雰囲気のところは、危急の際でもない限り、いたたまれなくてとてもいられない」
マキは隣の君貴の顔を見て、少しだけ微笑んだ。マキは彼のこういうところが決して嫌いというわけではない。
「そうね。今は随分時代も変わったとは思うけど……わたしのお母さんが子宮がんになるずっと前に、一度子宮筋腫の摘出手術を受けてるの。その時、わたしのお父さんっていう人は一度だけ見舞いに来たきり、あとは手術の日もやって来なかったわ。『男が行くべきところじゃないとは言わないが、出来れば行きたくない』みたいにごにょごにょ言って、もう母さんは自分の夫になんの期待もしてないから、『ああそう。べつにそれでいいわ』なんて言ってね。お母さんは社交的な人だったから、入院してる同じママさんたちと世間話してはすごく盛り上がってたっけ。『それだから男は本当にどうしようもない』みたいな話でね」
「耳が痛いな」
そう言って、君貴はマキのことを抱き寄せると、前までは触れたいとも思わなかったお腹の子に触れた。
「大丈夫なのか、本当に……」
「大丈夫よ。わたし、きっとお腹の子はレオンの子だって信じてるの。先生も大丈夫だっておっしゃってたでしょ?きっとレオンによく似た、可愛い女の子を生んでみせるわ」
「そうだな。今度は……貴史の時の失敗を踏まえて、俺もいい父親になるよう努力するよ。そのことは、必ず約束する」
そう言って、君貴はマキのこめかみのあたりにチュッとキスした。
「レオンは俺の子じゃないかと言ってたが、俺は今もそうは思ってないんだ。だけど、つらいな。俺はあいつに言ったんだ……赤ん坊が生まれてくる頃には世間の騒ぎも静まってて、赤ん坊もおまえの子だってことがわかって――それで一件落着だって」
君貴の声は震えていた。マキは彼が、仕事でどんな厳しい局面にぶち当たろうとも、あくまでそれをポジティヴに捉え、笑いに変換することさえして事態を切り開いていくらしいと知っている。けれど、今度のことだけは……その彼を持ってしても無理な壁にぶち当たってしまったのだ。
「君貴さんの考えてること、わかる」
マキもまた、拭っても拭っても目尻からこぼれる涙をぬぐい、彼の手を握りしめて言った。
「わたしも、ずっと同じこと思ってるの。自分がいつ、何をしていたらレオンのことを止められたかって……ずっと、そのことばっかり………」
思えば、産婦人科の家族説明室で医師から説明を受ける間も――彼らの様子はおかしかった。ふたりとも、泣いていたことが明らかにわかる目をしており、どう見ても妊娠を期に一度大喧嘩したが、今回のことで泣きながら互いに抱きあい、仲直りした……何も知らない人にしてみれば、そんなふうにしか見えなかっただろう。
マキと君貴は、マンションの部屋のほうへ戻っても、ずっとしんみりしたままだった。君貴は母親に電話をし、「今夜は貴史のことを預かってもらえないだろうか」と頼んでおいた。もちろん耀子はふたつ返事でオーケーした。彼女は孫の中では、今は貴史のことが一番可愛いと思っていたからである。
「お義母さん、なんて?」
「ああ。べつに、貴史のことは何日預かってもいいとさ。そういえば、すっかり忘れていたが……レオンによく似た娘が生まれた場合、おふくろにどう説明したらいいかわからんな。だけど、そんなことももう、俺にはどうだっていいよ。俺は……たぶん、あいつが一番結婚したがってた時に、結婚してたら良かったんだよな。アメリカの同性婚が許されてる州でさ。レオンはたぶん、そりゃイメージってやつもあるにせよ、完璧な人間ってやつをやりすぎたんだよ。たとえば、俺と結婚してゲイってことをカミングアウトすれば――女性ファンはがっかりする反面、誰か女とあいつが結婚するよりは多少はマシなわけだろ?そんなふうに『理想のレオンさま像』からフレームアウトすることさえ出来ていれば……もっと生きやすかったんじゃないかと思うんだ」
この時、君貴はレオンが『もう、映画はやめることにしようと思うんだ』と言っていた時のことを思いだしていた。『なんでだ?実際には受賞してないにしても、アカデミー助演男優賞にノミネートされたことだってあるってのに』と言うと、『あんまりキャーキャー言われすぎて、疲れたんだよ』と彼は溜息を着いていた。
撮影現場に入ると、共演者の女優のみならず、女性スタッフが一番注目しているのがレオンだというのは――誰の目から見ても明らかだったというのは、有名な話である。そこで、映画の主演俳優が不機嫌になったり、まったく口を聞いてくれなかったりと、そうした部分で気疲れするということだった。
その時君貴は『おまえ、そろそろ自分は二重人格のゲイだって周囲にアピールすりゃいいんじゃねえの?そしたら女どものほうは少し離れていって、共演俳優とも仲良く出来るようになるさ』と言った。するとレオンは、再び溜息を着いていたものだった。『もう機を逸しちゃったよねえ。ほら、モデルの契約とかCMとか、べつに契約書に同性愛者であることをカミングアウトしないこと、なんていうふうには書いてないよ。だけど、イメージとしてさ、責任あると思うんだ。女性ファンの人たちは僕のことをそういう対象として見てくれてるって意味でさ』
「そういえばレオン、言ってたっけ。モデルとか俳優なんてやってると、何故かピアノのほうが疎かになってるみたいに、批判される結果になるって。でも実際には……本当にレオンってすごい人だったわよね。モデルをやればフォトグラファーから絶賛されちゃうし、演技もうまくて、そういうところから受けた刺激が、ピアノのいい演奏にも繋がって……わたしね、思ってたの。こんなすごい人が、こんなところでくすぶってちゃ絶対いけないみたいに。だけど、レオンは一番普通を欲しがってた。特に誰にも注目されず、『完璧なレオンさま像』みたいなものが追いかけてこない世界。そんなの、今さら無理なのはわかってるけど、こんなの残酷だわ。レオンは十六歳の時にデビューしてるから、もう二十年近くもそういう世界の最前線で走り続けてるんですもの。やっと少し減速して、他の幸せな人生を歩もうと思ってただけなのに……わたし、あのウォン・ヨウランって人、本を読んでる時から憎みかけてたけど、今じゃはっきり憎んでるくらいだわ」
――この時、ウォン・ヨウランはまだ自殺していなかった。彼女が死んだのはレオンの亡くなった三日後のことである。そこからさらに、ウェディングドレス姿の女性が何者か、身許が判明するまでに四日かかったことから……レオンの死後、一週間後にヨウランが自宅マンションから飛び降り自殺したというニュースが、世界を駆け巡るということになる。
「やめろよ。そんなの、レオンが好きだったおまえじゃない。あんなくだらない女のことは、その存在自体忘れろ。それこそ、まんまとあの女の策略に嵌まるようなもんじゃないか」
「わかってるわ。だけど、無理よ。一度心に染み込んだ毒は、決して消えないわ」
マキが涙を流しながらも、君貴がそれまで一度も見たことのない顔の表情をしているのを見て――君貴は不安になった。女性は妊娠中、ホルモンの関係などから情緒不安定になりやすいとはよく言われることである。けれど、マキのそれは何かそうしたことでないのは明らかだった。
「なんか、メシでも作るか。マキも腹減ったろ?お腹の子にも栄養が必要だもんな」
君貴は立ち上がると、ワイシャツの腕をまくった。これでも彼は、決して料理が不得手というわけではない。ただ、仕事の合間合間に美味しいものを食べることだけが――唯一の気晴らしであり、仕事のパフォーマンスを上げる一番の方法だったという、それだけのことである。
「いいのよ。君貴さんだって疲れてるでしょ?ウーバーで何か取ったっていいわけだし……」
実際、君貴もそうだったが、マキも食欲などなかった。けれど、お腹の子のことを思うと、何かは口にしなくてはならないように感じていた。
「いや、いいよ。結局、レオンほど大したものは作れない。本当に、何かちょっとしたものだ。俺はカップラーメンか何かでいいにしても、マキはそういうわけにいかないからな」
結局、君貴はこのあと、お粥とうどんを作ってくれた。妊婦は決して病人ではないが、君貴としては何かそんなイメージだったのだろう。
「君貴さん、ずるい」
「ええ?何がだ?」
ほんの簡単なものとはいえ、せっかく手料理を作ったのに、文句を言われる筋合いはないと、君貴としてはそう思うのみである。
「インスタントだけど、そんな美味しそうな味噌ラーメンなんかすすっちゃって……」
「しょうがないだろ。いいから、文句言わずに食え。まあ、俺の味噌ラーメンと交換したっていいが……いや、ダメだ。あと、冷蔵庫にさくらんぼがあったよな。食後のデザートとしては、ビタミンを取るのにそんなものでも食え。洗っといてやるから」
匂いとしては、味噌ラーメンのほうが美味しそうだったが、君貴の作ってくれた卵粥とシンプルなうどんは、意外にもとても美味しかった。弱っている精神と胃に、とても優しくしみ渡ってゆく。
『ほら、マキ。具合よくなった?お粥とさ、うどんを作ってみたよ。こういう時、日本じゃこういうものが消化にいいって言われてるんだろ?』
風邪で会社を休んでしまった時、レオンが同じことをしてくれたのを不意に思いだし――マキは再び目頭が熱くなってきてしまう。いつもなら、「泣くほどうまかったか?」とでも、君貴も聞いたことだろう。けれど君貴はこの時、マキのそうした気持ちを十分すぎるほど察していたのである。
「そういえば、あいつの伝言をマキにまだ伝えてなかったな。レオンと最後に電話した時……おまえの伝言をあいつに伝えたんだ。そしたら、マキもあいつのことを色々わかってれば、レオンもマキのことをわかりすぎるくらいわかってることがわかった。最後のあの喧嘩――いや、喧嘩ってわけでもないよな。その時に言ったことは全部嘘だって言ってたよ。そんなこと、マキもわざわざ説明なんてされなくてもわかってるだろ?とにかく、俺たちの間の信頼関係としちゃそういうことだ。あとあいつ……俺をおまえらの伝言ゲームの駒にするなって言ったら、マキに電話して直接話すって言ったんだ。レオンから電話なんて来たか?」
マキはティッシュで目頭を押さえながら、何度もかぶりを振った。
「そっか。たぶん……俺が思うにはな、その時、レオンはもうすでに腹を決めてたんだと思うんだ。もちろん、俺とはいつも通り普通にしゃべってたよ。ほら、あの本の中には、レオンと噂になったハリウッド女優の短いインタビュー証言なんかがあるだろ?そのことに対して、ポーリーン・クラウスやエリザベス・コープランドなんかが怒り狂ってるの、マキもテレビで見なかったか?」
レオン・ウォンの騒動続報、海外の反応について――といった映像の中で、マキも彼女たちが本の出版社とウォン・ヨウランを訴えると息巻いているのを見ていた。また、このザザ・インターナショナル・パブリッシングの入っているビル近くでは、プラカードを手に持つ人々が本の不買運動を展開してもいたのである。
「ええ、見たわ。あと、テレンス・ヨークや、他にレオンが共演したことのある俳優さんなんかが、プライヴァシーの侵害だって、ツイッターやSNSで次々表明してるって……」
「そうなんだよ!そのこと、話しはじめたのは実はレオンのほうなんだ。あいつ、テレンス・ヨークがマスコミに向かって『俺を追いかけるよりあの中国女をどうにかしろ!』みたいに言ってるのを聞いて、すごく嬉しかったって言ってたんだ。俺も、どう考えても今後の流れとしては、レオンに分があるとしか思えなかった。あとはレオンがそのことを信じればいいだけだって……そんなふうに思ってたんだ。だけどそんな話をしながらも、もうレオンは心の中で決めてたんだろうな。あの女、ウォン・ヨウランの好きなようにだけはさせないつもりだって言ったんだ。もし俺がその時、気づいてさえいれば……」
「君貴さんのせいじゃないわ」
マキはもう一枚、ティッシュを抜き取って鼻をかんだ。それから、ティッシュボックスを君貴のほうへ押して寄こす。
「わたしが、あんな本、読みさえしなければ良かったのよ。ほら、レオンは君貴さんのお母さんに、わたしと君貴さんは自分の親しい友人だ……みたいに説明したわけでしょ?たまたま偶然なんだけど、『あの馬鹿みたいな本、あなた読んだの?』なんてお義母さんに聞かれて、わたしすごくドギマギしちゃったの。どう言っていいかわからなくて、とりあえず『最初のほうだけ少し読んで、こんな本嘘っぱちだと思って読まなかった』なんて、嘘ついちゃった。そしたらお義母さん、『わたしも読んでないわ』って。テレビのニュースで時々やってるのが目に入ってくることがあるけど、いつもすぐチャンネルを変えちゃうんですって。『あなたも信じないほうがいいわよ』なんて……そしたら、レオンのあの報道のことがテレビで流れたの。きっと、本当に全部わたしが悪いのよ。お義母さんみたいに毅然として、徹底してレオンのことだけ信じてたら、それだけで良かったのに……」
「おまえのせいじゃないよ、マキ」
君貴も涙をぬぐい、鼻をかみながら言った。
「その、さ。あいつ、今はマキの元には戻れないって言ってたんだ。急に昔あったO.J.シンプソン事件のことなんか引き合いに出すから何事かと思えば……マキに暴力を振るっちゃうかもしれないなんて言うんだよ。ほら、DV男にはある特徴があるってよく言うだろ?いつ何時、些細なことに難癖つけだすかわからない緊張期ってやつと、その後突然切れて殴ったりする暴力期、それからそのことを反省し、相手に物凄く優しくするハネムーン期っていうのがあって……あいつ、今の自分がそっくりそれに当てはまるなんて言うんだよ。俺はレオンをDV男とは今も思っちゃいないが、あの本に関することでは見境なくナーバスになるって意味で、気持ちはわかる気がしたんだ。そのあと、あの時に言ったことは全部嘘で、マキのことはずっと尊敬してたって言ってたよ。それから、素直で正直なだけが取り柄だとかっていうのも……人間として、素直で正直で善良だったら、他には何もいらないくらいだって意味では、マキは全然平凡な女なんかじゃないって。とにかく事はそういうことさ。あいつは……レオンにはたぶん、わかってたんだ。もう一度マキに電話してあやまるなりなんなりしておまえの声を聞いてしまったら……そんなこと、とっくにわかってるし許してるなんて言われたら……自分がこれからしようとしてることを実行できなくなるってことが」
このあと、マキと君貴は、これが彼らにとってのお通夜の席だというように、暫くの間泣きっぱなしだった。夜、マキのことを隣にしてベッドに横になりながら、君貴はなんとも不思議な気がしたものだった。もう随分長く――レオンがここへやって来てからずっと、この部屋で彼はマキと眠っていない。そして、この三年もの間、レオンはずっとここにいて、マキの横で眠っていたのだ。朝は目覚めれば寝ぼけ眼で「おはよう」と言ながらキスをし、眠る前にも「おやすみ」と言ってキスし合ったことだろう。それから、貴史が間違いなく寝ているのを確認した上、セックスしたことだって数え切れないほどあったに違いない。
救急車で運ばれたことや、泣きすぎて疲れたことや色々あって、マキは最後に「愛してるわ」と君貴に向かって言うと、すぐにすうと深い眠りに落ちていった。もちろん、君貴のほうでも「俺もだ」と言って、彼女にキスし返した。けれど、隣にあるふたり分の命を感じながら……君貴は突然にして何か恐ろしい気がしてきた。
マキの母親がガンによって五十四歳の若さで亡くなっているというのは、君貴にしても随分前に聞いたことである。けれど、自分が半年に一度受けている人間ドック――そのチェック項目の中に、近親者にガンになった人がいる……といった項目があったのを、何故か君貴はこの時、突然思いだしていた。自分だって、仕事のほうが忙しすぎるあまり、ある日急に脳梗塞を起こして倒れる……といったことは、確かにあるかもしれない。だが、レオンは自分よりも五歳下、マキなどはさらに十四歳下であるためだろうか。君貴は自分がこの世でもっとも愛しているふたりが――自分より先に死ぬかもしれないなどとは、今の今まで、考えてみたこともなかったのである。
その上、今は貴史という三歳の子ばかりでなく、今度は女の赤ちゃんが生まれてくる予定でもあるのだ。君貴はこれまで、何かのノンフィクション、あるいは歴史的人物を扱った本の中で、大体次のに似た文章を何度も読んだことがある。>>「△□家では、さらに不幸が続いた。六人いる子供たちの中で、彼らがもっとも可愛がっていた末の娘が交通事故で亡くなったのである」……といったような文章だ。過去のある時代の家庭で起きたことについてであれば、実際に現実で起きたどんな悲劇であるにせよ――「ああ、それは本当につらいな」と一瞬思っただけで、その続きの文章をすらすら読んでいくことが出来る。けれど、それが実際に我が事として起きてみた時、初めて……その苦しみのもっとも深いところがわかるものなのだろう。
君貴はこの時、「わたしたち、これをどうやって乗り越えていったらいいのっ……」と、叫びながらマキが泣いていたのを思いだし、再び胸の奥が痛くなった。そして、同じ心の痛みを持つ隣の彼女に、寄り添うようにして眠った。今、彼にはレオンが「僕は今が一番幸せだよ、君貴」と言っていた、その「幸せ」の意味がよくわかる。彼もまた、マキが隣で眠る白いうなじのあたりを見たり、今ちょうど君貴がしているように――彼女の体温を感じながら、「この幸せがずっと続いて欲しい」といった気持ちを覚えていたのだろう。
そしてこの日の夜以降、君貴の中で、あるひとつのことが決まった。マキは君貴が再びやむなく、世界のどこかへ飛行機で旅に出るだろうと思っていたが、彼は暫くの間、東京にいるつもりだという。「わたしになら、気を遣わなくていいのよ」とマキは言ったが、君貴は「そういう問題じゃないんだ」と答えていた。
「確かに、俺はレオンと違っておまえの役には立たないよ。というより、ただ邪魔で目障りな存在ですらある……が、まあ、俺はマキが最低でも元気な赤ん坊でも生まない限りは――いや、生んだら今度はそれはそれで、心配なんだよ。そこまで考えて、初めて気づいた。これが普通の父親の感覚ってやつなんだろうってな。レオンもきっとそこらへんにいて、『今ごろ気づいたのか、このバーカ』とでも言ってることだろう」
そしてこの翌日、君貴の秘書の岡田が、レオンの残した<原稿>といったもののコピーを持ってきた。マキも岡田豊には何度か会ったことがあり、「ボスと言い争ったような際には、是非とも私めにお力添えを」などと恭しく挨拶されたものである。実際には弁護士資格を持つ、相当頭の切れる人物なのだろうが、その割に偉ぶってなくて、腰の低い人物――というのが、マキの岡田に対する人物評である。
また、マキはレオンによく電話をかけてきたマネージャーであるルイス・コーディに対しては、最初に会った瞬間から「やり手の手練れ」といったように感じており、仕事の打ち合わせをして彼が帰ると、レオンにそう話したことがある。すると、「さっすがマキだね」と言って、レオンは腹を抱えて笑っていたものだ。
「そうなんだよ!あいつの見てくれの腰の低さに騙されちゃいけない。あいつのあの、ハの字型の眉毛見た?なんとも見る者の哀れを誘うじゃないか。それがあいつの手なんだよ。それで、あの悲しそうな青い瞳でこう訴えてくるんだね。『お願いしますううっ。ぼぉくのクビが繋がるのを助けると思ってええっ!』なんていう具合にね。とんでもない奴だよ」
レオンとルイス・コーディがそうであったのと同じく、岡田はボスである君貴と英語で話していたため――彼らが一体なんの話をしているのか、マキにはさっぱりちんぷんかんぷんだった。そして、岡田が仕事の打ち合わせを二時間半ばかりもして帰ろうかという頃、入れ違いになるようにして、耀子が貴史を連れてやって来た。
息子を一晩預かってもらったお礼といった意味もこめて、マキは耀子のことを夕食に誘った。だが、君貴は夕食の時間になっても、レオンが残した原稿を読むのに夢中で――リビングのほうに顔を見せようとはしなかった。
「あの子がプロのピアニストにならなかった時……わたし、本当に自分の人生が終わったかと思ったわ。もっとも今じゃ、それで良かったんだろうなって初めて思えるようになってるわけだけど」
耀子の口に合うかどうかわからなかったが、その日マキは明太子スパゲッティやスープ、それにサラダなどをテーブルに並べていた。明太子のほうは、実家からたくさん送ってきたからと、ミナから分けてもらったものだった。
「こんなこと言うの恥かしいんですけど……」
マキは、子供用の席に座る貴史が食事するのを見ながらいった。
「わたし、君貴さんとはナイトクラブで初めて会ったんですよ。そしたら、酔っ払ってたのに、すごく完璧なリストの鐘なんて弾いちゃって……腕前のほうがもうプロ級で、本当にびっくりしたんです」
「建築家っていうのは、なんかよくわからないけど、忙しい生き物なんでしょ?マキさんにも苦労かけるわね……でも、あなたのほうであの子の出先についていくってわけにはいかないものなの?」
マキはドキリとした。もちろん、普通に考えたとしたらそうだろうというのは、よく理解できる。言ってみれば、夫の転勤先についていくようなものだ。
「今はあなたも妊娠してるから……子供が無事生まれるまでは日本にいたいのもわかるし、子育てするのも、こっちでのほうがいいっていうのもわかるのよ。だけどあの子、レオンのことでは相当落ち込んでるんじゃない?わたしも君貴とレオンがどこでどういうふうに知りあったのかとか、何も知らないけど――一緒にいて話してるのを見て、本当に心からの親友同士なんだなって思ったものだから」
「…………………」
マキにももちろん、君貴のそばにいたい気持ちはある。それに、レオンがいない今、前とは別の意味で、彼女にとっても彼が必要だった。けれど、君貴はレオンが不在の喪失感を抱えつつ――そのことをどうにか仕事による忙しさで紛らそうとするのではないかと思っていた。つまり、彼はいずれは前と同じ日常に戻っていくということだった。けれど、残されたマキのほうでは……ただ、レオンのいない日常を悲しく繰り返していくしかない。何分、お腹に彼の子がいる以上、彼のことばかりを思って何も食べず、やつれていくというわけにもいかないからだ。
「君貴さん、言ってたんですよ」
マキは、話を少し逸らすことにした。
「結局、建築家として自分が世の中に認められるきっかけになったのは、おふくろのピアノのスパルタがあったからだって。ええと、オランダのアムステルダムにある音楽ホール……そこが、君貴さんが今みたいに世に認められる建築家になるための第一歩だったとかって。それで、自分が元はピアニストなんていうものを目指していて、音響にも強い拘りを持ってたから、そういうホールを作ることが出来たんだろうなって。君貴さんは、口でお義母さんに直接そう言うことはなくても……心の中では感謝してると思うんです」
マキも、あまり食欲がなかったが、耀子があまりフォークを使ってないらしいのが妙に気になった。もしかしたら、口に合わなかったか、あるいはもともと明太子が嫌いだったのかもしれない。ただ貴史だけが、別に作ったお弁当を美味しそうにもぐもぐ食べている。
「ふうん、そう。あの子がそんなことをねえ……レオンのことだけど、わたし、彼に物凄く感謝してるのよ。だって、レオンともし銀座でばったり会わなかったとしたら――わたし、今でも君貴に子供がいるなんてこと自体、知らないままだったものね。マキさん、あなたにも会えて良かったと思ってるのよ。君貴のことだから、どうせわたしが気に入らないような女性と同棲なんてしてるに違いないと思ったものだから……こんな言い方したら、遠まわしの嫌味みたいに聞こえるかもしれないけど、本当に常識のある、まともそうなお嬢さんで良かったって思ったの。それだって、レオンが色々マキさんのことを教えてくれたから、一度くらい会ってあんなどうしようもないのの子供を生んでくれてありがとうって、お礼を言う気になったっていうことですものね」
――この時、君貴がバタンとドアを閉め、廊下をずかずか歩いてこちらへやって来る気配がした。彼はきのう以上に両方の目が赤かったが、そのことを隠そうともせず、興奮しきった口調で熱っぽく語りはじめた。
「すごいぞ、マキっ!たぶん、あのレオンが残した原稿が出版されたとしたら……あの中国女の書いたことなんか、おそらく問題でなくなる。といっても、ウォン・ヨウランの書いたことをその中で否定してるってわけじゃないんだ。ただ、ショパン・コンクールで優勝した時のことからはじまって、その後、ルイ・ウォンの残した遺産を受け取った時、何をどんなふうに考えてレオン・ウォン基金なるものを設立したかといったことや――あとはジュリアード音楽院へ入学して以降、ピアノとの向き合い方がどう変わっていったかということとか、あとは仲間に恵まれて学生生活がいかに充実してたかとか……その、マキは少しびっくりするかもしれないが、この原稿を書いてたのは、たぶんここで暮らしてた三年くらいの間のことなんじゃないかと思うんだ。それで、ピアニストを引退するつもりでいるから、自分の書いたことが何か若いピアニストの役に立てばと思い……とか、最後のほうに色々書いてある。確かに、この時期はモーツァルトのピアノソナタの全曲録音に向け、ウィーンに住んでモーツァルトのことばかり考えてたとか、楽曲についてこういう勉強をしたとか色々――大体時系列順に、レオンのクラシック音楽に対する想いや思想の変遷についてためになることがたくさん書いてある。あと、俺のことは友人として、こいつがああ言ってたとかこう言ってたとか、そんなことも出てきて笑っちまうんだが……とにかくこれが出版されれば、レオンの名誉は間違いなく回復する」
ここで、君貴は自分の母親の姿に初めて気づいた――といったように、「来てたのか、おふくろ」と言った。「ああ、そういえば貴史のこと預けてたんだっけ」と、今ごろになって思いだしたらしい。
「あんた、まさかとは思うけど、健忘症なの?ボケるとしたら、絶対わたしかお父さんのほうが先のはずだと思うんだけどね」
「そうだよ。どうせレオンから聞いてるんだろ?俺はよく、自分に息子がいること自体忘れてる。けどまあ、これからは嫌でも毎日顔を見ることになるだろうから、忘れたくても忘れることはなくなるだろうよ」
貴史は自分のことを言われていると理解してないらしく、「とうたん、おいちいよ。食べる?」と、フォークに刺したミートボールを差し出している。
「まったく可愛い子だな。薄情な父親に対して、食べ物の貢ぎ物か」
そう言って、君貴は貴史の差し出したフォークからミートボールを食べた。それが面白かったのかどうか、今度はブロッコリーを同じようにしている。
「ブロッコリーはおまえが食え。とうたんのキライなものだ、それは」
「え~っ?とうたんもキライなのー?タカくんも、あんまし好きくない。じゃあ、食べなくてもいい?」
「そうだなあ。じゃ、半分ずつにするか」
「うんっ!!」
マキは、君貴の分の明太子スパゲティをフライパンの上で作っているところだったが――この時、胸の中は悲しい気持ちと嬉しい気持ちがないまぜになっていた。きっとレオンのことだから、自分が今までピアニストとしていかに充実した人生を生きたかをその原稿の中で書いたに違いない。でもそれなら……あんなことをする必要などなかったではないか。そう思うと、マキの瞳からは再び涙がこぼれてきた。
「なんだ?おふくろ、こんなにうまいのに、あんまり食べてないな。まさか、高血圧でも気にしてんのか?」
君貴は耀子の食があまり進んでないのを見て、ずるずるスパゲッティをすすりつつ、そう聞いた。明太子のスパゲッティにニラと卵のスープという組み合わせは……彼も経験したことがなかったが、とりあえずどちらも美味しかった。
「あっ、ごめんなさいっ!わたし、友達からもらった明太子をいかに消費するかってことしか考えてなくて……そうですよね。お義母さん若く見えるから、ついそういうこととか思いつかなくて」
「いいのよ。もしわたしがマキさんをさして気に入ってなかったら、あとから美夏にでも電話して『年寄りを殺すつもりかしら』とでも言ったかもしれないけどね。それで、天麩羅がでたりトンカツが出た場合でも、まったく同じことを言うってわけよ。ただ、わたし今、レオンのことを思いだしてたの。彼、食の好みが少し変わってたでしょ?いつだったか、貴史も連れて三人でスパゲッティを食べに行ったことがあるの。そしたら、ビビンバスパゲッティを頼んでたわねえ……なんてことを思いだしてたのよ。その時、『もし耀子さんだったら、ピアノを弾けなくなったらどうする?』なんて聞かれたんだけど……局所性ジストニアだなんてね。発症したのは四年くらい前ってことだったけど、きっとそうしたことでも悩んでたんでしょうね」
「局所性、ジストニア……?」
マキは、何かを確かめるように君貴のほうを見た。病名を聞いたことはあったが、確信まではなく――ギタリストや理容師など、同じ動作を繰り返す人が、心因的にストレスのかかった時に、思ったとおり指が動かなくなる――といった症状の病気であるように記憶していたが、彼女の心には悠然とピアノを弾くレオンの後ろ姿しか思い浮かばない。
「俺も、さっき原稿の最後のほうを読んでいて知った。普段練習中に指が強張るといった症状が出たことはなく、いつでもコンサートの前日とか、緊張感が強く出る瞬間にそうしたことがあったらしい。だが、一度そうカミングアウトしてしまえば、これからもチャリティ・コンサートなんかは続けていくつもりでいるから……ミスが時折あっても見逃して欲しいと――あいつ、俺にもそのことは隠してたんだ。まったく、許せない奴だ。そんな大事なことを、今ごろになって紙の上の文章で知らせてくるだなんて……」
君貴は、スパゲッティを半分ほど食べたところで、再び目頭を押さえていた。マキも、マタニティウェアの上から着たエプロンの裾で、目尻の涙をぬぐっている。
「わたし、そろそろ帰るわね。これから、ふたりで話すことが色々あったり、マキさんもレオンが残したその原稿を読んだりしたいでしょう?あんまり食べてないけど、どちらも美味しかったわ。べつに、遠まわしの嫁いびりじゃないから、気にしないでね」
「いえっ、そんな……いいんです。わたしももっと色々、献立とか考えてたら良かったんですけど……」
「いいのよ。そんなことより、レオンのことは別として、嬉しかったわ。君貴も案外父親としてそこそこまともなようだし……あんた、さっきのこれからは毎日息子の顔を見るとかっていうの、本当なんでしょうね?」
耀子は椅子を引いて立ち上がりつつ、最後に心に残る心配な点についてそう聞いた。彼女は君貴やマキよりも長く生きている……その分、つらい別れをこれまでも経験してきた。レオンのことに関しては、ただふたりで支えあい、乗り越えていくしかないようなことだと思っていた。
「ああ、東京に事務所を構えるってな話を、さっき岡田としてたところだ。ニューヨークの本社とロンドンとロスの支社から人を募って、あとは現地で人員を募集するってなところだな。そしたら俺も、ここに帰ってこれる率が前以上に高くなるだろう」
「そう。そう聞いてほんと、安心したわ」
ケリーバッグを片手に持ち、帰ろうとする母親に対し、君貴は最後にふと思いだしてこう言った。
「そういや、おふくろは相変わらず修司さんの口すぼめが気に入らんらしいな。ありゃなあ、絶対ミカと出来の悪い二人の息子からくるストレスのせいだぞ。言いたいことは色々あるが、一度そんなことを口にしたら十倍以上にもなって返ってくるとわかってるから、結局何も言えないんだろう。それが口すぼめという顔の症状として出てくるのさ。あんな気の強い女をもらってくれたってだけで神に感謝すべきところを……梅干しを食べたわけでもあるまいし、イライラするだって?一歩家から外に出れば、世界有数のヴィオラ弾きとして人から頭を下げられるような人だってのに、そんなのはまったくけしからんことだぞ。あの口すぼめは絶対心因性のものだ。まったく、可哀想に……」
不適切とは思ったが、耀子は息子のこの物言いに思わず笑ってしまった。実際のところ、彼女は昔から三人いる子供のうち、長男と話している時が一番気が引き立って楽しいのだった。
「そうね。まあ、そんなこと言ったら美夏にも色々言いたいことはあるみたいだけど……それでも確かに、わたしも一時期はあの人のお陰で肩の荷が下りたと思って喜んでたんですものね。あの子、今も時々わたしに嫌味を言うのよ。自分が子供を生めば母さんに心から感謝できるかと思ったけど、むしろその逆だって。悠貴と貴翔に関しては、こんなろくてないガキに何を教えても無駄だと思って、ピアノを教えるのは早々に諦めたらしいわ。だから、わたしのことも同じように早めに見切りをつけて諦めて欲しかったって。君貴、もしかしてあんたもそんなふうに思ってる?」
「いんや。それとこれとは俺の中ではちょっと別だな。何より、俺には美夏より才能があったからな。それに、クラシック音楽やらピアノやらで身に着けた教養や素養ってのか?そういうのは、今も仕事に役立ってるし、おふくろには感謝してるよ。ただ、俺のほうでろくてなかったために、おふくろは俺に投資した時間やら労力やらを回収できなかったって意味で、申し訳なく思うというそれだけだ」
「ふうん。そう……」
耀子は胸が熱くなるあまり、このあとそそくさと帰ろうとした。君貴はまだスパゲッティを食べていたが、マキと貴史が玄関まで見送りに出てくる。
「ばあば、次はいつくるの~?」
「そうね。タカくんがばあばに会いたくなったら、パパとママと一緒にいつでもうちへいらっしゃい。じいじも楽しみにしてるからね」
じいじのほうは、七十を過ぎた今も指揮者として世界中のあちこちで公演を行なっており――家のほうは留守にしていることが多い。だが、彼もまた実は、あることで耀子と意見が一致していた。「孫はもちろんみんな可愛いけど、貴史はその中でも特別な感じがするね」と……。
「お義母さん、嬉しそうだったわね」
「ああ?一体何がだ?」
マキは君貴のために、食後にお茶を淹れてあげた。確かに、耀子の言うとおり――レオンは中国育ちだったとはいえ、緑茶の味にうるさかったというあたり、確かに味覚のほうはちょっと変わっていたに違いない。
「ううん。なんでもない。それより、レオンの原稿、わたしも読ませてもらっていい?」
「無論だ。おまえさ、大体一章分くらい読んだら、感想とか言わなくていいから、こっちに持ってきてくれ。その間、貴史のことは俺が見てるが、あんまり急いで大事な部分をまずは順に読んでいったもんでな……もう一回最初からゆっくりレオンの書いたことを頭に入れていきたいんだ」
「わかったわ。それで、君貴さん……さっきお義母さんと話してたことなんだけど、東京に事務所を構えるつもりだっていうの、本当?」
再び、食事の続きをはじめた貴史に対し、「おまえは相変わらず食うのが遅いな」などと、君貴は注意するが、貴史のほうは変わらずマイペースなままである。
「ああ。自分のことなら気にしないでだのなんだの、そんな話はあとにしてくれ。もともと、俺が日本での仕事を極力引き受けようとしなかったのは――おふくろのことが頭のどこかにあったからさ。『世界のアトゥーであるために、日本では仕事をしようとしないんだろう』なんて言われたこともあるが、そういうことじゃない。まあ、マキがこれからあれこれ言っても俺の決意は固いから、「ふうん。あっそう」くらいに思っておいてくれ」
「世界のアトゥーね」
マキは少しだけ笑って、君貴に渡された原稿を片手に、部屋へ閉じこもった。彼は前から時々、「俺、マキと結婚するとしたら、尾崎家に婿として入りたいな」と冗談で言っていたのだ。「どうして?」と聞くと、「アトーだのアトゥーだの、外国人どもは誰も、俺の苗字を正しく発音できない。そのくらいだったら、キミタカ・オザキのほうがなんとなく格好いいじゃないか。世界のキミタカ・オザキ。うん、こっちのほうが何かしっくりくるぞ」と。
このあと、マキは一時間もしないうちに、君貴と同じく、目を泣き腫らしながら部屋から出てきた。それから無言で原稿のほうを彼に渡したのだが……君貴は貴史と一緒にプラレールで遊んでいるところだった。この時貴史は、電車のいくつかを指差し、「とうたん、ありがとう」と言っていたが、彼にはなんのことやらさっぱりわからなかったものである。
そして、マキは踵を返して再び部屋へ戻ろうとして――キッチンの洗い物がすっかり片付けられているのに気づいた。
「いいのよ、君貴さん。わたし、あとでやろうと思ってたから……」
「べつに、食器洗浄機に皿なんかを突っ込んだってだけの話だろ?あと、このガキも風呂に入れたりなんだりせねばならんのだろうな。そういうこともあとで教えてくれ。まあ、俺も時々くらいならそんなこともしてやれるだろうから」
「そんなに無理しなくていいのよ。ほら、わたし、レオンのことは特別だったと思ってるの。もともと軽く潔癖気味だとは本人も言ってたけど……家事や育児があんなに好きっていう男の人のほうが珍しいと思うの。だから、どっちかっていうと、わたしの中では君貴さんのほうが普通っていうか……」
貴史がそろそろうつらうつらしはじめてるのを見て――「貴史が眠そうだったら、寝かせてもいいのか?」と君貴は聞いた。彼もまた、レオンの原稿をあらためてじっくり読みたかったのだ。
「そうね。でも、歯を磨いたり、色々あるから……今日はわたしが寝かしつけるわ。君貴さんはレオンの文章を読んでて」
――こうしてふたりは、この日の夜遅くまでかかって、レオンの残した原稿を読んだ。例の事件があってから、テレビでは連日ピアニスト、レオン・ウォンのこれまでの足跡というのだろうか。そうした彼の人生をまとめた映像が幾度となく流れていたため……その映像とも相まって、マキは涙が止まらなかった。
中でも、レオンが十六歳でショパン・コンクールで優勝した時の映像は何度も使われていた。その後、レオンはピアニストとして自信が増していくにつれ――時にナルシスティックと形容してもいいほど自信に溢れ、時に不敵ともいえる横顔をすることもあり、それがある種の人々の勘に触ることがあったによ……ショパン・コンクールの時は本当にこの時にしかない、特別な雰囲気を身に纏っていた。
なんというのだろう、十代の少年に特有の汚れなき純粋さ、とでも言えばいいのだろうか。また、言動のほうも少しばかり幼く、丁寧で礼儀正しくはあるのだが、内気で繊細といった部分を隠しきれない――常にそうした様子で、これは演技でそう出来ることでないというのは、見ている人間誰しもに伝わっていたことだろう。
そして、それゆえこそのレオン・ウォンフィーバーといっていい状態が、世界中で長く続くことになったわけである。実際にはこの時レオンには相当つらい過去があり、記者会見で泣いていたのも『ハゲのブタが死んで良かった』ということに由来するものであったとはいえ――「僕を引き取ってくれたミスター・ウォンが亡くなったと聞いたものですから……」と語る彼の言葉を疑う人は誰もいなかったことだろう。もし仮に疑ったとすれば、ヨウランを含めたウォン家の人々だけだったに違いない。
けれど、>>「ショパン・コンクールで優勝したことから、僕の本当の人生ははじまった」と書いてあるだけでも……その裏にこめられた意味がわかるだけに、たったそれだけでも、マキも君貴も涙腺が緩んでいたといえる。この、プロのピアニストとしての初期の時代を、レオンは「修行時代」と呼び、演奏旅行先として訪れた国や市について、その歴史的なことや実際に町を歩いた時の印象などを、随分細かく書いていたものである。君貴は「この家にいる間に書いたのではないか」と言っていたが、マキはあまりそう思わなかったかもしれない。どちらかというと、当時からすでにレオンは、そうしたことを日記に書き記すか何かしていたに違いない。そして、そうした過去の記録を参照して、あらためて文章にしていったのではないかとマキは思っていた。そのくらい、細部に至るまで描写のほうがしっかりと描き込まれている。
『今まで、ヨーロッパのほとんどの主要都市には行ったんじゃないかな。僕が思うのはその大体が、戦争に関係してることなんだけどね。ほら、ポーランドのワルシャワなんか、第二次世界大戦後に壊滅してしまったのをもう一度まったく同じように造り直しているだろう?そういう、侵略してきた国からのダメージを回復する時に、相手国の文化を受けて街並みがガラリと変わったりとか、ヨーロッパじゃそうした傷跡のない場所のほうが歴史的に少ないっていう、そういうことなんだけどさ』
『もちろん、ショパンが生きた時代は19世紀で、まだ第一次世界大戦も第二次世界大戦もはじまってはいない。だけど、ポーランドっていう国がいかに歴史というものに翻弄されてきたかを学ぶことで……思想的にはどうしても影響を受ける。ショパンが生きてた時代にも、ポーランドの民衆がロシア支配を覆そうと蜂起して失敗ことがあったろう?そして、彼はその時のことを『軍隊ポロネーズ』――『ポロネーズ第三番イ長調』によって表現してる。ショパンは二十歳でワルシャワを離れる時、ポーランドの土を詰めた銀の壺を持っていったらしいけど、そのくらい愛国心が強かったっていうことなんだろうね。そして、今も彼の心臓だけは、ワルシャワの聖十字架教会で眠っている』
マキは、ほんの数行レオンの文章を読んだだけで、彼がかつて何気なく話してくれたことが脳裏に甦り、そのせいで他の人であれば泣く理由がまったく見つからないだろう箇所でも――とめどもなく涙が溢れてきて止まらなかった。また、君貴が原稿の上に堪えきれず涙を零してしまった跡があちこちに残っており……そうしたページについては、マキも彼が何故泣いたのかが読んでいてよくわかるだけに、同じように重ねて涙を流してしまったものだった。
そして、演奏旅行先で見たヨーロッパ各地に残る戦争の傷跡というのは、レオンの脳裏に深く刻み込まれ――ジュリアード音楽院在学中、イラク戦争が起きたこともあり、レオンの中で平和への想いというのはより深いものへと変わっていったようである。
>>『戦争を止めるために、芸術には何が出来るのか、僕にはわからない。ピアノで爆撃機や戦車に向かっていくことは出来ない。けれど、爆撃機や戦車のミサイルで傷ついた人々の心を癒すことは出来ると思った。それで僕は……他の友人たちには止められたが、一度も行ったことのない砂漠の紛争地帯にまで、チャリティ・コンサートをするために出かけていった』
>>『何度もこうしたチャリティ・コンサートを開くたび、僕にはだんだんにわかってきたことがある。民族、肌の色、宗教……それはおそらく表面的なもので――人間は、まったく同じものから出来ている。たとえば、おまえは肝臓の形が普通じゃないから俺たちの仲間じゃないとか、手術で二つある腎臓のうち、一つを摘出したから我々のグループからは外れてくれ……そんな理由で差別されることは、まずないだろう。実際の問題はとても単純なことだ。すべての人の目が一時的にでも見えなくなったとすれば――心の目で物を見るというのがどんなことかが、すべての人にわかることだろう。その盲目の少女にピアノの手ほどきを少しばかりして以来、僕は時々そんなふうに考えるようになった。「もし僕の目がまったく見えなかったとしたら、この問題をまったく同じように捉えるのだろうか?」といったように』
(レオン……本当に、あなたって人は……)
演奏旅行、音楽論、人生で経験し、その折々に感じたことなど……そうした事柄について細かく語りつつ、レオンは戦争と平和、人が平等に生きることは可能なのかといったことについても、随分紙枚を割いていた。
>>『詩人、ウォルト・ホイットマンは書いている。「平等について――自分と同じ機会と権利を他人に与えるんじゃ、平等こそ自分に害があるみたい――他人が同じ権利を持っているんじゃ、まるで自分自身の権利にとって、平等が必要不可欠でないみたい」と。僕は、ショパン・コンクールで優勝するまでの間、ソヴィエト・システムに憧れて熱心に練習に励んだ……ということは、最初のほうで述べた。そして、僕が中国育ちであることを考えると、僕に対して「レオン・ウォンは共産主義者なのか?」との疑いを持つ人がいたとしてもおかしくはない。もっとも、僕は共産主義を信奉してはいないにせよ(理由は述べるまでもないだろう)、すべての人が平等に暮らすことは可能なのかどうかについては、随分長く考え続けている。たとえば、この地上に文明なるものが存在して以降、数え切れないほどの征服国と被征服国とか誕生してきた。また、男性は女性よりも社会的に優位な状態が長く続いており、総体的に考えた場合、今でもやはり黒人よりも白人のほうが優位な社会であることにまるで変わりはない。そして、征服国が被征服国から搾取することで優越感を味わうというその中にこそ――すべての人々が平等に暮らせない理由が隠されている気がする。簡単にいえば、僕たちは誰か他人を抑圧することで優位な立場に立つことが好きなのだ。人間は誰しも、本能としてそうした部分を必ず持っている。極めて残念なことに、これは宗教の世界でさえもそうだ。イスラム教徒はユダヤ教やキリスト教よりも自分たちのアッラーの教えのほうが優れていると唱え、キリスト教徒は当然、自分たちこそはユダヤ教徒よりもイスラム教徒よりも遥かに優れていると考え、そしてユダヤ教徒は、何故自分の知らない間にキリスト教徒とイスラム教徒という兄弟が出来ており、「おまえは長男として失格だが、我々弟は違うぞ!」と争いを仕掛けてくるのか不思議に思っている……何かそんなところだろう。僕はここまで考えてきて、世界の三大宗教のひとつである仏教だけが、どの宗教とも喧嘩せず、仲良くできるのは何故なのだろうと不思議に感じる。これはおそらく、仏教の教え及び仏教徒は、自身の優位性を訴えて「我々はおまえら(ユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒)よりも上だぞ」と押しつけてこないことによるのではないだろうか。【中略】人類の平和と平等とはつまり、いかにして異なる国・民族・宗教・人種間で椅子とりゲームをしないかにかかってくるということだ。世界の富をほんの数パーセントの人間が握っている現在の状況は、誰がどう考えても異常なものだろう。座り心地のいい椅子に座っている人間は、どうしてもそこから降りたがらない。もちろん、僕だってそのように生まれついたなら、いかにすれば税金逃れをすることが出来るかばかり毎日考えていたに違いない。だが、僕は元の生まれが孤児だった。だからこそわかる……人と人との間でお互いに椅子を譲りあうことさえ出来れば、世界は平和になり、心も温かく、みなが幸福に暮らしていけるだろうということが。
>>『僕はどうしても、このひとつのことだけは言っておきたい。非常に残念なことに、国連には力がない。イラク戦争の例をあげるまでもなく、超大国と呼ばれる国が戦争したいとなったら、国連には停めることが出来ないのだ。僕がこうした中でもっとも恐れているのが、囲い込みとシステムということかもしれない。かつてチェチェン戦争が起きた時、そこで残虐非道な行為が行なわれていると聞いても――国連は動かなかった。いや、動けなかったというべきなのだろうか(ロシアは国連の常任理事国だから)。そして、国際社会も動かなかった。チェチェン戦争の真実についてロシア国内で訴えようとしたジャーナリストたちは、次々不審な死を遂げていった。僕たちは思う……「そんなひどいことがもし行われているとしたら、誰かがわたしたちに伝えて、知らないはずなどないのでは?」と。これが「囲い込み」という状況だ。中国の新疆ウイグル自治区では、本当に酷いことが行われている。ウイグル自治区の人々は強制収容所に実際に入っているか、あるいは強制収容所にいつ自分が、あるいは自分の親や子供や親戚が入れられるかと怯えながら暮らしている。現在、100万人以上ものウイグル人が強制収容所に入れられ、事実無根のテロリストの疑いをかけられるなどして――再教育という名の拷問を受けている。また、血液検査や臓器適合検査を入所時に受けさせられるのは何故なのか?ウイグル人の臓器を漢民族のレシピエントに使うためではないかとの疑いが極めて濃厚である。それだけではない。ウイグル人女性に対してはレイプが容認されているも同然であり、他にも強制避妊や中絶の強要など……これを民族浄化、ジェノサイドと呼ばずして、何をそう呼ぶのだろうというくらい、ウイグル人を巡る状況は絶望的だ。いや、新疆ウイグル自治区だけではない。チベット自治区も状況として同じなのは誰もが知るところだろう。だが、ヒューマン・ライツ・ウォッチといった人権団体がこうした状況を国際社会に訴えても、中国の不思議な竹のカーテンに阻まれるためか、誰もこうした問題をどうにも出来ない。僕は思う――これは非常に今日的な問題で、ウイグル民族やチベット民族といったある限られた人々の間にだけ起きていることではない、と。もし僕たちが彼らは少数民族だからとか、ウイグル民族はイスラム教徒だからとか、チベット民族のことはよくわからないから……といった理由によって自分たちはこの件に関係ないと思い、彼らのことを見捨てるとしたなら……断言してもいい。近い将来、僕たちの中の誰かがこの中国式システムの中へ落とし込まれ、今ウイグルやチベットの人々が味わっているのと同じような苦しみを味わう者が、間違いなく出てくるだろう。そして、その時にこう言ってももう遅いのだ。『あの時、彼らをなるべく早く助けなかった報いを、今我々は受けているのだ』と……。
マキは、レオンの書いた言葉のひとつひとつ、一語一語がとても胸の奥深くまで染み渡るあまり、息苦しいほどだった。今の人権が十分保証されているはずの先進国の中でさえ、国から公的に認められた児童養護施設で組織的虐待を行うことは可能だった……そうしたレオン自身の経験したことについては一切触れられてはいない(ウォン・ヨウランの本に書かれたことを肯定しないためだろう)。だが、レオンにこんなにも深く、民族・宗教・人種といったものすらを越えて、「あなたはその時の僕だし、僕は今の苦しい姿のあなたを救いたい」という思いを与えるのは何故なのか――その経験なくしては決して語れないことだったに違いない。
この日もマキと君貴は泣きながら、お互いの体を抱きあいつつ、ベッドの中で眠りに落ちていった。
「レオンは実際、本当にすごい奴だったよ」
君貴はそう言った。こんな原稿があるのなら……死ぬ必要まではなかったはずだと、彼もまたマキと同じく、そうとしか思えなかった。
「三十七年……まあ、キリストの生きた年数が三十三年か。だがもう俺なんかにしてみりゃ、レオンの人生は聖人さまの人生に匹敵するな。言ってみりゃ、ゲイだったからとか、最後の死に方が自殺だったから――そんな理由でもしレオンが天国へ行けないのだとしたら、そんな天国は他の人間も入らないほうがいい天国だとしか、俺には思えない」
「レオンは間違いなく天国にいるわよ。天国、楽園、スイッツァランド……呼び方はなんでもいいの。とにかくレオンはきっとそこにいるわ。ただね、わたし少しだけ思わなくもないのよ。君貴さん、レオンが公の活動を減らしていったことが、あのウォン・ヨウランっていう人のフラストレーションを呼び起こして、あんな本を書かせる原因になったんじゃないかって言ってたでしょ?だから今にしてみると……きっと、まず最初に『局所性ジストニア』だっていうことを世間に公表すべきだったんじゃないかっていう気がするの。そしたらあの人だってあんな本、書くことはなかったんじゃないかって、そんな気がして……」
「そうだな。今さら後悔しても遅いってことはわかってても――やっぱり俺もあれこれ考える。レオンの所属してたエージェンシーの社長も同じことを言ってたよ。プロのピアニストであることを引退したいって言われた時に、引き止めたりしないですぐレオンの言うとおりにしていれば良かったって。ピアノのコンサートはともかくとしても、ちょっとした俳優の仕事とか、モデルの仕事を続けたらどうかって思ってたらしいんだよな。そんなの、俺が彼の立場でもまったく同じように考えただろう。たぶん、俺たちだけじゃない……レオンと関わった人はみんな、何かの形で今、そんなふうに考えては後悔しながら涙を流してるんじゃないかって気がする」
「そうよね……わたしがただ、レオンの一ファンだったとしたら、もしかしたらこんなふうに思ったかもしれないって思うの。もちろん、きっと何日もレオンのピアノのCDを聴きながら、彼のことを思って泣くわ。でも、ある程度時が過ぎたら――彼は三十七年という短い歳月を充実して生き切ったのだから、わたしだって同じように人生を頑張って生きていかなきゃならないって、思考を切り替えられたかもしれない。あの本を読んでるとわかるの。レオンはその時々で自分に出来ることは出来得る限りすべてして来た人なんだっていうことが……わたしと一緒にいた三年もの時間っていうのは、そのあとのちょっとした休暇みたいなもので、レオンがそれを自分に許すことが出来たのは、何より病気のことが一番にあったからなんじゃないかって……」
今マキは、ベッドの中で君貴の体に触れ、その優しい体温を感じることが出来ている。レオンとも、ほんのつい一週間くらい前まで……まったく同じようにして眠っていた。けれど、彼はもういない。そう思うとマキは、「頑張って生きていこう」という気力が、ただひたすらに奪われていくのを感じるのみだった。
「そうだろうな。実際のところ、レオンはショパン・コンクールで優勝したあの日以来――すべてを自分の自由に出来たはずだ。プロのピアニストとしてデビュー出来たからといって、忙しく演奏旅行になんぞ行かなくても良かったかもしれない。だが、自分でもそうしたかったからという部分も大きかったにせよ、レオンはまあ大体のところ周囲の人間が自分に何を求めているかを考えて行動してたんだろうな。俺は、今から大体何年かして、炎上しないくらいの時が流れたとしたら……天才にはやはり悲劇が似合うだの、そんなことを言いだす論客とやらが必ずいるんだろうなと思ってる。芸術家は長生きしてしまうとむしろ、その衰えを世間に晒す結果となった場合、不治の病などで早世したほうが――その人生も含め、美しく昇華されたように見えていいだとかな。あとは……なんだ。何分あの美貌だから、意地悪な運命の女神がその分を別のところで取り立てようとしたのだろうだのなんだの、そんなところか。そんなことを言う奴らは実際何もわかっちゃいないんだよ。俺もそうかもしれないが、あいつに関わった音楽関係者は誰もがこう思う。自分にこの顔があったとしたら、彼ほどひたむきに奢ることなく、ピアノと向き合うことが果たして出来ただろうかってな。そういう意味でもあいつは本当に特別な奴だった。誰にでも優しくて謙遜で……だのなんだの、レオンのことを悪く言う奴は誰もいない。あいつは確かに二重人格だったかもしれないが、そういう部分だって何も偽の優しさってわけではまるでなかったからな」
『レオンは本当に優しい人でした』……マキは、例の本が出版されてから、ジュリアード音楽院時代の友人、その他オーケストラ関係者などのインタビューのことを不意に思いだしていた。リビングにあるテレビはレオンが壊してしまったが、寝室のほうにはもう一台、それより小さめのテレビがあったのである。
『誰か居心地の悪い思いをしてる人がいないかとか、不快に感じている人がいないかとか、そうしたことにすごく敏感な人だったんです。まあ、世間一般的にはピアニストって繊細なイメージなんでしょうけど……もちろん、繊細なだけではとてもやっていける世界ではありません。でもレオンはいつでも、協奏曲の練習が終わったあとなんか、こっぴどく叱られた学生に声をかけたり、何かそんな感じだったんですよ、ほんと。ああいうところの学生って、才能があるだけに結構ガツガツしてるんですけどね、レオンに微笑みかけられて嫌な思いをする人はひとりもいなかったでしょう。彼のまわりはいつでも、そんな感じでした。誰からも好かれていたし、ただ、女性にあんまり優しくすると、勘違いするかもしれないですものね。そういうことだけ、少し気をつけてるようには見えましたけど……』
『いや、モーツァルトの協奏曲でもショパンの協奏曲でも、なんでもいいですがね、もうレオン・ウォンがやって来る――それだけで、オーケストラはいつも以上の底力を出しました。そういう時、指揮者なんかレオンさまさま状態だったんじゃないですか?女性の楽団員はどっかしら色気がムンムンだし、大抵、いつも以上に髪のセットが決まってて、化粧が濃かった。それで男性の楽団員がムッとするとかイライラするってこともなく……何分あのピアノの才能ですからねえ。女房や娘がファンなんですと言って、並んでサインを貰おうとする始末ですよ』
「わたし、お腹の子がレオンの子だったらと思ってるけど……でも、なんだか少し、怖いような気もするの。レオンのことで今、こんなに苦しくて悲しいのに、無事生んで育てていかれるかしらって……」
「心配しなくていい」
君貴はマキのことをより近く抱き寄せると、彼女の額のあたりにキスした。それは何故か不思議と、レオンが夜眠る前にしてくれたキスの感触によく似ていた。
「おまえとレオンの子のことは、俺がこれから一生をかけて必ず守ってやる。そのためにいい夫やらいい父親になる必要があるなら、喜んでそうしてやるし、俺はな、マキ、おまえのためだったらなんでもしてやる。ただそのかわり、俺より先にだけは絶対死ぬな。だって、おまえは俺より十四も年下なんだから……どう考えてもレオンの元へ行くとしたら、俺のほうが先なはずだろ?」
「そんなの、ずるい。わたしだって、君貴さんにレオンに続いて先立たれるなんて、絶対嫌だわ。そりゃもちろん、親として子供の成長を見届けてから……っていう思いはあるわよ。でもわたし、出来るなら君貴さんより先がいいわ。それか、君貴さんのお葬式の終わった翌日に心臓発作で死ぬとか、そういうのならいいんだけど」
この時、君貴は暗闇の中でおかしそうに笑った。実際、マキはレオンとも、よくこんなふうに一日の終わりに色々なことを話したものだった。
「これからガキが生まれてくるってのに、もう葬式の話か。そりゃマキ、流石に気が早すぎねえか?なんにしても俺たちは、こんな目に遭ってもまだ当分は死ねないってことだな。貴史は本人の申告によるとまだ「しゃんさい」だし、レオンに似た美人の女の子も生まれてくる予定がある以上はな」
「君貴さん、そのことなんだけど……」
マキは言いづらそうに言った。第二子の妊娠がわかって以降、君貴は「将来ストーカーのように後ろをつけ回してあらゆるゴミ虫を排除せねばならん」といった話をするのだが――その必要性のあまりない子が生まれてくる可能性というのを、不思議と彼もレオンも想定してないようだったからだ。
「万一、レオンじゃなくてわたしに似た子に育っても、がっかりしないでね。ほら、ボーイッシュな子に育って、わたしはソフトボールやってたけど、男の子に混じってサッカーするような子に育つとか、見た目もどこか男の子っぽいとか……そういう可能性だってあるわけでしょう?」
「なんだ、そんなことか」
君貴はまたマキにキスした。彼らはやはり、何故かキスしてくるタイミングまでよく似ているようだった。
「べつに俺は、それならそれで構わんのさ。むしろそのほうが安心なくらいだろう。それで、レスリングでもやってくれて、男が襲ってきても首をへし折れるくらいなら万々歳だ。試合のたびに応援もしにいくし、そんなのサッカーだろうが野球だろうがラグビーだろうが競技はなんでもいいのさ。一番困るのはあれだな。レオンの繊細で優しいとこだけ似ちまって、かといってあいつみたいに何かのことでズバ抜けた才能によって自己表現できるわけでもないとなったら――ある意味それが普通で平凡だってことなら、俺にもどうしていいかわからんかもな」
「それは大丈夫よ。わたし、普通と平凡の専門家だから、その場合にはわたしのほうでなんとかうまくやるわ」
このあと、もう真夜中どころか、朝に近かったため――ふたりは話すのをやめて眠ることにした。正確には、眠れるよう努力することにした……といったほうが正しかったかもしれない。
この翌日から、テレビでは今度は、レオン・ウォンの後追い自殺についての報道が続いた。君貴などは「これ以上俺を陰鬱にさせないでくれ」と重い溜息を着いていたし、マキも(レオンがこんなこと、望んでいるはずがない)との思いから、胸が塞がれるように苦しくなった。本人の死についてもそうだが、その御両親や家族のことを思うと……彼らの憎しみはおそらく、レオンに対してというよりも、ウォン・ヨウランに向かうのではないだろうか、そんなふうに感じてもいた。
アメリカのニュージャージー州とイリノイ州でひとりずつ、ブリュッセルとパリでふたり、日本や中国などでも自殺未遂者が相次ぎ――レオンの所属していたエージェンシーではこの日の夕刻、やむなく記者会見を開いていた。何より、レオンが自分のファンの死など望むはずがないということ、家族のことを思って自殺といった速まった行いにはやることはやめて欲しいということ……それから、レオンが遺書のようにして残した原稿を近く出版する予定なので、せめてもこの本を読み、レオンの胸深くに秘めた想いを共有して欲しいといったことが、その記者会見の場では語られていた。
すると翌日から、自殺者の報道がぴたりとやんだ。そしてこの四日後に『汚れたピアニスト~レオン・ウォンの真実~』の著者であるウォン・ヨウランが六十階建てのマンションから飛び降り自殺したという衝撃的な報道がなされた。その後は、世界中のマスコミというマスコミが、彼女の過去について徹底的に調べ尽くすことに熱中しているかのようだった。言ってみれば、一人の人間を一冊の暴露本によって破滅へ追いやった人物をそれに相応しく扱うように――まったく同じ目に遭わせているようなものだった。小学生の頃、いじめにこそあってなかったものの、特殊な金銭感覚によって周囲とはズレがあったらしいこと、初級中学時代にはそれが嵩じてはっきりいじめにあうようになっていたこと、高級中学(高校)時代は比較的平穏だったようだが、その代わり母親からのプレッシャーが強く、勉強にばかり励む三年間だったらしいこと……また、義理の兄のレオンがショパン・コンクールで優勝した時、そのことを彼女がやたら周囲に自慢していたのは有名な話だったらしい。
おそらく、こうした報道を追っていたレオンのファンたちが、もっとも溜飲を下げたのが――ウォン・ヨウランが義兄であるレオン・ウォンの重度のストーカーだったらしいということだったに違いない。例のレオン・ルームがテレビに映しだされたこともそうだったし、何よりウォン・ヨウランが世界中のあちこちのレオンのコンサートに馳せ参じていたということは、同じように彼の追っかけをしているファンの間では有名なことだったのである。
『わたしたちファンの間では、物凄い有名人ですよ!何分、英語や日本語や台湾語などを話せたので……ファンの間で困っている人がいれば積極的に話しかけて助けてあげたり。第一、身に着けてるもの自体がいかにもセレブって感じで、人を惹きつけるところのある人でしたから。それに、すごく優しい方でしたし、わたしたちファンの間ではリーダーみたいな感じの人でもあったんですよ』
『いや、テレビで見てびっくりですよ!あんな暴露本を出版するような人にはまるで思えませんでした。ネットで繋がってるファン仲間で、オフ会を開いたことがあるんですけど……自分はレオン・ウォンのピアノのこういうところが好きだとか、ショパンのエチュードの技術的なところがどうこうとか、うっとりしたように滔々と語ってましたからね。ほら、そういうところではお互いハンドルネームなんかで呼びあって、必ずしも本名を言う必要はないものですから、まさか中国の義理の妹だなんて、誰も気づかないわけですよ!』
『最初はわたしたちも腹が立ちましたけど……こうして亡くなられてみると、可哀想な人だったのかなあっていう感じもしますよね。もちろん、彼女のしたことは絶対許せませんし、レオンさまを返せ!という思いも変わりません。それに、レオンさまがあんなふうなお最後を迎えられることがなければ、他のファンの子たちも自殺するようなことはなかったわけでしょう?わたしたちはこれからも、レオンさまのファンの集いを開催していくつもりでいます。何分、コンサートのDVDであれば、たくさんあるわけですから……みんなで大きな画面で見て、まるで今レオンさまが生きて目の前にいらっしゃるかのように拍手したり、コンサートのあとは前と同じように感想をあれこれおしゃべりしたり……そうして、わたしたちの心の中には今もレオンさまが生きていらっしゃることを、わたしたちはお互いに確認しあって安心してるのかもしれません。だって、そうでしょう?自分ひとりだけで部屋でそんなふうにしてたら、そんなことを思ってるのはわたしだけかもしれないって時々不安にもなります。でも、レオンさまがピアノを弾くお姿を見て、涙を流している人の姿を見るたび……ああ、あの人もわたしと同じ気持ちなんだって、そう思えますもの』
のちに、ウォン・ヨウランの自殺は血の花嫁事件と呼ばれるようになり――その花嫁の中には、ベルギーで亡くなった少女や、パリで自殺の確認された女性、アメリカでそのような遺書を残して亡くなった二十代と三十代の女性ふたりも含まれるようになったという。
>>続く。




