運命の相手 ―附録
すやすやとおとなしく寝息を立てている三人を見て、眞一はそっと戸を閉めた。第一子・第二子である双子の心と初は夜泣きがひどかったが、第三子の歩はまだ一歳だというのに寝つきがよい。おかげで歩の泣き声で心と初がつられて起きてしまうこともないし、親としてはそれだけでいい子だと褒めてやりたいくらいだ。
「今日もお疲れ様でした」
飛紗と頭を下げあってお互いを労う。子どもたちが寝てから就寝までがやっと落ちつける唯一の時間だ。とはいえ数時間しかないが、少し前まではその数時間すらなかったのだから、しみじみ貴重である。
「ねえ、あの子やろ。眞一が言っとった子って」
テーブルの向かいに座った飛紗が、グレープフルーツジュースを飲みながらクイズでも当てるような調子で言う。歩がまだ完全には卒乳しきれていないのでアルコールは控えていて、それに合わせて眞一も外せない付き合い以外では飲んでいない。ジュースとナッツ類が最近の夜のお供だ。
あの子、とは赤根美乃梨のことである。激しい情熱を持って言い寄ってきていたが、はっきり思いを告げられたときにはっきり断ってから教室以外で見かけなくなり、今日は久々に言葉を交わした。子育てのため減らしてもらっている眞一の受け持ちの授業のなかでも、美乃梨は半分ほどを選択していて、試験はそのすべてがほぼ満点だった。原動力のきっかけは眞一への思いだったのかもしれないが、すでに夏休みであるのに本を借りに研究室に来ていたくらいだから、このまま学問に没頭していってくれればよいのだが。
「よくわかりましたね」
「そらわかるよ」
そっちに行こう、と飛紗が薄いカーペットを敷いたスペースを示すので、眞一は丸い小さなテーブルの収納式の脚を立てて置いた。コップとつまみの皿を移動させると、飛紗が横から勢いよく抱きついてきて危うく倒れかける。
「かわいい子やったやん。横編みこんでポニーテールにして、毛先ちゃんと巻いて。ネックレスも服と合わせとって」
腰元に手を回して抱きついたまま飛紗が言う。ズボンが短いので露わになっている太腿に手を置くと、ひんやりとしていた。相変わらず子どもを三人産んだとは思えない細さだ。もちろん飛紗本人の努力の賜物であるのだけれど、特に双子がこの腹のなかにいたと思うとたまに不思議で仕方なくなる。
「嫉妬します?」
「うん。する」
言いながら腕に力を込めるので、自然と笑ってしまった。飛紗の頬を手の甲でなでる。唇を重ねると、今度は飛紗がふふと笑った。
「まだおもてになるんやねえ瀬戸先生は」
肩に顎をのせて意地悪く言うので、もう一度ふさいでやる。離したあとくるみを放りこむと、飛紗は素直にぽりぽりと咀嚼を始めた。
専攻でも何でもない、卒業単位取得のためにとった選択授業一つとはいえ、かつて自分も眞一の学生だったものだから、飛紗は眞一を揶揄するとき「瀬戸先生」と呼ぶ。そんなに元教え子という実感もないだろうに。
「毎日のように保育園に送り迎えしてる三児の父親とは誰も思っとらんやろなあ。見えんもん。ママチャリとかほんまに似合わんもん」
「乗ってないし」
飛紗は聞いていないのかうんうんと一人で納得して、眞一に体を預けたままジュースを飲んだ。
「心と初ももてるみたいですよ。もう告白されたりしているとか」
「でもあの二人はお父さんラブやから。まあいちばん眞一のいいところも悪いところも知ってて、いちばん眞一をすきなんはわたしやけど」
言うようになった。やられたような気持ちで首をかくと、飛紗は何がうれしいのか照れた照れたとにこにこして眞一の足の間に座った。飛紗こそ、こんなにかわいくて三児の母親とは恐れ入る。もっとも眞一の前でだけで、人前では頼もしい母親であるし、職場でもしっかりしていると評価されているはずだ。日々の疲れが甘えることで多少なりととれるのならば、いくらでも甘えてきてほしい。
「保育園に送り迎えして、イベントんときはお弁当つくるん手伝ってくれて、週末には毎週のように子どもたち遊びに連れていってくれて、毎日こうしてわたしを子どもたちの母親やなくて女として扱ってくれて、いつもありがとう。できすぎた夫です」
改まったことを言われて、飛紗の腹に腕を回す。わざわざ隣ではなく足の間に移動してきたのは顔を見せないためだろう。恥ずかしさを隠しているつもりだ。
「飛紗ちゃんは」
後ろから体重をかける。頬と頬が触れるくらい近づくと、飛紗が笑いながら反射的に避けようと体をよじらせた。
「私の奥さんでいてくれて、あの子たちを産んでくれただけでもう充分すぎるくらいです。こちらこそいつもありがとう」
もともと飛紗のためならば何も惜しまないところはあったが、彼女が子どもを産んでくれているとき、当然のように眞一はただ待って見ていることしかできなかった。このあとの人生すべてを捧げてもなお余りある偉業だ。悪阻もひどかったから、まさに心身ともに命がけだった。
普段も忙しいと言いつつ部屋をきれいにしてくれているのは飛紗であるし、眞一では気づけない子どもたちの機微を察知して話を聞いているのも飛紗だ。常にお互い様なのである。この部屋に二人で暮らし始めたとき、はっきりした役割分担をせず、手の空いているほうがやり、相手にやってほしいことがあれば口に出すと決めた。いまも同じなだけだ。
飛紗は眞一の腕をほどいたかと思うと、眞一の立てた足に背中を向ける形に座りなおした。これなら表情がきちんと見える。額をなでると、かすかに目を細めた。
「眞一が結婚した歳まで、あと二年かあ」
ひとりごとのように呟いた。これは何か他に言いたいことがあるときの顔だ。
「眞一は今年で三九」
「そうですね」
学に毎年「四〇の壁がお前を待っているからな。カウントダウンなんだからな」とさんざん脅されているので、自分の年齢は忘れようもない。五〇を超えた学は眞一が知っているかぎりずっと九〇年代の木村拓哉のような髪の長さを保っていたが、ついに首が表に出るくらいさっぱりと散髪し、今度は「五〇の壁か……」と言いながら頭髪を気にするようになった。正直なところ大変だなという感想しか出てこない。
三九。三九やから……とぶつぶつ言っていた飛紗が、やがて頭を眞一の肩にのせた。今度は頬をなでると、その手に手を重ねられる。空調のためか指先が冷たい。
ちらりと下から覗きこむように目線を向けられる。
「もうひとり……とか、大変かな、やっぱり。どう?」
参った。
返事の代わりに気の抜けた声が唇から漏れた。飛紗に対して何度目かの恋に落ちて、指を絡める。答えなど決まりきったことだった。