運命の相手 ―2
試験日が発表された。美乃梨が選択している授業の大半は講義最終日を利用しての試験か、もしくはレポートの提出で、試験期間に行われる試験は二つしかなかった。瀬戸の授業はどれも講義最終日での試験だ。すべて持ち込みを認めない。先輩たちいわく、四人いる教授・准教授のなかで瀬戸がもっとも厳しく、公正で、少しくらい甘く見てもらえるだろうという幻想は持つだけ無駄。瀬戸いわく、きちんと出席して授業内容を聞いていれば必ず回答できる問しか設けていない。大学に入って初めての試験のため、いったいどんな問題がどのような形で出るのか美乃梨にはいまいち想像ができないが、誰よりも瀬戸の授業をまじめに受けているという自負がある。単位を落とすようなことはないだろう。
それよりも、夏休みが始まってしまうことのほうが問題だった。七月の半ばから九月末までだなんて長すぎる。だいたい学生は休みでも、教員ははたして休みなのか。それとも大学に来れば瀬戸に会えるのか。
悩んでいても仕方がない。美乃梨は同じく試験日を確認しにきた他の学生たちをかき分けて掲示板の前から抜け出し、研究棟へ向かう。本人に聞くのがいちばんだ。寮から大学までそう時間はかからないけれど、やはり無駄足は避けたかった。実家からはなるべくはやめに帰ってくるよう催促されているし、うまく予定を立てたい。
「せーんせい」
ドアを開けながら、美乃梨の声は自然と明るく弾む。瀬戸ははあと一つため息をついたあと、眼鏡をかけたまま振り向いた。
「ノックくらいしなさい」
「はい、すみません」
今日初めて会った瀬戸に、謝罪しつつも顔はにこにこと緩んで仕方ない。
瀬戸の受け持っている授業はすべて把握している。月曜日二限、火曜日二限と四限、水曜日二限、木曜日なし、金曜日三限。それ以外にも留守にしていることが断然多いけれど、美乃梨が瀬戸を訪ねるときには、ほぼ確実に瀬戸は研究室にいる。これも運命がなせるひとつの業だろう。
「ねえ先生、先生は夏休みの間って、学校にいますか?」
瀬戸が体ごと美乃梨のほうに向いたので、美乃梨は部屋の中心に立ったまま聞く。
「いる日もありますし、いない日もあります」
「そうじゃなくて、何日はいるとか、何日はいないとか」
「決まっていません」
らちが明かない。別に名目を「学業の相談」にしてしまえば、誰にでもやましいことなく伝えられるのに、なぜはっきりと教えてくれないのだろうか。美乃梨は少なくとも、瀬戸の地位や立場が脅かされるようなことをするつもりはない。
「先生、すきです」
はっとしたときにはすでに口から言葉が出たあとで、美乃梨の頬が朱色に染まる。瀬戸に気づいてもらって、先に思いを告げられて、それから伝えるつもりであったのに。反射的に「いまのは違う」と否定しそうになった。堪えられたのは、その場しのぎのために嘘をつきたくなかったからだ。美乃梨は改めてまっすぐに瀬戸を見つめる。これで、気づいてくれたはず。震えかけた足にぐっと力をこめる。
「すみませんが」
瀬戸はいつもの笑みも浮かべず、美乃梨に向かって淡々と言った。
「私は妻しか考えられないので」
瀬戸の左手の薬指につけられた指輪が、途端に主張してくる。瀬戸はわざわざ手を組み替えたり、見えやすいように角度を変えたりなどはしていないのに、つい先ほどまでとまったく同じ脚の上にあるにも関わらず、美乃梨を責めるように存在感を増した。
これは奥さんの呪いだ、と思った。
あの指輪があるから瀬戸は囚われていて、目の前にいる自分に気づいてくれないのだ。瀬戸の意思ではなく、指輪によってそう思わされているだけだ。
「先生が結婚しているのは知っています。指輪を見たらわかります。でも、あたしは先生がすきなんです」
「繰り返しますが、妻しか考えられないので、無理です」
「じゃあ浮気でもいいから」
瀬戸の地位や立場が脅かされるようなことはするつもりはないと直前まで思っていたはずなのに、気づけば叫んでいた。
「ほら、若い子に言い寄られて、先生だって悪い気はしないでしょ?」
繕うように笑顔を向ければ、瀬戸の双眸に明らかな軽蔑の色が見えて、美乃梨はびくりと体を震わす。これまでどんなに研究室に押しかけて迷惑をかけても、冷ややかな目線こそあれど瀬戸が顔を歪ませたことはなかった。うっすらと唇が弓型を描いているのがなおさら恐怖を煽る。
失敗した。
失敗した、完全に失敗した。
美乃梨はなんとか状況を打破しようと頭をめぐらすが、焦るばかりで何も浮かばない。せめて本気であることだけは伝わってほしい。瀬戸をばかにしたかったわけではなく、それくらいどうしようもなくすきなのだと、同じ気持ちを共有したいだけだと知ってほしかった。
しかし美乃梨が言い訳するより先に、瀬戸が平素と変わらぬ調子で言った。
「まず、妻以外の年下は範疇外です。次に、自分の感情が受け入れられなかったからといって、私を忖度したつもりになっているのも気に入りません」
「す、すきなんです、先生が」
「それはわかりました。私は妻以外に興味がないです。これ以上の答えは出ません」
運命の相手なのに。
思いながらも言わなかったのは、美乃梨自身がわかっているからだ。そう信じているのは自分だけであって、実際には運命でも必然でもなく、勝手に一人舞いあがっているだけなのだと。ずっとわかっていて、だけど本当にそうだったらいいのに、いや、そうに違いないと、恋に恋していた。自分が思い描いているのは空想などではないと証明したかった。
かあ、と再び美乃梨の顔が赤く染まる。体中が羞恥で震えた。目の前にいるのは、もう完全にいつもの瀬戸だった。軽蔑の色は浮かんでいないし、出ていけと追い出すようなことも言わない。緩やかなほほ笑みをもって美乃梨を見つめている。
美乃梨はごめんなさい、と蚊の鳴くような声を絞り出して、一目散に研究室を飛び出した。すれ違う人たちが皆全力疾走する美乃梨に何事かと振り返ったが、誰にも声をかけられることはなかった。もっとも、かけられていても美乃梨の耳には届かなかった。視界が歪んで前が見えていないなかほとんど記憶だけで足を動かしていたし、知人がいたとして気づけるはずもない。
恥ずかしい。
大声をあげたいのに、わずかに残っている理性が邪魔をして、それすら満足にできなかった。
無事に試験が終わった。あれから瀬戸の研究室には行っていない。行く勇気もなかった。何かに没頭していたほうが楽だったので毎日ひたすらに復習と読書を重ね、そのかいあって試験でわからないところは一つもなかった。まじめに授業を受けていたせいか同級生にテストのヤマについて質問され、そのうち一緒にご飯を食べたり、遊びに行ったりするようになり、心地よい距離で友人関係を築いた。
初恋だったのかもしれない、と美乃梨は思う。高校時代に彼氏はいたし、中学生のときですらそれなりにいい思い出があるし、これまで友人たちと盛りあがる内容といえば恋愛話だった。ただ、何もかも放り出して夢中になれるほどすきだった相手がいたかといえば、誰一人として当てはまらない。周りになんとなく合わせていた部分が間違いなくあったし、大学ですら、それなりの偏差値のところで、大阪に(厳密には大阪ではないのだが)出られればそれでよかった、気がする。そんな気がしてくる。
すでに休みに入っているのにわざわざこうして研究室に足を運んだのは瀬戸と会うためではなく、授業内容をさらっていたら疑問点が出てきたからだ。美乃梨と同じように勉強するため、数名の先輩がテーブルに史料を広げて談義していた。まだ一回生なのに熱心だね、とほほ笑まれて、曖昧な笑みで返す。交流会のとき、瀬戸の記憶力はすごいと教えてくれた先輩だった。
研究室に置かれた史料は教員の許可があれば一部を除いて借りることができる。図書館であれば学生証の提示だけで楽に持ち出せたのだが、なかったから仕様がない。少し前であれば間違いなく瀬戸に頼んでいたところだ。だいぶん冷静さのほうが美乃梨のなかで優勢になったとはいえ感情がすぐになくなるわけではないし、いったいどんな顔をすればよいのかわからない。また失礼なことを口走ってしまうのではないかと不安だった。
誰がいるだろうかと廊下に出る。教員の研究室のドアの上にはガラスが張られてあり、そこを見れば電気がついているかいないかで人がいるかどうか判断できるのだが、どこも暗い。瀬戸の研究室以外は。
お昼時だからきっと皆昼飯を食べにいっているのだ、いずれ戻ってくるだろうと、美乃梨は一旦諦めることにした。どれだけ迷惑がられていてもあれだけべたべたしていたのに、すっかりあからさまに避けている自分にため息をつく。
「すみません」
突然声が聞こえて、飛びあがるほど驚く。下っ足らずな高い声。廊下にはついさっきまで誰もいなかったはず、と美乃梨は左右を見渡す。足音も聞こえなかった。
「すみません」
今度はスカートをくいと軽く引っ張られる感覚とともにもう一度同じ声が響いて、目線を下に向ける。小さな女の子が立っていた。くりっと大きな瞳に、白い肌、つやつやとした黒髪。あまりのかわいさに叫び声をあげかける。
大学には似つかわしくない年齢だが、迷子だろうか。この学校は近所の人にも一般開放しているため、ありえる話だ。基本的には散歩をしたり花見をしたり、せいぜい協会か庭園までだから、なかなか構内奥にあるこの研究棟に入ってくる人はいないのだが。この子だけ探検でもして迷いこんだのであれば、事務室かどこかに連れていかなければならない。
美乃梨がしゃがみこんで、少女に視線を合わせると、少女は小首を傾げた。動作の一つひとつが愛らしい。
「せとせんせーのおへやは、どこですか」
「え?」
思ってもみない名前が飛び出して、美乃梨はどきりとする。瀬戸先生? と聞けば、うん、と満面の笑みで頷かれた。
「ああ、すみません。こら、もと。離れないでって言うたやろ」
ばたばたとした足音とともに、後ろから別の声がした。振り返ると母親らしき女性が慌ててこちらに来ている。美乃梨は今度こそ叫び声をあげた。目の前にいる少女とまったく同じ顔の少女が、女性の手に引かれている。
「双子ですか? めっちゃかわいい」
「あ、そうなんです。ありがとうございます」
カチューシャが色違いな以外はまったく同じ顔と恰好で、美乃梨には区別がつかない。もとと呼ばれた少女はごめんなさい、と謝りながら母親のところに戻り、双子の姉妹と手とつないだ。視覚の暴力だ。あまりにかわいすぎて。
よく見れば母親も美人だ。背が高くて、そのうえ双子よりさらに小さな子を抱っこしているのに、しっかりヒールのついた靴を履いている。服装も多忙な母親にしてはかなりおしゃれだ。いわゆる西宮か芦屋マダムというやつだろうかと、美乃梨は感動とともにぶしつけにもしげしげと眺めてしまう。
美乃梨の母親も若くして美乃梨を生んだ分、他の同級生の母親に比べれば身だしなみに力が入っていて、どんなに忙しくても髪のセットと化粧だけは手を抜かない女性だった。それでもこんなに洗練されていたかというと、自信はない。
「このおねえちゃんに、きいてたの。おとうさんのおへや」
「ええ? すみません、突然びっくりしたでしょう」
「あ、いえ……」
お父さん。なんとなく気づいてはいたが、はっきり言葉にされるとやはり動揺する。心音がはやくなるのを感じながら、改めて瀬戸の研究室を答えようとすると、指先が震えていることに気がついた。
少女の父親が瀬戸なのであれば、このひとは瀬戸の妻だ。直接的に何かをしたわけではないけれど、このひとを軽んじるようなことを言ったのだという自覚が、美乃梨に罪悪感と緊張を与える。謝ってしまいたくなる。謝ったところで単なる自己満足だから、何にもならない。
「あ、おとうさん」
双子が声を合わせて叫ぶと、美乃梨の横を走り去っていった。反射的に振り返ると、瀬戸の姿がある。研究室から出てきたらしい。
目が合った、と思った瞬間に、瀬戸の表情が柔らかいものになった。初めて見るその表情に赤面しかけたが、すぐに瀬戸の視線は美乃梨ではなく、その奥にいる女性に向けられていると気づいた。
「飛紗ちゃん」
これもいままで聞いたことのない、やさしい声音だった。
智枝子に宣言した自分の発言が頭のなかを駆け巡る。何が恋を教えてあげたいだ。何が抑えきれない感情を共有したいだ。瀬戸は明らかに、女性に恋をしていた。他にはない感情を向けていた。改めて自分の愚かしさに恥ずかしくなる。なんて浅はかで、幼稚だったのだろう。
「ごめん、連れてきて。おとうさん遅いーって言って、ぐずりだしたもんやから」
「いや、いいですよ。休みだから学生もほとんどいないし」
飛紗と呼ばれた女性から子どもを引き取って、瀬戸が手慣れた様子で抱っこしたままあやす。美乃梨が知らなかっただけで、瀬戸は夫であり、父であった。
身動きがとれずにいると、
「どうしました?」
と瀬戸に声をかけられて、びくりとする。瀬戸は美乃梨が知っている瀬戸のままだった。口元にほほ笑みをのせて、穏やかな声で、まるで美乃梨の醜態などなかったかのように。
手にしている本をぎゅっと両手で握りしめる。違う。なかったことにしているのではなく、瀬戸にとって単に取るに足らないことだったのだ。断られはしたけれど、瀬戸は一度も美乃梨の好意を否定したりはしなかった。本当に、美乃梨の完全なる一人相撲だったのだ。
ちらりと飛紗に視線を向ける。美人で、瀬戸に愛されていて、敵うはずがない、と思った。
「あの」
失恋したのだ。
それだけの話だ。
「研究室の本を、借りたくて。先生、判子いただけませんか」
「ああ、ちょっと待っててください」
一度研究室に戻った瀬戸はすぐに戻ってきて、貸出カードに判子を捺した。「瀬戸」と書かれた印を美乃梨は見つめたまま、ありがとうございます、と礼を述べる。
今日はもう帰るのか、瀬戸は研究室の鍵を閉めて、改めていちばん小さな子を抱きかかえた。きっと双子だと片方ずつになるから喧嘩になるのだろうと予想がつく。
「それじゃあ、赤根さん。また」
はい、また。答えると、飛紗が小さく会釈をして、双子は手を振って、そろって去っていった。
美乃梨は借りた本をもう一度開いて、貸出カードに指をはわせる。せっかくいま捺してもらったのににじんでしまって、慌てて目元を押えた。隠すと気が緩むのか、美乃梨の思いとは裏腹にとまらなくなって、袖に染みができた。その間、廊下を誰も通らなかったことだけが幸いだ。
運命の相手ではなかった。
それだけの話だ。
それでも、美乃梨にとっては瀬戸を思っている間、瀬戸はずっと運命の相手だったのだ。
*
「菓子折りを持って謝りに来ました」
何の前置きもなく言い放つので、智枝子も瀬戸も一瞬疑問符を頭に浮かべたが、さすがに廣谷の扱いは心得ている二人である。すぐに赤根美乃梨のことだと気づいた。
数ヶ月、廣谷の機嫌の悪さといったら、あのるり子ですら「どうにかしてくれ」と智枝子に言ってくる始末で、手に負えなかった。瀬戸目当てに用事もなく廣谷の研究室に出入りをする美乃梨は、用事がある人間ですら拒否している廣谷からすれば迷惑千万この上なく、日々のいらいらを募らせていた。しかも美乃梨が来ているとき、瀬戸は絶対に来ないのである。そういう勘だけは絶対的な男だ。
その美乃梨が、「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」と菓子折りを持って謝りに来たことで、廣谷は溜飲を下げたようだ。いや、そもそも研究室に来なくなるならば彼は何だってよいのだ。甘いものが苦手らしいと国文学科の学生に聞いて、わざわざ甘くないおかきを選んできたところに、智枝子は誠意を感じる。ちなみに智枝子にも、廣谷とは別に「勝手なことを言ってすみませんでした」と羊羹をくれた。
「すみません、飛び火させてしまって」
「まったくです。まったくです」
一度では気が済まなかったのか二回繰り返して、廣谷は珈琲を淹れ始める。
謝罪があったことともう用事もなく出入りしなくなったことで、廣谷のなかで美乃梨に対するわだかまりはすべて溶けている。まだじゃっかん腹を立てているのは、瀬戸が相手の都合を鑑みないような、つまらない女に言い寄られていたことが気に喰わないからだ。瀬戸から廣谷に対する好意はあからさまでわかりやすいが、廣谷から瀬戸に対する好意は少々ややこしい。本音を言えば廣谷は瀬戸に結婚してほしくなかった――というより、一人の女にうつつを抜かすようになってほしくなかった――し、現実を持て余したり、悩んでいる姿を見るのもきらいだ。いつでも余裕綽々で鼻持ちならない男であってほしいという願望があって、智枝子には理解しがたいが、どちらにせよこの二人はつまり、面倒くさいのである。
「さすがに一目惚れは私も自衛しようがないんですよ。顔がいいから」
「いろんな方向に喧嘩売る発言やなあ」
「そんなこと言って山宮さんだって顔だけは瀬戸のこと好みでしょう。知っているんですよ」
それはそのとおりだ。まかり間違っても惚れたりはしないけれど。
顔はともかく、普段は相手が自分に好意を向けそうだと思ったらコントロールして外しているという旨の発言であり、美乃梨に関しては運が悪かったとしか言いようがない。瀬戸は常に触れそうで触れられない、誰に対しても平等で誰に対しても残酷な、「特別」を垣間見せてくれる男なのだ。当人の「特別」はたったひとりに注がれているから、無論すべて錯覚である。
「飛紗ちゃんはおにいさんの何がいいんですかね」
「私に真顔で聞く? それ。それも今さら」
小分けされたおかきの袋を開けると、ちょうど廣谷が珈琲を淹れ終わったところだった。カップを受け取って、瀬戸に回す。
「こういう男に選ばれたっていう自負は、相当なものなんじゃないですか」
やはり何だかんだ廣谷から瀬戸に対する評価は高い。智枝子は廣谷が息を吹きかけて冷ましてくれた珈琲を受け取る。瀬戸が来ているとなぜか学生の誰も質問に来ないので、優雅なおやつタイムだ。もっとも、いまは夏休みで学生はいないけれど。
「どうですか。ありますか、こういう男に選ばれたっていう自負」
瀬戸に問われて、これこそ飛び火だ。智枝子と廣谷、それぞれ右手の薬指には揃いの指輪がはめられている。結婚という形ではないけれど、確かに選ばれたということになるのだろう。
「特に……」
長考の末素直に答えると、瀬戸は声をあげて笑った。何がツボに入ったのかわからないが、つられて智枝子もくすりと笑う。
廣谷はすでに興味が失せたのか、めずらしく智枝子が開けた小袋からおかきを一つつまんで口に入れた。甘くないからだろうか。冷蔵庫で冷やしている羊羹はきっと食べないだろうから、家で夫となった綺香と二人で食べることになる。
瀬戸は珈琲を口に含むと、一息ついていつもの困ったような笑みを浮かべた。昔はこの表情が苦手だったと飛紗は言っていたが、いまでは見ると安心すると言うのだから、人間どう変わるかは誰にもわからないものである。
「選びあって生まれる結果ですからね。運命の相手なんていないんですから」




