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SS置き場  作者: 葉生
『なんでもない日々』SS
4/24

運命の相手 ―1

「あたし、瀬戸先生のことがすきなんです」

 一音一音、噛みしめるように言う。何度も胸の内で自分自身に確認をして、何度も確信を持った気持ちではあったけれど、口にしてみると一層はっきりとした輪郭を持った気がした。美乃梨は口角が持ちあがりそうになるのをなんとか堪えて、改めて顔を上げる。

 文学部教授の廣谷は相変わらずこちらを見ようともせず黙々と本を読んでいる。そもそも来客に背中を向けるように机を配置しているくらいなので、はなから他人と会話をする気がないのだ。だから美乃梨は廣谷が話しているところをあまり見たことがないし、美乃梨自身、一言二言交わすことはあったかもしれないが、会話したと言えるほど言葉を応酬させたことは一度もなかった。

 だから美乃梨が話しかけたのは、部屋の主たる廣谷ではなく、その傍で書類を整理している智枝子だ。右手と左手、それぞれ別の指輪を薬指にはめている。右手の指輪はどうか知らないが、左手の指輪は結婚指輪だろう。

 水曜日にだけ現れる智枝子は、特別かわいいわけではなく、きれいなわけでもなく、化粧はほとんどしてないようなもののうえ愛想もなく、せいぜい中の中、もっと正直な感想を述べれば美乃梨のなかでは中の下で、さらに結婚しているとなれば、まず間違いなく「敵」ではない。それに何といっても、智枝子は瀬戸を「おにいさん」と呼んでいるのだ。懐柔せずにどうするというのか。

 智枝子は美乃梨を見つめて何度か瞬き、それから小さく首を傾げた。兄のことをすきだと言われたら困惑するのは仕方がない。美乃梨にも兄がいるが、恋人の話を聞くにつけこんな奴のどこがいいのかといつも疑問だった。美乃梨からすれば魅力にあふれる瀬戸も、智枝子からすれば身内の一人だ。近すぎて見えないこともあるだろう。

「推測ですけど、もててきたと思うんです。瀬戸先生は。女に不自由したことないと思うんです。でもだからこそ、あたしが恋を教えてあげたい。教えてあげたいって言うと先生相手に上から目線で失礼ですけど、抑えきれない感情を共有したいって思うんです」

 気づけば早口になって、姿勢も前のめりになる。いかに本気であるかをできるかぎり等身大で伝えようとしたら、自然とそうなってしまった。

 智枝子は突然近づいてきた美乃梨に対して体を引いたりなどせず、そのまま見つめる。美乃梨のほうがはっと我に返って、体を元の姿勢に戻した。パーソナルスペースというものはないのだろうか。自分が寄せたくせに、そんな失礼なことを考える。

「赤根さんの気持ちは否定しないけれど」

 やっと口を開いたかと思えば続きが予測できて、美乃梨はばっと手を前に出す。智枝子のしゃべりは関西人としては比較的ゆっくりだ。とめることはたやすい。自分で勝手に考えるのならまだしも、他人の口からわざわざまっとうな理由を聞きたくはなかった。

「わかっています。あたしにだって見えています、あの指輪。でもすきなんです。きっとなし崩し家族からの視線とか年齢を鑑みて落としどころをつけたんやと思うんです。奥さんがいても、略奪愛? でもそれってたまたまたあたしがあとから出会ったってだけで、順序が違えば真実の愛として祝福されてただろうから、諦める理由にはなりません」

 考えるより先に舌が回る。言いながら、そうだ、それはそうだと美乃梨は自分が鼓舞していくのを感じた。

 瀬戸の左手の薬指には智枝子と同じように指輪がはめられている。二人が結婚しているわけではないからもちろんデザインは違うが、結婚指輪だ。最初から知っていた。美乃梨が入学した当時から、瀬戸の左手の薬指には指輪があった。指にしっくり馴染むくらい、長くつけていることが見ればわかる。

「兄妹なんですよね? 瀬戸先生と」

「え、まあ、一応兄妹といえば兄妹やけど……」

「心のなかでだけでいいんで、応援しててください。お兄さんがこれまでに経験できなかった興奮と昂る感情を、あたしが絶対に感じさせます」

 声にすればするほど決意が固まる。週に一回しか現れない智枝子に何かを期待しているわけではないが、少なくともこれで無視はできないだろう。ふとした瞬間、いざというタイミングでうっかりフォローしてくれればそれでよいのだ。まったくのゼロで一人がんばるより、充分可能性が広がる。

 ちょうどチャイムが鳴ったので、美乃梨は立ちあがる。瀬戸が受け持つ講義が終わったはずだ。研究室の前で待ち伏せなければ。

「あの瀬戸さんが結婚するくらいなんやから、たったひとりを自ら選んだとは考えないんやろか……」

 美乃梨が去った研究室で、ドアの方向に目線を向けて智枝子は首を傾げる。

「瀬戸が来るかもしれないからという理由でここに用もなく出入りするような学生が、そんなこと考えられるわけないでしょう」

 舌打ちでもしかねない勢いで廣谷が吐き捨てた。



 こつこつと一定の調子で、遠くから小さく音が聞こえてくる。それが瀬戸の足音だと、美乃梨には姿が見える前からわかる。甲高く廊下に響いているのではなく、注意深く美乃梨が耳を澄ましていて、そして彼女が瀬戸を運命の相手だと信じているから拾える足音だ。瀬戸はいつもきれいに磨かれた革靴を履いている。身長は男性にしてはそれほど高くはないが背筋は伸びていて姿勢がよいためか、特に小柄とは感じられない。黒々とした髪、ほんのり茶色がかった双眸、シンプルでラフなのにどこか洗練されていて恰好よい服装。普段の柔らかな微笑みをたたえて、美乃梨の姿を認めるときっとまずああ、と緩やかに声を発する。あの滑舌のよい、無視のできない声音で。続けてまた来たんですか、と呆れたように言うだろう。美乃梨には言葉に愛情が乗って聞こえてくる。仕方のない子だ、という風に。

 はたして瀬戸が現れると、美乃梨の「瀬戸先生」という呼びかけに応じてか、ああ、と緩やかに言った。

「また来たんですか」

 あまりにも予想どおりで、美乃梨の頬は自然と持ちあがる。

 瀬戸は研究室の鍵を開けると、さっさと中に入ってしまった。ドアが閉まりきる前に慌てて美乃梨も続く。中は相変わらず片づける気のない散乱状態で、棚だけではなく床にも本が積み重ねられていた。ぶつかって倒したりしないように気をつける。

「用件は何ですか」

 机に向かった瀬戸が美乃梨を見もせずに言う。この部屋には他に椅子がない。いや、正確に言えば一応パイプ椅子があるのだが、たたんで壁に立てかけられている。美乃梨はいつもそうするように、瀬戸の隣に立って顔を覗きこんだ。

「先生の年齢が知りたいです」

 予想では三十代半ば、前半寄りだ。服装を含めて若く見えるが、実際にはこのあたりだろう。

「三七です」

 返ってきた数字に、三七、と思わず復唱する。美乃梨の母親と年齢が二つしか変わらない。母は世間一般に比べたら若いころに美乃梨を生んでいるとはいえ、自分のすきな相手が親の世代だと思うと、なんだか不思議だった。だからといって引いたり気持ちがしぼんだりすることはなく、むしろこんなにうつくしい三八が芸能人以外でいるのかと、美乃梨は感動さえした。

「結婚して何年ですか?」

 くだらないことしか聞けないなら出ていけと言われる前にたたみかける。何度も押しかけては失敗を繰り返しているので、すでに学習していた。質問さえすれば、瀬戸は答えてくれるのだ。普段の講義を熱心にまじめに受けていればなおさら。

 瀬戸は読み書きをするときだけ眼鏡をかける。授業中はかけていないので、研究室に出入り――もとい押しかけ――するようになって知った。この時間でしか見られない、貴重な姿だ。

「五年目です」

 五年前といえば美乃梨は中学生である。もし出会えていたとしても、中学生のころの美乃梨にとって三十代はおじさんであったし、瀬戸にしても中学生と関係を持てば犯罪者だ。出会えたのがいまでよかった。運命の相手に気づけないところだった。

「じゃ、そろそろセックスレスですね」

 美乃梨はその場にしゃがみこんで、瀬戸の顔を下から仰ぐ。今日の服は胸元が開いているから、瀬戸がこちらに目を向ければ自然と谷間も視界に入るはずだ。下品なアピール方法かもしれないが、女の武器が男にいちばん利くと知っていて利用しない手はない。

「そういうデータでもあるんですか?」

 しかし瀬戸は書類から目を離さず、手もとめないまま聞いてきた。

「いや、知りませんけど」

「調べてから言いなさいね」

 色仕掛けはバツ。美乃梨は頭のなかのメモに新たに書きとめる。照れているのか、このご時世なのでセクハラで訴えられたらかなわないと思っているのか、それとも単に気づいていないのか、それはわからないが、とにかく瀬戸に動揺はほとんど見られない。立ち居振る舞いに余裕が感じられるから、おそらく手慣れているのだろう。

「先生、何か手伝うことありませんか?」

「ないです。そろそろレポートの採点を行うので出ていってください」

 即答のうえ追い出しの言葉を喰らう。しかし美乃梨はめげず、机の縁に手を置いて体を瀬戸に近づけた。見てくれないならば見せるようになおアピールすればよいのだ。

「助手でも雑用でも、なんでもします」

 瀬戸は避けたり反射で身を引いたりすることもなく、やっとゆっくり美乃梨に視線を向けた。智枝子と同じくパーソナルスペースが狭いのはやはり兄妹だからなのか、それともどこかで美乃梨が運命の相手だと瀬戸も気づいているのか。見られるために寄ったのは美乃梨であるのに、いざ間近で瀬戸の瞳が自分を捉えているとわかると、美乃梨のほうが動揺してほのかに頬を赤く染める。

「データを確認どころか調べもせず憶測でものを断言する学生に、助手は務まりません。出ていってください」

 しくじった。美乃梨は仕方なく頷き、研究室をあとにする。名残惜しく出る前にもう一度瀬戸のほうを振り返ってみたが、瀬戸は片肘をついてこちらを見ようともしていなかった。左手の薬指にはめられた指輪が窓からの日に反射して光っていた。



    *



 物部氏ですね、と言われた。

 入学してすぐに、二回生(関西の大学では二年生、三年生ではなく、在籍年数で回生と数える)以上を含めた、学科全体での懇親会があった。最初は教授たちも交えて。夜は学生だけで。毎年恒例で、一回生はただで参加ができる。皆四月から共通の話題に乗れずにはみ出したくはないから、ほぼ全員が参加した。もちろん美乃梨も出席した。そのとき、隣に座ったのが瀬戸だった。

 瀬戸は人気なのか、美乃梨の先輩にあたる何人もが男女問わず絡んでは去っていった。思い返せば最初から目を奪われていて、やはり運命の相手だったからわかったのだ、といま美乃梨は自分の第六感ともいうべき感覚に納得しているが、実際のところは単に瀬戸が好みのタイプの顔立ちだったというだけの話である。先生と仲良くなるより同級生と仲良くやっていけるかどうかがこの先四年間の大学生活のなかで肝心だと中学校高校の延長で考えていたため、隣に座る瀬戸に美乃梨から話しかけたりはしなかった。瀬戸とは反対側の隣に座っている同級生と話題を見つけるほうが大事で、端の席――実際には端ではなくむしろ真ん中のほうであったが、同級生のなかでは――になってしまったことを運が悪いと苦く考えていたくらいである。

「一回生?」

 三回生だか四回生だか、もはや忘れてしまったが気のよい先輩が数名後ろから話しかけてきて、美乃梨は笑顔で頷いた。名乗ろうとしたところを、待って待って、と手で制される。

「先生、この子の名前なん?」

 隣に座る瀬戸が、おそらく初めて美乃梨に目線を向けた。その途端、周りにある瀬戸以外のものが認識できなくなって、瀬戸だけがきらきらとして見えた。なぜなのかはわからないが、あたしはここにいる、と主張するため、先ほどとめられたのも忘れて名前を言いかけたときに、

「赤根美乃梨さん」

 と、瀬戸の口から自分の名前が紡がれた。美乃梨は驚いてえっ、と上ずった声が出てしまい慌てて口を押えたが、誰も頓着していなかった。合ってる? と先輩に聞かれて首を縦に何度も振ることで答えると、周りからおお、と歓声があがる。

 中には入学式前から大学の部活に入って先輩たちとすでに仲良くなっていた子もいたが、美乃梨はそんなことはしていない。入学にあたって学生証作成のための写真は撮ったが教員の手に渡っているとは考えにくいし、間違いなく初対面のはずだ。それなのに、名前を認識されているだなんて。

 じゃあこの子は? と美乃梨の隣に座っている子を別の先輩が示すと、瀬戸はまたよどみなく答えた。さらに歓声があがる。

「さすがやな! 先生の記憶力ほんま気持ち悪い」

「聞いておきながらその失礼な物言いはなんですか。人に言わせたんですから、もう覚えましたね?」

「いやそれは」

 しどろもどろになった先輩に対して、他の先輩たちが笑う。

「今日、最初に確認のために名前呼ばれたでしょ」

 名前を当てられて驚く美乃梨たちの傍に女性の先輩がしゃがみこんで言った。入学式の前に一度専攻ごとに教室に集められて、確かに名簿を読みあげられた。しかし点呼をとっていたのは少なくとも瀬戸ではなくもっと年老いた教授で、いまは美乃梨たちとは対角線上の、離れた場所で談笑している。瀬戸を含む教員は前に立っていた気はするがあまり記憶になかった。

「あれで憶えられたんだよ。先生はたぶん全員憶えてる。記憶力が半端ないの」

 だから悪さできないよ、と意地悪く笑われて、合わせて笑う。

 ふと瀬戸と目が合って、いまだ騒ぐ先輩たちをよそに、瀬戸は美乃梨に対してひっそりと微笑んだまま言った。

「赤根さんは、物部氏ですね」

 内緒話をするように言われて、かあーっ、と美乃梨の顔が熱くなった。そうです、と答えようとして口を開くと咽喉から空気だけが出たので、一度咳払いをして改めてそうなんです、と頷く。うっかり声量を間違えて注目などされたりしないよう、細心の注意を払って。

 赤根という名字は物部氏、もしくは茜部氏が由来とされている。美乃梨の出身である三重県にはちらほらといるが、あまり数のいる名字ではない。教科書に出てくる有名な人が由来と知ってから、美乃梨は歴史に興味を持って歴史学の道を選んだ。

 指摘されるとは思っていなかったので、気恥ずかしさと誇らしさがないまぜになった。時間が経つにつれ、歴史を通じて瀬戸と会うためのきっかけだったのだという思いに変わっていき、偶然ではなく必然だと感じるようになった。

 そのあとはすぐに瀬戸は別の人たちと話し始めたので、結局その日交わした会話はそれだけだった。美乃梨にはそれだけで充分だった。夜の飲み会にも参加したが頭のなかは瀬戸のことばかりで、不自然にならない程度に先輩に瀬戸の話を聞き出した。同級生と仲良くなる目的などすっかり忘れていたが、授業が始まってみると最初の必修授業を除いて、一人で行動しても何ら問題はなく、たまに笑顔で言葉を交わせば波風が立つこともなかった。

 瀬戸が講義をしている授業をとれる分だけ片端からとり、何度も研究室の前で待ち伏せをして、話をすればするほど心がときめいた。あしらわれるのですら心地よかった。胸のなかにある「すき」という気持ちがどんどん膨らんで、美乃梨自身を呑み込もうとしていることに気づくと一層愛しさが増した。

 国文学科の廣谷という教授と仲がよいこと、廣谷の研究室に毎週水曜日にだけ現れる智枝子とも仲がよいこと、採点が厳しいことから学生には恐れられながらもなんだかんだと慕われていること、きちんと努力をする相手にはほんのひとさじだけやさしくなること、結婚して指輪もしているのに家族の話はほとんどしないことなど、言い出したらきりがないが、観察してわかることは概ね情報として手に入れた。

 反対に努力をしない学生に対しては微塵の容赦もないので、美乃梨は恋に現を抜かせば抜かすほど、学問にのめりこんでいった。

 瀬戸はいつ気づいてくれるのだろうか。運命の相手はここにいると。

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