暗躍
霖が火事を逃れて大国ケメトに居るかもしれない───そう知ってからの、スミュルナ王子の判断は早かった。
「イムホテプ、この村の問題を片付けてからケメトに向かう」
「そうだと思って、必要そうな資料を持ってきたわぁ」
差し出されたのはヒタイト帝国の国境に位置するこの村の、農作物の収穫量や生活状況を記した物。代々の村長の系譜まで用意したようだ。
木箱の中には粘土版からパピルス、木片まで十年分が在った。
「リンの苦しみと同じくらい、重い罰を分隊長に与えて欲しいけど。それは村長宅で気付いたことを訊いてからね」
スミュルナは頷き、分隊長を冷ややかに見据えた。
「話せ」
「殿下、それは─」その先の言葉を分隊長は躊躇った。
村長の不正を調べていたのは、本来なら分隊長がスミュルナへの手柄として掴んだ案件だった。
リンと殿下を引き離したことを誤魔化し、国境の村に居座ることを正当化出来るほどの事案だと思っていた。
しかし、スミュルナ王子から分隊長へ向けられる視線は冷たく、王子のなかでリンの存在が想像以上に大きかったことを示している。
ヒタイト王から信頼されるほど有能なのに、スミュルナ王子は腹違いの兄よりも目立とうとしない。それを分隊長は長く不満に思っていた。
実母を早くに亡くして命を脅かされ続けてきた環境のなかで、幼い頃の兄との交流が、王子の心を支える光だったと知っていたから、口には出さなかっただけで。
そんな王子には、出自の怪しいリンではなく、有力者の娘を娶ったほうが支持を得られて将来のためには正しいはずだ。そう思って画策したのに、分隊長の信念は他ならぬ王子本人の冷たい眼差しによって揺らいでいる。
王子は万難を排してでもリンを妻にする覚悟を決めておられたのだ。
幼い頃より一緒に過ごした自分は、誰よりも王子のことを分かっていると傲っていたのか─
分隊長は目を閉じると、うつむきがちに、訥々と話し始めた。
「村長は納税を誤魔化し、その差額分で贅沢な生活を送っていました」
「報告書は例年と変わらない収穫量になっていたけどぉ?」
「視察や報告書に不審を持たれないよう、村外に協力者がいたようです」
「ふーん。でも最近は不作だったのでしょう?我々の目を誤魔化せる程度に収穫量を水増しして目を逸らさせたってこと?
どこの誰だか知らないけど、村の税を補えるほどの影響力を持っている人物ぅ?」
イムホテプの問いに分隊長は乾いた唇を数秒噛んだ。スミュルナの反応を気にしながら、枯れた声を吐き出す。
「デス卿です」
それはスミュルナの異母兄の叔父であり、ヒタイト帝国の王宮内で最大派閥の長であった。
スミュルナは内心の動揺を外に漏らさず、平坦な口調で問いを続ける。
「───根拠は?」
「こんな辺境の村に流れないはずの高級な葡萄酒が村長宅に在りました。
現在、葡萄酒の管理を任されているのはデス卿です。葡萄酒の竃の封印にデス卿の円筒印象が押されていました」
いつも飄々としているイムホテプが、想像以上の大物の名前に頭を抱える。
「ここはもともと小さなオアシスから始まった村で、ヒタイト帝国に組み込まれてからも納税によって自治が許されてきたわ。
スミュルナ殿下の屋敷が近いこともあって、報告書を上げる義務はあるけれども、ゆるやかな管理下でしかない。
その隙を突いて、こんな所で、デス卿が何かを企んでいたってことぉ?」
村長宅から押収した物品を再度確認させねばならない、そう思いつつ、スミュルナはこれまでの情報を脳内で繋いでいた。
分隊長の動きを見張りながら村の様子を部下の者たちに探らせていたのだ。
もともと住んでいた村人と流れ着いて来た者たちとの不和。
老いた農夫が不作を嘆く言葉。
村人の意見を聞かず、対策もせず、贅沢な暮らしをしている村長。
葡萄酒の封印をそのままにしたのは、こちらへの警告と取るべきか。おそらく入手の経路を辿っても言い訳出来るように、各部署の粘土板を細工済みなのだろう。
自分の不甲斐なさを悔いるようにスミュルナは言った。
「暴動だ。
暴動を起こさせ、こちらの管理不行き届きを責め、世論を味方にしたい思惑だ」
それを聞いた分隊長は尋問されている立場も忘れて、思わず立ち上がった。
「まさか、そんな」
対抗心の強い兄王子が何かを仕掛けてきた時に、後ろ楯を揺さぶる材料として使おう、そう思って調べていた不正が、こちらの立場を脅かすような暴動の前触れだとは、想像もしていなかった。
記録に目を通したイムホテプが声を落とす。
「数年前から少々の不正はあったけど、あからさまに増えたのはあたしたちがアシリア国に入った後からねぇ」
スミュルナは天を仰いだ。
「今すぐリンの居るだろうケメトへ行きたい。
しかしデス卿の手がこの村まで及んでいたとすれば、私が駆けつけることでリンの身が危うくなるかもしれない」
自分がケメトへ行けば、国内でデス卿の影響が更に大きくなり、最悪取り返しがつかなくなる。挙兵され国境で挟み撃ちにされかねない。
今までは取るに足らない、後ろ楯の弱い王子でいることでデス卿の陣営からほどほどで放っておかれた。
しかし先日アシリア国で私が友好関係を結んだことも、そこにリンの叡智が大きな影響を与えたことも知られたのだろう。
兄王子の立場を堅固なものにするために、デス卿は手段を選ばない可能性がある。
イムホテプも同じ結論に至ったのか、「ケメトに残してきた人脈をどう使おうかしら…」と呟いた。
「あたしみたいに絶世の美男子じゃなくてぇ、スミュルナ殿下のような目立つ容姿でもなくてぇ、ケメト国で溶け込める存在でないとリンのそばに攻撃の目印を置くようなものだわぁ」
デス卿の葡萄酒はケメトでも出回っている。それはデス卿派閥の手下がケメトにも居ることを示していた。
「潜伏に長けた兵たちをケメトへ送り、デス卿よりも先にリンを見つけなければ」
屋敷に住まわせたいほどリンを寵愛しているとデス卿に知られてしまっているとすれば、リンを害することで私に痛い目を見せようと考えるだろう。
(痛い目、どころか半身以上、いや、魂そのものを持って行かれるようなものだ)
砂嵐が来る前、アシリア国からの馬上で。この腕のなかに確かな温もりがあったのに、リンまでの距離がどうしても遠かった。
脚の怪我で弱っていて、私の屋敷でゆっくり療養させるはずだったのに。いまどのような状況にいるのか。
不幸中の幸いは、砂嵐があったことで味方も敵も身動きが取れなかったこと。
スミュルナが村人の出入りを監視していたため、まだ最近の村の中の様子がデス卿に漏れていないこと。
この時間差を最大限に活かしつつ、相手の裏をかく必要がある。
スミュルナは無表情で分隊長を見据えた。
「分隊長に処分を言い渡す」
「は」
「命令に背き、軍規を破り、王子妃になるべきリンに危害を与えた。
よって、分隊長の座から下ろし、軍からも除名する」
「は」
覚悟をしていたのか、分隊長だった男は頭を下げる。
「そして、国外追放とする」
これにはイムホテプが驚き、声を上げようとしたが、王子の続く言葉に口を噤んだ。
「しかし長年の働きを鑑み、法律に定められた罰の代わりに、己の手で汚名を挽回する機会を与える」
元分隊長は膝をつき、震える手で地面に触れた。敬愛する王子の爪先が視界の隅に映る。爪先で土を深めに踏みしめるのは、王子が大切なものを守ろうとする時の癖だった。
「リンは"療養のため屋敷に籠っている"と擬装する。リンを妃とする承認を得るには、彼女の名誉も守らねばならない。世間の目やデス卿の目を掻い潜れ。姿を変えて、ケメトへ向かうのだ。
リンを怖がらせないよう直接会わずに、尚且つリンを大切に保護し、私の元へ連れてこい」
「この命をかけて、必ずお連れします」
地面に擦れるほど深く頭を下げた男を、スミュルナはじっと見た。
感情を乗せない声で素っ気なく伝える。
「リンの命も、お前の命も失うな」
王子の爪先は、変わらず土を深めに踏みしめている。
分隊長の地位を失った男は、嗚咽を堪え切れなかった。
そのころ霖は微睡んでいた。
先ほどまで焼けるような熱さのなかにいたのに、いまは身体の芯が冷たい。
ああ、雨が降っている。
霖はぼんやりとした意識のまま、習慣で仕事のことを、うつらうつらと考え始めた。
この世界へ来る前の、日本での仕事のことを考えるのは、心を庇おうとする本能なのだが、霖にはわからなかった。
雨が降っているから、まずは翻訳した書類が濡れないようにクリアファイルに入れよう。依頼人の移動に普段より時間がかかることを想定して、再度スケジュールを調整しなければ。
翻訳の依頼者に同行する予定だった資料館へ濡れないよう移動するには、レンタカーを借りるか。あとは───。
霖はケメト国のナイル川の畔で横たわっていることにも、霖を発見した若い男女が慌てて生い茂るパピルスを掻き分けて来る足音にも気付かず、夢と現のあいだで微睡んでいた。
作者、生きてます。
長年更新が絶えて申し訳ございませんでした。中間管理職の多忙さと体調不良を言い訳にして執筆のエネルギーが切れかかっておりました。ラストは決まっているので、完結を目指す姿勢は変わならないのですが…。
はじめの頃の頻度は難しくとも、エネルギーが増えたタイミングでぼちぼち更新して参ります。
読んでくださるすべての方に感謝を込めて。




