第07話 ズレ
(こんなはずじゃ……。)
勇者は剣を握り、鋼の冷たさで意識を研ぎ澄ます。
深い深い森の奥。
厚い木々の葉が光を遮り、昼間でありながら薄暗かった。
足元には湿った落ち葉が積もり、踏むたびにかさりと小さな音を立てる。
「……ここから先、慎重に行きましょう」
神官の少女の声は低く、しかしはっきりとした力を帯びていた。
「ええ、足元に気をつけて」
美貌の女剣士が頷く。
だが、その言葉とは裏腹に、意識は奥の暗闇に向けられていた。
「……準備完了。あとはタイミング次第」
三角帽を深めに被った女魔法使いは杖を一度軽く振り、準備の魔力を確かめる。
(……何だ? 何が違う?)
勇者は微かに眉を寄せた。
皆の戦意は高い。
だが、ここまでの道中でずいぶんと体力的にも、所持品的にも消耗した。
特に切り札であるエクスポーションを使い切ったのは痛い。
(だけど、ここで帰れない。
依頼を達成して、とんとん……。いや、ちょい赤字だ)
通常のポーションの三倍の効果を持つ代わりに、値段は十倍。
だからこそ、ここぞという場面でしか使えない。
その『ここぞ』は、もう使ってしまった。
(今まで通り、安全マージンは取った依頼だったはずだ。
俺たちなら、もっと簡単にこなせるはずだったのに……。)
勇者はわずかに奥歯を噛みしめる。
想定と違う。
戦力は足りているはずだった。
準備も、連携も、問題なかったはずだ。
(なんで……。こんなにやりづらい?)
足音が揃わない。
呼吸が合わない。
視線がほんの一瞬遅れる。
一つ一つは小さい。
しかし、その違和感は確実に積み重なっていた。
「グモモッ……。」
暗闇の奥に光る大きな単眼。
頭頂に角を生やし、赤銅色の肌。
討伐依頼のモンスター、サイクロプス。
その巨体が、一歩踏み出す。
ズシン、と。
地面がわずかに揺れた。
それだけで、森の空気が変わった。
「フリージングアロー!」
「ちょっ!? 早い!」
威圧感に気圧され、魔法使いが先走る。
本来なら、勇者の合図を待つはずだった。
だが、その『半拍』が待てない。
杖から放たれた氷の礫は、一直線に飛び、サイクロプスの手前で、わずかに失速した。
「グモッ!」
サイクロプスが腕を振るい、棍棒がブオンと風を唸らせる。
次の瞬間、パリーンと乾いた音と共に、氷の礫が粉々に砕け散った。
それが、開幕の合図になった。
「グモオオオオオオオオオオッ!」
サイクロプスが頭上を見上げ、雄叫びをあげる。
空には黒い雲が渦巻き、薄暗かった森が、さらに闇を深めていく。
ぽつりと一滴の雨が、勇者の頬を打つ。
直後、豪雨が叩きつけるように降り始めた。
「まずい! 仲間を呼んだわ!」
剣士がサイクロプスに向かって突撃する。
「馬鹿! 俺の前を!」
やや遅れて、勇者も駆け出した。
進路を塞がれ、怒鳴りつける。
だが、その声は豪雨にかき消され、届かない。
「キャっ!?」
剣士の足が滑る。
ぬかるんだ地面が、踏み込みを奪う。
転倒は回避したが、完全に勢いを失った。
「グモッフッ!」
サイクロプスが喉を鳴らす。
明らかな嘲笑だった。
「くそっ!」
勇者はすぐさま剣士の前に割り込む。
振り落とされた棍棒を、剣で受け止めた。
「……お、重い!」
しかし、その剛腕を受け止めきれない。
慌てて左手で刃を支えても、片膝が沈んだ。
「す、ストレングス・パワーを!」
指示を待っていた神官が、いてもたってもいられずに叫ぶ。
「違う! 回復だ!」
「えっ!? だ、だって!」
勇者は豪雨に負けじと怒鳴った。
なぜなら、気づいてしまったからだ。
剣士が体勢を立て直そうとした、その瞬間。
ほんのわずかに、右足を庇ったのを。
「お前は一旦下がれ!」
「ごめん! すぐ戻る!」
おそらく、先ほど滑ったときに挫いた。
あり得ない凡ミス。
だが今は、それが致命的なミスだった。
「はっはっ……。長い『すぐ』になりそうだな」
勇者は、歯を見せて笑った。
そうでもしなければ、心が折れそうだった。




