第10話 宿屋の朝
勇者たちが定宿にしている一室。
外の空は晴れ渡り、朝の光が木の床を柔らかく照らす。
少し開いた窓からは、新鮮な風がかすかに流れ込んでいた。
「ふぅ……これで、もう大丈夫でしょう」
ロダンは大きく息を吐き、額の汗を腕で拭った。
彼は休みを挟みつつ、回復のポーションを飲みながら、夜通し治癒魔法を行使していた。
その甲斐あって、絶体絶命だった勇者の峠は、どうにか越えられたようだった。
だが、勇者はまだベッドに横たわり、深い眠りの中で胸だけが上下している。
薬の副作用で意識は朦朧としており、完全には目を覚ませない。
『カイル……。許してくれ』
『俺は、俺は……。どうしても、ラーナが欲しかった』
『だから、お前をパーティから追い出した』
『関係を持ったのも……。酔わせて……。』
『ノルンも、シシリーも……。全部、失った』
「俺は……。俺は、勇者なんかじゃなかった』
この宿に運ばれる間、カイルの背中で、勇者は何度も懺悔を漏らした。
その声はまだ、耳の奥に残っている。
カイルは青白い勇者の顔を眺めながら、それを反芻する。
(結局、俺は自分のことばかりだった……)
(目で情報を見て、知ったつもりになって……)
(お前自身を、ちゃんと見ていなかったんだな……)
そして、カイルは静かに、反省した。
その背中を、勇者の隣で眠るラーナは、静かに見つめていた。
目を細め、わずかに微笑むように。
「あぅっ……」
身体を起こそうとしたが、力なく再びベッドに沈む。
「駄目ですよ! まだ寝てないと!」
エルザが少し大きめの声で、でも優しく叱る。
乱れた布団を整え、ラーナの肩まで丁寧にかけてあげた。
その背中を、カイルはそっと目で追った。
目を細め、わずかに微笑むように。
「あっ……。」
ラーナの小さな声が、静かな室内にこだました。
「どうした?」
カイルは眉をひそめ、ラーナへ視線を移す。
「少し……。二人にしてくれませんか?」
だが、ラーナは目はエルザとロダンへと向けられた。
「えっ!? えっ!? えっ!?」
エルザの視線は、カイルとラーナの間を忙しなく行き来する。
「さあ、行きますよ」
「えっ!? ……あっ!? ちょっと!」
ロダンは苦笑を浮かべた。
軽く肩を叩き、無理やりではなく自然な力でエルザの手を引く。
抵抗する間もなく、二人は部屋の外へと歩き出した。
エルザの視線は、まだベッドに残るカイルとラーナの方へ何度も戻る。
やがて、ドアが閉まる。
室内に静寂が満ち、残された二人だけの空間が生まれた。
「……ごめんね。あの時、止められなくって」
ラーナの声は小さく、けれど真剣だった。
カイルはその言葉を受け止め、何も言わずに頷く。
『これから、どうする?』
そう問いかけようとした瞬間、ドアがギィッと音を立て、わずかに開いた。
鋭い碧の瞳。
エルザだった。
その上で、手を合わせ頭を下げるロダンの姿があった。
◆◆◆
《エルザ:不満、心配》
《ロダン:謝意、心苦しい》
◆◆◆
訳が分からない。
カイルは眉を寄せた。
「ぷっ!?」
ラーナが思わず吹き出した。
反射的に、カイルはラーナに視線を戻す。
◆◆◆
《ラーナ:安堵》
◆◆◆
ますます訳が分からない。
カイルの困惑は深まる。
「ふふふっ……。」
肩を震わせ、目元を拭うラーナが、カイルを手招きした。
カイルが近づくと、ラーナはさらに手招きする。
それならと上半身を屈めるが、また手招き。
最終的に、カイルは耳をラーナの口元に近づけた。
「見つけたんだね。……カイルの聖女様」
その囁きに、カイルは思わず上半身を跳ね戻した。
「……そ、そうだな」
頬を赤く染め、エルザをちらりと見やりながら、小さく頷く。
魔王の絶望が世界を染めるとき、必ず勇者と聖女は立ち上がる。
その伝説は物語となり、いつの世も、親から子へと語り継がれてきた。
誰もがその華々しさに憧れ、やがて自分はそうなれないと悟り、当たり前の日常へと戻っていく。
そうした中で生まれた、ささやかな隠語。
勇者と聖女が結ばれた過去になぞらえ、人は自ら選んだ伴侶を『勇者』と、あるいは『聖女』と呼ぶ。
「正直、たった数日で、って思っちゃうけど。
でも、お互い様だよね?」
「……そ、そうだな」
「じゃあ、さっきの謝ったのはなし。いいよね?」
「あ、ああ……。」
ドアがバタンッと音を立て、勢いよく開いた。
「なんですか! なんですか!」
エルザが肩を怒らせ、早足で踏み込んでくる。
廊下では、ロダンが顔を手で覆い、天井を仰いでいた。
「近い、近い、近い! 近いですよ!」
「さあ、ラーナさんは寝てなくちゃ駄目です!」
「カイルさん、行きますよ!」
エルザはカイルの手首を掴むと、そのまま有無を言わせず、部屋から連れ出してゆく。
「お、おい?」
カイルが戸惑っている間に、すでに部屋の外へ引きずり出されていた。
「カイル!」
呼び止める声に、カイルは無理やり肩越しに振り向いた。
「うん?」
ベッドの上、ラーナがくすりと笑う。
それは安堵を滲ませた、とても柔らかな表情だった。
「元気でね!」
「ああ、お前もな!」
短いやり取りを最後に、扉が閉まる。
部屋には、かすかに笑いの余韻だけが残った。
******
「……よかったのか?」
廊下の騒がしさを遠くに聞きながら、勇者は静かに目を開けた。
天井を見つめたまま、問いかける。
「ふふっ……。
私の勇者さまになってくれるって、約束したよね?」
返ってきた言葉に、勇者の口元へかすかな微笑みが浮かぶ。
戦いの疲労も、過去の痛みも、ほんのひとときだけ和らいだ気がした。
「ああ……。一緒にやり直そう」
窓の外では、朝の活気が生まれ始めている。
街並みを新しく塗り替えるように、これから始まる一日の気配が満ちていた。
――第一部、完。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




