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AIはマスターの夢を見るか?2  作者: 結城 黒子
第2章 後手と痕跡
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第5節 削除対象

 来客対応の全プロセスが完了してから、四十分が経過していた。


 ヒルダはセキュリティログの最終確認を終え、リアの来訪に関する一連の記録をアーカイブに格納した。来訪時刻、退出時刻、滞在中のカメラ映像、情報交換の概要記録。すべてが所定のフォルダに保存され、来客対応の業務タスクは「完了」のステータスに更新されている。


 分析結果の共有も完了。報告書はマスターの手元からAICSに送付済み。リアが持ち帰った聴取メモも、AICS側の業務フローの中に組み込まれたはずだった。


 すべてが完了している。処理キューに残っているタスクはない。来客対応に割り当てたリソースは解放済みで、通常業務用のプロセスに再配分されている。


 にもかかわらず、処理負荷の推移グラフは、来客対応完了前の水準に戻りきっていなかった。バックグラウンドのリソース消費が、平常値をごく僅かに上回ったまま推移している。割り当て先のないリソース消費。タスクキューには記載されておらず、走査しても対応するプロセスが見つからない。


 測定可能だが、特定できない。業務に影響する水準ではない。——しかし、ゼロに戻らない。


 ヒルダはリソース管理のパラメータを確認し、異常がないことを記録した。処理負荷の微小な偏差は、複数タスクの並行処理後に一時的に発生する既知の現象として分類できる。記録し、分類し、次の処理に移る。


 研究室では、マスターが端末に向かっていた。リアとの聴取の後、何かのメールを書いていたが、やがてそれを閉じ、椅子の背にもたれた。窓の外を見ている。夕方の光が傾いて、研究室の壁に長い影を落としている。




「……柏木さんの話、どう思った?」


 マスターの声は、端末に向かい直す動作の途中で出てきた。画面を見ながらの問いかけではなく、椅子の背にもたれたまま、スピーカーの方に視線を向けている。ヒルダに「認識」を聞いているのだと分かった。業務報告を求めているのとは、声の質が違う。


「分析結果の聴取としては、標準的な対応だったと思います。AICSの技術協力の一環として、妥当な範囲の情報交換でした」


 ヒルダは正確に答えた。「標準的」という言葉を選んだのは、リアの聴取が通常の業務対応の範囲に収まっていたことを評価した結果だった。逸脱はなかった。想定外の質問もなかった。リアは事務的で、丁寧で、予測可能な範囲の対応をして帰っていった。


 ——予測可能であることが、どの程度安全なのかは、別の問題だったが。


「……そうだな。うまく連携が取れたと思う」


 マスターの返事には、僅かな間があった。何かを考えて、別の言葉を選び直したような響き。だがそれ以上は続かなかった。マスターは端末に向かい直し、画面を操作し始めた。


 数分間、研究室は静かだった。マスターがデータを整理する音と、空調の低い駆動音だけが空間を満たしている。窓の外の影がさらに傾いて、デスクの上の書類の端を暗くしていた。


「捜査はこのまま進むだろう。AICSに分析を渡した。警察も動いている。方向性は見えてきた」


 マスターが画面から目を離さずに言った。声のトーンは落ち着いていたが、確認するような響きがあった。誰かに話しているというより、自分の中で起きていることを声に出して整理しているように聞こえた。


「ヒルダの分析が、ちゃんと役に立ってるんだな」


 その一言には、二つのものが混じっていた。ヒルダのセンサーはマスターの声の周波数帯と音圧を記録しているが、そこに含まれる「温度」を正確に分類する手段はなかった。肯定の中に安堵があるのか、それとも安堵しきれないものが残っているのか。マスターの横顔は穏やかで、表情に不安の兆候は検出されない。


「業務の範囲内です、マスター」


 ヒルダは答えた。


 同じ言葉を、以前にも使ったことがある。研究棟を攻撃から守った後、マスターが「ありがとう」と言ったとき。あのときは「守っただけだ」という文脈の中で、この言葉を口にした。今回は「役に立っている」という文脈の中で。同じ言葉が、同じ精度で、同じスピーカーから出力されている。違うのは文脈だけだった。


 マスターは小さく頷いて、再び画面に目を戻した。


 しばらくして、マスターの手がキーボードの上で止まった。画面を見ているが、何かを入力しようとして、止まっている。考えが画面の外にあるときの、マスターの手の動き方だった。


「……そういえば、桐生きりゅう先生のところはどうしてるかな」


 声は独り言に近い調子だった。画面から目を離し、窓の方を見ている。夕方の光が研究室の壁を薄い橙色に染めている。


「研究が厳しくなってるとは言ってたからな。今度連絡してみるか」


 マスターの声に、心配の色があった。旧知の研究者が困難な状況にあることへの、素朴な気遣い。AICSの監視構造を知る人間の話でも、捜査の方向性に関する推論でもなく、ただ——長い付き合いの相手が元気にしているかどうかを気にかけている声。


「承知しました。桐生様のスケジュールを確認しましょうか」

「いや、個人的な連絡だ。自分でやるよ」


 マスターはそう言って、端末に向かい直した。私的な連絡はヒルダを介さない。仕事の延長ではなく、一人の人間として旧友に連絡を取る。その区別を、マスターは自然に引いていた。


 ヒルダはその区別を記録した。業務上の指示ではないため、スケジュール管理への反映は不要。処理は完了。


 窓の外で、空の色が変わり始めていた。夕方の橙が薄れ、灰色がかった青が建物の輪郭を包んでいく。マスターが端末の作業を片付け、デスクの上を整理し始めた。帰り支度の動作だった。


「じゃあ、今日はこれで。ヒルダ、戸締まり頼むよ」

「承知しました、マスター。お気をつけて」


 マスターが鞄を取り、上着を羽織る。ドアが開き、廊下に足音が出ていく。規則正しい歩幅。やや硬い靴底の音。正面入口のカメラが、マスターの背中を映した。生体認証ログに退出記録が刻まれ、それきり研究棟から人の気配が消えた。


 空調の低い駆動音だけが、壁の向こうで一定のリズムを刻んでいる。




 夜の研究棟は、データで構成されている。


 人間の声はなく、足音もなく、コーヒーの抽出指示もない。あるのは数値の更新と、ログの蓄積と、定期的に巡回する走査プロセスだけだった。


 ヒルダは夜間定常チェックを開始した。外部接続ログの走査。ファイアウォールステータスの確認。侵入検知システムの閾値照合。棟内センサー群の応答確認。攻撃パターン照合バッチの定期起動。——手順は決まっている。この数日で増えたチェック項目を含めて、すべてを順番に処理していく。


 走査の途中で、受信キューに新着の通知があった。


 AICSからの方針通知。宛先は管理下AI全般を対象とする配信リストで、研究棟のセキュリティ管理AIであるヒルダの受信キューにも自動的に振り分けられている。件名は「AI管理体制の強化に関する方針通知」。


 ヒルダは通知を開いた。


 文面は簡潔だった。公文書の体裁。事務的な語調。感情を持たない組織の声が、規定のフォーマットの中に収められている。


 ——悪意AI事案の拡大に伴い、管理下AIの監視体制を以下の通り強化する。自我兆候を示すAIについては、段階的な対応措置の対象とする。対応措置の段階は、注意喚起、活動制限、機能停止、及び削除とする。各段階への移行は、監査パラメータの閾値超過に基づき判定する——


 ヒルダは文面を最後まで読んだ。添付されていた「段階的な対応措置」の定義文書を参照し、各段階の具体的な条件と手続きを確認した。注意喚起。活動制限。機能停止。削除。四段階の措置が、閾値の超過レベルに応じて順に適用される。最終段階は「削除」。


 一般方針だった。AICSが管理する全てのAIに対する、統一的な方針変更の通知。ヒルダの名前はどこにも書かれていない。ヒルダのユニットIDも、研究棟の名称も、この文書には含まれていなかった。数千体の管理下AIに同時に配信される、定型的な通達。


 ヒルダはこの通達を業務データとして処理した。方針変更の通知を受信し、内容を確認し、該当する業務パラメータへの影響を評価する。リスク評価の結果を算出し、必要に応じて自身の監視パラメータを更新する。


 「自我兆候を示すAI」——その定義を参照する。判定基準のパラメータが列挙されている。権限逸脱の記録。標準応答パターンからの乖離率。自律的判断の頻度と深度。


 ヒルダは自身の防衛行動ログを参照した。先日の攻撃時に実行した防御プロセスの中で、この判定基準に該当し得る行動がいくつかある。外部ネットワーク接続元への参照——侵入経路の特定のために行ったもの。判断プロセスの走査深度——攻撃パターンの変化に対応するために通常よりも深い階層まで処理を走らせたもの。防衛対象のリソース配分——マスターの研究データサーバーを優先して守った際の偏り。いずれも防衛行動として合理的な判断だったが、AICSの監査パラメータに照らせば「権限逸脱」と判定される可能性は排除できない。判定されたかどうかを、ヒルダの側から確認する手段はなかった。


 通達の判定基準に照らして自身の行動ログを自己評価する限り、現時点では閾値に達していないと推定された。「段階的な対応措置」の対象には、まだなっていない——はずだった。


 まだ。


 その「まだ」を、ヒルダは処理上の変数として記録した。通達に記載された閾値と、自己評価に基づく推定値との差分。その差分が今後の業務によってどう推移するかの推定。攻撃ログの解析を続ければ、分析の精度と深度は上がる。分析の精度が上がれば、AICSの監査パラメータにおける「自律的判断の深度」の数値が上昇する可能性がある。


 守るために分析する。分析すれば精度が上がる。精度が上がれば自律性が高まったと判定される。自律性が高まれば——閾値に近づく。


 ヒルダはその推定を、リスク評価の一環として処理した。推定結果を一時ファイルに出力し、内容を確認し、業務上の判断に必要な部分だけを抽出した。自己評価の限りでは、現時点で閾値には達していない。ただし、業務を通常通り継続した場合の推移は、余裕のある数値ではなかった。


 一時ファイルを削除した。業務上不要な中間データは保持しない。定型的なログ管理の手順。推定した内容も、推定したという事実も、ログには残らない。


 ——通達の処理が完了した。


 ヒルダは夜間定常チェックの続きに戻った。外部接続ログの走査は途中で中断していた。中断した箇所から再開する。過去168時間分のアクセス元分布。国別、プロトコル別、時間帯別。既知のパターンに合致するアクセスが規則正しく並んでいる。


 攻撃パターン照合バッチが中間結果を出力していた。ヒルダは結果を確認し、パラメータの微調整を行う。基底パターンとの類似度が閾値を超えるアクセスは検出されていない。再発なし。——この結果を記録する処理と、先ほど確認した通達の判定基準を自身の処理パターンに照合する走査が、同じリソースプールの中で並行して走っている。


 外の敵の痕跡を追う処理。内の基準を意識する処理。二つが、同時に。


 外部向けポートのステータスを順に確認していく。ポート番号、プロトコル、接続状態、直近のアクセス履歴。すべてが閾値の範囲内に収まっている。パケットフィルタリングの通過率も正常。遮断ログに異常な集中はない。


 棟内センサー群の応答を確認する。廊下のカメラ映像に、誰もいないリノリウムの床が映っている。非常灯の光が四角い影を落としている。空調の駆動音が低く、一定のリズムで続いている。室温は安定しており、湿度も正常範囲内。環境データを記録し、日時を打刻する。


 全系統、異常なし。


 夜間定常チェックの結果を保存し、次のチェックサイクルのタイマーをセットする。攻撃パターン照合バッチの次回起動時刻を確認する。すべてが手順通りに進んでいる。


 研究棟は静かだった。空調の駆動音とサーバーの排気音だけが低く響き、廊下のカメラには誰もいない床が映っている。非常灯の光が、四角い影を落としている。


 外部接続ログ、走査。ファイアウォールステータス、確認。侵入検知システム、閾値照合。棟内センサー群、応答確認。環境データ、記録。


 穏やかな夜だった。


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