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AIはマスターの夢を見るか?2  作者: 結城 黒子
第3章 捜査線上
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第1節 事情聴取

 目覚ましが鳴る前に目が覚めた。


 天井に染みはない。白い壁紙の継ぎ目が、朝の光の中でうっすらと影を落としている。カーテンの隙間から差し込む光は薄く、まだ日が低いことを告げていた。しばらく天井を見つめてから、男は体を起こした。


 狭い部屋だった。ワンルームの間取りに、必要なものだけが整然と収まっている。ベッドの横に小さなデスク。その上にノートパソコンが一台。デスクの隅に充電器のケーブルが一本、きちんと束ねて置いてある。壁際のハンガーラックには、同じような色合いの服が数着並んでいた。床には何も落ちていない。生活感があるのに、どこか仮住まいのような空気を持った部屋だった。


 洗面台で顔を洗い、歯を磨く。鏡には目を向けなかった。タオルで顔を拭きながら、ハンガーラックの前に立つ。どれにするか迷う素振りもなく、一番手前にかかっていた紺色のジャケットを取った。下にはグレーのシャツ。昨日と同じ組み合わせかもしれないが、それを確認するような動作はなかった。


 台所は部屋の一角にある。棚から食パンを一枚取り出してトースターに入れた。その間に電気ケトルのスイッチを押す。インスタントの味噌汁の袋をマグカップに空け、湯が沸くのを待つ。無駄のない手順だった。毎朝同じ順序で、同じことを繰り返してきた手つき。考える必要のない動作。


 トーストにマーガリンを塗る。味噌汁に湯を注ぐ。立ったまま食べ、立ったままマグカップの味噌汁を飲み干した。食器を流しに置き、水を通す。


 デスクの横に立てかけてあった鞄を手に取った。革の表面は使い込まれて角が擦れ、持ち手の部分が微かに変色している。新しくはないが、壊れているわけでもない。必要なものを確認するように中を一瞥してから、ジャケットの上にコートを羽織り、鞄を肩にかけた。


 玄関のドアを開けると、冷たい空気が頬に触れた。曇りだった。空は一面の灰色で、建物の輪郭が柔らかくぼやけている。男はドアに鍵をかけ、階段を降り始めた。




 研究棟の朝は、手順で始まる。


 柊蒼司ひいらぎそうじは研究室のドアを開けながら、コーヒーメーカーのウォームアップランプが点灯しているのに気がついた。出勤の時刻に合わせて起動されるよう設定されている——設定したのは自分ではないが、いつの頃からかそういう仕様になっていた。


「おはようございます、マスター。本日10時に、サイバー犯罪捜査チームの来訪予定があります」


 研究室のスピーカーから、ヒルダの声が出迎えた。淡々とした業務報告の口調。おはようの挨拶と来訪予定の通知が、一つの文にまとめられている。


「ああ、分かってる。資料は用意してあるか」


 鞄をデスクに置きながら答える。上着を椅子の背にかけ、端末を起動する。画面にメールの一覧が並ぶ。昨夜から今朝にかけての受信メール——学会事務局からの連絡が二件、学内の施設管理部門からの通知が一件。緊急のものはない。


「はい。攻撃ログの解析レポートと防壁の対応記録を、閲覧用にまとめてあります。マスターの分析資料も含めて、端末の共有フォルダに格納済みです」

「ありがとう」


 柊はコーヒーメーカーにカップをセットし、抽出ボタンを押した。豆が挽かれる音がして、やがて黒い液体がカップを満たしていく。一口飲んだ。適温だった。窓の外は曇り空で、研究棟の中庭に植えられた低木の葉が風に揺れている。普段であれば、この時間帯は端末に向かって論文の査読か、研究データの整理に入る。だが今日は、午前中に来客がある。


 サイバー犯罪捜査チーム。先週メールで日程の調整があり、攻撃を受けた際の状況確認と防衛ログの技術的な分析について、改めて詳しく聴取したいとの連絡だった。調査協力者として、柊はすでに一度、電話での聞き取りに応じている。今回は研究棟を直接訪問し、システムのログを確認しながらの対面聴取になる。


 メールの文面には「技術的な確認のため、もう一名同行します」とあった。誰なのかは書かれていなかった。


 コーヒーを飲みながら、共有フォルダの中身を確認する。攻撃ログの時系列データ、ヒルダの防壁の応答パターン、回避行動の精度分布。それに加えて、柊自身がまとめた分析資料——攻撃パターンの特徴と、そこから導かれる推定を整理したもの。AICSに提出した報告書の延長で、警察向けにいくつかの観点を追加した資料だった。


 聞かれたことに答えるだけではなく、自分の側から見解を示したいと思っていた。研究者として、この攻撃の構造についてはすでに一定の分析がある。それを提示することが、捜査の役に立つなら。


 ——前の時は、何もできなかった。


 その思いが、柊の手を動かしていた。端末に向かい、資料の最終確認を始める。10時まで、あと一時間半。




 9時58分、研究室のモニターに正面入口のカメラ映像が表示された。ヒルダが来客を検知し、自動的にモニターへ中継したのだろう。画面の中に、四人の人影が映っている。先頭の男性が警備員に身分証を提示し、何か話しかけている。スーツ姿が三人。その後ろに、もう一人。


「来客です。四名。警備員が身分確認中です」


 ヒルダの声が告げた。柊はモニターを一瞥し、廊下へ向かった。


 正面入口から研究室までは、廊下を真っ直ぐ歩いて二分ほどの距離だった。リノリウムの床に靴音が響く。廊下の天井に設置された監視カメラが、来客の動きを追っているはずだった。柊にはその映像は見えないが、ヒルダのシステムが記録し、分類し、アーカイブに格納していく。いつもの手順で。


 研究室の前で来客と合流した。先頭に立っていたのは四十代半ばの男性で、サイバー犯罪捜査チームの主任刑事を名乗った。名刺を差し出す動作に慣れた手つきがあった。柊はそれを受け取り、自分の名刺を返した。


「柊先生、本日はお時間をいただきありがとうございます。攻撃を受けた際の状況について、改めて詳しく伺いたいのですが」

「こちらこそ。お役に立てることがあれば」


 主任刑事の後ろに、二人の補佐が控えていた。一人は三十代の女性で、ノートパソコンを携えている。記録係だろう。もう一人は二十代後半の男性。カメラ付きの端末を持っていた。


 その三人の少し後ろに、もう一人が立っていた。


 警察の人間ではない——と、柊は直感的に思った。服装がスーツではなかったからだ。紺色のジャケットにグレーのシャツ。ネクタイはしていない。三人の刑事たちの背広姿の中で、その服装は少し浮いて見えたが、目立つほどでもなかった。


「こちらは技術的な確認のために来ていただいている方です」


 主任刑事が、四人目の人物を示して言った。


堂島どうじまさん。元AICSで監視システムの保守を担当されていた方です」


 堂島と紹介されたその男は、軽く会釈をした。


「……よろしくお願いします」


 低い声だった。音量を抑えているのではなく、もともとそういう声質らしかった。顔は整っていない方だが、不快な印象もない。三十代後半くらいだろうか。体型は中肉で、髪は短く整えられている。表情に特段の緊張も愛想もなく、ただそこにいる、という感じだった。


「柊です。よろしくお願いします」


 柊は当たり障りなく応じた。元AICSの技術者。監視システムの保守担当。なるほど、この件で技術的な知見を持っている人物を同行させたということか。合理的な判断だった。


 研究室に案内する。五人分の椅子を用意するのに、柊は予備の椅子を隣の部屋から持ってきた。主任刑事と二人の補佐がデスクの前に並んで座り、柊は自分のデスクの椅子に腰を下ろした。堂島は少し離れた位置の椅子に座った。鞄を膝の上に置いている。革の表面が擦れて、角が丸くなった鞄だった。


 記録係の女性がノートパソコンを開き、端末を起動する音が研究室に小さく響いた。


「それでは、始めさせていただきます」


 主任刑事が手元の書類に目を落としながら切り出した。


「まず、攻撃が発生した日時と、最初に異常を検知した経緯から確認させてください」


 柊は端末のモニターを来客側に向け、共有フォルダから攻撃ログの時系列データを開いた。


「検知したのは、この日の午前です。外部接続ログに、通常のパターンから逸脱したアクセスが記録されていました。最初は散発的で、既存の侵入検知ルールには引っかからない程度のものでしたが、ログの蓄積を分析した結果、意図的な探査であることが確認されました」


 時系列データのグラフを示しながら説明する。第一波、第二波、第三波。攻撃がどのように段階を踏んで進行し、どの時点で防壁がどう対応したか。柊はデータを指し示しながら、研究者としての視点で攻撃の構造を説明した。単に時系列を追うだけではなく、各段階で攻撃パターンがどのように変化したかを、自分の分析結果と照らし合わせて提示していく。


「攻撃パターンの特徴として、特に注目しているのがこの点です」


 柊は画面を切り替え、回避行動の精度分布を表示した。


「攻撃側の行動には、防壁の弱点を試行錯誤で探した形跡がありません。最初から特定の範囲を避けて行動しています。この精度は第一波の時点から一貫していて、学習によって獲得されたものではなく、設計段階で組み込まれている可能性が高い」


 主任刑事がグラフに目を凝らした。補佐の女性が画面の内容をノートパソコンに記録している。


「設計段階で……ということは、攻撃の設計者が事前にこの範囲を把握していた、ということですか」

「そう考えています。何かの基準を知った上で、その外側を通っている。その基準が具体的に何であるかは、研究棟のデータだけでは特定できませんが」

「なるほど。それはAICSにも報告済みですか」

「はい、AICSの技術協力の一環として分析結果を共有しています」


 主任刑事が頷いた。横で記録を取っている補佐の女性が、画面から顔を上げた。


「あの、その監視パラメータの死角というのは、どの程度の範囲なんですか。攻撃側が避けている範囲が特定の監視体系に対応しているなら、その体系のカバー範囲を知れば死角も割り出せるのでは」

「それは逆です。攻撃側が避けている範囲からでは、対応する監視体系を特定できないんです。回避パターンの分析から分かるのは『何かの基準が存在する』というところまでで、基準の正体を特定するには、比較対象となる監視体系の内部パラメータが必要になります。それは研究棟の側からはアクセスできないデータです」


 柊が答えた。補佐の女性が頷いて、記録に追記している。


 堂島は、その質問と回答の間、何も言わなかった。椅子に浅く座ったまま、膝の上の鞄に片手を添え、モニターの画面を見ている。質問しようとした素振りも、何かを確認しようとする動作もなかった。元AICSで監視システムの保守を担当していた人間にとって、この話題は専門の範囲内であるはずだったが、堂島は口を挟まなかった。


 聴取は続いた。防壁の応答パターン、攻撃への対処手順、研究棟のセキュリティ体制。主任刑事の質問は網羅的で、時折、補佐が追加の確認を入れる。柊は一つ一つに答えながら、必要に応じてモニターにデータを表示した。


「研究棟のセキュリティはAIが管理しています」


 柊は一瞬、間を置いた。「AI」という言葉を、どういう温度で発するべきか——そんなことを考えたのは、この問いが初めてではなかった。ヒルダの防衛行動が、AICSの基準に照らしてどう映るのか。その答えを、柊はまだ持っていなかった。だが、事実を述べることに躊躇する理由はなかった。


「攻勢防壁の運用も含めて、セキュリティの監視・制御をAIが担当しています。攻撃を検知して防壁を起動し、応答パターンを最適化する——その一連の対処は、AIの判断で行われました」


「AIの判断で」主任刑事がメモを取りながら繰り返した。「そのAIに名称はありますか」


「ヒルダ、と呼んでいます。正式にはブリュンヒルデ。研究棟のセキュリティ管理AIとして配置されています」


 主任刑事が頷いた。名前を記録している。それ以上の踏み込んだ質問はなかった。警察にとっては、研究棟のセキュリティ体制の一部としての確認であり、ヒルダの個別性に関心があるわけではないようだった。


 柊はそのことに、小さな安堵を感じた。


 聴取が後半に差しかかった頃、堂島が初めて口を開いた。


「柊先生」


 低い声だった。聴取が始まってから四十分近く、堂島はずっと黙っていた。椅子に浅く座ったまま、姿勢はほとんど変わっていない。


「先ほどのパターンですが——攻撃側がパラメータの更新サイクルを把握していた可能性はありますか」


 柊は堂島を見た。


 質問の意味を理解するのに、一瞬の間が必要だった。攻撃パターンが避けている「何かの基準」——その基準が、特定の監視体系のパラメータであるとすれば、そのパラメータは定期的に更新される。更新サイクルを把握していれば、更新と更新の間の空白を突くことができる。


 的確な質問だった。柊が提示した分析から、一段踏み込んだ方向へ飛んでいる。先ほどの補佐の質問が「死角の範囲」を問うたのに対して、堂島の質問は「死角の時間軸」を問うている。そこに飛ぶためには、監視パラメータの運用構造についての知識が必要だった。


 もっとも、元AICSの監視システム保守担当であれば、更新サイクルの概念は馴染みのあるものだろう。不自然なことではなかった。


「……その可能性は、あると思います」


 柊は答えた。


「更新サイクルについては、攻撃ログの時間帯分布からある程度の推定ができるかもしれません。ただ、研究棟の防壁の更新サイクルは把握していますが、他の監視体系の更新タイミングは——」


「分かりました。ありがとうございます」


 堂島はそこで会話を切った。それ以上の追及も、補足もなかった。メモを取る動作もない。ただ、軽く頷いて、再びモニターの画面に視線を戻した。


 聴取はその後もしばらく続いた。主任刑事が残りの質問項目を消化し、記録係が最終確認を行い、追加の資料提供について事務的なやり取りがあった。堂島は再び沈黙に戻り、聴取の残りの時間を静かに過ごした。質問はしなかった。何かを確認する動作もなかった。ただ、その場にいた。


 聴取が終了したのは、11時を少し過ぎた頃だった。


「本日はありがとうございました。追加でお伺いすることがあれば、改めて連絡させていただきます」


 主任刑事が立ち上がり、柊に頭を下げた。補佐の二人もそれに続く。堂島は最後に立ち上がり、鞄を肩にかけた。くたびれた革の鞄が、ジャケットの紺色の上で揺れた。


「ありがとうございました」


 堂島はそれだけ言って、軽く会釈した。来た時と同じ、必要最低限の礼。


 柊は四人を正面入口まで案内した。警備員が退出手続きを行い、来客パスカードが回収される。主任刑事がもう一度礼を述べ、補佐たちがそれに続いた。堂島は黙って歩いていた。正面入口のドアが閉まり、四人の背中が中庭の向こうに消えていく。


 柊は入口に立ったまま、しばらくその方向を見ていた。




 研究室に戻ると、椅子がまだ五脚並んだままだった。


 柊は余分な椅子を隣の部屋に戻し、自分のデスクの前に座り直した。端末の画面には、聴取中に表示していた攻撃ログの時系列データがそのまま残っている。来客の間に飲み残したコーヒーのカップが、端末の横で冷めていた。


「来客対応の記録は完了しています。カメラ映像、音声記録、来訪者情報、すべてアーカイブ済みです」


 ヒルダの声が、業務報告の口調で告げた。来客が去ったことを検知し、対応記録の完了を報告する。手順通りの処理。


「ありがとう」


 柊は答えた。端末の画面を閉じるのではなく、攻撃ログのデータを見つめたまま、数秒間そのままでいた。


「……少し、整理する時間が欲しい」


 声に出したのは、ヒルダに対してというより、自分自身に対してだったかもしれない。聴取自体は事務的に進んだ。質問に答え、データを提示し、技術的な見解を述べた。研究者としてやるべきことはやった。警察もAICSも、それぞれの業務の中でこの情報を処理していくだろう。


 だが、聴取が始まる前のこの部屋の空気と、今の空気は、同じではなかった。


 窓の外で、中庭の低木の葉が風に揺れている。さっきまでと同じ風景のはずだった。研究室の空調は一定のリズムで稼働し、端末の画面は変わらずデータを表示している。コーヒーメーカーの電源ランプが、待機状態の淡い光を灯している。何一つ変わっていない。


 けれど、来客が座っていた椅子の位置はまだ戻しきれていなかったし、記録係が使っていたテーブルの角には、指紋の跡がうっすらと残っているように見えた。他人がこの部屋にいた痕跡。研究棟の日常の中に、外の世界の手が差し込まれた跡。


 柊は冷めたコーヒーを飲み干し、カップを流しに持っていった。水を通して、定位置に戻す。椅子の位置を微調整し、テーブルの表面を軽く拭く。研究室を元の状態に戻していく。


 それから、端末に向かい直した。攻撃ログを閉じ、研究データの作業画面に切り替える。午後は通常通り、論文の査読に充てる予定だった。


 普通の午後が、始まろうとしていた。


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