五〇話 これまでの対処法が通じないタイプBって感じ
スティーラは人を喰う。彼女なりの愛の表現方法は『食す』こと。この歪みは決して治らないだろう。
普通の感性への移行は不可能だが、ヨアンヌがそうだったように、変化や悪化は起こりうる。
無論、その変化が俺にとってどう影響するかは運次第。良い方向への変化は理想論だ。ヨアンヌの改心もとい改悪は偶然の結果巻き起こされたもので、元々より酷い性癖が生まれてしまったほどなのだから。
この結論から導き出される答えは、『彼らの性癖を理解できるうちは変化させるべきでは無い』ということ。そもそも人の心を計算づくに変容させるなど、それこそ都合の良い魔法でもないと不可能な芸当だ。
よって、スティーラの性癖を変えられる可能性は薄いし、もし変えられたとしても悪化の一途を辿ることになるだろう。当初の目標をなぞるように、幹部とは最低限最小限の接触に留めるべきなのだ。
しかし最悪なことに、俺はホイップ=ファニータスクに仕向けられた以上スティーラと接触しないといけなかった。
俺自身の勘違いでなければ、スティーラは人肉を食べた俺に対して多少なり関心を抱いている。そのため扉をノックした瞬間からいつでも逃げられるように心構えはしていた。だが、状況が一変するのがあまりにも早すぎた。
「しつ――」
言葉を言い切る前に右腕を引っ張られ、視界が一八〇度回転する。背中に衝撃が加わると同時、扉の閉まる重々しい音が部屋の中に響き渡った。視界が明滅し、火花が散る。呻きながら地面の上を転がり、状況を把握しようとすると――
視界に収まった俺の腰の上に、スカートの裾を押えながら跨ってくる少女の姿があった。スティーラ・ベルモンド。飢えた獣のような瞳でこちらを睨みつけたスティーラは、地面に項垂れる俺の両手首を万力のような力で押さえ込んだ。
「……味見しなきゃ……」
世の中には理解のできない人間、対話のできない人間というものが確かに存在する。彼らは独自のルールや世界観で生きていて、ふとした時に社会の掟や一般人の経験則から著しく逸脱したバケモノに成り下がる時がある。今がまさにそれだった。
自分なりに相手の心を理解しようとして、その結果俺の四肢切断を躊躇し、己の欲求と板挟みになって悩んでいたかつてのヨアンヌとは違い、スティーラは何処までもタガの外れた怪物だ。こういった状況に陥った時、ヨアンヌよりも抑えが効かないのがスティーラという人間だった。
(スティーラの欲望が原作より遥かに増大している……!? 理由がさっぱり分からん! ヨアンヌに関しては俺に責任があるだろうが、スティーラと接触したことなんて数える程しかないのに――)
俺は知らなかった。対象を一方的に観察して、感情を蓄えてしまうタイプの人間のことを。
スティーラはずっと観察していたのだ。彼と出会ってからずっと。聖地メタシムで、拷問室で、個室の中で、馬車の中で、ずっと俺のことを見ていた。俺の知らない間に、内なる激情を練り上げていたのだ。
スティーラから逃れるべく、俺は渾身の力で拘束を振りほどこうと暴れる。どれほどもがいても胸板が痙攣するばかりで、俺の両腕はびくりとも動かない。脚で蹴り上げようとしても、馬を乗りこなすように躱される。スティーラの細い身体にどれほどの力が眠っているのだろう。
その抵抗を無感情に観察するスティーラは、薄い唇を真っ赤な舌で湿らせた。今からその口が大きく開かれるぞ、という合図のように見えた。腰の上に跨る少女が顔を近づけてきて、俺は悲鳴すら上げられずに奥歯を食い縛った。
首筋に溜まった空気を吸い込まれ、そのまま舌で削ぎ落とすように舐め上げられる。肉の塊が押し上げられる感覚。ここで、俺はふと冷静になれた。
(落ち着け。これは二番煎じの狂愛だ。ヨアンヌの莫大な愛に比べれば、こんなものは独りよがりの食欲に過ぎない……はずだ!)
頭蓋の内に浮かぶ脳を見透かされながら、俺はスティーラの瞳を真っ直ぐに見返す。
「――スティーラ様、どうかされましたか」
彼女が何をしたいのかは分かっていた。自らの欲望に従って俺の身体の髄までを味わい尽くしたいのだ。抵抗は彼女の嫉妬を滾らせるだけ。彼女の期待するような反応は食欲を唆るだけ。恐らくそうなのだ。だから、あえて優しく問いかけた。
スティーラは舌を出しながら顔を引き上げる。彼女は顔を歪めていた。
「……オクリーは変わった。……スティーラが好きだったのは、もっと前のあなた。……蕩けるような味わいの中に、不要な雑味が入り込んでいる」
「私は私ですよ」
「……違う。……原理は分からないけど、ヨアンヌの残滓が不可逆かつ極悪な変化を及ぼしている。……あの子が、あの子があの子が、余計なことをした」
彼女の発言の半分以上は理解できなかった。ただ、臓器を交換したことによる記憶転移や精神侵食に言及されているのは何となく分かった。
「お願いがあるのですが」
「……何?」
「私の上から退いてもらえませんか?」
「…………」
スティーラはやけに素直に厚底のローファーを持ち上げたが、俺の上から退いてくれるわけではなかった。俺の上から退く代わりに、彼女の黒い靴が俺の胸の上に押し付けられる。拒絶の意志の表れであった。靴底でぐりぐりと虐められ、俺は苛立ちを以て共に彼女を睨めつける。
「……あなたを食べたいのは本心。……でも、あなたを助けたいのも本心。……オクリーはヨアンヌに狂わされている、どうにかして救わせてほしい」
「変わらない人間などいません。それに、私はまだ正常です」
「……あの時ヨアンヌを止めていればよかった。……そうすれば、オクリーは心臓を交換されるだけで済んだ」
「交換は私が望んでやったことです」
「……そうなるように変えられた」
「それは――否定はできませんが」
「……オクリーを別の色に染め上げてしまったヨアンヌが憎い。……スティーラの好きな味から、どんどん乖離していく」
彼女は泣いていた。真顔のまま、両の眼から透明な涙を流していた。俺達を隔てる熱量の差に精神が置いていかれる。
いつも仏頂面をしているスティーラが涙を流すだと? そこまでして俺を食べたいのか? やはり理解ができなかった。不快感に似た違和感が胸の中を突き抜ける。とめどなく熱い涙を流す彼女を見て、俺の方がおかしいのかとすら思えてきてしまう。
普通の人間が持つ『食べたくなるくらい可愛らしい』という気持ちを純粋に肥大化させたような、理由も根拠もなく無際限に捻れ曲がった嗜好。狙った獲物を、思い通りの調理法で、余す所なく味わいたい。子供のわがままの如き彼女の行動原理が、俺の精神を呑み込まんとしていた。
やはりだ。ヨアンヌと違って対話にすらならない。治せないし変えられないのだ。外からの刺激による変化も望めない。この女は絶望的なまでに対話ができない人間なのだ。関わるだけで損をする。人の皮を被った蟻地獄の如きバケモノだ。
「……あぁ、こんなに良い匂い、こんなに素敵な身体なのに、どうしてヨアンヌなんかに? ……オクリーはスティーラじゃダメ? ……確かにスティーラがあなたに興味を持ち始めたのはヨアンヌより後だけど、でも、それだけでこんなに苦しい思いをすることになるなんて……」
彼女の感情に共感できなくはない。勝手に興味を持っていた人間にパートナーがいると分かって、勝手に苦しくなる現象のことだろう。
ただ、そこに付随する要素が腐り切っている。常軌を逸している。人を食う――その猟奇的行為に対してここまで熱くなれるスティーラが、俺の目には心底悍ましい異形の化け物に見えた。
「……スティーラはおかしくなってる。……有能な教徒に手を出しちゃいけないはずなのに、そう思えば思うほどお腹が空いてしまうんだから。……これってあなたが悪いと思うんだけどな? ……とにかく、今すぐあなたを元に戻したい。……知識を総動員して何とかする。……その上で美味しく食べてあげるから――」
いずれにしても、スティーラの感情は今まさに爆発しそうになっている。支離滅裂なことを口走る彼女を鎮静しなければならない。近付いてくる彼女の顔に対して、俺は必死に唾を飛ばした。
「私はヨアンヌ様の影響を少なからず受けていますが、ヨアンヌ様の色に染まり切るなんてことはありません。私は私、ずっと変わりませんよ。それに、今はまだ死ぬべき日ではない――私達には使命がある。そうでしょう?」
「……アーロス様の野望を叶えること」
「そうです。ですから、私を食べるのは野望が実現した後……というのはどうでしょう」
そうだ。俺はずっと俺のままでいてやる。記憶転移という不可逆な侵食に曝されて変わっても、延長線上の俺で在りたいのだ。
目指す先は混沌。俺の他我に完全敗北してもなお自分であり続ける愛おしい人のような人間。あの子のように、恐怖を感じてしまうくらいの狂気的な自我を保てば良いんだよ。
そして、アーロスの野望が叶う日なんて永遠に来ない。全てが終わった時、スティーラは死んでいるのだから。もしその日が来たとしても、俺自身の生死なんてどうでもよくなるくらい世界は絶望に満ちているだろう。その時は捨て鉢だ。
計画が成功するにしろ失敗するにしろ、食べられることを先延ばしにできるのはかなりのアドバンテージと言えた。
散々カニバリズムに嫌悪感を示してきた俺の覚悟を聞いて、スティーラは両腕の拘束を弛めてくれる。その仏頂面には満足気な雰囲気が漂っていた。もしくは、ある程度の冷静さを取り戻したと言うべきか……。
「……うん、そうだった。……スティーラにはアーロス様の夢がある。……収穫の予定は変えちゃいけない。……アーロス様……アーロス様……ふぅ、深呼吸」
こくりと頷いて、長いまつ毛に溜まった涙を拭う。そのままスティーラはすらりと伸びる脚を持ち上げて、俺の上から動いてくれた。
腰の上の重石が無くなったことに安堵しつつ、俺はスティーラのことが更に理解できなくなっていた。
彼女の人肉に対する執着は異常だ。俺の考えていたそれよりも数段階上。どこに地雷が埋まっているか分からないし、話も通じない。辛うじてアーロスの名前を出すと止まってくれるが……個人的にはヨアンヌよりも苦手なタイプの狂人だろうか。
メタシムにいた頃は聞き分けのある幹部だと思っていたのだが、アレはアーロスが乗りこなしていたからこその化けの皮に過ぎなかったということか……。
先程の涙が嘘のように落ち着いているスティーラを他所に、俺は手首の痣を揉むようにして立ち上がる。
「スティーラ様、ご相談なのですが……私物をおひとついただいてもよろしいですか?」
「……私物? ……何故?」
「まぁ、お近付きの印と言いますか」
スティーラは剥き出しの岩盤と木造部分の入り交じった薄暗い部屋を見渡す。ゴシックなベッドの他には、血なまぐさい机と白っぽい小物が散らばっているのみ。
「……なら、スティーラの分身をあげる」
「重いですね」
「……材質は軽めよ」
「そういうことじゃないんですけど――」
スティーラは箪笥を探ると、白い筒のような物体を手渡してくれた。
「……お母様の骨よ」
重っ……。
「ありがとうございます」
これでホイップに課された任務は完了だ。足早に部屋を退出しようとしたが、スティーラに呼び止められてしまう。
振り向きざまに、彼女の爪によって右の首筋を切り裂かれる。声を上げる間もなく首元から熱い液体が溢れ、俺は喃語を発しながら膝を折った。
「なっ何を……」
「……忘れてた、少しだけ味見させて?」
勢いよく噴出する血液。大動脈の傷に顔を突っ込んだスティーラは、小さな喉をこくこくと鳴らしながら鮮血を飲み下していった。
「……うん、これがオクリーの味なんだあ……」
スカイブルーの瞳が渇きを帯びる。治癒魔法を掛けようとしていた手が止まり、俺の肩を鷲掴みにした。身体が引き込まれ、吸血鬼の如く体液を搾り取られていく。
このクソ女、食事はお預けって言ったじゃねえかよ――
「……あ、我慢ができなくなりそう――」
「っ!」
その言葉を聞いた俺は渾身の力でスティーラを蹴飛ばし、一目散に部屋から退散した。
「ギャー!! オクリー先輩が血塗れだぁ!!」
そして運良く通りかかったアレックスとヨアンヌに助けられ、俺は何とか一命を取り留めた。




