14.小人族
「――えっ、海?」
クリスタルの間から伊織が降り立ったのは、なんと太陽の陽射しがいっぱいに降り注ぐ美しい砂浜だった。
「な、なんで?」
まるで絵本のページをめくったように別世界へと誘われた伊織は、この不可思議な事態と現象を飲み込めないでいる。幻覚ではない。踏みしめる砂の感触や潮騒の音、そして潮風の香りなど全てが本物だ。空間を隔てて瞬間移動をする、この空間斬りに伊織は唖然とした。
「ついて来い」ヘンドリクスは一言だけ口にすると足早に踵を返した。伊織も慌てて後を付いてゆく。
狭い砂浜を後にすると小高い茂みが連なり始める。それをくぐると、のどかな住宅街が広がっていた。そんな二人は茂みのすぐ裏に軒を連ねるビーチハウスの通りへと入る。そこで行き交う人たちは皆、当たり前のようにヘンドリクスに声をかけてきた。伊織は英語を全く話すことは出来ないが、交わされている言語が英語だということだけは分かる。ただの挨拶であったり、ちょっとした世間話であったり。時々、伊織は自分のことを話されていることも察したが、どんな話なのかは分からない。しかし、少なくともヘンドリクスがすっかり人間社会に溶け込んでいるということだけは伺い知れた。それにしても皆、陽気にヘンドリクスと接しているが、実はこの男が魔法族であるということを知っているのだろうか。それに町の人たちは、なぜか皆、ヘンドリクスのことを『ゲンタ』と呼んでいるのだ。一体この男は何者なんだろう?――伊織はそんな疑問を抱きながらも、ただただヘンドリクスの後を付いてまわった。
「――ここだ」
やがて人気も無くなり、すっかり寂しくなった茂みの端にまで来ると、ようやくヘンドリクスは足を止めて、伊織の方へと振り返った。
「えっ、ここ?」
「そうだ。小人族の集落だ」ヘンドリクスは一言、控えめに言った。周囲に人間がいないか気配を察知しているのだ。
「こ、小人って……」伊織も同様に周囲を見回したが、人間がいるかどうかを見たのではない。小人の姿、またはその集落らしきものを探したのだ。
「何も……無いげど……?」
確かにそれらしきものは何一つ目に見えないが、ヘンドリクスは「まあ、黙って見てろ」と無愛想に答え、上を見上げた。よく見てみると、茂みの中の小高い木。しなやかに伸びた中太の枝に一匹のメガネオオコウモリがぶら下がっていた。コウモリは微動だにせず、じっと二人を見下ろしていた。そこでヘンドリクスは右手の指をひとつ鳴らすと、その手にはなんと一本のバナナが握られていた。伊織は、クリスタルの間でU2が杖を取り出した時のことをハッと思い出した。
ヘンドリクスは慣れたようにそれを下手投げで放り投げると、コウモリは閉じていたマントのような黒い翼を大きく広げてそれをつかみ取った。すると早速、上手に皮を剥いてその実を食べ始めたではないか。そしてあっという間に食べ終わると、コウモリはバナナの皮をヘンドリクスに返すかのように上から放り捨てた。ヘンドリクスは何気に首を捻ってそれを避けたが、そのせいでバナナの皮は、同じく上を見上げていた伊織の顔に命中してしまった。
「うわっ!?な、なんだよー、もうっ!」伊織はバナナの皮を払い落したまでは良かったが、うっかり地に落ちた皮の上に足を置いてしまった為、更に滑って転倒した。そんな伊織の小さな憤慨に、ヘンドリクスは思わず口元を緩めた。
「――ほら、気をつけろ」ヘンドリクスがそっと手を差し伸べる。じたばたしていた伊織は急におとなしくなり、不思議そうな目でその手を受け入れた。まさか、そんな気遣いを見せてくれるとは思っていなかったからだ。
「覚えておくと良い。小人族の集落に入るには、あのコウモリに果物を渡さねばならんのだ」砂を払い落とす伊織にヘンドリクスが言った。伊織は改めて上を見ると、コウモリは何食わぬ顔で舌舐めずりをしながらバナナの余韻に浸っていた。
「……ってゆうが、なんにもしてくんねえじゃん?」
「フッ。まあ見てろ」そう言うとヘンドリクスは、コウモリに向かって何やら小人族の集落に入る為の合言葉らしきものを口にした。
「ウロツテワガデ・イセウホキザマヤ・ピーター」
するとコウモリは突然枝を蹴り出すと、ヘンドリクスの頭上を支点に激しく旋回し始めた。そして地表に向かって急降下するや、今度は一転、螺旋状に急上昇し、生い茂る梢の狭い隙間をくぐり抜けると、あっという間に茂みの向こうへと消えていった。
「……あの……?なんか……いなぐなっちゃったみだいだげど?」ぽつんと取り残されたようにしんと静まり返る中、伊織は呟いた。
――と、その時だった。
突然、周囲を覆っていた茂みがざわめきを立て、なんと地表を滑るように動き始めたのだ。びっしりと絡まる梢が解き放たれや、茂みはまるで二人の目的とする所へと導くように地表を流れ始め、やがて二人の目の前に一本の道を創り出した。ビデオの早送り影像を見ているかのような、目にも留まらぬ光景だった。
「す、すげえ……っ!」まるでSF映画でも見ているように伊織は唖然とした。
「じゃ、行くぞ」
二人は再び歩き出した。道は両脇が高い茂みの壁で塞がれており、歩みを重ねるごとに後ろが草木で塞がれていった。他の者の侵入を防ぐ為に茂みが壁となって小人族の集落を守っているのだ。歩みを進める毎に茂みも道を変え、新たな道を創ってゆく。まるで迷路にでも迷い込んだように、茂みが創り出す道は様々に行く手を変え、それでも確かに小人族の集落へと導いていた。二人は、創られてゆく道の流れに合わせて暫く歩いて行くと、やがて前方に家屋が立ち並ぶ集落が見え始めてきた。家々は見事なまでに調和され、立ち並んでいた。天を刺すような三角錐の屋根に赤茶けたスレート瓦。白を基調とした壁には窓やタイルを張り合わせた絵(小人族の歴史や暮らしの文化が描かれている)が埋め込まれている。ベランダや軒下には美しい花々を植えた花壇や植木鉢が彩りを加え、野良猫たちが呑気に眠っていたり、闊歩したりしていた。まるで絵葉書のような風景がそこには広がっており、更にはどこからか流れてくる美しい音楽の調べが二人の耳をくすぐった。おおよそ、地球に危機が訪れている事とは無縁の平和な世界だ。そんな中、ヘンドリクスが目指したのは、壁一面にびっしりと苔が覆われた、まるで時の流れに置き去りにされたような、どこか物悲しい雰囲気さえ漂っている一軒の家だった。
二人は玄関の前まで来ると扉をノックし、応答を待った。しかし何の反応もない。ノックの音が聞こえなかったのだろうか。扉に貼られている表札は長い年月によって劣化し、すっかり汚れきっている(微かに『ドラゴン研究所』という文字が読み取れるほどだが、伊織には、何が書いてあるのか当然分からない)。
「ピーター。オレだ」ヘンドリクスが声をあげる。
それにしても小人族という割にはどの家も大きい。人間が住む家と何ら変わらぬサイズだ。伊織は、本当にこの地に小人族が暮らしているぬのか、疑問に思った。
玄関の扉が開いたのは、ヘンドリクスの呼び声から少し経ってからだった。そこにはなんと白髪混じりの中年の男が立っていた。ハゲかかった頭に赤らんだ顔、立派に突き出た腹と太く短い脚。まさに絵に描いたような中年男だ。しかも背丈は伊織の体の半分にも満たないのだ。まさしく小人族だった。
「――なんだ、ヘンドリクスか。ヒック……。で、なんだ、そのチビは?」ピーターは、ヘンドリクスの後ろに控える伊織の存在に気付いたが、あまり興味を示すことなく、すぐにヘンドリクスの顔を見上げた。
「『なんだ』はこっちの台詞だよ、ピーター。また酔っ払っているのか?」ヘンドリクスは呆れたように笑ってみせた。きっと何度も同じ光景を見ているのだろう。
「フン。なーにを言ってやがる!酒ってのはなあ……ひ、昼間に飲んぢゃ悪いっちゅう決まりもクソもあるみゃい。そ、それに……酒飲んでんだから……うぃっ……酔っ払うのは、あ、あ、当たりみゃーだろうってんだ。み、水で……うぃっ……こんな気持ち良く酔えるかってんだ!」ピーターは若干ろれつを狂わせながら手にしていた缶をグシャリと潰すと、自分の主張に満足そうな笑みを浮かべた。
「相変わらずだな、ピーター。ところでだ。実は、今日はマイルスの爺さんから預かった物を持って来たんだよ」
「マ、マイルスだと?なんだ、あのジジイは?……ヒック。まだ……まだ生きとったんかい。マイちゃんは無駄に……ヒック……長生きだよなあ、オイ。――で、何を持って来たっちゅうんだ?カンガルーの尻尾か?それともダチョウとエミューの手羽先か?それともエリマキトカゲのエリ焼きか?ああ、ゴアナの串焼きも久しく食ってねえなあ、オイ。新鮮なイリエワニの――」
「いや、悪いな。残念ながら今日は酒のツマミじゃあないんだ」ヘンドリクスは、よだれを垂らし始めたピーターの言葉を遮り、言った。
「……なあんだ、ツマミじゃねえのかい?ったくしけてやがんなあ、あのクソジジイはよお」
ヘンドリクスは苦笑いを浮かべた。そして指を鳴らし、マイルスから預かった《不死鳥の羽》を手にすると、おもむろにピーターに手渡した。
「ああん?これがあ……ヒック……あ、預かってきた物だってのか?」ピーターはしけた表情で《不死鳥の羽》を受け取ると、羽を首筋に這わせ悶え始めた。
「――っひぃひょっひょ~~ひょ~。たまらんの~~、この肌触りちゃんはよお……って、これでどうやって酒を飲むんだっつうの…………って、オイッ、これはっ!?」
それまでのへべれけた、しまりのないピーターの表情が一瞬にして凍りついた。
「……こ、これは…………まさか?」ピーターは事の重大さに気付くと、ハッとヘンドリクスの顔を見上げた。
「そうだ。《不死鳥の羽だ》」
「フ、フ、フ……フシチョーだと!?バ、ババ、バ、バッキャローッ!なんで早くそれを言わねーんだ、このウスラトンカチのトウヘンボクがっ!――おい、ジェームス!起きろっ!《魔女の石板》を持って来るんだっ!」ピーターはヘンドリクスに向かって怒鳴りつけるや、すぐに後ろを振り返り、二階で寝ている息子の名を叫んだ。
「とっ、とにかく中に入るんだっ!話はそれからだ!――おるあっ、ジェームス!さっさと持ってこんかい、この野郎っ!」
ピーターは、ヘンドリクスと伊織を強引に家に引き入れると、階段の手すりが壊れるぐらい何度もブッ叩いてジェームスを呼んだ。家の中は怪し気な研究室のような雰囲気が漂っている。机の上にはいくつもの顕微鏡が置かれており、その周りには何冊もの古書や研究結果が書かれたノートが散乱していた。壁際の棚にはいくつもの乳鉢が並び、その中には乳棒と共に薬品のような粉が擦られたままの状態で置いてある。また、ビーカーの中には薬草や香草など何種類もの植物が、重し代わりの水晶で漬けられており、何本も立てかけられている試験管の中には、怪し気な色をした液体や粒状の結晶のようなものが入っていた。その中でも極めつけは、オオサンショウウオやモロクトカゲ、ストロマトライトのホルマリン漬けをはじめとする、希少生物の標本がいくつも並んでいることだ。見慣れぬ生物や実験の際に生じたらしい不快な臭いに、伊織は少しだけ気分が悪くなった。
「おい、ジェームス!まだか、この野郎っ!」
ピーターが物凄い剣幕で再度怒鳴ると、ようやくジェームスが階段を下りてきた。
「……ったく、何を朝からがなり立ててるんだよ、父さんはあ?」頭をボリボリと掻きながら気だるそうに降りて来たのは、なんとピーターの体の数倍もある大男だった。身長にして百九十センチはあろう。小人族と呼ぶにはあまりにも大きな体に伊織は驚いた。
「いいから、ちゃっちゃと持ってこんかいっ!」ピーターは舌うち混じりに息子の手から《魔女の石板》を奪うと、自分の身長の倍以上も高いテーブルに飛び上がり、そこにある書物やビールの空き缶など全てを蹴落した。そして石板を無造作にテーブルの真ん中に置くと、慎重に《不死鳥の羽》をその上に立て、じっと見入った。すると《不死鳥の羽》はふわっと一瞬だけ光ると、ひとりでに軽やかに踊り出し、なんと石板の表面に文字を刻み始めたのだ。同時に石版も《不死鳥の羽》と共鳴するかのように柔らかな光を称え始めた。
「――ヘンドリクスさん、お久しぶりです。三年振りくらいですかね?」ジェームは欠伸混じりに挨拶をした。その横ではピーターが石板に刻まれる文字を食い入るように見つめている。まるで幼い子供がアニメの影像に没頭するかのように。
「ああ、ジェームス。元気そうだな?大学でドラゴン学を専攻しているんだって?」
「ええ。毎日のように研究、研究、レポートの提出で大変ですけどね」ジェームスは幾分謙遜するかのように言った。
「そうか。なんにしても親父さんも含めて、元気そうで安心したよ」
「いやあ、父が醜態を見せてしまい、申し訳ありません。相変わらず飲んだ暮れの日々で恥ずかしい限りです。母さんからも酒をやめるよう、きつく言われてるん――」
「黙ってろ、このバカ息子がっ!余計なことベラベラしゃべってんじゃねーっ!」気が散る、と言わんばかりにピーターは息子の話を遮った。
「じゃあ、いい加減に酒を止めれば良いじゃないか?母さんに怒られてまで飲む必要なんてあるの?」
「このポンチ野郎がっ!何、考えて言ってやがる!?酒の無え人生なんか生きる意味、無えんだ、このバカチンがっ!第一、女房が怖くて酒が飲めるかってんだ!ヘンっ!」ピーターはそう言い放つと、豪快に鼻をかんで、丸めたティッシュを息子に投げつけた。
「――そんなこと言って、いつも母さんが留守の時に隠れて飲んでるじゃないか。母さんが怖くないなら、母さんの前でも飲んでみせれば良いのに……」そう言うとジェームスは、再びヘンドリクスに顔を向けた。「――だいたいからして、母さんにも色々聞いてみたんですが、父さんは昔から飲んだ暮れてたって話なんですよ?一体、父さんの何が良くて結婚したんだか――」
「いちいち、やかましいんだよっ!あの女がどうしてもって言うから結婚してやったんだよ!こちとら集中してんだ!黙ってろ、ドサンピンが!」
「――まったく。都合が悪くなると、いつも研究の邪魔だとか言って誤魔化すんだから……」ジェームスはヘンドリクスと目を合わせると、肩をすぼめてみせた。
「まあ、何はともあれ、石板に書かれた内容が先決だ。マイルスの爺さんがピーターに直接伝えようとしているんだからな」
「そうですね。それにしても、なんでマイルス様ほどの方が父さんなんかと繋がっているのか、未だに理解出来ないんですよ。こんな飲んだ暮れの、ただのやる気なし男の父さんなのに……」ジェームスは呆れたように投げつけられたティッシュをゴミ箱に捨てた。
「なんだ、そんなこともまだ分からないのか?おまえの親父さんはドラゴン学界のトップに位置する人物だからに決まってるだろう?」ヘンドリクスは、さも当然の如く言ってみせたが、ジェームスは腑に落ちない。
「それが理解出来ないんですよね。ただの酔っ払いじゃないですか?息子の僕でさえ未だかつて、一度も研究してるところを見たことがないんですよ?それでよく学者だなんて威張れるものだなって」どうやらジェームスは、父のことをあまり尊敬してはいないようだ。
「――フッ。しかし、現にマイルスのとっつぁんは、おまえの親父さんを信頼して、《不死鳥の羽》を使ってまで伝言をよこしてるんだぞ?」
「はあ。だからそれが不思議なんですよねー。《不死鳥の羽》って、受け取った者にしか見えないっていうか、読めないものなんでしょ?マイルス様がそこまでして父さんにだけ伝えたい事ってあるんですかね?ただの飲みの誘いだったら、僕、ガッカリしちゃいますよ?」窓際の棚に飾ってある、若かりし頃の両親の写真を手にしながらジェームスは話す。そしてその後ろではピーターがじっと石板の文字を何度も何度も読み返していた。
「……ヘンドリクス」
ようやくピーターが口を開く。石板から目を離さない様子から、その内容が只事ではないことは容易に察することが出来る。いつになく真剣な声色だった。
「ああ。どうした?」
「……マイルスの意志とやら、確かに受け取った」さっきまでの砕けたイメージとはかけ離れた表情でピーターは答えた。
「――それでマイルスのじい様はなんと?」粗方の事は既にマイルスから聞いてはいたが、それでもやはりヘンドリクスとしては確認しておきたいところだろう。
「うむ。《ドラゴンの血》を、その小僧にとのことだ。そして……」ふとピーターは、少しだけ言葉を濁した。
「そして……なんだ?」ヘンドリクスが再度尋ねる。
「ああ……。まあ、平たく言やあ、必要ならば全てを求め、必要とするってことだ。今、ここで話せる内容は以上だな」
「……そうか。やはり、そうだったのか」ヘンドリクスは、クリスタルの間での長老たちの言葉に差異がないことを察したようだ。
「えっ?何、言ってんの、二人とも?」何気にジェームスが割って入る。するとピーターは「子供にゃ関係ねえんだ。すっこんでろ」と粗雑に返事を拒んだ。事態を把握しているヘンドリクスとしては断腸の思いだろう。
「――まあ、そういうことだ。とにかく仕方あるまい。オレたち小人族は代々その時の為に存在しているようなもんだからな。とりあえず、まずは《ドラゴンの血》を、一発その小僧にカマしてやらにゃならんだろう」
「……ああ、頼む」
伊織は、ヘンドリクスの曇った表情を気にかけていた。言葉が分からない為、会話の内容も当然分からないが、なんとなく不安を伺わせる内容だということは察しがつく。そして、そんな伊織をピーターがテーブルの上から無言で見つめている。それこそ頭の上から足の爪先まで入念に舐めるように。そしてその資質を見定めるようにだ。
「――なるほどな。マイルスの話通り、魔力だけは一人前のようだな。しかし、その分、頭が悪過ぎる。精神的にも未熟のようだ」そう言うや、ピーターは机から飛び降り、今度は梯子を伝って棚の上へとよじ登った。そして、そこにおもむろに置いてある赤い乳鉢を鷲づかみにすると、乳棒でゴリゴリとかき混ぜ、その中身の臭いを嗅ぎ始めた。
「……こりゃ駄目だな。まだ毒素が抜け切っちゃいねえ。発酵が充分でねえわ」ピーターは苦々しい表情で梯子から飛び降りると、今度は部屋の隅にある古びた冷蔵庫の扉を開け、別の乳鉢を取り出した。
「……うむ。これなら良いだろう。《虹の勇者》ちゃんには、やはりこんぐらいのものを使わにゃなるまい」
ピーターは、その乳鉢に何やら怪しげな粉を二、三種、手づかみで入れると、更に乳棒で擦りかき混ぜ、スポイトを使って空の試験管に半分ほど注入した。ドロッとした粘性の高い、赤紫に濁った色だ。伊織からすれば、絶対に体に悪いものにしか見えないだろう。
「ふんむ……これだけでも良いが……。まあ、さすがに飲みづらいだろうな」再び臭いをかいでピーターは言った。
「ちょっと飲みやすくしてやらあ。おう、ヘンドリクス!《ドラゴンの血》以外にも他の効能があったって構わねんだろう?」
「任せる。好きにやってくれ」ヘンドリクスは迷うことなく即答した。一切、伊織にお構いなしのようだ。
「そうか!じゃあ、ちょっくら待ってろや!」ピーターは、試験管に入れたその液体を再び乳鉢に戻すと、部屋中の標本やサンプルらしき物を片っ端から物色し始めた。
「ええと……エキドナの針を二本だろう?そしてモロクトカゲの雌の尻尾の付け根部のトゲを入れて、それにブッシュプラムの種を一粒入れるとすっか。そんでデイドリーム島の人魚の鱗を乾燥させたやつを二枚、ドクダミとティーツリーの葉を一枚ずつ。そんで蜜蟻を一匹。最後にフェアリーペンギンの涙に浸したミンククジラの髭をちょっとだけ混ぜて……。おっと、ユニコーンの角とケンタウロスの蹄を少し削ってやるか……」
それ以降、ピーターは、思いついたものをそのまま乳鉢に入れたり、フラスコに入れては熱し始めたりした。まるで子供のオママゴトや実験のような感覚で、次々と聞き慣れないものを投入しては、怪しげな反応を発生させてゆく。
「――ね、ねえ、ヘンドリクス?あの変なおじさん、大変な事をし始めでるみだいだげど、まさか……あれを僕が飲むんじゃないよね?」さすがに不安になった伊織は生唾を飲み込むと、ヘンドリクスにそう耳打ちした。するとヘンドリクスは当然の如く「おまえが飲むんだ」と平然と返したものだから、伊織の顔は途端に青ざめ始めた。
「安心しろ。ピーターに任せておけば悪いようにはならん。《ドラゴンの血》は、おまえ体に流れるジュードの血の潜在能力を目覚めさせ、それに耐えうる強靭な肉体を創り上げる為のものだ。更には脳に眠る言語能力を開花させる効果もある。おまえは今後、竜族や小人族をはじめとする、全ての種と話せるようにならねばならん。その為にも《ドラゴンの血》が必要なのだ」
ヘンドリクスの言う事は理解出来たが、伊織からすれば、こんな実験めいた事に付き合わされるのは心外だった。そうしている間にもピーターはあれこれと怪し気なものを次々と配合しては、火で炙ったり、乳棒でゴリゴリと音を立てて煎じたりしている。また、その一方で、そんなピーターの姿を信じられない、といった表情で見つめる者がいた。息子のジェームスだ。てきぱきと無駄のない動きで、一切の資料や図鑑などの書物を見ることなく、絶妙な配合で調合し続ける光景に、ジェームスは目を疑う思いで見つめているのだ。
「…………よっしゃ!これで良いだろう。あとはこれを《聖塩の杯》で飲み干せば良い」乳鉢を片手に、ピーターはようやく満足した表情を見せた。そして冷凍庫の扉を開けると、冷気で煙る真っ白な杯を取り出し、最後にその中に乳鉢の液体を豪快に注ぎ込む。そしてピーターは満面の笑みで伊織の前にずかずかと歩み寄ると、それを手荒く押し付けた。
「――さあっ!男らしくグイっとやんな!」ピーターは、伊織の前でまるで酒でも飲むかのような仕草をしてみせた。
そして伊織は、盃を受け取ると「あっ!?」と言葉を失ってしまった。ドロっとした気持ち悪い液体を想像していたのだが、まるで水のように澄み切った透明な液体になっているのだ。あんなに奇妙な物を混ぜていたにも関わらず、どうしたらこんな澄み切ったものになるのか不思議でならない。しかし、一貫してこれに一番驚いるのは他でもない、ジェームスだ。大学でドラゴン学を専攻する彼にとっては、ピーターが施した《ドラゴンの血》の調合は、それまでに学び、研究してきた常識を全て覆すものであった。しかしながらこの美しい杯の中に見える結果は、まったくもって想像を絶するものとしか言いようがない。
伊織は、少しだけ湧き起こる不安をぐっと抑え、慎重に一口飲んでみると、想像を超えた全くの無味無臭だった。伊織は驚きの顔で目を向けると、ピーターは会心の笑みを浮かべて頷いてみせた。伊織は不安を全て払拭して、まるで水でも飲むかのように《ドラゴンの血》を一気に飲み干した。
「おうっ!飲みっぷりが良いじゃねーかよ、小僧っ!まあ、オレ様の配合が完璧だから当たり前だわな!ガハハハハハハハッ」ピーターは、伊織の膝の横を叩きながら豪快に笑ってみせると、再び冷蔵庫を開け、乳鉢や標本と共に冷やされているビールを一缶取り出した。
「――っか~~っ!ひと仕事後のルービーはたまんね~なあ、オイッ!」少しだけ汗ばんだ額を軽く叩きながら、ピーターは再び酔い始めた。
――と、その時。
伊織はハッと驚いた。なんとピーターの言葉が理解出来たのだ。《ドラゴンの血》を飲むまでは何も分からなかったのに。
「さすがだな、ピーター。ドラゴンマスターの実力、なお健在だ」伊織の様子を見たヘンドリクスは、《ドラゴンの血》の効能が早速現れたことを確信した。
「ガッハハハハハハハッ!オレを誰だと思ってやがる!?この世界でたった一人のドラゴンマスターだぞ!?この野郎が!」ピーターは会心の仕事にすっかり上機嫌だ。
「――と、父さんがドラゴンマスター?そんな……た、ただの酔っ払いじゃなかったの?」
「フン、バカ息子が!ちったあ見直したか、この野郎!おまえがいくらドラゴン学を研究しようが、所詮はオレが切り開いた道を迷いながら歩んでるだけだってんだ、ガハハハハハッ!」信じられないといった表情で見つめる息子の眼差しに、ピーターは更にご満悦でビールをひと口、ふた口と喉の奥に流し込んだ。
「で、でも、そんなに凄いなら、なんで今までずっとグータラしてたのさあ?研究らしいことをひとつもしないで、酒ばっかり煽ってさあ」長年一緒に暮らしている息子としては至極当然な疑問だろう。
「――っかーー。まったく、おまえは大学で何を学んでやがんだ?あのなあ?竜族ってのは月の光に身をさらすことでその身を清め、生命力を漲らせる聖生物だぞ?だったら昼間に研究しても意味ねーだろが、このド素人がっ!」
「あっ……」ジェームスは返す言葉を見事に絶たれてしまったようだ。
「『あっ』じゃねーよ!――ったく勘弁してくれよなあ?これだから素人ってのは困るんだよなあ。まあ、学歴至上の石頭カチコチの大学の授業じゃあ、無理も無えけどよお」
「う、うん……」ジェームスは面目なく力なく頷く。
「まあ良い。おまえはただ、指導者に恵まれていなかっただけだ。それらしい事が書かれている教科書通りに教示される授業やら講義しか受けられなかったんだろうからな。今までに教わってきた事はきれいさっぱり、さらさら流れる小川のように忘れるこったな。そんで今後はオレを尊敬し、師と仰げよ?ガハハハハハのハーっ!」
「う、うん」自ら尊敬しろ、という父に若干の戸惑いもあったが、ジェームスは言われるままに返事をした。しかし、未だドラゴンマスターという父の肩書をいまいち信じ切れないでいるようにも見える。
「――ってコラッ!ボケっとしとらんで、この凄い親父に敬意を表して酒ぐらい持って来んかい、このハンペラがあ!」
「あっ、う、うん」ジェームスは、半ばピーターの強引さに動かされるようにワインクーラーの扉を開けると、白ワインを一本だけ取り出し、いそいそと戻って来た。
「――ところでピーター。《ドラゴンの血》以外には一体、何の効果を促したんだ?」ジェームスがコルク栓を抜きにかかっている間、ヘンドリクスが尋ねた。
「ああん?なんてこたねえよ。ただ、その小僧っ子の睡眠を取っ払ってやっただけだ」
「睡眠、だと?」
「ああ。とにかく時間が無えんだろう?だったら眠ってる暇は無えわな?だから脳に影響を与える睡眠促進物質ってのを抑えるようにしてやったんだよ。やっぱり生きてる以上は、どうしても眠気ってやつが襲ってきやがるだろ?だからそいつの働きさえ止めちまえば、寝る時間も修行に打ち込めるって寸法さ。まあ、数日しか効果は持たんだろうが、それでも充分だろ?なあに、心配すんな。そのうち眠れる元の体に戻るはずだ」ピーターはワイングラス越しにヘンドリクスを見ながら答える。グラスの見事な曲線にうっとりと惚れ惚れするような表情だ。
「とにかく小僧っ!おまえに飲ませた《ドラゴンの血》はなあ、地球の歴史四十六億年の中でも、唯一、竜王と呼ばれたドラゴンの血だ!つまり、オレのサンプルコレクションの中でも最高で最強のカクテルってやつだ!だからおまえは死ぬ気でヘンドリクスを超えてみろや、ガッハハハハハのハーだっ!」ピーターは、ようやく注がれたワインをグイっと煽ると、残りの入ったボトルをジェームスから受け取った。
「そうか。助かるぜ。時間はいくらあっても足りないくらいなんでな」
「まあ、そう簡単にあれを渡すわけにゃいかんからな……ヒック。とにかくおまえさんも寝る間も惜しんで、その小僧を鍛えあげるこった。オレも早いとこ、このバカ息子に……ウィック……ドラゴン学ってのを叩き込み直さなにゃあ……ヒック……ならんでな」ピーターは早速酔い始めると、程よく冷えたワインボトルに頬ずりしながら言った。
「そうだな。出来るものならそれを受け取らずに済むようやってみるさ」
「全ては……その小僧の志と決意の強さ次第ってやつだ。それにしても、おまえさんが弟子を持つとはな……。ヒック……しかも人間の子供を相手に……ウィック……。まあ、頑張れや」
「ああ。それじゃ行くとしよう。世話になった。今度は美味い物を持って来るよ。おい、ポン助。ボケっとしてないで礼を言うんだ」
「――えっ?ぼ、僕が?」伊織は、突然のことに少しだけ慌てた。ピーターの言葉は理解出来ても、自分の言語がピーターに伝わるわけがないからだ。
「構わん。おまえの言葉で言えば伝わる。《ドラゴンの血》は言葉を耳や頭ではなく、心に伝えてくれる力を持っている。心配は要らん」
「……う、うん。じゃあ」伊織はそれでも不安だったが、促されるまま感謝の言葉を口にした。「あ、あの……この度は、お、お日柄も良い中、ふ、風光明媚なご自宅にお招き頂きまして、誠にありがとうございます。並びに《ドラゴンの血》までもご馳走して頂いたこと、この上ない感謝の意を申し上げます。本当に美味しゅうございました」
「――お、おい?そんなかしこまんなくて良いんだぞ?子供らしく笑顔で『ありがとう』の一言で良いんだ」ヘンドリクスは、妙にマセた伊織の挨拶に若干の戸惑いと笑みを見せた。
「ガッハハハハハハッ!良いってことよ、ヘンドリクス!その小僧なりの感謝の表しなんだろうからよお!おい、小僧っ!そんな水くせーこと言ってねーで、いつでも遊びに来いよな!」そう言うとピーターは、口から零れんばかりにワインをガブ飲みした。よほどの上機嫌と見える。
「――プハアッ!うめーな、このワインはよおっ!おい、ジェームス!この前、仕入れたタスマニア産のプラムワインと山羊のチーズがあったろ!?それを持ってこいや!ガハハハハハッ!」
――と、ピーターが豪快に笑った、その時だった。
玄関の扉が勢いよく蹴り開けられ、ずかずかと入って来る女性が現れたのだ。
「――あらあ!?何の騒ぎかと思ったら、ヘンちゃんじゃない!久しぶりだわねえ!」
両手一杯に買い物袋を抱えたピーターの妻、デニスだった。買い物からの帰りのようだ。
「やあ、デニス。暫くぶりです。元気でしたか?」
「元気も元気ぃ。嫌んなるぐらい健康で困っちゃうわよお!もう、ヘンちゃん、ほんとに全然顔を見せないから心配してたのよお?」デニスは買い物袋をジェームスに渡すと、ヘンドリクスの右足の脛に強くハグを交わした(そしてその僅かな間、ピーターは目にも留まらぬ速さで飲んでいた形跡をあっという間に隠してしまった。その時のジェームスの表情もまた、見事なくらい哀れさを醸し出している)。
「――ほんと久しぶりねえ?せっかく来てくれたんだから、ゆっくりしていってちょうだいよ?あ、良かったら、ちょっと早いけどお昼でも食べていきなさいよ!今、色々と買い物してきたから、ご馳走してあげるわ!」
「いやあ。せっかくなんだけど、実は今日は、もう帰らなきゃならないんだよ。だからまたの機会にご馳走になるよ」ヘンドリクスは、まるで自分の母と話すような無防備な笑みを見せて言った。
「ええ、そうなのお?残念だわあ。せっかく来てくれたのにい。でも、今度来るって言ったって、いつになるか分からないんでしょ?――って、あら?見かけない子だけど、どなたかしら?」デニスは、ようやくヘンドリクスの背後に控える伊織の存在に気づいた。
「ああ。こいつはマイルスの爺さんから預かった、我が家の居候さ。ちょいと顔見せに来たんだよ」
「あら、そうなの?はじめまして、おチビちゃん?よく来てくれたわねえ」
「は、はじめ……まして。伊織と言います。よろしくお願いします」伊織は自分よりも更に小さな小人族に『チビ』と言われるのに違和感を覚えたが、とりあえず失礼のないよう、丁寧に挨拶を返した。
「じゃ、そろそろおいとましますんで」ヘンドリクスと伊織は、ピーターとジェームスに軽く会釈をすると、笑顔のデニスに見送られて玄関を出た。そして家から十メートル程歩くと、ヘンドリクスはふと足を止めた。
「……どうしたの?」伊織が何気にヘンドリクスを見上げる。
「――そろそろ始まるぞ?」後ろを振り返りながらヘンドリクスはニヤついた。
「始まるって……何が?」
「夫婦喧嘩さ」
「ええっ!?」
――と、その時だった。
突然、家の中から怒声と共にガラスや物が壊れる物騒な音が響き渡ってきたのだ。
「――あんたあっ!また無断で酒を飲んでたわねえっ!いい加減にしないとブッ叩くわよっ!一日一杯ってお医者様から言われたでしょ!?」
「ひ、ひぃ~~~っ!ブッ叩いてから言うなよなあ!ジェ、ジェームスが一緒に飲もうって無理矢理ビールついできたから、仕方なしに飲んちまったんだよお!」
「なんですって!?ジェームス!あんたも、ちょっとこっちへ来なさいっ!」
「ちょっ!?と、父さん!それはないだろうっ!?」
「あんたあ!『結婚してくれなきゃヤダ!』って泣いて頼んできたから一緒になってやりゃあ、いっつまでそんなみっともない真似してんだい!?このD級亭主の、ドブ亭主がっ!」
「ええっ!?」驚きの声をあげたのはジェームスだった。父の話と全く違うのだから当然である。
修羅場と化した家の中からは、更にデニスの怒声とピーターとジェームスの呻き声が交錯する。
「――た、大変だ!ヘ、ヘンドリクス!止めなぎゃ!」伊織は慌ててヘンドリクスを見上げたが、ヘンドリクスは心配の『し』の字も顔に出さず、笑みさえ浮かべている。
「止める必要は無い。いつものことだ」
ヘンドリクスと伊織は再び踵を返し、ピーターとデニスの騒動を耳にしながら小人族の集落を後にした。
「――それにしてもあれだね?小人族といっても、ジェームスだったっけ?めっちゃ背が高いよね?どこが小人族なんだべがね?」
「フッ。小人族は、生まれてからどんどん体が大きく成長するんだ。人間と同じようにな。しかし、ある程度の年齢に達すると、年を重ねるごとに逆にどんどん体が小さくなっていくんだ。ジェームスもこれからは体が小さくなっていくだろう」
「へえ……。不思議な人たぢだね」そう言いながらも伊織は、なぜ小人族の家々が大きいのか、ここで初めて理解した。
「小人族から見れば、おまえたち人間の方がよっぽど不思議な種に見えるだろうがな」




