逆鱗に触れたのは
人影まばらな、朝もまだ早い時刻。
リファイはひとり、王城の、ソルジェの居室の前に立っていた。
兄弟といえど、突然の訪問が許される時間帯ではない。しかし部屋の主、異母兄のソルジェはここにはいない。
伴侶と定められて以降、ソルジェは起居の場を軍棟に移していた。
最後にその姿を見たのはいつだったか?――
と、考えなければ思い出せないほど、久しく顔を合わせていない。
その、主のいない部屋の前で、リファイは立っていた。
ソルジェに会いたいわけではない。
こちらが眺めるだけの、一方的なものなら大歓迎だが、近くで相対するのは、はっきりいって願い下げだ。
会えば、会話が必要になる。しかも、互いの立場と性格上、リファイが話しかけなければならない。
『呪われの王子』の異名を持つ不幸な異母兄は、己が不幸を周囲に撒き散らさないようにしているのか、自分から声をかけるということをしなかった。賢明だ。
そして、王城を根拠地としている人々もまた、賢明だった。
国王はじめ、ごく一部の限られた人間以外は、第一王子の姿を見かけても、決して声をかけたりしない。
下位の者が上位者より先に口を開くことは、禁じられてはいないが褒められた行為ではないし、なにより、ソルジェに声をかけようか――という気概ある者はいなかった。
王城でソルジェに出会ってしまったときは、頭を下げつつ息を殺し、畏怖と威厳の塊が通り過ぎてゆくのをじっと待つ。
逆らわない。天災に向かうがごとき謙虚な姿勢で、人々はやりすごす。
だが、弟であるリファイはそうもいかない。遭遇すれば、
『兄上』
と一応、弟らしく声をかけなければいけない。人目の多い場所ではなおさらだ。
これまでこつこつ地道に作り上げてきた、第三王子像を壊すわけにはいかない。ゆえに笑顔を貼り付け、親しげに声をかける。
リファイはそういうことが得意だし、苦にもならない。実際、呼吸をするように自然にできる。だが、気を利かせてこちらが話しかけても、物堅い性状の異母兄は『ああ』『そうか』などの一語で済ませてしまう。繋がらないし広がらない。盛り上がったことなど一度もない。会話にすらならない。
うんざりして皮肉をいえば、無表情でだんまりだ。面白くもなんともない。会うなどまっぴら御免だった。
異母兄に用はない。
リファイがわざわざ足を運んだのは、昨日聞かされた人物が、ここにいるからだ。
昨日の話を、リファイは自分の目で確かめたかった。そして、昨日味わわされた怒りを彼に返しつつ、情報を仕入れたかった。
たやすいことだ。異母兄の生真面目な側近は、第三王子であるリファイを蛇蝎のごとく忌み嫌ってはいても、高位貴族の習いが身に染み付いているため、決して無下にはできない。
リファイは扉を叩き、それが開かれるまでの間に、いつもの微笑を作った。
その微笑は、多くの人々を魅了するのだが、リファイがこれから会おうとしている人物は、見るなりいつも眉をひそめる。
動物の持つ本能のようなものが、彼にそうさせるのか?
「ふふ」
端正な面を歪める相手の姿を想像して、微笑を深めたリファイだった。
が、次の瞬間、その微笑が固まった。
「……」
扉が開き、奥から姿を見せたのは、想像だにしなかった人物だった。しかもその顔を、リファイは知っていた。
「え?」
扉を開けた人物も、驚いた表情をした。が、応変の才があるのか、はたまたとんでもなく鈍いのか、ただの習い性か――相手はすぐさま笑みを浮かべると、
「リファイ殿下。おはようございます」
はきはきと挨拶を寄こした。
朝にふさわしい爽やかな声を出す青年の前で、リファイの固まっていた微笑が、面からきれいに剥がれ落ちた。
「君……なんでこんなとこにいるの? ここ、兄上の部屋だよね?」
「ええ、そうなんですが、留守役をおおせつかりまして」
「留守役? え? 留守番なんかやってるの?」
「はい」
「君……なんでもするんだね」
「下っ端ですので」
と、リファイの前で微笑むのは、もう会うこともないだろうと思っていた青年、セリカだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「まさか、昨日の今日で君の顔を見るなんて、思いもしなかったよ」
リファイは、セリカの顔をまじまじと見つめながらいった。
「本当に」
とセリカが微笑む。
「わたしは殿下のご尊顔を拝することができて光栄ですが、殿下にはお目汚しでしたね」
「……ねえ、そういう上手口は、誰に習うの?」
「特に習ったということはありませんが……」
「ふーん。勝手に身に付いてるんだ」
セリカの態度は大げさでなく、卑屈でもなく、ごく自然で、人好きのするものだった。
まあ、侍女たちが構うだけのことはあるね――
内心で頷きながら、リファイは訊ねる。
「それにしても君、留守番もいいけどさ、侍女探しの方はいいの?」
「ええ、そちらはどうやら決まりそうですので」
「え? そうなの? あの条件に当てはまる侍女がいたの?」
思いつきで言った軽い皮肉に、思いもよらない返事が返ってきて、逆にリファイが驚く。
「いいえ」
答えながら、セリカは笑う。
「候補すら一人もいない状態でしたので、御使い様が条件を変更なさいました」
「そうなんだ。でも、変更したからって、そんなすぐ見つかる?」
「はい。条件がかなり緩くなりましたので」
「へえ」
「変更後の条件は、心身ともに健やかである――」
「うん、そこからが長かったよね?」
「以上になりました」
「は?」
頷きながら聞いていたリファイは、声を裏返した。
「ちょっと待って。ちゃんと覚えてないけどさ、昨日すごくたくさん言ってたよね? 何? あれだけ並べてたのに、今度はそれだけ?」
「はい。そのようです」
「……極端すぎない?」
「ですが、おかげで侍女も決まりそうです」
「君たちさ、御使い様に遊ばれてるんじゃないの? それか嫌がらせ?」
「それはないと思うんですが……」
首を傾げるセリカに、
「君らがそれでいいならいいけどさ」
リファイは呆れ声でいった。
「まあ、決まりそうでよかったじゃない」
「ありがとうございます。お気にかけていただいて恐縮です」
「いいよ、別に」
頭を下げるセリカに、リファイは手を振った。
「それはいいとして、君が留守番ってことは、ユリアノスはどこか行ってるの?」
「ああ、殿下はユリアノスさんに御用がおありでいらっしゃいましたか。残念ながら、ユリアノスさんは、本日お休みです」
「休み?」
「はい。このところ、休みなくずっと王宮に詰めていらしたので」
「皆そうなんじゃないの?」
「はい、そうなんですが、ユリアノスさんはご新婚ですし」
セリカは微笑む。
「明日はおいでになりますよ。ご用向きはなんでしょう? お急ぎでしたら、わたしが承りましょうか?」
「君が?」
と、思わず顔をしかめたリファイだったが、すぐに考え直した。
いくら下っ端の使えない人間でも、ルゼーやキリザの近くにいるのだから、ある程度のことは、教えられているだろう。あるいは本人が気付いてないだけで、事実に繋がる何かを持っているかもしれない。
わざわざここまで足を運んだというのに、何も得ることなく帰るのは癪だったし、二度の大きな肩透かしと、その他色々な驚きを食らわせてくれた目の前の青年に、その礼を返すのも悪くない――
そんな気持ちから、リファイは表情を改めた。
「うん、そうだね。時間もあることだし、折角だから、少し話相手になってもらおうかな?」
その決断を、リファイはわずか十秒後に後悔した。
◇ ◇ ◇ ◇
扉口でたいへん失礼しました。どうぞ、中にお入りください――
と、招き入れられた先で、リファイは思わぬ人間に遭遇した。
「ああ、どなたかと思えば、リファイ殿下でいらっしゃいましたか」
リファイの姿を目にするなり、その人物は椅子から立ち上がった。
「おはようございます、殿下」
ケチの付けようのない礼と微笑みを寄こすのは、キリザの側近ヤーヴェだった。
◇ ◇ ◇ ◇
リファイの気分は急降下した。
子猫をゆっくりじっくりいたぶるつもりが、子猫の後ろには大猫がいた。手を出せば、逆にこちらの足を、ひょいと引っかけてきそうな相手だ。
明るい気分が、暗いそれにすり替わった。
浮気心を出さず、回れ右して帰ればよかった。とリファイは思ったが、後の祭りだ。
「ねえ、どうして君がこんなところにいるの? ヤーヴェ君。まさか、君も一緒に留守番なの?」
「そうだったらよかったんですが……」
こげ茶色の髪をした側近は笑う。
短い前髪は立ち上がり、その下にある明るい茶色の瞳は声同様、優しく笑っている。穏やかな雰囲気だ。向き合う相手を構えさせることはない。嫌な感じはまったくしない。全体に整った、柔らかな印象の軍人はしかし、必要な時々で、何にでも化けられると評判の男だった。
総大将キリザの剣と鞭――と綽名される側近の、ヤーヴェは後者だった。
「留守役を命じられたのは彼なんです。ユリアノス君が急遽休みを取ることに……といいますか、キリザ将軍の命令で、無理やり休みを取らされましてね。まあ、それはいいんですが、突然でしたから代わりのものが必要になりまして」
「それで、セリカ君か」
「ええ。それに便乗させてもらいました。ここでしたら、静かに仕事ができますし、わたしは彼を指導するという役目もありますので」
と、話している間に、セリカがお茶を運んできた。
「ふーん」
いいつつ、リファイは茶器を並べるセリカを眺めやった。
「君、お茶汲みから留守番まで、ほんとなんでもやるんだね?」
くだらないことしかさせてもらえないんだね――
と、子猫の毛をさらりと逆撫でてみたのだが、八つ当たりの皮肉りは、残念ながら、言外の嘲弄であったためか、真意をわかってもらえず相手に毛ほどの影響も与えられなかった。
「はい。仕事ですので」
セリカは健全な笑みを返してくる。
リファイは憮然とした。
これだから軍人は嫌いなんだ――
心の中でぼやいている間に、給仕役を終えたセリカがソファの端――ヤーヴェの隣に間を空けて座った。
「どうぞ、殿下。冷めないうちに召し上がってください」
「ああ」
ヤーヴェにすすめられ、リファイはテーブルに手を伸ばした。
ヤーヴェとセリカも茶器を手にする。と、ヤーヴェは一口それに口を付けただけで、テーブルの上に戻した。
「それで、リファイ殿下はどうしてこちらに? ご用の向きをおうかがいしてもよろしいですか?」
キリザの側近は、にこやかに訊ねてきた。
◇ ◇ ◇ ◇
リファイは、湯気と香りを立ちのぼらせる液体を見つめながら思案した。
『別に』といって、はぐらかすのがいいのかどうか――リファイは一瞬迷った。が、この時間にわざわざ自分から出向いてきたのだから、用がないわけがなく、それがわからない相手でもない。実際、年季の入った側近は、リファイが誰を訪ねてきたのか、わかっていた。
「ユリアノス君の個人的なことでしたらお役に立てませんが、それ以外のことでしたら、わたしが承ります」
日々、軍や政府の高官たちと混じり、横暴にして最大の実力者――といわれるキリザに揉まれている側近は、王子であるリファイにも、余裕の態度だ。それが面に、微笑となってあらわれている。
笑みの下で、いったい何を考えているのか――いぶかりながら、リファイは茶器をテーブルの上に置いた。茶器から手を離し、そのまま、下から掬うようにじっと相手を見つめる。そして、
「ねえ、ヤーヴェ君。君って、いくつなの?」
と、まったく関係のないことを訊いた。
流れを無視したリファイのそれは、相手の意表を突いたのか、ヤーヴェの微笑んでいた目が丸くなった。が、すぐに元の形に戻すと、ヤーヴェは答えた。
「つい先日、二十九になりました」
「へえ、意外と若いんだね、君。僕と八つしか違わないのか。四十くらいかと思ってたよ」
実のところ、ヤーヴェは特別老けても見えないし、特別若くも見えない。歳相応の外見だ。が、相手の気分を害したかったリファイは、まったく意外だ――といわんばかりの口調と表情でいってやった。しかしこちらは不発に終わった。
「そう思われるのも仕方ありません。同僚にも『お前は年寄りくさい』と、よくいわれますから」
ヤーヴェは微笑みのままにいう。
「……そう」
リファイは相手の感情を揺さぶることを諦めた。突きたくても、突く場所がすぐに見つからない。
「ねえ。さっき、個人的なこと以外は君が聞く、っていったけど、それは本当?」
リファイは自分から話を戻した。
「はい」
「役に立てるって、いったね?」
「ええ、おそらく」
「じゃあ訊こうかな」
そういうと、リファイは朗らかな雰囲気を仕舞い、王子の威厳をさらりとまとった。
「ヤーヴェ君、君はどこまで知っている?」
第三王子の厳しい声に、ヤーヴェはすぐさま反応した。
しかしそれは、好ましいものではなかった。
「もう少し、限定していただけませんか? 漠然としすぎて、それではわたしもお答えのしようがありません」
余裕で微笑む姿に、リファイは内心で舌打ちした。だが、おかげで気持ちが決まった。下手な聞き方をして相手の注意を引くのは嫌だったが、それも今更だ。なら、まどろこっしいやりとりは不要だ。無駄は省くに限る。なにより目の前の、余裕の表情を崩してやりたい――という誘惑に駆られたリファイは、己が欲求に従った。
おもむろに、テーブルの上に戻した茶器に手を伸ばす。
「うん。それはもっともだね」
いいながら、リファイは手にしたそれに口を付けず、胸の辺りでとどめたまま、茶器を傾け中味をくるくる回す。小さな世界の中に、小さな渦ができた。
リファイは視線を上げた。
「それじゃあ単刀直入に訊くよ。スライディールの御使い様は化け物なんかじゃなく、人だ、って聞いたんだけど、それは本当?」
リファイの手の中――惰性で回転する茶の前で、ヤーヴェの微笑が固まった。
◇ ◇ ◇ ◇
だが、それは一瞬だけだった。
リファイが面に笑みを浮かべる前に、ヤーヴェがうつむき、笑い出した。
「……何がおかしい」
気色ばむリファイに、
「失礼しました」
ヤーヴェが顔を上げる。
彼は笑っていた。作ったものではない。自然な笑みだ。が、リファイには、ひどく嫌なものに映った。
ヤーヴェがその笑顔を横向けた。
「セリカ。君は、殿下にお話ししてないのかい?」
いけないね――と咎めるように首を振る。が、ヤーヴェの声は優しく、なにやら楽しげなものまで含んでいた。
「すみません、ヤーヴェさん」
そしてセリカは殊勝な態度で先輩側近に答える。と、やおら声と微笑をリファイに向けてきた。
「どなたからも、お訊ねがございませんでしたので……」
「……」
慇懃にいう側近を、リファイは無言で睨みつけた。
自分が今、どんな顔をしているか、リファイには鏡を見なくてもわかっていた。表情が抜け落ちた中で、目だけが異様に光っているだろう。ほとんどだれにも見せたことのないそれは、他人に見せてはいけないものだ。それをリファイは理解していたが、我慢できなかった。繕う気さえおきない。
なぜなら、使いの役も満足に果たせないと思っていた青年は今、明確な意思を示していた。
射殺さんばかりの強い視線を受けながら、恐れもせず見つめ返す。
誠実そうなその面には、ただの純朴な青年には出しえない、余裕と含みのある微笑がのっていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「君らは席を外してくれ」
その声に、侍女らは困惑して、顔を見合わせた。
第三王子リファイが突如あらわれた。その訪れはあまりに突然で、しかも、問答無用に押し入るという、ひどく乱暴なものだった。
だれもが驚き、固まっているところに今の発言だ。
若い侍女たちは、性急な指示に戸惑った。
「え? それは……」
「聞こえなかった? 席を外してくれっていったんだよ」
リファイは不機嫌もあらわにいう。
普段の明るく優しい様子からは、まったく想像もできない言動だ。
驚きに固まり、だれも反応できないその中で、先ほど声を上げた侍女がふたたび口を開いた。
「ですが殿下――」
「馬鹿なの? 二度も三度も同じことを言わせないでくれる?」
控え目な声は、冷たい声に切り捨てられた。
王子の冷ややかな声と視線に、他の侍女たちも震え上がる。
「悪いが皆、出てくれ」
別の声が、侍女らの震えを止めた。声を発したのはラズルだった。
「話をするだけだ。それが済めば、すぐにここから失礼する。その間君たちは、別室で待機しててくれ」
というラズルの声も固く、様子もいつもと違っていた。が、リファイほどではない。
これ以上逆鱗に触れてはいけないことを悟った侍女たちは、彼らの言に従った。
豪奢な部屋に集っていた、侍女という名の花々たちは、扉向こうに消えた。
そうして残ったのは、一人の少女だった。
リファイとラズルが、独りだけになった少女――目的の人物に視線を投げる。
少女は顔を上げ、驚きに見開いた目を乱暴な訪問者たちに向けながら、呆然とした様子でソファに座っていた。
「……」
「……」
沈黙の中、視線が交差する。
リファイとラズル――二人の視線は好意的なものではない。彼らの目は、あからさまな負の感情をのせている。
というのに、少女に怯えは見えなかった。何が起こっているのかわからない、といった様子だ。
リファイがわずかに視線をずらした。
身支度を整えている最中だったのか、少女の前には、上半身を映すこぶりな鏡と、美しい意匠が施された小箱が並べて置いてあった。小箱の蓋は開けられ、蓋が裏返しになっていた。化粧張りされたその上に、キラキラとしたものがいくつかのせてある。
それに目をとめたリファイは、いきなり動きだした。
足早に近付き、無言のまま少女の前に座る。そしてテーブルの上に手を伸ばすと、手近にあったひとつを摘み上げた。
蓋の上に並べられていたのは、装身具だ。リファイが無造作に摘んだそれは、花を模して作られたものだった。花弁が幾重にも美しく重なり、その間に極微小の宝石が散らしてある。朝露を表現しているのか。いずれにせよ、手にすっぽりおさまる装身具は、ごく一部の、限られた者しか手にすることができない特別な品だった。
「ふーん」
生花とはまったく異なる美しさと価値を持つそれを、リファイは手の上で転がした。そうしてしばらくの間、花のきらめきを楽しむように見ていたが、ふいに動きを止めた。視線を上げ、少女の顔をじっと見る。そして、笑った。
「君さ、これ、自分に似合うと思ってるの?」
冷たい声に、少女――咲の顔が青ざめた。




