おじさま ばーさす 化け物 ⑤ 大切な人
「話は半年だったか……いや、もうちょっと前だったか? ま、いいや。ちっと前だ。殿下に嫁入の申し入れがあった」
キリザは語りはじめた。
相手は近在の、国土はさほど広くないが、そこそこ豊かで歴史ある国の第一王女だった。
その嫁入の申し出は、王女個人の希望ではなく、国の意向が反映された、政略的なものだった。
政略結婚は、珍しいことでもなんでもない。いつの時代、どこの国でもやっていることで、国の重要な施策のひとつといってもいい。
歴史あるその国は、近年、遥か南で誕生した、ある国の動向を懸念していた。
南で生まれたその小国は、稀に見る勢いで、貪欲に近隣周辺を飲み込み、見る間に肥大していった。今のところはまだ、大国と呼べるまでにはなっていないが、いずれそうなるだろう気配だった。
それが勢いに任せて北上すれば、最初に狙われるのは、歴史ある中国――リエナリスタ王国だろうと考えられた。
南からの暴風を、どうしのげばいいか――
出した答えが、大陸一の大国と結び付くことだった。
もとより、リエナリスタはレナーテと友好な関係にあったが、さらに強く結びつくことで、将来に備えようとした。
大陸にあって、ゆるやかな縮小と拡大を繰り返しながら歴史を作ってきた中国は、慎重で、よく見ていた。
リエナリスタは、レナーテの派手華やかな第二、第三王子ではなく、『いつ臣籍に下るか』とまで噂されている、呪われの王子に申し込んできたのだった。
「噂は噂にすぎません。これまでのご功績、さらに殿下のひととなりを拝見すれば、それがよくわかります。わが国王――ダルスマイヤ陛下が掌中の珠、イーシェル様をお預けするのは、殿下をおいて、他には考えられません」
使者はそういった。使者は、リエナリスタで宰相を務める男だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ま、欲得づくの追従だろうが、間違っちゃいねえ。殿下を取り込めば武力が手に入る――ってことがわかってるだけでもえらいもんだ。真っ向からそれを狙う心意気もよかった。それに、こっちにとっても、悪い話じゃなかったんでな。話はとんとん拍子に進んだ。ところがだ」
キリザは、顔をゆがめた。
「肝心の王女様がな、駄目だった」
掌中の珠――という表現は、事実だった。
父王に溺愛され、王宮の奥深くで大切に育てられた可憐な王女様は、第一王子の風貌と威厳を前に、卒倒してしまった。
その不幸な出来事は、両者顔合わせの席で起こった。
レナーテにやってきた王女は、すでに緊張状態にあった。
生国を離れる――それだけで、王女の繊細な心は、不安に塗りつぶされていた。そこへ、さらなる負荷がかけられた。武張った国の重臣たちが居並ぶ様に、王女は恐怖した。
もちろん、レナーテ側には、王女を脅かそうというたくらみなど、かけらもありはしなかった。彼らはただ、常と変わらぬ態度で任務に臨んでいただけだ。
しかし、生を受けてからこれまで、物腰柔らかくあたりの好い人間ばかりに囲まれ、そんな彼らに蝶よ花よと誉めそやされ、甘やかされてきた王女には、優しい言葉もかけなければ、笑みのひとつも浮かべないレナーテの男たちが、恐ろしくてたまらなかった。
それでも、もてる気力を総動員して、深層の王女は緊張と恐怖に耐えていた。そこへ、第一王子があらわれた。
「ま、聞くと見るとじゃ大違い、ってやつだなあ。姿絵じゃ、でかさも怖さもわからねえもんな。お姫さんには同情したが、まったく参った」
両国の重臣を含めた、顔合わせの席での王女の卒倒は、レナーテを怒らせた。その場でいきり立つようなものはいなかったが、静かに怒りを見せるレナーテの重臣たちに、リエナリスタの重臣たちは、恐怖した。
彼らはすぐに謝罪し、今後二度とこのような失態はお見せしない――とまで誓ったが、当の王女に、耐えうるだけの力と思いがなかった。
「よくよく因果を含められて来たはずだが、温室育ちのお姫さんには、無理だった、ってわけだ」
と、キリザはいった。
「で、その王女様はどうなったんですか?」
「帰ったぜ」
玲の問いに、キリザはあっさりそう答えた。
「到底無理、とかいって、部屋から一歩も出てこねえんだ。いてもらう理由もねえし、帰ってもらった」
まさか、キリザの言葉のままいったわけではないだろうが、それに近い言葉をいったか、そういう状態になってしまったのだろう。
それにしても、気の毒な話だった。
王子もそうだが、王女も気の毒だ――と玲は思った。両者が、ただ傷ついただけに終わっている。
「で、お岩ちゃんにはもう察しがついてるだろうが、この婚儀の話は、サルファに任されてた。不首尾に終わったのは、向こうのせいだが、それを予見できなけりゃ、予防もできないたあどういうことだ、って、あの野郎はぬかしやがった。ったく、ほんっと馬鹿だろ?」
うーん。やっぱりお馬鹿さんだったか――
想像からはみ出ない人物、ホレイスという男につくづく感心しながら、玲はキリザにねぎらいの笑みを返した。
「ま、婚儀の話が流れたのは事実だ。しかもよくない形でな。でもな、サルファは皆に頭を下げて、後始末だってきちんと済ませた。責任者としての義理と務めは果たした。それもとうの昔にな。それを奴は、ぎゃーぎゃーと、いまさらほじくり返してきやがった」
眉間にできた、海溝の如き深い縦じわが、キリザの憤りの深さを物語っていた。
「で、こっからは、グレンがいったように恥ずかしいことなんだが、俺たちは、思い出すのも腹立たしいことをいいやがる、奴の口を封じたかった。奴は馬鹿の上に強欲でな、御使い様とお近づきになりたいがために、迎えの使者をやりたがった。だったらやらせてやれっ、ってことになってな。どうせ、お近付きになったところで、あれだ。そのうち御使い様に嫌われるか、手に負えずに放り出すかどっちかだろう、と俺たちはふんだ。ま、グレンは渋ってたがな」
と、キリザは隣の宰相を見やる。
「反対しなかったんだから同じことだ」
グレンは声だけを返した。
「……うちの宰相は、男前だろ?」
「余計なことはいい」
おどけていうキリザを、グレンが声の鞭で叩く。
「わかったわかった」
厳しいグレンの声に、羽虫でも払うような仕草で応じると、キリザは玲に向き直った。
「うん。とまあ、こういうわけだ」
「なるほど」
玲は頷いた。深く頷き、倒したその頭を起こしてから、訊ねた。
「キリザさん。すみませんが、ひとつだけ、教えてください。その会議の席に、ソルジェ殿下もいらっしゃったのですか?」
「……ああ。いたな」
キリザは、玲の目をじっと見つめながら、短く答えた。
「わかりました」
と、玲が答えてもまだ、キリザは玲をじっと見続けていた。
玲は首を傾げた。
玲を見つめるキリザの目は、問いの意味を探るのではなく、それ以外の何かを探そうとしているように見えた。
「キリザさん。見られるのは慣れているんですが、穴の開くほど見つめられることはあまりないので、少々気恥ずかしいですね。わたしの顔に、何か付いてますか?」
おどけるように訊く玲は、そのままの声で続けた。
「ああ、血が付いてますし、頭も割れていましたね。ですが、先ほどからずっとこうで、特に代わり映えしないように思うのですが……」
キリザが頭を軽く振りながら笑った。
「いや、すまねえ。どういう頭ん中してんのかと思って、ついつい見ちまった」
「ああ、どうそ、そのままご覧いただける状態ですよ」
という玲の声に、瑠衣が笑い声をこぼす。
「あー、そうだったな」
キリザは悪乗りに乗ってくれた。
「しっかし、いやほんと、お岩ちゃんにはびっくりさせられっぱなしだな」
「はあ、それはすみません」
まったく心の伴わない玲の詫びの言葉を、笑って受け入れたキリザは、次に真面目な顔で訊いてきた。
「それで……お岩ちゃんは、納得してくれたか?」
「ええ。納得しました」
玲は首を縦にしつつ答えた。
「なぜ、ホレイスという方が迎えの使者になったのか、なぜ、皆さんがそうしたのか、よくわかりました。皆さんにしてはとても考えにくい、軽率な判断だと思っていましたが、大切な人が傷つけられて、楽しいはずがありません。わたしにも大切な人がいますので、それはよくわかります」
と、玲は自分の左右に目を振った。
「目の前で、大切な人が傷つけられる。それを見るのは、とてもつらいことだと思います。もし、自分の友人たちが……と、想像するだけでも、わたしは嫌で嫌でたまりません。サルファさんも、そうですよね?」
玲は、いまだ眼差しを落としたままの副宰相に問いかけた。
驚いたような薄青の瞳が、玲の黒の瞳とぶつかる。
「ソルジェ殿下は、皆さんにとって、とても大切な方なんですね?」
とりわけ、あなたには――その言葉は声にしなかった。
「はい」
サルファは答えた。声の強さに、その思いがあらわれていた。
「ありがとうございます、サルファさん」
答えは聞かなくてもわかっていたが、声を聞いた玲は満足した。
「よくわかりました。でも、まだひとつ、わからないことがあります」
優しい声から一転、玲は声をもとの調子に戻した。
本当は、あと、ふたつばかりあったが、それはおいおい聞けばいい。
「サルファさんが役目から降りられたのはわかりましたが、キリザさんが降りられたのは、どうしてですか?」
その瞬間、キリザの顔全体に苦さが広がった。
◇ ◇ ◇ ◇
キリザが降りた理由は、グレンが教えてくれた。
「いいにくいだろうから、俺が説明してやろう」
意外なことに、グレンはいかめしい顔を崩したばかりか、端正な面に笑みまでのせて、そういった。
グレンがいうには、キリザはだれにいわれるでもなく、自らその役目を降りたのだという。
すでに軍の頂点にいる自分には、さらなる栄誉は身に余る。レナーテのため、後進の人間に任せたい――
という、それはもっともらしい理由だったそうだが……。
「ホレイスに付き合わなければならないことが、将軍には、ひどく不愉快だった。将軍は、見てのとおり豪快な傑物だが、ひとも仕事も好き嫌いが激しくてな。ことに面倒ごとや嫌事は、何のかんのと理由を付けて避けている」
「なんでもかんでも押し付けやがるからだ。だいたいな、俺が軍の天辺になったのは、いやな仕事やいやな連中と関わらないためだぞ」
「威張っていうことではないぞ」
厳しい声でキリザをたしなめたグレンは、首を横に振り振り続けた。
「将軍は気難しくはない。どちらかといえば単純だ。ゆえに、感情を隠すということをしない。気に食わない男と無理に一緒にさせて、御使い様を仏頂面でお迎えされても困る。おまけに、ホレイスの行動如何では、過って身体がすべるかもしれん――と将軍本人からも脅されてな。それで陛下と俺は、将軍の辞退を了承した」
「あの……すみません、身体がすべるとは? その、手が出てしまうということですか?」
玲はたまらず訊ねてしまった。もちろん声は笑ってしまっていた。
「ああ、そうだ。そういう意味で、将軍はいった。だろう? 体当たりでもするつもりだったのか?」
「だから、するつもりはねえが、身体が勝手に動くかもしれねえっつったろ? なんせ、反応がいいんでな、俺の身体は」
キリザは、自慢するように胸をそらせてみせた。
玲はふいてしまった。それを機に、友人たちがささやきはじめる。
「それって、どうなの? 理由として、あり?」
「ありでしょ? それより、見てみたかったわね。キリザさんのボディアタック」
「うん。ふふ、キリザさんとグレンさんって、仲良しさんなんだねぇ」
と、友人たちはおおむね納得、というより、玲於奈と瑠衣にはたいへん好評のようだった。
玲ももちろん納得した。声を笑いで震わせながら、それを伝えた。
「そうですか。それは……回避すべき事態ですね」
「ほお、納得してくれたか……」
呆れるでもなく、軽蔑するでもない――おかしみだけがにじんでいる玲の声に、グレンは意外なものでも見たように目を細めた。
「ええ、よくわかりました」
「……御使い様の理解の深さ、懐の深さには、恐れ入るばかりだな」
「馬鹿いえ、俺の人徳だ」
調子にのったキリザの発言に、良子が軽蔑の眼差しを、グレンがゾクゾクするような恐ろしい睨みを向ける。が、キリザは動じなかった。
耳の痛い事実を白日のもとにさらされたキリザには、もはや恐れるものは何もないようだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ありがとうございます。これで、今聞いておきたいことは、すべてお聞きすることができました」
玲の声は、とても明るかった。笑いの残滓が色濃く、声に表情にとどまっている。
「質問は以上です。次は、わたしたちの話しをさせていただきますね。といっても、ほとんどがお願いになると思いますが――」
と、いったところでゼクトが戻ってきた。
「ああ、グッドタイミングですね、ゼクトさん」
何のことやらまったくわからないだろうに、声を向けられたゼクトは、慎ましやかに玲に向かって頭を下げると、サルファに目顔を向けた。
手配が終わったのだろう。
「手配を終えられたのでしょうか?」
「はい」
答えたのはサルファだった。
「そうですか。本当にいいところで戻ってきてくださいました。これで、お話ができます」
玲はゼクトが椅子に座るのを見ながらそういうと、視線を正面に座る三人に戻した。
「ここからの話は少々一方的になるかと思いますが、それはご了承ください。皆さんから色々なお話しをうかがって、心を決することができました」
玲の声と表情は明るいままで、特に変化はなかったが、それを聞いた側の表情は引き締まった。
「さきほどから、お岩と名乗っていましたが、わたしはお岩という名ではありません」
レナーテの傑物だろう三人が、引き締めた面をそのまま固める。
それと反比例するように、玲は表情を和らげると、自分の名前をさらりと告げた。
「アキラ。わたしは、北岸 玲といいます」