6話
俺の目の前には、町と英雄育成領域とを隔てる巨大な城壁がそびえ立っていた。
この城壁を越えれば、俺の持ち場である修練場まではすぐだ。
そして今日から、俺は教官として本格的に働かなければならない。
正直なところ、金には困っていない。
ゲームをプレイしていた頃に使っていたアイテムバッグを、そのまま持ち越しているからだ。
その中には十分すぎるほどの金品が入っているし、しばらく遊んで暮らしたところで使い切れるとは思えない。
だから、極端な話をすれば、教官の仕事なんて放り出してしまっても金銭的には問題ないのだ。
だが、さすがに教官という立場にありながら、修練生たちを放置するわけにはいかない。
それに、クロードにも今日から指導を始めると伝えてしまっている。
あの人の立場については、いまだによく分かっていないのだが……
約束した以上、最低限の責任くらいは果たすべきだろう。
もっとも、問題は俺のやる気ではない。
この身体だ。
俺は前回の修練で修練生を3人も斬り殺してしまっている。
いや、それもよくよく考えるとおかしい。
俺はゲームとしてジスで教官プレイをしていた時は手加減なんてしていない。
それなのに奇妙な現実化を遂げた世界では3人しか死んでいなかった。
この魔剣を使っていたのにも関わらず……だ。
この世界では、ジスなりにかなり手加減していたのだろう。
遠慮なく攻撃していたら間違いなく全員殺しているからな。
なんたってラスボスクリア時の装備のままだったんだから。
とはいえ、何人か殺してしまっているのもまた事実。
そのことはちゃんと反省しているし、もう二度とあんなことはしないつもりだ。
だが、この身体の持ち主は、どうやらそう簡単には考えを改めてくれないらしい。
俺が穏便に済ませようとするたび、口から飛び出すのは威圧的な言葉ばかり。
身体が勝手に動き出すことまであるのだから、もはや俺の意思だけではどうにもならない部分がある。
そこで俺は、昨夜のうちに一つの秘策を考えついた。
肉体的な基礎訓練をさせるから、力加減を間違えて事故が起きるのだ。
ならば、肉体を鍛えなければいい。
精神を鍛えればいいのだ。
例えば、自分より強い相手を想像し、その相手と戦う訓練。
これなら実際に誰かを斬る必要はない。修練生たちも安全に鍛えられるし、俺は離れた場所から様子を見ているだけで済む。
なんなら、修練場の隅でのんびりしていたっていい。
完璧じゃないか。
これならもう事件は起きないだろう。
ふっ……我ながら素晴らしい発想だ。
俺は満足げにうなずき、城壁の向こうへと足を進めた。
そして、しばらく歩いたところで目的の修練場に到着した。
広々とした敷地には、すでに何人もの修練生が集まっている。
彼らの手には木剣や訓練用の武器が握られており、朝から真面目に鍛錬へ取り組んでいるようだった。
よしよし。
やる気があるのはいいことだ。
俺は自分の魔剣をちらりと見下ろした。
この剣を使うのは論外だ。
武器そのものが強すぎるうえ、俺の力まで加われば、訓練どころか修練場そのものを破壊しかねない。
そう判断した俺は、修練場の端に乱雑に置かれていた訓練用の剣を一本手に取った。
これなら大丈夫だろう。
武器が弱ければ、多少振り回したところで大した問題にはならないはずだ。
そんなことを考えながら修練生たちのもとへ向かっていると、聞き覚えのない女性の声が耳に入ってきた。
「そうそう、その調子。やっぱりみんな優秀じゃない。魔力を正確に操作する技術は、魔道士だけのものじゃないのよ。あなたたちが目指す英雄にとっても、必要不可欠なものなんだから」
……ん?
俺は思わず足を止めかけた。
修練生たちの前で、見知らぬ女性が指導をしている。
魔女が着ていそうな黒いローブをまとい、手には立派な杖を持っていた。見た目から判断する限り、剣士ではなく魔道士なのだろう。
それにしても、誰だ、あの人。
俺が教官じゃなかったのか?
まさか、知らないうちにクビになっていたとか?
いやいや、そんな話は聞いていない。
俺は疑問を抱きながらも、ひとまず彼女と修練生たちのもとへ歩いていった。
すると、こちらの存在に気づいた女性が、突然声を張り上げた。
「それ以上、修練生たちに近づかないで!」
鋭い視線が俺を射抜く。
……ええ?
なんか、ものすごく怒っているんだけど。
俺、何かしたか?
いや、前回の一件を考えれば、怒られる理由に心当たりはある。
だが、少なくとも彼女に何かした覚えはない。
とりあえず俺は立ち止まろうとした。
しかし。
俺の足は、まるで俺の意思など存在しないかのように、平然と前へ進み続けた。
おい。
待て。
止まれって。
俺は必死に身体へ命令を送ったが、まったく聞き入れてもらえない。
「それ以上来ないでと言ったのだけど!?」
女性は杖をこちらへ向け、明らかな警戒心をあらわにした。
(すみません!俺だって止まりたいんです!でも、身体が言うことを聞かないんです!)
心の中で必死に謝罪する。
だが、そんな事情を相手が知るはずもない。
俺はそのまま数歩進み、女性が今にも魔法を放ちそうになったところで、ようやく足を止めることができた。
危なかった。
あと一歩近づいていたら、本当に攻撃されていたかもしれない。
ところが、俺の口から飛び出したのは、そんな緊迫した状況にそぐわない言葉だった。
「何だ、貴様。なぜ魔道士がここにいるのかは知らんが、さっさと帰れ。俺は今からこいつらを指導するんだ」
(すみません、どなたですか?俺も今日から指導に来たんですけど)
違う。
そうじゃない。
俺が言いたいのは、自己紹介をしてほしいということだ。
しかし、口は俺の意思を完全に無視していた。
「ダメよ!ジス教官……だったかしら?あなた、またこの子たちにひどい指導をするつもりなんでしょう!?」
女性は一歩も引かず、俺を睨みつけた。
また、ということは、やはり前回の俺の指導内容を知っているらしい。
まあ、宿まで来た大男のことを考えると、知られていても不思議ではないが。
「前回は軽くしすぎたからな。これからが本当の指導だ」
(あっ、それはもうしません。今日から優しくするつもりです)
だから、どうしてそうなるんだ!
俺は内心で頭を抱えた。
これではまるで、前回の反省など微塵もしていない危険人物ではないか。
「はあ!?いきなり修練生を殺しておいて、よくもそんなことが言えるわね……!また同じことを繰り返すつもりなの!?」
「弱すぎたから死んだだけだ」
(もう殺しませんよ)
頼むから、俺の言いたいことを少しは口にしてくれ。
しかし、女性の怒りは収まるどころか、ますます強くなっていった。
「あなたねえ……!知らないとは思うけど、本当は私がこの胴芽級の教官になるはずだったのよ?」
胴芽級。
確か、英雄育成領域における修練生の等級の一つだったはずだ。
どうやら、酒場で聞いた魔塔の魔道士というのは、目の前のこの女性のことらしい。
「ちょっと事情があって着任が遅れたせいで、あなたが教官になっちゃっただけ。分かる?実質的な教官は私なの!」
なるほど。
つまり、この世界の異物である俺が教官になっていることがおかしいと。
確かにその通りだな……
俺もこの町で教官になった時の記憶がないし。
それなら、怒っている理由も理解できる。
自分が担当するはずだった修練生たちが、突然現れた得体の知れない男に任されていた。
しかも、その男は大事な修練生を殺したという話まである。
俺が彼女の立場でも、警戒くらいはするだろう。
だからこそ、ここはきちんと話し合うべきだ。
俺はそう考えた。
だが——
「貴様、ふざけているのか?俺がここの教官に決まっているだろうが!」
(さっきから俺の言いたいことが、まともに言えない……!)
もう嫌だ。
誰か助けてくれ。
「いいから、これ以上近づかないで!エアーシールド!」
女性が杖を掲げると、俺の目の前に半透明の壁が展開された。
空気が圧縮され、目に見えない力が障壁となって立ちはだかった。
その光景を見た瞬間、俺は思わず目を見開いた。
(えっ……これ、ゲーム内の魔法と同じじゃないか?)
見覚えがある。
魔法の名前も、発動時のエフェクトも、ゲームで見たものとそっくりだった。
ということは、この世界ではゲーム内に存在していた魔法が、実際に使われているということなのだろうか。
そんなことを考えているうちに、俺の身体は勝手に動いていた。
「くだらん!」
訓練用の剣が一閃する。
次の瞬間、目の前の障壁はあっけなく砕け散った。
「えっ!?」
女性が目を見開く。
修練生たちも、何が起きたのか理解できないという顔で俺を見つめていた。
(ゲームと同じ魔法のはずなんだけど……それにしても、かなり弱いな)
俺は手元の剣を見下ろした。
ただの訓練用の剣だ。
魔力は少し込めただけ。
それなのに、障壁は一撃で消し飛んでしまった。
初歩的な防御魔法だが、ゲームではもう少し手応えがあったような……
レベルの違いか?
それともINTの差か?
「お前みたいな小娘から指導を受けたら、こいつらが逆に弱くなるだろうが!二度と教えようとするな!」
気づけば俺は大声で叫んでいた。
彼女の教え方が間違っているとは思わない。
魔力操作が英雄にとっても重要だという話は、むしろ正論だろう。
それなのに、俺の口は容赦なく彼女を否定してしまう。
「くっ……!だったら、これならどう?フォースウォール!!」
女性が杖を強く握りしめた。
先ほどとは比べものにならないほど濃密な魔力が集まり、俺の前に硬質な魔力の壁が出現する。
空気が震え、障壁の表面には淡い光が走っていた。
修練生たちからも、驚きの声が漏れる。
先ほどの魔法とは明らかに違う。
どうやら彼女は、本気で俺を止めるつもりらしい。
だが、俺の身体は一切ひるまなかった。
「ふん!」
剣が振り下ろされる。
乾いた破砕音が響き、魔力の壁は粉々に砕け散った。
「な、なんで!?フォースウォールは上級魔法なのよ!?」
(んん……?さっきよりは強い魔法だけど、よくて中級じゃないのか?何か別の魔法と勘違いしてる……?)
「低級魔道士ごときが、この俺の邪魔をするな!」
俺は彼女を睨みつけた。
いや、睨むな!
もっと穏やかに話せ!
「なっ……!」
女性の表情が強張る。
さすがに、これだけの実力差を見せつけられれば、彼女も簡単には反論できないらしい。
俺は彼女から視線を外し、修練生たちへと向き直った。
「おい、お前ら。今日この女から言われたことは、全て忘れろ。いいな?」
「は、はい……!」
修練生たちは一斉に背筋を伸ばした。
……いや、忘れなくていいから。
魔力操作は大切だって話は本当だから。
俺の言葉を真に受けて、せっかく教わったことを忘れられたら困る。
「ふざけないでよ!私が彼らに何か間違ったことを教えたっていうの!?」
「お前らは、自分より強い相手を脳内でイメージして戦う訓練をしろ!」
「はい!」
修練生たちは、まるで軍隊のような返事をすると、それぞれ距離を取り始めた。
ある者は目を閉じ、ある者は剣を構え、ある者は空中に視線を固定している。
どうやら本当に、想像上の敵と戦う訓練を始めたようだ。
よし、これなら安全だ。
少なくとも、直接斬り合うよりはずっとましだろう。
俺は満足げにうなずいた。
これで今日の仕事はほとんど終わったようなものだ。
あとは彼らが各自で修練を続けてくれればいい。
俺は修練場の隅で、のんびりと見守っていればいいのだから。
「ちょ、ちょっと!無視しないでよ!」
ところが、背後から女性の声が飛んできた。
「みんなもどうしたの?私の指導のほうがいいでしょう?魔塔の最年少幹部なのよ?知ってるわよね!?」
魔塔の幹部か。
どうやら、彼女はそれなりに名の知れた人物らしい。
修練生たちも、その肩書きには心当たりがあるようだった。
何人かがチラチラと彼女の様子をうかがっている。
ああ、なるほど。
彼女の指導を受けたいと思っている者もいるのだろう。
それなら、それで構わない。
本人が望むのなら、俺が無理に止める理由はないはずだ。
だが、そのとき。
俺の身体が、修練生の一人のもとに飛んでいき、剣を振った。
「痛っ!」
剣の腹が腕に当たり、修練生が小さく悲鳴を上げた。
「ちょっと!何してるの!?」
女性が声を荒らげた。
いや、俺が聞きたい。
何してるんだよ、この身体!
今のは完全に余計な一撃だろ!
「やる気のないやつは斬る!腕が飛んでも知らないからな!」
(いや、腕を飛ばす気なんて一ミリもないんですが!?)
俺は心の中で叫んだ。
どうやら、俺は修練生たちが彼女のほうを気にすることすら許さないらしい。
もはや指導というより、恐怖による統制だ。
しかし、その効果は抜群だった。
修練生たちは一斉に表情を引き締め、目の前の敵を想像することに集中し始めた。
その様子を見て、俺は複雑な気持ちになった。
……まあ、集中してくれるならいいか。
いや、よくない。
こんな指導方法が正しいはずがない。
俺は本気で反省しているのに、どうしてこのジスの身体は俺の評判をここまで悪化させることばかりするのだろうか。
「そ、そんな人殺しの言うことなんて聞く必要ないのよ?私がちゃんと止めるから!」
「いい加減、お前は黙れ!邪魔なんだよ!」
(少し落ち着いてください)
俺の心の叫びは、今日も誰にも届かない。
女性はとうとう堪忍袋の緒が切れたようだった。
「あー、そう!もう怒ったわ!私が副教官だから、攻撃魔法を使えないと思って舐めているんでしょう?だったら残念ね。どちらかというと、私は防御魔法より攻撃魔法の方が得意なのよ!」
いや、全くそんなことは思っていない。
なぜそんな発想になるのか不明だ。
彼女は俺の返答を待つことなく杖を掲げた。
「これでも食らいなさい!ファイヤーランス!十連!」
杖の先端に炎が集まる。
次の瞬間、燃え盛る十本の炎槍が空中に出現し、俺へ向かって一斉に放たれた。
おいおい。
本当に撃ってきたぞ。
「ちっ!うっとおしい!」
俺は舌打ちし、地面を蹴った。
身体が一瞬で前方へと飛び出す。
迫り来る炎槍の間を縫うように駆け抜け、瞬く間に彼女との距離を詰めた。
炎が背後で弾け、地面に焦げ跡を残す。
修練生たちが驚きの声を上げた。
そして俺は、女性の目の前に到達すると、訓練用の剣を振り下ろした。
「くっ……!」
彼女は反射的に身体を後ろへ反らし、杖を間に差し込んだ。
だが、俺の剣は止まらなかった。
ガキンッ!
乾いた音が響く。
次の瞬間、彼女の杖が真っ二つに切断され、破片が地面へと落ちた。
「えっ……?」
女性は目を見開き、斬られた杖の先を見つめた。
「嘘でしょ……?魔女の杖が、こんな簡単に……」
先ほどまでの威勢は、すっかり消え失せていた。
魔道士にとって杖というのは、魔力の制御や魔法の威力を高める重要な道具だ。
それを訓練用の剣で、いとも簡単に切断されたのだ。
彼女が受けた衝撃は、想像に難くない。
女性は数歩後ずさり、信じられないものを見るような目で俺を見た。
「ありえない……あなた、一体何なの……?」
小さな声で、そんな言葉を繰り返している。
俺はしばらく彼女の様子をうかがっていた。
どうやら、もう攻撃してくるつもりはなさそうだ。
ひとまず、これで邪魔は入らなくなっただろう。
俺は剣を肩に担ぎ、修練生たちへ向き直った。
さて、ようやく指導に集中できる。
そう思ったのも束の間。
修練生たちの様子を見回していた俺は、一人の男がほとんど動いていないことに気づいた。
他の者たちは、それぞれ想像上の敵と戦っているらしい。
剣を振る者もいれば、足運びを確かめる者もいる。
目を閉じて集中している者もいた。
だが、そいつだけは違った。
ただ突っ立っているだけだ。
突っ立ってこちらを呆然と見ていた。
俺はそいつの前まで歩いていった。
「おい、お前!」
「は、はいっ!?」
突然呼ばれた修練生が、びくりと肩を震わせる。
「さっきから、なんで全然動いていないんだ!?」
「す、すみません!ちょっと驚いてしまって……!」
「バカ野郎!さっさと自分の訓練に集中しろ!」
「はい……!」
青ざめた顔をしながら剣を振り始める。
だがあまり集中できているようには見えない。
俺は心の中でため息をついた。
どうやら今日も、平穏な一日にはなりそうにない。
他の修練生たちも各々恐怖に震えながら訓練を続けているようだ。
そして、少し離れた場所では、杖を失った女性が呆然と俺を見つめていた。
……まあ、いいか。
少なくとも、今日はまだ誰も死んでいない。
俺はそう自分に言い聞かせながら、再び修練場を見回した。
こうして、俺の教官生活二日目——
いや、本格的な初日は、早くも波乱の幕開けとなったのだった。




