気球戦
「……──ちゃん、──ねえちゃん」
「お姉ちゃん!」
少女の弾けたような大きな声に、シイカはハッと我に返った。
目の前では、さっきまで泣きじゃくっていた少女が、今度は不思議そうに首を傾げ、心配そうな顔でシイカを見上げている。
「大丈夫?」
「あー、うん。大丈夫だよ! ごめんね、ちょっとぼーっとしちゃって」
なんだったんだろ……今の。何か見えたような……
どう言い表せばいいかも分からない、知らないはずの光景。それでも胸に残るあの温かい感覚を、シイカは理解するすべもないまま、ただ心の奥へと押し流すことしか出来なかった。
「本当に……? じゃあ……」
居た堪れないのか、もじもじと俯きながら自分の服の裾をいじる少女。そして、すぐに意を決して顔を上げ、シイカの目をまっすぐに見つめた。
「なんで、お姉ちゃん泣いてるの?」
「……へ?」
言われた意味が分からず、シイカは間抜けた声を出す。
そっと自分の頬に触れると、指先に冷たい感触があった。一筋の雫が、あたたかい肌を伝って零れ落ちていた。
無意識のうちに流れていた涙に、シイカ自身が一番驚いていた。胸の奥が、締め付けられるように熱くて痛い。けれど、それを悟らせまいと、慌てて両手の甲で乱暴に涙を拭った。
「う、嘘! 何でだろうね、目に大きいゴミが入っちゃったのかな!」
引きつった困り笑いを浮かべるシイカに、今度は隣にいた母親も、ハッとしたように心配そうな声をかけてきた。
「もしかして……この子を助ける時に、どこかお怪我を……っ」
「いーやいや! 違います! そういう訳じゃないですから! ──そうだ! 君、名前はなんて言うの? そういえば、まだ聞いてなかったなと思って!」
強引に話題を変え、シイカはいつものパッと弾けるような満面の笑顔を向ける。
その笑顔に安心したのか、少女もようやく張り詰めていた表情を緩め、満面の笑みで答えた。
「ノエルだよ!」
「そっか、ノエル! いい名前だね。今度はもう、絶対にお母さんから離れちゃダメだからね?」
そう言って、シイカはノエルの柔らかな頭を優しく、ぽんぽんと撫でた。
「うん!」
母親は安堵の息を吐き、最後にもう一度深く一礼すると、愛おしそうに娘の手を引きながら、人混みの奥へと去っていく。
そんな母娘の背中を嬉そうに見送るシイカの隣へ、レイヴンは静かに歩み寄った。そして優しく問いかける。
「シイカ……本当に平気なのか?」
「何度も言ってるでしょ、大丈夫だって!」
いつもの調子で、弾けるように元気に言葉を返すシイカ。彼女はそのまま、何事もなかったかのように客室ロビーの扉へと足を進めていく。
「そっか……」
レイヴンは短く応じ、その後ろ姿を見つめた。
今日のシイカはどこか変だ。……いや、いつも変といえば変だけど、そういう意味じゃない。
さっきから妙にぼーっとすることが多いし、何より、どこか無理をして笑っているような、そんな違和感。
それに、さっき屈み込んだとき、彼女は確かにこう呟いていた。
「……約束」
レイヴンは片手で顎を支えながら、思考を巡らせるようにボソッとその単語を口にした。その言葉にどんな意味があるのか、彼にはまだ分からない。けれど、胸の奥にざらりとした引っかかりが残る。
「どうしたのレイヴン! 早くヴォルドーさんのところに行こーよー!」
気づけば、先行していたシイカが振り返り、周囲の人がいるのもお構い無しに大きな声を上げていた。両手を大きく振るその姿は、いつもの、何も考えていなさそうなシイカそのものに見える。
レイヴンは思考を頭の隅に送り、小さく息を吐いて駆け出した。
「あぁ、すぐに行くよ!」
シイカたちは避難場所から走り去った、その裏側で──。
激しく吹き荒れる風を遮るように、割れたガラスの穴は、気球船に常備されているルーンストーンの光によって一時的に塞がれていた。
荒れ狂う外の世界とは対照的に、部屋の中には一瞬の静寂が満ちる。床に倒れた花瓶から、一粒の雫が音もなく滑り落ちた。
ポチャン──。
その音を合図に、二人の距離が一瞬にして消滅した。
刃同士が激しくぶつかり合い、不吉な火花を散らす。お互いに零点一秒の隙さえも与えぬ超高速の交戦。無言で切りつけ合う両者だったが、互いの間合いは見切られており、その刃が肉体に届くことはない。
そして、火花の熱が頂点に達した瞬間、ロミアは音もなく後方へと跳び、冷静に距離を取った。
やはり、あの時の薄汚いルーンは彼女からは感じない。気のせいだったのか──?
脳裏でそんな疑念を走らせながらも、ヴォルドーはそれを一切表に出さず、わざと軽い口調で話しかけた。
「油断も隙もないねぇ。おじさん、久々に熱くなっちゃいそうだよ」
妙に余裕を崩さないヴォルドーの挑発には乗らず、ロミアはただ淡々と告げた。
「あなたが、あの子のそばに居ることは……私が絶対に許さない」
「ようやく喋ったね……。どうやらここへは、組織の命令ではなく君個人の理由で来たみたいだ」
そう言って観察するような眼差しを向けるヴォルドーに、ロミアは眉を不快そうにひそめた。
「これ以上、話す必要はないわ。どうせあなたは、ここで死ぬのだから」
冷徹に言い放つと同時に、ロミアは黒い剣を床へと突き刺した。
直後、彼女の華奢な身体から、悍ましいほど膨大な青いルーンが一気に溢れ出す。艶やかな黒髪が、青い光の波動を帯びて激しくなびいた。
ロミアの薄い唇が、静かにその名を紡ぐ。
「アニムス・ユニーク……──バインド・チェーン」
ロミアの背後の空間が、青く不気味に歪んだ。
直後、その歪みの裂け目から、先端に鋭利な刃を宿した無数の鎖が姿を現す。
「ユニーク保持者か……」
ヴォルドーの瞳が、初めて本物の戦士としての鋭さを帯びた。
無数の鎖がまるで明確な意志を持った蛇のように、ヴォルドーへと一気に押し寄せる。ヴォルドーは風を置き去りにするほどの鋭い一閃でそれらを叩き落としたが、鎖は砕け散ることもなく、すぐさま鎌首をもたげて再び牙を剥いた。
空気を切り裂く金属音が、絶え間なく室内に鳴り響く。
ズギャギャギャギャ、と不快な鉄の異音が響き渡り、手数が無限に増していく鎖の猛攻の前に、さしもの大戦士ヴォルドーも、徐々に防戦一方へと追い詰められていった。
ヴォルドーは激しい攻防の最中もロミアへと注意を向けたが、彼女は仁王立ちのまま、一向に動く気配がなかった。
何かの機を待っているのか、それともまた別の理由があるからなのか。情報が足りないと踏んだヴォルドーは、交戦する手を休めることなく相手の意図を慎重に探り続けていた。
まぁ、まだ余裕はある。今は下手に動かず、相手のルーンの底が尽きるのを待とう──。
そう自分の中で結論付けた、その瞬間だった。
突如、激しい攻撃の音が止んだ。急激な静寂にヴォルドーは警戒を強めたが、直後、ある恐るべき事実に気づく。ロミアの鎖が、いつの間にか自分の周囲を分厚い繭のように完全に囲っていたのだ。
「──っ! なるほど、これが目的か……」
「……バインド・インウォルクルム」
ロミアはゆっくりと、その瞳を妖しく見開いた。
「これでチェックメイトです」
ロミアは片腕を前へと突き出し、手のひらで何かを無慈悲に潰すように、拳をグッと握りしめた。
「パージ!」
掛け声と共に、鎖はギャインッ! と不快な音を立てて一気に絞め上がった。ヴォルドーの肉体は、跡形もなく圧着されて潰された──。
はずだった。
「──っ!」
ロミアの拳の内側から、何かが強引に抜け出さんとする凶悪な圧力が働いた。
私が……押し返されている……っ。なんてパワーなのっ!
ロミアは驚愕に顔を歪めながら、もう片方の手も添えて必死に鎖のルーンを補強した。だが、その抵抗も虚しく、繭の内側から膨れ上がるヴォルドーの圧倒的な力に、鎖ごと力任せに押し返されていく。
「─ぐっ!」
強固な繭を内側から豪快に打ち破り、ヴォルドーは悠々とした様子で、その巨大な大太刀を鞘へと収めた。
「さて、次は私の番かな?」
彼は、ルーンストーンで補強された室内の壁や、窓の向こうの超高空へと視線を巡らせ──そして、ゆっくりとロミアへと視線を戻した。
「君が環境を利用しているなら、私もそうさせてもらおう。──そうじゃないと不公平だからね」
ヴォルドーは、凍りつくような冷たい目で不敵に笑いかけた。
ロミアはヴォルドーの放つ圧倒的な力に、思わず後ずさった。
ただそこに佇んでいるだけのはずの男から、肌を刺すような鋭いプレッシャーが空間全体に膨れ上がっていく。完璧に仕留めたはずの『束縛の繭』を文字通り粉砕され、己の常識を遥か上空から踏み荒らされたかのような衝撃を受けた。
なにか手を考えないと……あの化け物を倒すための策を……!
焦燥に駆られながらも、ロミアは毅然と黒剣を構え直して言い放つ。
「この状況下で、あなたは能力を使えないはずよ。武器を納めるなんて随分舐めたものね」
「使えない……? 誰が言った、そんなこと──。言っただろ? 環境を利用すると」
「……まさかっ、 正気!?」
ヴォルドーは不敵な笑みを浮かべたまま、微動だにしない。
ドゴオオオオオオン!!
直後、右から襲いかかった凄まじいほどの重力エネルギーに、気球船全体の骨組みが悲鳴を上げて激しく軋む。超巨大な船体が、一瞬にして大きく右へと傾いた。
「きゃっ!!」
突然の猛烈な衝撃に、いかに身軽なロミアといえど足場を失って大きくよろめく。
ヴォルドーはその刹那の隙を絶対に見逃さなかった。風を置き去りにする踏み込みで距離を詰め、よろめいたロミアの華奢な腕をガシッ!と力強く手繰り寄せる。
それと同時に、彼女の全身に凄まじく重い衝撃が走った。
内臓まで押し潰されそうなほどの全方位からの圧力。立っていられるはずもなく、ロミアはその場に激しく膝をつかされた。
「あっ……ぐっ!」
ヴォルドーはロミアの手首を掴んだまま、一切の慈悲のない冷たい笑みで見下ろした。
「私の能力を見誤ったな、ロミアよ」
「うっ……!」
必死に立ち上がろうと足に力を込めるが、手首を通じて流れ込んでくるヴォルドーの圧倒的なルーンに力任せに押さえつけられ、床に座り込んでいるのがやっとだった。
こんな状況……どうしたらいいのっ……。
船全体を傾かせるほどの環境操作を行いながら、同時に、掴んだ対象だけにピンポイントで……。まさか、これほどまでに凶悪で精密なルーン操作を可能にしていたなんて……っ。
「さて、おいたは終わりだ。一緒についてきてもらうよ? やってもらいたいこともあるしね」
ヴォルドーは静かに膝をつき、身動きの取れないロミアの耳元で、酷く穏やかに囁いた。
「君にはブートレグ、組織を売ってもらう」
その言葉に、ロミアは衝撃で大きく目を丸くした。だが、すぐに絶望を押し殺すように俯くと、地を這うような低い声で淡々と吐き捨てた。
「……騎士団とは名ばかりね」
正義を標榜する組織の人間が、裏で何を企んでいるのか。
激しい嫌悪の情が、ロミアの瞳を漆黒に染め上げる。
次の瞬間、絶対に動くはずのない、ヴォルドーの超重力に押さえつけられていた彼女の右腕が、ギチギチと音を立てて逆らい動いた。ロミアは血が滲むほどの拒絶の意志で腕を持ち上げ、自らの胸へと強く手を当てた。
「後悔させてあげるわ」
刹那、彼女の胸の奥から、悍ましいほどの青黒い光が爆発的に放たれた。
それは通常の綺麗なルーンの光とは一線を画す、禍々しく不吉な輝き。バチバチと激しい音を立てて、ロミアの全身に青黒い雷のような波動が吹き荒れる。
その異様な変質を間近で見たヴォルドーは、初めてその余裕の笑みを消し、珍しく表情を引くつかせた。
「おっと……それは、さすがに想定外だね」
大戦士の直感が、最大の警報を鳴らす。
その直後、閉ざされた部屋の中に爆撃のような大轟音が響き渡り、凄まじい衝撃波が炸裂した──。




