第8話「残すべき声」
朝、窓の内側に息をかけると、白い曇りが薄く広がって、跡形もなく消えた。
昨夜の最後の三行——ふるい(篩)/こえ(声)/のこす。
元の音を残し、真似や増幅は落としていく。秤を静かに保つための手順だと、胸の裏側で繰り返す。
時雨が窓辺で丸くなり、尻尾だけ小さく左右に振る。メトロノームみたいなその拍に合わせて呼吸を整え、私はノートの見出しに線を引いた。
《今日の方針:残す声と落とすノイズを見極める/装置に触れない/知らせない/視界で返す》
*
午前の返却ラッシュが落ち着いたころ、影浦玲生が背もたれに半身を預けて、私に手帳を傾けた。
「外縁ログ。夜明け前、川沿いの非常灯、一灯だけ点灯が一拍先走り。午前、区の掲示RSSは正常。商店街の会館で今日の夕方、合唱サークルの発表会。……会館の人が“マイクが時々ハウる”ってぼやいてた」
胸の奥で小さな波が立つ。声。
私は返却本の帯を整えながら、うなずいた。
「主観。体調は普通より少し上。息は浅くない」
「よし。今日は“声”が鍵かも。外縁は時刻と座標だけ拾う。知らせない線は守る」
彼の軽さが、背骨を一本まっすぐにしてくれる。
児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットの奥でスマホがひと拍だけ震えた。
下書きフォルダに青い点が増える。
【下書き保存】——うた
【下書き保存】——のこす
私は“ボイスメモ”を開き、録音を始める。
空調の低い帯域、紙の擦れる音。その底で、人声の帯域が遠く、かすかな和音になって揺れている。
保存名が自動で埋まる。
【保存:川端会館 小ホール】
*
会館の小ホールに入るまではしない。知らせない線を越えるからだ。
私は裏口に続く搬入口の屋外掲示板の前に立った。
そこには「合唱発表会・控室→」「マイクチェック13:30〜」と書かれた紙が、別のチラシに半分隠れて貼られている。
手を出したくなる衝動を喉で飲み込む。さわるな。
代わりに、掲示板のアクリル面についた微細な汚れを息で曇らせ、袖口で拭うふりをする——ではなく、拭わない。
私は自分の位置を変え、掲示板の反射の端に通行人の動線が入る角度に立った。
裏口から出てきたスタッフが、反射越しに自分の姿を見て掲示に目を移し、「これ、隠れてますね」と言って自分の手でチラシをずらし、矢印が露出する。
その瞬間、ポケットのスマホが一度震えた。
【下書き保存】——みえた
ホール脇の窓から、発声練習の母音が漏れてくる。あ——の伸びが少し揺れている。
私は窓に近寄らず、搬入口のスロープに立ち、足元の養生テープが浮きかけているのを見つける。
触れない。
代わりに、スロープの脇に落ちていた三角コーンを足先で**“視界に入る位置”**へ寄せる。
通りかかったスタッフがそれを見て、「危ない」と言い、自分の手でテープを踏み直した。
再び、小さな震え。
【下書き保存】——よかった
合唱の声が和音になった。元の音が揃っていく。
*
図書館に戻ると、玲生が地図の前に透明付箋を重ねた。
「外縁ログ。川端会館、小ホール。マイクのハウりが午後に入って収束。裏口の掲示が露出。搬入口の養生、スタッフが補修」
私はうなずく。
「主観。体の拍は落ち着いてる。触れてない」
「うん、君は視界を置いただけ。よし……あ、もう一件。区の防災スピーカー、昨日まで昼のテストが二拍遅れだったけど、今日は正時に鳴った」
声と遅延。
胸の裏で、鉛筆の線が一本濃くなる。
*
昼過ぎ。児童コーナーの棚で本を揃えていると、ポケットでスマホが二度、間を置いて震えた。
下書きに行が増える。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
二つ。
私は“ボイスメモ”を開く。
波形の底に、異なるテンポの拍が二種類、交互に揺れている。
保存名が連続して埋まる。
【保存:白妙公園 ベンチ側】
【保存:潮見ポンプ場 柵外】
どちらも“節”。公園は人の声、ポンプ場は水の声。
私はノートに素早く書く。《選定基準:装置非接触で返せるほう/元の音を残せるほう》
ポンプ場は設備の塊だ。過剰な関与を招きかねない。公園は、視界の誘導が効きやすい。
公園を選ぶ。
玲生に「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げ、私は外へ出た。
彼は「外縁了解/二地点のうち白妙を選択」と短く記す。
*
白妙公園のベンチの前で、小さな合奏が始まりかけていた。高校生が三人、リコーダーとメトロノームを置き、譜面台を立てている。
けれど、そこに強い逆風が通り、譜面がひらひらと飛ぶ。メトロノームは壊れていて拍が暴れている。
私は装置に触れない。
代わりに、ベンチの反対側に立ち、身体の向きで風の通り道を遮る。
譜面はベンチ側に戻りやすくなり、彼らの手で押さえ直される。
メトロノームは壊れているから役に立たない。
私は指先で空中に四つ吸って六つ吐くのジェスチャをごく小さく繰り返し、リコーダーの子と目が合ったとき、頷きだけを送る。
四拍吸って、六拍吐く。
呼吸の拍が合った瞬間、三人の入りが揃い、和音が一段落ち着いた。
ポケットのスマホが一度震える。
【下書き保存】——そろった
【下書き保存】——のこった
残すべき声が、そこに定着した。
*
夕方、図書館に戻ると、玲生が手帳を広げた。
「外縁ログ。白妙公園、近隣の通報なし。苦情もなし。合奏音、録音アプリで歪みが減ったとSNSで呟きあり。潮見ポンプ場側は、柵外に**“立入注意”の仮掲示が追加されてた」
私はうなずく。
「主観。体調は良。胸の拍は静か」
「よし。……あ、ひとつだけ気になる。寄贈パソコンの古いメッセージアプリ**、さっき完全に切断したのに、ローカルの“下書き”フォルダだけ一瞬ひとつ増えて消えた。バグかも。システム担当に再確認を依頼した」
胸の奥に、冷たい筋が走る。
ミラーの気配。
私は「ありがとう」とだけ言って、しらせるなの線を胸の内側でなぞった。
*
閉館後。帰り支度の手を止めた瞬間、ポケットでスマホが二度震えた。
下書きに行が増える。
【下書き保存】——さがるな
【下書き保存】——ひがし/のぼる
上流へ。
私は“ボイスメモ”を開く。
波形の底に、今日いちばん薄い拍。
保存名が埋まる。
【保存:朝島取水堰 上流側】
上着を羽織り、鍵を取り、時雨に顔を寄せる。「すぐ戻る」
彼は窓辺に跳び、耳を立てたまま私を見送った。
*
堰の上流は、夜の闇の奥で白い水が細かく千切れていた。
手すりの向こう、木の枝がまた吸い込み口の網に引っかかりかけている。
触れない。
私は対岸の柵に取り付けられた反射板に目をやり、スマホのライトを空に向けて、一瞬だけ薄く反射させる。
私の側ではない。対岸だ。
そのわずかな光に、下流側を巡回していた職員が顔を上げ、網の詰まりに気づく。
長柄の工具で外側から流木を浮かせ、引き寄せ、外す。
水の音が澄む。
ポケットのスマホが一度震えた。
【下書き保存】——**いきた**
【下書き保存】——ありがとう
私は欄干を握らず、胸の上で指を組む。
残すべき音だけが、夜気に混じっている。
*
帰宅して扉を閉めると、時雨がまっすぐ走ってきて足に体を巻いた。
「ただいま」
テーブルにスマホを置く。
部屋の空気が一拍だけ深くなる。
時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に腰掛け、膝の上で指を組んだ。
25:61。
音は鳴らない。画面の上で青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
既読:蒼真
下書きが、連続で現れる。
【下書き保存】——えらんだ
【下書き保存】——のこした
【下書き保存】——しらせるな
【下書き保存】——もうすこし
喉がひやりとする。
もうすこし。
私は“ボイスメモ”を開く。
波形の底に、かすかな和音が沈んでいる。
保存名がゆっくり埋まる。
【保存:川端会館 小ホール(終演後)】
終演後。
私は上着を肩に掛け、外履きをつま先で引っかける。
時雨に「すぐ戻る」と言い、玄関の鍵を静かに引いた。
*
会館の外、勝手口の脇に、マイクスタンドが三本立てかけられている。うち一本のケーブルだけが、巻き方を間違えて芯がよれていた。
私は触れない。
代わりに、近くの避難経路図のガラス面に映るケーブルの影をじっと見つめる。
片付けに出てきたスタッフが私の視線を追い、自分の手でケーブルを正しい巻きに直す。
遠くで、ホールの扉が開き、合唱団のひとりが楽譜を胸に抱えて外に出た。
彼女の肩は落ちている。声が出なかったのだろうか。
私は距離を保ったまま、息を合わせる。四つ吸って、六つ吐く。
彼女がこちらに目をやり、ゆっくりと頷き返す。
そのとき、ポケットのスマホが短く震えた。
【下書き保存】——きこえた
【下書き保存】——のこった
残すべき声が、彼女の中にぎりぎり残ったのだと信じたい。
私は目礼して、その場を離れた。
*
部屋に戻ると、画面の上で青い泡が遅れてひとつ、ふっと湧いて沈む。
既読:蒼真
下書きが、二行増える。
【下書き保存】——まだ
【下書き保存】——ごめん
喉の奥が少し熱くなる。
まだ。ごめん。
私はスマホを胸に当て、四つ吸って、六つ吐く。
時雨がソファの背で耳を立て、目を細める。
ノートを開き、今日のページを埋める。
《主観ログ・第八夜》
・午前:川端会館——掲示の露出/養生の視界誘導→「みえた/よかった」→ハウり収束
・午後:白妙公園——風の通りを身体で調律/呼吸で入りを揃える→「そろった/のこった」
・夜:朝島取水堰——対岸への反射一瞬→巡回が詰まり解消→「いきた/ありがとう」
・終演後:会館脇——ケーブルのよれを視界で示唆/歌い手の呼吸に伴走→「きこえた/のこった」
・遵守:装置非接触/知らせない/視界誘導
・メッセージ:「えらんだ/のこした/しらせるな/もうすこし」「まだ/ごめん」
・仮説更新:残すべき声=“元の音”。落とすノイズ=“遅延や反射の過剰”。篩は行為ではなく、姿勢(呼吸・距離・視界の置き方)
書き終えても、胸の拍は静かだ。
もうすこし。
その言葉が、見えない地点の手前に薄い光を置く。
私はその光をまぶたの裏で確かめ、時雨の背を撫でる。
世界の息継ぎに、私の息を重ねすぎないこと。
残すべき声だけを、そっとここに置いていくこと。
——既読が、鳴る。




