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既読は“25:61”——最期の一日を延ばすメッセージ  作者: 東野あさひ


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9/35

第9話「閾(しきい)という線」

 朝、窓に息をかける。白はうすく広がり、音もなく消えた。

 昨夜の二行——まだ/ごめん。

 「もうすこし」の先にある線を、私は踏み越えずに近づくと決めた。


 ノートに見出しを書く。

 《今日の方針:**しきい**を知る/触れない/知らせない/視界で返す》


 時雨しぐれが窓辺で尾を振る。四つ吸って、六つ吐く。胸の拍は静かだ。



 午前の返却ラッシュが落ち着くと、影浦玲生かげうら・れおが手帳を掲げた。

 「外縁ログ。夜明け、川沿いの非常灯、点灯の閾値が一拍だけ早い。区の掲示は正時。会館の合唱は評判よし。……ただ、商店街の集会所、火災報知器の定期点検が午後に入ってる」


 火災報知器。閾値の装置だ。

 「主観は良。息、深めに通ってる」


 玲生は頷く。「距離、保とう。僕は風景だけ拾う」



 児童コーナーで掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。

 【下書き保存】——しきい

 【下書き保存】——ちかい


 “近い”。私はボイスメモを開く。空調の低音、その底にピッ……ピという高音。不規則。

 【保存:商店街集会所 裏口】


 バックヤードで「掲示の紙、切らしてて」とだけ告げると、玲生が「外縁了解」と目で返す。



 集会所の裏口。開閉ドアの上に感知器、横に「点検中」の小札。

 台車が一台、消毒用アルコールの箱を山積みにして、感知器の下の直線に置かれている。

 触れない。

 私は裏口の掲示板の前に立ち、矢印の影をじっと見る。出入りしてきた職員が私の視線を辿り、アルコールの箱→感知器→矢印へと目を移す。

 「ここ、別動線で」

 職員が声をかけ、台車は斜めに引かれる。

 その瞬間、ポケットが震えた。

 【下書き保存】——よけた

 【下書き保存】——よかった


 点検のピッという試験音は続くが、誤発報の気配は遠のいた。



 図書館に戻ると、玲生が短く報告する。

 「外縁。集会所、誤報なしで点検終了。区のSNSに『静かに終わりました』」

 私はうなずく。「主観は変わらず。触れてない」


 「それと、寄贈パソコンの古いメッセージアプリ、下書きフォルダだけ一瞬増えて消える現象、まだ出る。切断は維持してるのに。ミラーの残留かも」

 胸の内で、薄い氷が鳴る。しらせるなの線を、指でなぞり直す。



 昼過ぎ、ポケットが二度震えた。

 【下書き保存】——ふたつ

 【下書き保存】——えらんで


 ボイスメモの底に二つの拍。保存名が連続で埋まる。

 【保存:白妙しろたえ公園 遊具側】

 【保存:やなぎ見晴橋 東詰】


 どちらも人の流れの閾。私は公園を選ぶ。

 白妙公園の滑り台の前で、小さな子の列が密になる。先頭の子はためらって動けない。

 装置に触れない。

 私は滑り台のはしごと着地点の斜めに立ち、指で空に小さな円を描く。

 「まわって」と、届くか届かないかの声。

 お母さんがそれに気づき、「一回、ぐるっとね」と笑う。列がゆるみ、先頭の子の一歩が出る。

 震え。

 【下書き保存】——こわくない

 【下書き保存】——いけた



 夕方、帰り道の商店街で、エレベーター前に人だかり。

 「一台点検中につきご不便を——」の掲示。残る一台に人が偏る。過載のアラームがときどき鳴る。

 私は階段方向の壁のポスターの前に立つ。季節のスタンプラリーの明るい図案。

 その前で、肩をすっと回して伸びをする。

 視線が連鎖し、二組が階段へと動く。

 エレベーターの扉が閉まり、アラームは鳴らない。

 震え。

 【下書き保存】——わかれた

 【下書き保存】——たすかった



 扉を開けると、時雨が足に体を絡ませる。

 「ただいま」

 テーブルにスマホを置いた瞬間、部屋の空気が一拍深くなる。時雨が耳を立てた。来る。


 25:61。

 青い泡が二度湧いて沈む。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——しきい

 【下書き保存】——こえるな

 【下書き保存】——みてて


 こえるな。

 私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。

 【保存:桜丘さくらがおかスタジオ跡 表】


 また、ここ。

 上着を掴み、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。



 スタジオ跡の表、夜のシャッターに新しい告知が貼られていた。

 〈明日 深夜 電源切替再試験〉

 貼り紙の右下だけが浮き、下から古い案内の赤文字がかすかに覗く。

私は触れない。

 シャッターに正面から立たず、街灯の斜光の端に入る角度に立つ。影がめくれの上に落ち、二枚の紙の境目を浮かび上がらせる。

 通りがかった現場監督が足を止め、自分の手で角を押さえ、古い紙を完全に剥がす。

 「これ、紛らわしいからな」

 無線が飛び、作業員がチェックリストを一枚差し替える。

 震え。

 【下書き保存】——みえた

 【下書き保存】——まにあう


 帰ろうとしたとき、角の暗がりで高校生がスマホを掲げ、「ここ映えるんだよ」と囁く。

 私は近づかない。

 代わりに、道路向かいの古いレコード店のショーウィンドウに視線を向け、頷く。

 ガラス越しのジャケット群が、街灯でやわらかく光る。

 「……あっちのほうがいい」

 彼らの足が離れる。

 震え。

 【下書き保存】——まねるな

 【下書き保存】——いい



 部屋に戻ると、青い泡が遅れてひとつ。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——まだ

 【下書き保存】——そばに


 胸の奥に、痛いほどやさしい熱が差し込む。

 私はノートを開き、短くまとめる。


 《主観ログ・第九夜》

 ・集会所:アルコール積みの直線→視界誘導で誤報回避

 ・白妙公園:列の密をほどく→「いけた」

 ・商店街:エレベーターの過載分散→「たすかった」

 ・桜丘表:貼り紙の二重を可視化→「まにあう」/撮影の真似を他所へ

 ・遵守:触れない/知らせない/閾を越えない

 ・メッセージ:「しきい/こえるな/みてて」「まだ/そばに」


 “越えない”線のこちら側に、今日が返った気配がある。

 私はスマホを胸に当て、四つ吸って、六つ吐く。

 時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくりと目を細めた。


 ——既読が、鳴る。

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