#10-5
僕から浩介に掛ける言葉はもうない。
後は、明日の決勝で証明してみせるしかない。
僕はそう改めて決意して、浩介の家を出る。
すると、浩介の家の前に彼女が背を向けて立っているのが見えた。
ただ、浩介の家に入る素振りはなく、佇んでいるだけだ。
「由香……?」
僕は彼女の様子が気になって声を掛ける。
すると、彼女はこちらに振り向いた。
「え……」
振り向いた彼女の顔を見て、僕は息を飲んだ。
彼女は、その目に涙を溜めていた。
「ゆ、由香? ど、どうしたの?」
「タッちゃん……」
彼女は僕の名を口にし、潤んだ瞳で悲しげに僕を見つめてくる。
そんな彼女を見て、僕は戸惑った。
彼女が何故そんな表情で僕を見つめてくるのか、僕には分からない。
けれど、彼女を悲しませているのはきっと僕なんだろうという事だけは分かった。
「タッちゃん……お願い。明日の試合、登板しないで!」
「な!?」
彼女の突然の申し出に僕は驚愕するしかない。
何を言っているんだと思った。
僕の聞き間違いでなければ、彼女は僕に明日の試合に出るなと言っている。
どうして、そんな……。
「な、何を言ってるんだよ! ど、どうしてそんな馬鹿なこと……!」
「馬鹿な事じゃないよ! 悪いとは思ったけど、部屋の前でコウちゃんとの会話を全部聞かせてもらったよ。けど、それでも、私はタッちゃんに明日の決勝には出場して欲しくないって思ったの!」
「ど、どうして――ま、まさか!?」
どうしてそんな事を言うのか、そう投げかけようとした時、僕はその理由に気づいてしまった。
彼女は僕の考えていることを察して、静かに頷き、教えてくれた。
「マスターから聞いたの。左肩、痛めてるんだよね?」
「そ、それは……」
マスターから聞いたと言われた以上、否定は出来ない。
あの人はそういった事を勘違いする人では出ないし、ましてや、そんな嘘を吐く人でもない事を彼女は良く知っている。
だからこそ、僕はマスターを恨んだ。
こんな土壇場になって、どうして肩の事を彼女に話してしまうのか、どうして僕を困らせるような事をするのか、と。
「タッちゃんの嘘つき! 約束したのに! 私やコウちゃんの為に無理はしないって約束したのに、どうして破るの!?」
彼女の言葉が胸に突き刺さる。
彼女は泣きそうになりながら、僕を睨み、怒っていた。
そんな彼女の言葉に僕は反論しようもなかった。僕が彼女との約束を反古にしているのは事実だ。
それがバレた以上、今更取り繕っても意味がない。
そんな事をしても、余計彼女を悲しませるだけだ。
「……ごめん、由香」
僕は謝ることしか出来なかった。
それで許してもらえるとは思えないけれど、その言葉しか思いつかなかった。
けれど、彼女は僕の謝罪を聞くと、表情から怒りだけを消していく。
「ねえ、タッちゃん。今から病院に行こ? 肩、ちゃんと診てもらおう?」
そして、彼女は懇願するように、そんな事を言ってきた。
その表情は悲痛に歪んでいる。
彼女にそんな顔をさせている原因は自分だと分かっているけれど、それでも僕にはその言葉を受け入れることはできない。
「それは……出来ない」
「ど、どうして……」
僕がハッキリと拒むと、彼女はさらに悲痛な面持ちになった。
「どうして!? そのまま明日登板したら、タッちゃん、また肩壊しちゃうかもしれないんだよ!? そんな事になったら、タッちゃん、本当に野球出来なくなって……そんなの……そんなの私、堪えられないよ!」
彼女の目からはぽろぽろと涙が零れている。
結局、僕はいつも彼女を泣かせてばかりだ。
もう二度と彼女には悲しい涙が流させないと決意したはずなのに、僕はいつも彼女に辛くて悲しい思いをさせてばかり。
僕はなに一つとして彼女が笑顔になれるような事なんて出来てない。
そんな自分がどうしようもなく情けなくて、そんな僕を信じてくれていた彼女に申し訳がなかった。
けれど、それでも僕は諦めるわけにはいかない。
そんな僕の決意を察してなのか、彼女は自身の想いを伝えようとする。
「私……タッちゃんには、これからもずっと野球を続けてて欲しいの。だって、タッちゃんは私にとって――」
「由香!」
僕は彼女の言葉を遮った。
その先を言わせないようにするために。
彼女の想いは凄く嬉しかった。
けれど、その先の聞いてしまうわけにはいかない。
それを聞いてしまったら、僕は浩介とのもう一つの約束も破ってしまうことになる。
それに、いま聞いてしまえば、本当に明日のマウンドに立てなくなってしまう。
「タッちゃん……?」
途中で言葉を遮られた彼女は呆然とした表情で僕を見てくる。
その目からは未だに止めどなく涙が流れている。
「ごめん、由香。でも、僕にはまだその先を聞く資格はないと思う」
「そ、そんなことないよ! 私、タッちゃんのこと……」
「ううん。ダメなんだ。まだ聞けない。聞くわけには行かない。僕はまだなに一つ成し遂げてない。だから、聞くわけにはいかないんだ」
「なんで……どうして、そこまで……」
「約束したろ? 君を甲子園に連れて行くって。それが果たせない内は、聞くわけには……ううん、聞くなんて立場が逆だ。僕から言わないと。だけど、やっぱりそれはちゃんと約束が果たせた後だよ」
「タッちゃん……」
僕の言葉を聞いて、彼女がどう思ったかは分からない。
けれど、きっと分かってくれたんだと思う。
彼女の涙は、止まろうとしていた。
「それに、僕はもう、君や浩介の為だけに投げてるんじゃないんだ」
「え……じゃあ、誰の為に……?」
彼女から尋ねられ、僕は目を瞑る。
すると、その瞼には色々な人達の顔が浮かんでくる。
監督とチームメイト、僕と浩介の両親、マスター、坂田君、浩介、そして、彼女。
その人達の顔を目に焼き付けてから目を開き、彼女の問いに答える。
「僕は、僕を信じてくれている人達の為に明日のマウンドに上がる。青蘭高校野球部のエースとしてね」
昨日、マスターに言われた通りだ。
僕は色々な人の想いを背負っている。
けれど、ただ背負っているわけじゃない。
僕は今迄その人達の想いに助けられてきた。
その人達がいたから、ここまで来れた。
だから、今度は僕がその人達の力にならないと。
それを果たせないまま途中で投げ出すなんて出来ない。
「見ててね、由香。僕は明日、君や浩介、皆の為に投げるよ。そして、今度こそ皆の期待に応えてみせるから。大丈夫。肩のことなら心配はいらない。あと一試合ぐらいはもたせてみせるさ。だから、見てて欲しい。最後まで、浩介と一緒に」
僕は微笑みながら、今の自分ができる精一杯の想いを彼女に伝えた。
それに彼女は悲しげに微笑みながら応えてくれる。
「……分かったよ、タッちゃん。ごめんね、大事な試合の前に変な事、言って……」
そう言ってから、彼女は悲しみを振り切るように笑顔を弾けさせた。
「明日は、私も全力で応援するね!」
「ありがとう、由香。明日、球場で待ってるよ」
「うん、絶対に行くよ! コウちゃんを連れて、絶対に! 約束するよ!」
「うん。浩介の事、頼むよ」
彼女は僕の言葉を信じ、僕も彼女の言葉を信じて、互いに約束を交わた。
翌日、僕は球場前で彼女と浩介が来るのをギリギリまで待ったが、結局姿を現さなかった。
それでも、僕は必ず来てくれると信じ、決勝戦のマウンドに上がる。
もう、迷いなんてない。
後はただ浩介が来てくれていると信じて投げるだけだ。
けれど、不安はある。
昨日は安静にしていたにも関わらず、左肩の違和感は消えておらず、悪い予感はあった。
そして、その予感は、最後の最後、一番大事な場面で、最悪の形で現実のものとなった。




