#10-3
球場から学校に戻ってくると、いつもなら夏休みのため閑散としているはずの校内がやけに賑わっていた。
聞くところによると、僕達の準決勝の勝利をいち早く聞きつけた生徒、教師、そして近隣住民が僕達の出迎えに集まってくれたらしい。
皆一様に帰ってきた僕達を讃えてくれて、まだ甲子園に行けると決まったわけでもないのに既に軽い祝勝会のようになっている。
疲れと肩の違和感が気になる僕は、その騒ぎが少し面倒臭くて、少し離れた誰にも気づかれない所で遠巻きに見ていることにした。
彼女は騒ぎの輪の中に入って、生徒や近隣住民と楽しげに話をしている。
それをぼんやりと眺めていると、
「よお、高杉ぃ!」
突然、呼び掛けられた。
驚いて振り向くと、そこには坂田君がいた。
「や、やあ。もしかして、坂田君も出迎えにきてくれたの?」
「いんや、オレは単なる補習の帰り。帰ろうとしたら丁度この騒ぎでね。なんだろーって思って立ち寄ったってだけぇ」
「そっか……」
補習帰りと聞いて、内心ほっとした。
坂田君までもこの騒ぎの熱に浮かされていたら、きっと煩わしく思って会話をすることもなく、この場から立ち去っていただろうから。
「勝った……みたいだな?」
坂田君は楽しげに騒ぐ人々をどこか冷めた目で見ながら僕に尋ねる。
「うん」
「あと一勝、か。どうだ? 勝てそうかい?」
「どうだろう……まだ、分からない」
「なんだよ? 頼りない返事だなー。そこは絶対に勝つって言うところだろーに」
坂田君は呆れたように言うと、ケラケラと笑い飛ばす。
出来れば僕も自信を持ってそう言いたいところではあるが、勝負の世界はそんなに甘いものではない。
それに今の僕は……。
「勝てるさ。高杉なら」
僕の心の中を見透かしたように坂田君は静かに言った。
「な、何を根拠に――」
言い返そうとした時、僕の坂田君の表情にハッとして、言葉を飲み込んだ。
彼は、先程までの冷めた目とは違い、優しげな眼差しで騒ぎを見つめている。
その視線の先には楽しげに笑う彼女がいた。
「アイツ、いい顔で笑うよになったよねぇ」
「え……そ、そうかな?」
「きっと、高杉のお陰だね。やっぱ、お前に任せて正解だった」
「そ、そんなこと……」
「謙遜すんなって。実際、オレじゃあどうしようもなかった。お前が頑張ってくれたから、アイツは笑えるようになったんだよ」
それはどうだろうか。
坂田君は僕のお陰と言うけれど、それは単に彼女が強かっただけのような気がする。
だって、僕はまだ何も成し遂げていない。
まだ、約束を何一つ守れてはいないのだから。
そんな僕の心情を知ってか知らずか、坂田君は思いもしないことを告げた。
「けど……高杉が取り戻したい笑顔はあんなもんじゃないんだろうな」
「え……」
坂田君は果たして僕や彼女の事をどこまで分かっているのだろうか。
彼は、まるで全てを見透かしたような目で僕を見てくる。
「勝てよ、高杉。それを、アイツも望んでる」
そう言って、坂田君は微笑みながら右拳を前に突き出してくる。
「坂田君……うん、ありがとう」
僕は彼が突き出した拳に自分の拳を合わせ、笑い合った。
「タッちゃーん!」
坂田君とそんなやり取りをしていた丁度その時、僕を呼ぶ彼女の声が聞えてきた。見れば、彼女がこちらに向かって走ってきている。
「じゃあな、高杉。当日はオレも応援にいくからさ」
坂田君はそう言って、彼女がやってくる前にさっさと姿を消してしまった。
それと入れ替わるように彼女が僕のもとにやってくる。
「あれ? 今のって、もしかしてトシちゃん? 二人で何を話してたの?」
「うん? あ、ああ、まあ、色々だよ」
「色々? むぅ、気になるなー」
彼女は納得いかなさげな表情をしている。
「そ、それより、どうしたの?」
「え? ああ、うん、実はね、色々あってまだ帰れそうにないの。片付けとかもあるし。だから、タッちゃんは先に帰っててもらっていいよって言いに来たの」
「そうなのか……だったら手伝おうか?」
「ううん。今日は大変な試合だったから、疲れてるでしょ? 先に帰って、しっかり休みなよ」
彼女に先に帰るように言われて、どうしようかと迷ったが、僕はそのお言葉に甘えさせてもらうことにした。
「うん。それじゃあ、また」
「うん。またね、タッちゃん」
笑顔で挨拶を交わし、僕らはその日別れた。
彼女と別れた後、僕は真っ直ぐ家には戻らず、お馴染みの『喫茶カープ』に寄ることにした。
店内に入ると、珍しくマスターの方から話し掛けてきた。
「お、青蘭のエースがご来店か。さあ、さっさと座んな。今日はサービスだ。好きなもん頼みな」
マスターはご機嫌な様子で僕を迎い入れる。
「ど、どうしたさ、マスター……熱でもあるの?」
「テメェ……人の親切を……」
急転直下。
ご機嫌だったはずのマスターの機嫌は、額に青筋が浮かんでいるのではないかと思うほど悪くなった。
いやだって、マスターの方から話し掛けてくるだけでも珍しいのに、サービスなんてどう考えてもおかしい。
「はあ……もういい。さっさと座れ。ブレンドでいいんだろ?」
「あ、う、うん、お願い。それと……なんか、ごめん」
謝るとマスターはギロリと一睨みした後、珈琲の準備に取り掛かった。
「いよいよ、決勝だな?」
マスターは珈琲を作りながら、話し掛けてくる。
「あれ? 結果、知ってたの?」
「そりゃあな。ラジオで聞いてたからな。それに、お前の顔見りゃあ、勝ったか負けたかなんて、すぐに分かる」
「それもそっか……」
マスターの言う事は尤もだ。
それに、そもそも負けていたら、こんな所には来なかっただろう。
「だが……素直に勝利を喜んでるって顔でもないな」
「え……」
期せずして、またマスターにドキリとさせられてしまう。
僕はそんな表情をしていただろうか?
「悩み事……ってわけじゃないな。何か不安なことでもあるってところか」
「べ、別に不安なことなんて……」
「浩介のことか? それとも……肩が限界にきてることか?」
「――」
マスターの言葉に僕は驚いて、思わずマスターの顔を見てしまった。
すると、マスターは溜息を吐いた後、深刻な表情になる。
「やっぱりそっちか……」
「マスター、どうして肩のこと……」
「馬鹿野郎。そんなの少し考えれば分かる事だ。テメェがピッチャーに復帰して、まだ三ヶ月ちょっと。それ以前に肩を作る時間があったとしても、ピッチャーになるって決めたのは浩介の事があってからだろう。どう考えても、その期間で延長十五回も投げ切る十分な肩を作れるとは思えん。なら、それなりの無茶をしてるって考えるのが当然だ」
それはあくまでもマスターの想像にしか過ぎない。
場合によっては、その短期間の内に強堅な肩を作ることもできるだろう。
けれど、僕にはそれが出来なかった。
だから、無茶と無理を押し通すしかなかった。
結果として、決勝戦を明後日に控えておきながら、僕は肩を痛めている。
けれど、僕の不安はそれだけではない。
「マスターの見識には敵わないな。その通りだよ。だけど、あと一試合ぐらいなら何とかもちそうだから、心配はいらないよ」
それは強がりではあったけれど、嘘ではない。
痛みを押して出場できないほどではなかった。
「だったら、何が不安だ?」
マスターは出来上がった珈琲を僕の前に置いて尋ねてくる。
「それは……」
その不安は、僕がこんな無茶をする羽目にとなった理由、つまりは僕の行動原理だ。
「僕は浩介に夢を諦めて欲しくなくて、どんな状況に置かれたって、諦めさえしなければ、夢は叶うんだってところを証明して見せてやりたくて、ピッチャーになって、決勝戦まで来たけど。でも、明後日の決勝戦、もし勝ったとして、浩介はそれで前にみたいに夢に向かって頑張れるようになるのかなって……。もしかしたら、僕がやってきたことは、やっぱり自分勝手な思い込みで、浩介には意味がない事なのかも……」
僕は置かれた珈琲カップを見つめながらマスターに自分の不安を吐露していた。
もし、優勝しても浩介が元気になってくれなかったら……そう考えると、怖くなってしまう。
また彼女にあんな悲しい顔をさせてしまうのが、怖かった。
「馬鹿野郎!」
「っ……!」
マスターの店内に響き渡る罵倒に、僕は顔を上げる。
見れば、マスターは目を吊り上げて怒っていた。
「テメェ、今更なに泣き言いってやがる! 甘ったれるな! お前は青蘭のエースだろ! 浩介がなんだ。もうそんなもん関係あるか!」
「か、関係あるかって……そんなわけにはいかないよ! 僕がピッチャーになったのは浩介の為で……」
「それが甘ったれてるって言ってんだ! 自分がマウンドに上がる理由を浩介のせいにするな! お前は自分一人の想いの為だけにマウンドに上がってんじゃねぇんだぞ! お前はもう、青蘭の、チームメイトの、そして自分自身の夢の為に投げてんだ。それを自覚しろ!」
「皆の……僕、の……?」
マスターに言われるまで気づきもしなかった。
今迄、僕は浩介との、そして彼女との約束のために投げてきた。
けれど、今大会に特別な想いを抱えているのは、きっと僕だけじゃない。
今年の夏が最後となる三年生もいる。
僕や浩介のように甲子園を夢見て練習を頑張ってきた部員だっているだろう。
それなのに、僕は自分の事ばかりで……。
「目ぇ覚めたか。この馬鹿が」
「うん……」
「だったら、コイツを持って行きな」
マスターはカウンターの上に数冊の雑誌を放り投げる。
「これは……?」
「今の浩介に必要な物だ。本当は浩介が自分からここに来れるようなったら、渡すつもりでいたんだが……そうも言ってられねぇみたいだからな」
「浩介に必要な物……?」
僕はマスターの意図が理解できず、数冊の雑誌の内の一冊を手に取り、中身を確認する。
「こ、これって……!」
雑誌の中に書いてあることに僕は驚いて、思わず声を上げていた。
「お前から浩介に渡してやれ。きっかけくらいにはなるだろ。後は……お前の頑張り次第だ」
「……うん。ありがとう、マスター。本当に、ありがとう」
僕はマスターに感謝の言葉を口にするしかなかった。




