第8章 寝ぐせ姫の涙(12)
みつきの言葉が一成の頭の中で繰り返し鳴り響き、立ちのぼる蒸気が途切れることなく一成の頭の中をも煙らせた。
(―なんでこんなことになったんだ…)
たしかに一成はみつきを遠ざけようとし、一番ひどい言葉を選んでみつきにたたきつけた。そうして嫌いになってくれたら自分もあきらめられそうな気がしていた。
(―そうか…あれを先に謝るべきだったのか…?)
みつきが自分の誕生日に自分のために自分を思ってくれたことがうれしかった。そのうれしさに浮かれ、みつきをどれだけ傷つけてしまっていたかを考えもしなかった。嫌わないでいてくれた、きっとみつきは自分を待っている、そう勝手に思い込んでいた。みつきにあの言葉がどう響いたのか、一成はそれすらを鑑みることなく走り出していた。
(―あの言葉が俺の本心だと思っているのか…?それでも俺にプレゼントをくれたのか…?だとしたら俺は…本当に間抜けだ…)
一成は冷たいシンクに両肘をついてうなだれ、硬く両目を閉じ大きく息をついた。手を離すべきではなかった、どんなに恰好悪くても、どんなに情けなくても、あの手だけは離してはいけなかった。一成は仕切れない後悔に身を置きながら、みつきと一緒にいる道を選らばなかったことを今さらながらに身につまされていた。
(―もう無理なのか…?)
一成が弱気になった時、一成はこれまで繰り返した後悔が脳裏をよぎるのを感じていた。伝えられなかった想いの墓場にもう戻りたくはなかった。
閉ざされた扉の前に立った一成の耳に、みつきの泣き声は聞えなかった。もうみつきがすぐそばにいるかも分からない、けれど一成はみつきがいることを願って扉にそっと手を触れた。
「みつき…聞えるか…?」
一成の問いかけにみつきが身じろぐ気配がしたけれどみつきの返事はない。一成はそのことに深い落胆を示しながら、けれどそばにはいるだろうみつきの心に届くよう殊更その声音に真摯な思いをのせて囁いた。
「みつき…そのままでいいから聞いてくれ…」
声を殺して泣いているみつきの気配が扉を通して一成に届くと、一成はみつきに自分の気持ちが届くように声に力をこめずにはいられない。一成は緊張に渇く喉元を潤すようにごくりと喉を鳴らしてから、ゆっくりと口を開いた。
「あの電話は…総一郎さんに殴られるのは、もうイヤだって言ったのは嘘だ。お前をあんな怖い目にまた合わせたくなくて嘘を言ったんだ。お前が俺のそばにいなければあんな目にあわなくて済む…そう思ったんだ……」
自分の存在をみつきに伝えるように、一成は扉に少し体重をかけた。扉に阻まれそばにいけないもどかしさの代わりに少しでもみつきに近づきたかった。扉さえなければそこにみつきがいたら、一成はみつきがどんなに強く拒絶しても力任せに抱きしめていたかもしれない。(―こんな扉越しに言っても、お前にちゃんと届くだろうか…俺が本当に言いたい言葉が、お前にまっすぐ届くだろうか…)
目の前でみつきと自分を隔てるただの合板の扉が、一成には厚くて思い鉄の扉のようにその行く手を阻んでいるように見えた。それはかつて総一郎がみつきと自分の間に立ちはだかったのと同じくらい強固な城塞のように見えた。
「みつき…お前の…お前の顔をみて、話したい事がある…だから開けてくれないか…?」
一成は顔の見えないもどかしさ、たった扉一枚に隔たれた距離が憎らしい、そういうように扉を睨みすえた。しばらくたってもみつきが動く気配がまったくないことに、一成はあきらめの吐息を小さく漏らした。
「わかった…ごめん…自分から突き放したくせに、都合のいい事ばっかり言った」
みつきには自分の言葉がもう届かないことを否応なくしらしめられた気がして、暗闇に一成の体が沈み力が抜けた。聴いていなくてもいい、お前の耳に届けばそれでいい。一成は想いのたけを込めて扉越しにみつきに語りかけた。
「みつき…好きだ…お前をずっと好きだったんだ…」
ずっと言えなかった言葉、何度もあったチャンスを棒に振った自分のおろかさが染み渡った。
(―ばかなことをした…ばかな嘘をついた…もっと早く…言えばよかった…)
もっと早く言っていたら、結果がどうでもみつきの顔を見て言えたはずだった。一成は何度してもしきれない後悔にまた深く沈みこんだ。
(―バカだな…本当に俺は…)
みつきの涙だけが感じられる開かない扉をじっと見つめた。祈る思いもむなしく一成はあきらめの吐息を漏らした。言いたいことはすべて言った、一成はそう自分に言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がった。
一成はカバンを取りに居間へ戻り、少し大きく息をついた。言葉にしたらあきらめることなど出来そうにないほどみつきが好きだと改めて感じた。けれど重苦しく心の奥底に引っかかっていたものが一度に取り除かれ意外に気持ちが軽くなっていた。言った言葉に後悔はない。そうして吐息をつくと一成は手にしたカバンにいつもと違う重さを感じ、みつきからもらった本のことを思い出した。
(―…そうか…)
一成は真新しい本に優しく微笑みながら表紙をなでると、頑なに閉じられた扉の前に立ちその扉に向かって口を開いた。
「みつき…誕生日のプレゼント…ありがとう…うれしかった」
自分でも思いのほか落ち着いた声が出た。今なら扉越しにも自分の気持ちが伝わる気がして、一成はもう一度本の表紙を愛でながら口を開いた。うれしかったはずだ、うれしかったはずなのに一成の声は涙声になっていた。零れ落ちそうになる涙をこらえるように、一成は目を上に向けて一息ついた。
「そのお礼が言いたくて来たんだ、ごめんな、いままで本当にありがとう」
最後に扉の向こうのみつきに向かって頭をさげてから、一成はすぐにきびすを返して玄関に足を向けた。
「カズ…」
一成が玄関に足を向けたとき、待ちかねたみつきの声が微かに耳に届いた。その声は涙にかれてかすれていたけれど、まちがいなく自分の名前を呼んでいた。けれど一成はその声に振り向きたくても、もう振り返ることが出来なかった。そこにみつきの拒絶があるかもしれないと思うと、振り向くことなどできなかった。
「すぐ出て行くから…邪魔したな」
肩越しにみつきに声をかける一成の声は知らずと震えていた。何に震えているかなどいわずとわかっている、一成はみつきの声に振り向いて抱きしめてしまいたい衝動を抑えていた。そこにどんな拒絶があっても、どんな結果が待っていても最後にもう一度触れたかった。けれどそれをかなえることは出来ない、もうしないと決めたのは自分だった。一成は意を決して玄関先で冷え切ってしまった革靴を引き寄せた。
「待って…」
一成を引き止めるみつきの声音に一成は微かな希望を見出していた。革靴を引き寄せた腕が止まり、その視線がゆっくりとみつきを振り返っていた。けれどそこに佇んでいたみつきの眉はしゅんと下がりおびえたように一成を見つめていて、一成は自分がどんな顔をしていいかわからなかった。みつきの顔は一成の思い描いていたほど期待できそうな表情でもなかったし、かといって強い拒絶の色もなかった。一成が驚きと期待、不安と安堵、そのどれもがいりまじったような複雑な顔でみつきを見つめていると、みつきがおそるおそる口を開いた。
「カズ…プレゼント…何かわかったの…?」
みつきの不安げな面持ちで囁かれた言葉に、一成は手にしたままの本を小さく掲げて少し困ったような微笑を向けた。
「分かった…これ…だろ?」
「ど…して…」
みつきは驚きに目を見張り、震える指で一成の手の中の本を指差した。確かにそれはみつきのあげた本だったけれど、それは捨てられてしまったはずのプレゼントでもあった。なぜそれがここにあるのか、みつきは驚くばかりで声がうまく出なかった。




