第8章 寝ぐせ姫の涙(13)
昨日みつきは、専門書のそろっている少し遠くの書店へ足を運んだ。元に付き添ってもらい街中を抜け、総一郎から聞いた書籍名を片手に目的のものを探し出すまで時間はかからなかった。ただ買うまでには時間がかかった。
何度も手にとっては棚に戻し、何度も表紙をみては悩み、何度もレジの近くで立ち止まった。閉店ぎりぎりまで悩んで、綺麗に包まれた本を手にしたときには胸が高鳴った。散々待たせたことを元に謝り、電車で帰るその時間もここ最近では一番うきうきと心が弾んだ瞬間だった。けれど自分からのプレゼントを一成がどう思うのか、そう考えるだけでみつきは尻込みしてしまった。結局直接渡す勇気が出せなかったみつきは下駄箱に想いを託し、そして物陰から見つめた成り行きに涙を禁じえなかった。
捨てられたはず、一成は気付かなかった。ごみと一緒にみつきの気持ちは燃え尽きたはずだった。
みつきの驚愕は一成の困惑を誘った。一成は手にした本を見てから、みつきを見つめて眉根を寄せていた。
「どうしてって…元が教えてくれたんだ…お前が俺にプレゼントを選んでくれたって」
「でも…カズ…捨ててた…捨ててたよ」
自分を責めるでもなく、悲しみにあふれるみつきの視線が一成には痛かった。一成が何の期待も抱かず無情に捨て去ったあのプレゼントの中に、みつきの想いがあったはずだった
「見て…たのか…」
みつきはきっと一成が気付くことに儚い期待を抱いて自分を見ていたはずだ、一成は罰の悪さを隠すように視線を床にさまよわせ、みつきの心づくしを土足で踏みにじった自分の浅はかさを悔やんでいた。
「まさか…お前がくれると…思ってなかった…ごめん」
一成は苦しさに詰まる言葉をつなげながら、自分の行動のすべてが裏目裏目に出て行くことのむなしさを握り締めた。
「俺はほんとにバカだな…ごめんなみつき…」
一成は思わずみつきの涙に手を伸ばしそうになったけれど、それは出来なかった。伸ばした先にみつきの拒絶があるかと思うと怖くて足がすくんでしまっていた。一成はみつきの涙に伸ばせなかった腕を本の表紙にそっと添えてみつきをまっすぐにとらえ口を開いた。
「元がお前のプレゼントがあるって教えてくれてから、いろんなの全部開けたんだ。だけどなくてすげぇ焦った…それで朝の…朝の分だと思って探したんだ…」
「さが…した…?ゴミ箱を…?」
改めて言われるとその情けなさが際立ったけれど、一成は見つけた時の喜びが胸に自然と湧き上がるのをこらえ切れず、満足げな微笑みがその口元に溢れ出た。
「ああ、見つかって…良かった…うれしかった、ありがとう」
「うれし…かった…?」
「ああ、すげぇ、うれしかった。お前からもらうものは…いつでも…どんなものでもうれしい」
一成はもう一度愛おしそうに本の表紙を撫でてから、本をカバンにしまいこんで立ち上がった。
「総一郎さんなんだろ?これ選んでくれたの?」
一成の明るい口調に気圧される様にみつきは瞬きながら小さくうなずくと、一成は満足げな笑みを浮かべて口を開いた。
「そうか…じゃあ総一郎さんにもよろしく言ってくれ」
一成は最後にそれだけ言うと今度は迷わず革靴に足を入れ、カバンを手にとった。みつきがなぜ出てきてくれたのか、そんなことはもう一成には考えられなかった。もうすべき後悔はし尽くして、すべき謝罪も終えていた。一成がここですべきことは見当たらない、一成の腕が迷いなくドアノブに伸ばされた時、その腕がふと動きをとめた。
「カズ…」
みつきが一成を後ろから抱きしめながら、その声を震わせていた。その震えはかわいそうなほど懸命に一成の体を引きとめていたけれど、一成にはその震えの意味が分からなかった。
「みつき…?」
久しぶりに感じたみつきの温かさと小さな手の柔らかさ、その感覚に懐かしさを禁じえない。これ以上ここにいたら本気でみつきを離せなくなるだろう、一成はみつきの小さな手の震えにそっと瞳を閉じた。
「どうした…」
一成の指先がみつきの手を解こうと伸ばされると、みつきの腕が一瞬早く一成を抱き寄せていた。
「カズ…ありがと…探してくれて…ありがと…」
背中越しに伝わるみつきのぬくもり、喜びにあふれたその声音に、一成は大きな期待を持って振り向いていた。
「みつき…」
一成が振り向いた先でみつきは大きな瞳を潤ませ一成をまっすぐ見つめていた。そのゆるぎない瞳の奥に一成を映しこみみつきが自分を見つめてくれている事に、一成はいい知れない喜びが湧き上がるのを感じていた。
「みつき…もう一度だけチャンスをくれるか…?」
探るような一成の手がみつきの髪に伸びていき、その髪に触れてもみつきは離れなかった。むしろ一成の手の動きに身をゆだねるようにみつきが小さく微笑んでゆっくりと瞬いた。そしてこぼれ落ちた涙をその
手に受けると、一成はゆっくりとみつきの存在を確かめるように柔らかい頬を包み込んだ。
「みつき…好きだ」
一成の言葉がその気持ちをのせてみつきに響き渡ると、みつきはその感動にゆっくりと瞳を瞬いた。
「カズ、大好き…」
好きという一言が二人の間に響き渡ると、もうそれ以上の言葉はいらなかった。重なる言葉に解け合う心、あまたの言葉を重ねるよりもたった一言が二人の体を駆け巡っていく。そっと抱き寄せる腕に頬を寄せるみつきをみつめて、一成の世界が一時に春を迎えたように輝きだした。
「みつき…」
みつきを自分の腕に抱く喜びとその温もり、小さな腕が自分を包み返す喜び、その全てが一成の内側を満たしていくともうそれ以上の言葉が出なかった。どれだけみつきを求め、どれほど苦しい思いを重ねていたか、そんなことはもうどうでもよくなってしまっていた。一成はただゆっくりと泣き腫らしたみつきの瞳に優しく触れ、その頬をなで、いつものクセの強い髪を撫で抱きしめた。ここから先は同じ場所から歩き出せる、その悦びが二人を絡め取りみつきの頬にまた新しい涙が零れ落ちていた。
「カズ…もう一人にしないで」
「ああ…一人にしない…いつもお前と一緒にいる。だからみつき、学校辞めるなんて言うな」
「ああぁっ…そだったっ」
一成が万感の思いを込めてみつきの涙を拭った言葉にも関わらず、みつきは場違いなほど大きな声をあげ一成の腕から逃れようともがき出した。
「カズっ…大変っ、大変っ。こんなことしてる場合じゃないよぉっ。総兄いに電話しなきゃっ。学校辞めさせられちゃうっ」
一成の一世一代の告白をないがしろにするようなみつきの慌てぶりに、一成は小さくため息をつくとみつきの哀れみを誘うほどの取り乱しぶりを愛おしそうに抱きしめた。
「みつき…大丈夫だから、ちょっと落ち着け」
「でも…今日カズにプレゼント渡せなかったら、ちゃんと学校やめて総兄いのとこに行くって約束しちゃったんだもん。早く電話しないと、総兄いせんせに書類送っちゃうよぉ」
みつきはその場で地団駄踏みながら切迫した状況を伝えようとしたけれど、みつきの意に反するように一成はやけに落ち着いた笑みを浮かべてみつきの髪をそっと梳いていた。
「大丈夫だ、お前は俺が離さない。もし総一郎さんに連れて行かれても絶対取り戻す」
「カズ…」
一成がまっすぐにみつきを見つめ繰り出した言葉の心地よさにみつきがふっと肩の力を抜くと、一成はその頬に零れ落ちた涙の跡をそっと指先で拭っていく。
「それに総一郎さんに電話するなら、俺も話したいことがあるんだ」
「総兄いに…?」
「ああ…お前にもう近づかないって約束破ったし、それと…お前と付き合うことも許してもらわないといけないだろ?」
小さな子供に言い聞かせるように一成は両膝を床につきみつきの体を抱き寄せると、その髪へ腕を伸ばした。クセの強いみつきの髪を前から後ろへそっと梳くように撫でると、みつきの髪はふわりと一成の手にやさしく包まれていく。
「みつき…」
一成はみつきの髪の感触を楽しみながら、そのままみつきを引き寄せた。重なる唇の柔らかさにみつきの涙が滲んでいた。一成はその涙も慈しむように、みつきの髪をそっと梳き上げると一成はこみ上げる幸せにたまらずみつきの体を抱きしめた。自分の両手には余るほど小さな体、頬をくすぐる柔らかな髪、きゅと抱き寄せると小さく抱きしめ返してくれるあたたかい腕。一成はみつきの全てを愛おしく感じながら、またみつきの髪をなでる。
「いいな、こういうの…」
「カズ…?」
一成の囁きにみつきが瞬くように首を傾げたのに、一成はほほえみながらまたその髪を梳いた。
「好きな子を抱きしめてキスをすることがこんなに幸せなことなんだって知らなかった」
「カズ…」
今度は軽く触れる程度で離れて行く一成の唇にみつきはゆっくり瞬くと微笑んだ。その笑みはいままで目にしたどの笑顔より輝いていて、一成はそのみつきの笑顔にこれ以上はない満足を見出していた。
「さて、総一郎さんに電話しようか…」
一成はみつきの髪をくしゃりと撫でてみつきを促しソファに腰掛けた。もう引越し業者のダンボールになど意味はない、一成はみつきが携帯を手に立ち戻るのを待ちながらダンボールに向かって小さな勝利を確信していた。




