第8章 寝ぐせ姫の涙(6)
ようやく帰宅する生徒の波が落ち着き一成が重い足取りのまま立ち枯れた桜並木へ足を向けたとき、その下り坂の途中に桜を見上げるみつきの姿を見つけて息を呑んだ。見つけようと思いながら見つめるのとは違い、こうして不意にみつきの姿が視界に入ると一成の心はどうにもしようがないほどざわついていく。
桜並木の中でももっとも長い樹齢を誇る古木の前、そこは一年ほど前はたくさんの花をつけてみつきを迎え入れていた。あの下で撮った記念写真をまだ消していなかったことに思い当たりながら、一成はみつきの頬に一筋涙が伝うのを目にしていた。みつきは零れ落ちる涙を拭うことなくまっすぐに桜の一枝に眼を向けている。そこにはこの寒風吹きすさぶ道筋においても離れることのなかった一枚の枯葉が風に揺れていた。
みつきはその桜の古木に抱きついて瞳を閉じ、そしてしばらくそのまま涙をこぼしていた。
「カズ…」
古木の幹はみつきの腕にはあまるほど太く、ごわごわとこわばった樹皮に頬を寄せると苔むした幹の土臭さが鼻をついた。けれどみつきはその樹木の生み出す穏やかなエネルギーに癒されるように、そこから離れる事ができなかった。
一成はみつきの姿を遠巻きに見つめて佇みながら声をかけることも、どうにかしてやることも出来ないもどかしさに胸が張り裂けそうだった。一成はみつきの後ろ姿を見つめ続ける自らの視線を無理やりはがすと、やがて顔をあげたみつきが自分の存在に気付く前に校舎に引き返した。一成がそこに至るまでの何倍も速い速度で中庭前の廊下へ差し掛かった時、驚きのまま呼びかけられた声にふと足を止めていた。
「カズ君…?」
「カズ…」
しばらく前に引き上げていった一成の姿を思いがけず見つけて、浩一郎と奈緒はかなり驚いたように瞬いていた。一成はふたりの瞬きに気まずそうに顔を背けると足早に部室に向かって足を踏み出した。まるで何かから逃れるような一成の背中に、浩一郎はかける言葉が見つからないまま小さくため息をついた。
「元気…ないね」
「ああ…」
奈緒は立ち去る一成の背中を見送りながら哀愁とも寂寥ともつかない物悲しさを悼んでいた。浩一郎も同じ思いで一成の背中を見送っていたけれど、奈緒がそっと浩一郎の指先にその指を絡めてくるあたたかさに奈緒の瞳を見つめ返した。
「浩も…心配だよね」
「奈緒…ごめんな」
浩一郎はここしばらく一成同様に塞ぎがちな自分を省みて申し訳なさに奈緒を見つめるその瞳をそっと曇らせた。すると奈緒は小さくかぶりを振りながらその口元をそっと緩める。
「ううん、私だって見てるの辛いもん。浩はもっと辛いよね…」
分かるよ、奈緒は一成の憔悴に落ち込む浩一郎の肩にそっと体を預けた。浩一郎は寄り添う温かみを感じながら、それを奪われてしまった一成の心の痛みに顔をゆがめていた。
2月も終わりを迎えるその日の放課後、洋平は自動販売機にいつものみつきのジュースを見つめながらため息をついていた。あれからまだ2週間しか経っていないのに、まるで何年も過ぎ去ったような感覚がしていた。洋平は小銭を投入しながらみつきのジュースのボタンを撫でるように素通りし、温かなココアのボタンへ指を滑らせた。
静まり返った中庭にガコンっとココアが勢いよく吐き出される音が響くと、洋平は腰をかがめて缶へ手を伸ばした。洋平は期待した以上に温まっていなかったココアの缶を片手で放り上げながら口を尖らせた。
(―ちぇっ…まだぬるいじゃん)
洋平がココアの缶へ唇を尖らせ振り向いた先に、みつきと瑠奈が神妙な面持ちを浮かべながらベンチに腰掛けようとしていた。
(―みつきちゃん…瑠奈ちゃん…)
二人は洋平に気が付く様子も見せず押し黙ったまま中庭の静けさの中に頼りなげに身を寄せ合い、そして時々思い出したように口を開いては互いの涙を拭うように交互に小さく鼻をすすり上げている。時おりみつきの唇が開かれて言葉を送り出しているようではあったが、その声音はやけにひそやかでその言葉の断片も洋平の耳には届かなかった。
(―やっぱかわいいね…でも、かわいいだけだったかな…)
修学旅行以降とんと進展しそうにない瑠奈との関係を洋平はいつのまにか放棄していた。いくら口説いても頬を赤らめるばかりの美少女、眺めるだけなら心も休まるけれど、積極的に口説くには洋平の忍耐力に問題があった。今は一成の友人と言う立場上、もうみつきやその友人達と馴れ合うことはいくら洋平でもはばかられた。
別に一成に禁止されたわけでもそう取り決めたわけでもない。なんとなく互いに近寄り難い思いがしているのだろう、みつきとすれ違っても洋平でさえ小さく会釈をする程度だ。
(―瑠奈ちゃんと僕…ロミオとジュリエットみたいだねぇ…)
洋平は手にしたココアへ視線を落とし、一人自嘲するように微笑むとその場をそっと立ち去ろうと体を翻した。そのとき、みつきの驚いたような声音が中庭に響き、洋平はふと足を止めていた。
「ハルちゃん…」
その声に洋平が振り返ると晴彦がベンチに座るみつきの目の前に立ち、切なげにそっとその髪へ手を伸ばしていた。
「…元気ないね…」
「ハルちゃん…」
「ごめんね…」
晴彦はみつきの髪へ伸ばした指先にそのクセ毛を絡めるようにしながらそっとその手を引いていく。そして大粒の涙を頬に伝わらせたままのみつきにその背中を見守られながら、晴彦が洋平に向かって歩み寄ってきた。
「紅茶…」
晴彦は自動販売機の前に立つと小銭も入れずに紅茶のボタンをぐっと押した。洋平は晴彦のそぶりにため息をつきながら、人肌よりもぬるいココアの缶を押し付けて財布を取り出した。その口元はぶちぶちと不平を洩らしながら、小銭入れを覗き込んでいる。
「なんで僕が…」
「財布…ない…」
「まったく…小銭くらい持ってなよ」
洋平が文句たらたら500円玉を投入すると、晴彦は迷わずみつきのいつものジュースのボタンを二回押して、取り出し口からそっと石畳にそれらを置いて立ち去った。
「ハル…」
洋平はまるでみつきと瑠奈への餞別のような2本のジュースと晴彦の背中を交互に見つめて、最後に中庭を振り向いた。
「洋平先輩…」
そこにはみつきの傍らで立ち上がった瑠奈が洋平を見つめて小さくつぶやいていた。洋平は瑠奈の長い睫毛に煌く涙を目にしながら、そっと瞳を伏せてから小さく微笑んだ。そしてココアの缶を持ったまま立ち去っていく晴彦を追いかけて洋平はその場を駆け出した。
「ハル…ココア返して」
「…ぬるいよ…?」
「なに勝手にあけて文句言ってんのさ」
洋平は晴彦の手の中のココアへ肩をすくめて、そして晴彦の背中へぽんっと軽く手を添えた。




