第8章 寝ぐせ姫の涙(5)
一成が黙ったまま見下ろす中庭は今日もまた泥雪が辺りを覆い、首をかしげた雪だるまが一成を見上げていた。けれど今日からはそこにみつきの笑顔が立ち戻るはずだった。
「早瀬さん、よかった。退院できたんだ」
薄く開けた窓の向こうから中庭に響く歓声が一成の耳に届いた。一成は待ちかねたその瞬間に久方ぶりに瞳を輝かせ中庭を静かに見下ろした。そこには冷たい石畳を吹き渡る北風の中でみつきが微笑みながら首をかしげていた。
「うん、もうだいじょぶだよ」
「ごめんね、みつきちゃんあたし達のせいで…」
「やだなぁ、みんなのせいじゃないよぉ。あたしがどじだからいけないんだよぉ」
あの時の集団の一人だったのだろう一成の見知らぬ女生徒の謝罪に、みつきは明るい口調で手を振っていた。けれどその口調とは裏腹にその笑顔が少しぎこちなく、病み上がりの頬のやつれとくたりとしぼんだくせっ毛が一成には少し気になった。それでもみつきはいつもと同じように多くの生徒に声をかけられている、一成はみつきの時が留まることなく未来へ向かって動いていることにふと安堵していた。
(―お前はほんとにすごいな…俺とは大違いだ)
一成はみつきが次々と生徒達に声をかけられている姿を目に、気がつけばその口端に苦い笑みが浮かんでいた。
「みつき…」
中庭の光景の中に自分が入りこむことはもう二度とない、一成は思わず口をついたその名前に胸が張り裂けそうだった。部室に誰もいなくてよかった、一成が苦しい思いでみつきから視線を離したその時、薄く開けた窓の隙間から元の声が部室に響いた。
「みつき、こんな寒いとこじゃなくて中で話せよ」
「元ちゃん…」
中庭の寒風にさらされるまま生徒達の輪の中ほどにいるみつきの腕を元が掴んでいた。元はみつきを中庭から、ひいては一成の視界から連れ去るようにその手を引いて校舎に向かって歩いていく。強引なまでの元のそぶりにみつきは困惑仕切りでいたけれど、元の勢いに押されるようにやがて校舎の中へと消えていった。
(―みつき…)
一成はみつきの消えた校舎の入口を見つめて息の詰まる思いで顔を伏せた。元の立っている場所は自分の場所だったはずだ、一成は自ら退いたその場所を奪われた思いでその拳を握り締めた。それでも数日ぶりのみつきの姿が中庭に戻ったこと、そのことに一成の時がほんの少し動き始めていた。
(―元気になったんだな…)
現実に立ち戻ると苦しいことばかりが自分を襲う、一成はそこから目をそらしまた暗闇の静寂に身を潜めた。これからは一日のうちのほんの一瞬、こんな風にみつきを遠くから見つめるだけしかできないだろう。それでも毎日が暗く澱んでばかりの一成にとってはそれが儚い救いの光であるように思えていた。たった一目でいい、それだけのために毎日を過ごす理由が出来る、一成は固く閉じた窓があっという間に曇っていくのを見つめて、小さくうずくまった。
みつきが中庭から校舎に入っても元はその腕を放せなかった。それどころかみつきを掴むその腕にますます力が込められていくようだ、みつきはその痛みにたまらず顔をしかめた。
「元ちゃん…痛いよ…」
「悪い…」
みつきの声音にしかめた眉、痛みに体を強張らせている姿を目にようやく元はその腕の力を緩め頭をかいた。その元の照れ隠しとは違うしぐさのぎこちなさに、不安にこわばる思いが見て取れた。みつきは元の伏し目がちな顔を覗きこむように微笑むと首をかしげて口を開いた。
「元ちゃん…心配してくれてるの?」
「え…?」
元の瞳には明らかな驚愕と戸惑いが浮かんでいた。みつきはその元の瞳が浮かべた感情からふと目を逸らすと、その視線を床に彷徨わせ口を尖らせた。
「カズに…会わないように…してくれてるの…?」
「みつき…」
元はみつきが拗ねたように足先で冷たい廊下をいじりながら後ろ手に腕を組んだまま体を揺らすのを見つめていた。元はまさにみつきの指摘どおりの思惑で朝からみつきのまわりをうろついていたけれど、まさかそれをみつきに見越されているとは夢にも思わなかった。
「だいじょぶだよ、あたしは。カズに会ってもちゃんと普通にできるよ?」
みつきは元の行動を諌めるように、そして同時に何かに決別するように元を振り仰いで微笑んでいた。みつきの言う普通がどんな普通なのか、あきらかにこれまでとは違う意味合いを持った言葉に元はどう声をかけたらよいか分からなくなっていた。
「あたしジュース買ってくるね」
「みつき…」
みつきは元の逡巡に殊更明るい口調を装うと、入って来たばかりの扉から勢いよく飛び出して中庭の自動販売機に向かって駆けて行く。元はその後ろ姿に腕を差し伸べながら、もうそれを引き止めることは出来なかった。
(―みつき…無理すんなよ…)
元はみつきが自動販売機の前に佇んでその視線を上向けていることを見つめていた。二階の窓、みつきの見上げているその窓はもう寸分の隙間もないほど固く閉じられていた。ついさっきまで薄く引き開けられていたその窓に一成の面影でも探すように、みつきの瞳はしばらく動くことがなかった。
―カズ…
みつきの唇が小さく動いていた。開かない窓を見上げて、見えることのないその人の名を呼んでいた。元はみつきの小さな呟きに気がつかなければよかったと何度も思いながら、痛々しいほど一成を想う姿から目を離せない。元はみつきではなく一成に向かって拳を握り締めながらもう開くことのない二階の窓を睨みあげた。
みつきが久々に教室に立ち戻った今日、元だけでなく同級生の顔つきがぐっと明るくなっていた。このところなんとなく沈みがちだった教室の雰囲気が軽くなった事に、元は安堵しながらけれどそのぎこちなさの原因に思いを馳せていた。
「…ばかやろう…」
なんでなんだ、元は誰にぶつけたらいいのか分からない思いを呟きながら、廊下の窓枠を握り締める。アルミのサッシはそんな元の憤りだけで歪んでいきそうだ、寒々しい廊下の向こうでみつきがようやく動き出した。いつものみつきのジュース、北風の吹く季節には少し不似合いなその装いにみつきは一粒涙をこぼした。大量生産のどこにでもある缶ジュースにどんな思い入れがあるのだろうか、みつきを知らない人間には分かるはずのない感慨に元はまた胸が苦しくなる。
「おまたせ」
みつきはつい先ほど零れた涙の跡を拭きとって元のもとに駆け戻ると口端を引き上げた。元は目元が全く緩まないその微笑みのぎこちなさを悲しげに見つめてから、同じように口角だけを引き上げた。
「授業…始まるぞ」
元はみつきを教室に促しながらまた二階の窓を睨みあげた。その窓はやはり固く閉ざされて、頑なな一成の心を映し出しているようだった。




