第8章 寝ぐせ姫の涙(4)
海から吹く風が一成の髪を巻き上げて、コートの裾を翻すとその隙間から身震いするような寒気が一成の体温を奪っていく。波打ち際に足を進める一成の靴の中はすでに細かな砂が大量に入りこみ、一成が足を進めるたびに巻き上げられた砂がズボンの裾に纏わりついていた。
一成が見つめている海はいつも以上に荒々しく、波打ち際に白い泡を運んだり残したりしながら絶えず呼吸を続けるように動いている。こうして過去の想いに捉われて何度も何度も仕切れない後悔を繰り返していれば、いつかこの気持ちが風化するのだろうか、一成はあてのない長い道のりに足を踏み出してしまったような不安にその場に膝をついていた。
「みつき…」
その名はもう呼ばないと決めたのに、一成の心が勝手にみつきを求めていた。一成は自ら口に昇らせた名に愕然としながら、この想いが消えることなどないのだろうと思えていた。
(―俺はもうこのままでいい…)
このまま暗闇に佇んでただ時が過ぎていくのをひっそりと見つめていよう、一成は消えることのない後悔の日々を甘んじて受け入れることを決意していた。荒れ狂う波が一成の決意を称える様に一際高い波を立ち上げて消えていった。
マイスナの裏手で自分のサーフボードにカバーをかけ、干したままのウェットスーツに手をかけたとき密やかに作業を進めていた一成の気配に良太があわてて厨房から飛び出してきた。
「カズ…なにしてるんだ…」
良太の咎めるような口調に一成は一瞬その手を止めたけれど、その問いかけに答えることなく黙々とウェットスーツをたたみバックに詰め込んでいく。
「カズっ…その…いろいろみつきと総一郎が迷惑をかけたみたいだが、もうみつきも元気になったし近々また学校に行けそうなんだ。だからな、カズ、ボードをひきあげなくても今までどおり…」
一成は目の前に立ちはだかるような良太の姿に一瞬視線をなげてから、押し黙ったまま立ち上がると小さく良太に頭を下げ傍らのボードに手をかけた。
「すいません、良太さん。俺急ぎますから。いままでありがとうございました」
良太なりの気遣いを愛想の欠片もなく遮ると一成は自分のサーフボードを抱えて足早に立ち去っていく。その後ろ姿のいい知れない寂寥に良太はもう声をかけられなかった。良太の目に映る一成の背中は、みつきに繋がる全てを断つのだという決意に溢れながら、同時に苦しい想いを叫び出し今にも崩れそうに見えていた。
「あなた…みつきちゃんから電話よ?明日退院決まったんですって」
春香の声は立ち去る一成の耳に届いただろうか、良太は一成の揺ぎ無い足取りが一瞬緩んだような気がしていた。
「みつきの退院が明日に決まったのか、そうかそうか、それはよかった。ずいぶん元気になっていたもんな」
「あなた…?」
「みつきは元気になって退院するんだ。もう安心だな」
春香のいぶかしむ視線の中で良太は駐車場に向けてことさら声を高めて春香に答えた。その声が一成に届けばいい、それで少しでも一成の心がほぐれたらいい。良太は縋るような思いでよかったよかったと繰り返した。一成の背中を追いかける良太の声は一成の足取りを一瞬だけ緩めたけれど、その心を軽くすることはなかった。
(―良太さん…)
一成は良太の心遣いに瞳を閉じて案外と重みのあるバックを肩にかけなおし、唇を固く引き結んだ。一日遅かったら会えたかもしれない、一成はそんな風に一瞬よぎった思いを振り払い会ってもどうにもしようがないのだと己自身に言い聞かせる。一成の後悔は打ち寄せる波のように何度も一成を襲い、そして一成の心に残された微かな希望をさらっていく。一成はまっすぐに自宅への道を歩みながら、その視線はもう現を捉えることを強く拒絶し始めていた。
一成が持ち帰ったサーフボードは自宅の庭先に寒々しく倒されたまま、寂しげに一成を見つめていた。冬の海は夏よりも波が高いわりに夏場とちがって海に出るサーファーの数はぐんと少なくなる。一成は冷たい海に体をさらし、そんな海に挑むのが好きだった。昨日とは打って変わったようなほどよい風が吹き渡る庭先を眺めながら、いつもなら心躍るような風の具合にも一成の心が重く沈みこんでいた。寒空の下には不似合いな夏の色合いがただ寂しく一成の瞳に映っていた。
(―明日…か…)
庭先を見つめる一成の後ろ姿はサーフボードをどこにしまうか考えをめぐらせているようにも、明日の天気はどうだろうかと思い巡らせているようにも見える。沙紀は物憂げな兄の背中を見つめながらその表情を曇らせていた。
この一年で兄は3度怪我をして帰ってきた。これまでも何度か同じようなことがあったけれど、つい先日の怪我の具合はこれまでになく重症に見えた。それはその体や顔の怪我ではなく一成の心の傷がずっとずっと重く感じられたからだ。まだ小学生の沙紀にそこまで深い部分が見えたわけではないけれど、ただ一成の深い憔悴に心を痛めたのは間違いはない。
(―お兄ちゃん…泣いてるの…?)
沙紀はいい知れない何かを抱えて押し黙ったまま毎日を過ごす兄の姿とここ数日の変貌振りに近寄り難い思いを抱いていた。けれど今は殊更深まる悲しみの色と、今にも壊れてしまいそうな兄の心をつなぎとめるように沙紀は兄の大きな手をきゅっと握り締めた。
「お兄ちゃん…」
「沙紀…」
沙紀の小さな手の温もりに一成は一瞬体を強張らせ、その瞳を驚きに瞬いた。沙紀はその一成の驚きが切なさに変わる前にもう一度口を開いた。
「お兄ちゃん、あのね…」
「沙紀…宿題ならあとでな」
一成は沙紀の言葉の続きを聞く前に、そっと小さな頭に軽く手を乗せるときびすを返した。小さな沙紀にはなんの罪もない、けれどどうしてもみつきに重なる部分の多さに一成は自然と沙紀を遠ざけるようになっていた。沙紀は庭先に放り出されたままのサーフボードと一成の背中を交互に見つめて、そして小さく鼻をすすり上げた。
その翌日、ここ最近では珍しく朝から登校した一成の姿に洋平は目を見張っていた。一成の瞳は相変わらず遠くを見つめていたけれど、まっすぐ部室の窓に向う足取りが力強かった。
「カズ…?なんかいいことあった?」
洋平は一成の瞳の翳りの中に小さな煌きを見出して首を傾げた。その洋平の口調はこれまでの人の心にずかずかと土足で踏み込むようなものとは違い、慎重に靴を脱いで辺りを窺うようにしながら静かに探りを入れるそんな風に少しよそよそしいものだった。けれど一成は洋平の問いかけには答えることなく、ただまっすぐに窓際のソファを確保するとそのまま小さくうずくまった。
やがて洋平が午前中の授業を終えて部室に顔を覗かせた時、一成は朝とほとんど変わらぬ姿勢で中庭を見つめ続けていた。部室の片隅で寝入ったままの晴彦を起こし、無駄と分かっていながら去り際に洋平が一成に問いかけた。
「カズ…僕たちお昼行くけど…?」
洋平はしばらく待っても返事のない一成へ肩をすくめると、同じように顔を覗かせた浩一郎と寝ぼけまなこの晴彦を促して静かに立ち去った。




