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寝ぐせ姫~いつも一緒に~  作者: 蟻屋紋吉
第8章 寝ぐせ姫の涙
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第8章 寝ぐせ姫の涙(1)

 一成は底知れぬ果てない闇に体を丸めていた。体中をねっとりとした暗闇にまとわりつかれ、一成の体はその自由を奪われていた。黒く澱んだ時の流れも一成の体を絡め取り、それを不快と思う余力すら一成には残っていなかった。


息をすることも眠りにつくことも億劫なほど重く沈みこむその体を闇にゆだね、一成はすべてを拒絶し瞳を閉じた。重い足取りにうつろな瞳、生気を欠いた一成を取り巻く空気の色は、誰の目にも明らかに一成の深い憔悴を表していた。


 バレンタインの翌日には、中庭で起きた惨事は学校中に知れ渡っていた。けれどその噂の二人はどちらも学校に足を運んでこなかった。みつきの意識は回復したものの、高熱のために入院が長びき、一成は体調不良を理由に休みがちだった。そして、浩一郎がたまったプリントを手に立ち寄った一成の自宅に一成はいなかった。浩一郎に応対した一成の母は重いため息とともに一成の身を案じていた。


「あの子、言ってくれないんです…浩一郎君はご存知よね?あの子に何があったか…」

「ええ…でも…」

「あ、いいのよ。無理には言わないで…私もあの子が悩んでいるのは十分分かってますから…ただ、何もしてやれないのが親として少し寂しくて…」

「すみません…」


 浩一郎は頬に手をあてため息をつく一成の母親に小さく頭を下げると、かける言葉を失ってプリントをそっと手渡した。


「浩一郎君、あの子のことよろしくお願いしますね…」


 辞去しかけていた浩一郎に母の切ない願いが追い討ちをかけた。事情を知る浩一郎ですら何も出来ない事に変わりはない、けれど浩一郎は一成の母の懇願を重く受け止めてまた頭を下げた。


(―カズ…みんなお前を心配してるんだぞ…)


 浩一郎は帰り際にもしやと思って足を向けた波乗りのポイントで一成を待ち伏せることにした。マイスナという小さな看板の店で一成のことを問うと、店主と思われる体の大きな男が困ったように頭を撫で上げた。浩一郎が良太に向き合うのはこれが初めてだった。


「カズか…ここに来てもボードを取って、海に行って、ボードを置いて帰っちまうんだ。いつもだったら必ず声をかけてくんだが…」


 困り顔で一成を思う男の口ぶりに浩一郎はまた深々と頭をさげ、重苦しい灰色の空の下で荒れ狂う波の間から一成が現れるのを見つめていた。


「カズ…大丈夫か?」


 一成は滴る水を払いもせず、浩一郎の言葉に何を返すでもなく、ただ海から上がった重い体を引きずりながらマイスナに戻って行った。


(―カズ…泣いてるのか…?)


 浩一郎は一成の背中を見つめながら、その苦しさに息を詰まらせた。それ以上何を語りかけることもはばかられるような一成の強い拒絶は、これまでになく頑なに浩一郎に届いた。

 何も出来ない無力感は、浩一郎だけでなく洋平や晴彦をも蝕んでいた。一成のいない学校で3人は部室に集まりながら誰も何も語らない時間が増えた。時折思い出したように顔を出す一成が入ってきても、誰も言葉を発っせなかった。



 思い出したように学校に来ても、一成は部室のソファに小さく丸まりただ中庭を見下ろして身じろぎ一つしなかった。あの日中庭を覆い尽くしていた泥雪は跡形もなく溶けきって、すでに通常を取り戻した生徒達の歓声がこだましている。一成だけが異なる次元の狭間に迷い込んだように、その光景を遠い眼差しで見つめていた。

 溶けてしまった泥雪があの日のまま一成の心を覆いつくし、冬の寒風に凍り付いていた。歪んだ雪だるま、茶色く薄汚れた中庭、降り積もった雪が桜並木を覆っていたあの日から一成の時が動くことがないかのように。



 一成はどこにいるでもなく、ただあの日の中をさまよい続けた。あの日の自分の浅はかさが一成の心を蝕み続けた。後悔、自嘲、嫌悪。どれともつかない感情が渦巻き、泥雪が暗闇に変って溶け出した。みつきのおかげで掻き消えたはずの一成の暗闇、消えてしまったはずなのに、強い光に生まれた影の濃さがいやおうもなく一成を取り込んでいた。一成は崩壊していく自分を感じながら、その暗闇の誘いに自ら進んで足を踏み入れていた。冷たい感触に最初は体を震わせながら、やがて体を包む静寂の心地よさに一成は自ずと抗うことを断ち切っていく。



『カズ、もうすぐ退院できそうだよ』

 電話越しに届く快活なみつきの声音、何日ぶりかで聞くその声も一成の凍りついた暗闇を溶かせなかった。一成はみつきの声を一言一句聞き漏らさないように携帯を耳に押し付けてゆっくりと瞳を閉じた。


「そうか…」

『カズ…なんでお見舞い来てくれないの?もう元気になったから会いに来て』


 みつきは一成に甘えた声でせがんだ。いつものみつきの声に一成の感情は叫び出しそうになりながら、けれどそれを悟られるようなこともそれを伝えることすらできない。一成は言わなくてはならない言葉を頭に何度も思い浮かべて大きく息を吸い込んだ。


『カズ…?』

「みつき……俺はまた殴られた。もうこんな目にあうのはごめんだ」


『…カズ…何…?何言ってるかわかんないよ…』

「もう俺に近づくな」


『カズ…?やだよ…なんでそんなこというのっ?』

「じゃあな」


『カズっ?…カ…』 


 一成の言葉に混乱しきったみつきが電話越しの一成に強い口調で問いかける中、一成はすべてを言い終えると一方的に電話を切った。終始感情を欠いた一成の声音は意識しなくてもみつきを遠ざけるには十分な冷たさを湛えていた。


(―これでいいんだ)


 いつかみつきから連絡がきたら伝えようと決めていた言葉、それを一言一句たがうことなく伝えることが出来ていた。一成は一瞬立ち戻った現実の時の流れから再び自分の内側に広がる暗闇に引きこもる。その静寂は何の感情も生み出さず、苦しさも切なさもみつきの涙に耐え切ることも、すべてをいとも簡単に成し遂げることができた。



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