第8章 寝ぐせ姫の涙(2)
「カズ…」
何度目の呼びかけだろうか、繋がりを絶たれた電話に向かってみつきが小さく呟いた。携帯の液晶画面はうんともすんとも言わないままただ黒い画面をみつきに示している。ようやく熱が引き、ベットに体を起こしていても体が辛くなくなった。総一郎に何度も食い下がり、ご飯を全部食べたら電話をしてもいいと約束を取り付けてようやく電話をかけられた。食欲が完全に戻らないままおいしくない病院食を無理やり食べたのに、嬉しさに弾んだみつきの声に反して一成の声はみつきの電話を歓迎している様子はなかった。
「カズ…どして…」
そう呟きながらみつきには分かっていた、わかってはいたけれど認めたくなかった。一成が誰に殴られ、どうなってしまったのか。みつきは携帯を握る手に力を込めて呟きながら、大粒の涙がぽろりとこぼれていくのを止められなかった。
「カズ…ごめんね…」
病室に差し込む日差しはもう春の装いを感じさせるほどにあたたかく、個室の入り口近くまでその陽射しが届いている。みつきは携帯を握り締めたまま零れ落ちる涙をそのままにうつぶせた。
「カズ…カズ…」
零れ落ちる涙は留まることを知らず、その涙は留美が部屋に戻ってきても夕飯が届いても枯れる事がない。もう電話をすることもないなら一生懸命ご飯を食べる必要もない、もう二度と笑う必要がないならこのまま涙が涸れるまで泣き続けていたかった。
「みつき…総一郎の気持ちも分かるよね…?」
留美の優しい手が背中を撫でてくれている、その声音はいつも単調なのにみつきはその穏やかさがとても好きだった。みつきは真っ赤に腫れあがった瞳で留美の涼やかな瞳を見つめ返して、小さくうなずいた。
「みつきはいい子だね…」
留美はみつきに新しいティッシュを差し出しながら、もう山ほど鼻をかんでかさかさなみつきの鼻先をちょんとつついた。
「ほんとに好きなのね」
「留美ねぇ…」
みつきは留美の言葉に驚いたように瞬くと、少し恥ずかしそうにうなずいた。留美の言葉が誰のことを指しているのか、みつきは聞かなくてもわかっていた。
「でも…やっぱり嫌われちゃった…いつかこんな日が来るんじゃないかって…ずっとこわかった…」
みつきは最後の名残に浮いていた涙を両手で拭うと、その視線を白いだけの壁に向けて呟いた。
「…こんな面倒な子…誰だってやだよね…」
みつきは宙を見つめていた視線を留美に戻すと、その口端に白々しいほど強張った笑みを浮かべて微笑んだ。
「よくいままで一緒にいてくれたよね…ほんとカズってすごいんだ」
みつきは苦労して浮かべた笑みの上に涙を重ねないように精一杯の努力をしながら掛け布団を握り締めた。
「そうね。ほんとにすごい…だからこんなことで嫌ったりしない。きっと彼もみつきが好きに決まってる」
「留美ねぇ…」
留美がまるで一成のようにみつきのクセ毛をくしゃりと崩して微笑むと、懐かしさすら感じるそのしぐさにみつきの涙がまた押し寄せてくる。
「だいじょうぶ、きっと分かってくれる時がくるから」
みつきはまたこぼれる涙を拭って盛大な音を立てて鼻をかむと、今度はかすかな希望に瞳を輝かせた。留美の穏やかな口調で言われると、みつきは本当にそれが現実になるような気がしてくる。けれどそれが儚い自分の望みであることも分かっていた。それでも留美の言葉の欠片だけでも本当になってくれる時がくるかもしれない、いまのみつきにはそんな淡い期待に縋る以外できない。それが何年先でも、何十年先でもみつきはずっと待ち続けたい、そんな儚い希望を持っていないとみつきはどうにかなってしまいそうだった。
(―カズ…待っていてもいい…?)
みつきは窓の向こうの夕闇に瞳を移し、眼下に広がる街の夜景に思いを馳せた。留美はすっかり冷めてしまった夕飯を温めにそっと病室を出て行った。
みつきの声を最後に聞いてからすでに数日が経過していた。一成はカレンダーの日付を指先で辿りながら、その日付が思ったより進んでいない事に驚いていた。もう随分と長いこと閉じこもっていたような気がするけれど、時は案外とゆっくりとしか動いていかないようだ。一成は深い溜め息をつきながら、窓の向こうを吹きすぎていく風が庭の枯葉を巻き上げるのを見つめていた。
(―マイスナに行かないと…)
みつきが退院してきたらマイスナには足を運べなくなるだろう、一成はボードを引き上げに重い足取りでマイスナへの道をゆっくりと歩き出した。そして最後の曲がり角のあたりで一成の視界に、白波立つ波打ち際と吹きすさぶ海風に海岸の砂が舞い上がるのが映りこんだ。
今日の風は強く、強すぎて波が四方八方から吹き荒れすぎている。今日海に入るのは得策ではない、一成は知らずと波の様子を分析しながらウッドデッキへと腰掛けていた。
冷たい海風に煽られるだけのこの場所に、この時期足を止める人影はない。舞い上がる砂が堆積したウッドデッキには誰かの足跡すら残っていなかった。
(―この場所だった…みつきは本当にうれしそうにしてたよな…)
一成は堆積した細かな砂の下にその時の光景を探すかのように数回手のひらで砂を払いのけたけれど、そこにあるのは過去の想いだった。一成は手のひらに残る砂塵を握り締め、ウッドデッキの乾いた板へ叩き付けた。
あの時みつきに想いを伝えていたら、いまこの状況は変わっていただろうか。一成は考えても仕方のないことを何度も思い返す日々に後悔だけを募らせながら、同じことを場所を変えて何度となく繰り返していた。
自宅に戻ればその玄関先にみつきが突然現れるような気がするし、携帯が鳴ればみつきからかと勝手に頭がそう動く。学校にいても中庭ばかり見下ろして、マイスナに行けばみつきがそこにいる気がする。
(―俺はほんとに…情けないな…)
一成は決別したはずの想いにばかり捉われて、一向に前に進むことが出来ないでいる。頭では分かっているつもりでも、どうしても同じ場所で同じことを思い出して後悔するばかりだ。一成は堂々巡りの想いの中で、それでもそこにいるしか出来ない自分を受け入れる以外ないのかもしれない。
自分はもう笑うこともないだろうし、もう泣くこともないだろう。みつきがいないなら生きていることにすら意味を見出せなくなるかもしれない、一成は手のひらの小さな砂粒を握り締めて唇を強く引き結んだ。




